アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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116話 正義の味方(後)

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

「あのトレーナーに、無理矢理走らされているのか」

 

一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 

言葉は聞こえた。一つ一つの意味も分かる。それでも、文として頭に入ってこない。あまりにも見当違いで、理解するまでに時間がかかった。

 

あのトレーナーが、私の意思を無視して、私を走らせている。

 

——絢原さんが、私の気持ちなんてお構いなしに、私を走らせようとしている、と言っている。

 

そこまで分かったところで、目の奥がわずかにざわついた。

 

私が黙っている間に、レゾリュートは先を続けた。

 

「また、あのレースを繰り返させるつもりか、お前のトレーナーは」

 

——オークス。

 

私に向けた言葉ではなかった。絢原さんが、また私をあそこへ連れていくつもりなのかと、責めるでもなく言っていた。

 

「最後の直線。お前の脚は、もう終わっていた。誰が見ても分かる壊れ方だ。それでも、お前は止まらなかった。あの状況で止まらない理由が、走っている本人の中にあるとは考えにくい」

 

レゾリュートの声は、変わらず平らだった。

 

「理解し難かったが」

 

私のことなら、好きに言えばよかった。

 

無謀だった。壊れていた。勝つことしか見えていなかった。

 

全部、否定する気はない。脚が壊れたのも、走ると決めたのも私だ。あの日の私をどう判断されても、聞き流せた。

 

「トレーナーから強制的に走らされていたのなら、説明がつく」

 

——強制的に、走らされていた。

 

意味は分かる。それでも、絢原さんと私の間へ当てはめると、何を言われているのか分からなくなった。

 

「お前のトレーナーは、経験が浅いと聞いた」

 

絢原さんの顔が浮かんだ。

 

私が無茶を言うたびに困った顔をして、それでも最後まで一緒に考えてくれる人。オークスの前夜、俺が責任を取る、と少し震えた声で言った人。

 

「経験の浅い指導者が、素質のある教え子で功を急ぐ。距離の壁へ当て、壊れるまで気づかない。珍しい話ではない」

 

まだ怒りにはならなかった。

 

頭が、レゾリュートの言葉へ追いつこうとしていた。

 

「お前は、自分の意思で走っていると思っているのかもしれない。だが、強制された者ほど、そう思い込むものだ」

 

一つ、また一つ。

 

レゾリュートは私の返事を待たず、自分の中で答えを固めていく。

 

「それならば、合点が行く。あんな走りを選ぶ理由が、お前自身にあるはずがない」

 

そこで、ようやく全部が繋がった。

 

こいつは、私が自分で走ると決めたことを認めていない。

 

絢原さんが何度も止めたことも、私がそれを押し切ったことも知らないまま、私の意思を消して、全部を絢原さんのせいにした。

 

止めた人を、走らせた人にした。

 

私を被害者にして、絢原さんを加害者にした。

 

腹の底にいた黒猫が、目を開けた。

 

世界で一番強い相手を前にしても眠っていたくせに、今は真っ直ぐレゾリュートを見ている。

 

獲物を見る目ではなかった。

 

絢原さんを侮辱した相手を見る目だった。

 

 

 

()だ。

 

 

 

「それでも、明日走るつもりか。今ならまだ——」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

——ドガシャアアアアンッ!!!!

 

 

気づいた時には立ち上がり、真横のゴミ箱を足裏で蹴り払っていた。金属製の箱が地面から浮き、数メートル先の街路樹へ叩きつけられる。

 

鈍い音が夜の公園へ響いた。

 

箱はくの字にへこみ、中身が根元へ散らばった。

 

足裏に鈍い衝撃が残る。

 

レゾリュートの声が止まった。

 

彼女の視線が、ひしゃげた箱へ動く。

 

それから私へ戻った。

 

驚いてはいた。

 

けれど、怯えてはいない。

 

そのことに腹は立たなかった。今は、怯えさせたいわけではない。二度と同じことを言わせたくなかった。

 

蹴って、ようやく口が利けるくらいには落ち着いた。

 

レゾリュートが口を開きかける。

 

「その口で、絢原さんのこと喋んな」

 

腹の底から声が出た。

 

低く、平らだった。

 

開きかけた口が止まる。

 

「次、また勝手なこと言ったら、その小綺麗な顔、二度と表に出られなくしてやる」

 

脅しではなかった。

 

今なら本当にやれる。

 

そう思っている自分が、妙に冷静だった。

 

「今の行動は、お前が冷静な判断を失っている証明にしかならない」

 

「そう」

 

自分でも驚くほど、簡単に返せた。

 

「なら、もう一個増えたね。あんたが私を帰したい理由」

 

レゾリュートが何か言う前に、続けた。

 

「オークスを走ると決めたのは私」

 

声を抑える必要はなかった。

 

「絢原さんは止めた。距離が長いって、無茶だって、何度も言った。それでも私が止まらなかったから、最後に一緒に行くって答えた」

 

「結果として、お前は壊れた」

 

「そうだよ」

 

否定する気はなかった。

 

「私が決めて、私が走って、私が壊れた。そこだけ切り取って、あの人がやったことにするな」

 

あの日のことを、私は後悔していない。

 

正しかったとも思っていない。

 

脚を壊して、長い間走れなくなった。

 

絢原さんにも、ママにも、たくさんの人に迷惑をかけた。

 

それでも、走ると決めたのは私だ。

 

あの時の私が、止まりたくないと望んだ。誰かへ押しつけて軽くしていいものではない。

 

私の業だった。

 

「あんたは映像を何回見たか知らないけど、何も見えてない」

 

病院のベッドで過ごした時間を思い出す。私が眠っている間、絢原さんは一人で批判を受けた。

 

素質を潰した。

 

功を焦った。

 

経験の浅いトレーナーが、教え子を壊した。知らない人たちが好き勝手に言った。それでも絢原さんは、一度も言い返さなかった。

 

走りたいと言ったのはモエだ。

 

自分は止めた。

 

その二つを口にすれば、自分だけは守れたはずなのに。

 

言わなかった。

 

私がまだ自分の口で何も説明できない時に、走ると決めたのはモエだと明かして、自分だけ逃げようとはしなかった。

 

オークスを走らせたトレーナーとして、黙って批判を受け続けた。

 

病室で目を覚ました時も、絢原さんは私を責めなかった。トレーニングへ戻れなくなっても、急かさなかった。

 

私が何も話さず、何も決めず、ただ不機嫌に時間を潰していた間も、絢原さんは隣にいた。

 

自分が浴びた批判を、私への貸しにもしなかった。

 

その二年を、こいつは数本の映像だけで判断した。私を被害者にして、絢原さんを加害者にした。

 

「よくある話」の一言で、全部分かったつもりになった。

 

「あの人が黙って何を被ったかも知らないくせに、勝手に話を作るな」

 

一歩、近づく。

 

レゾリュートは退かなかった。

 

「私のことなら、好きに言えばいい。壊れてたでも、狂ってたでも、走らされてたでも。聞き流してやる」

 

喉の奥で、低い音が鳴った。

 

「絢原さんの侮辱(こと)だけは許せない」

 

夜の公園が静まり返っている。

 

レゾリュートは私を見ていた。

 

ラビットでも、オルフェーヴルさんの付属品でもない。初めて、目の前にいるものが何なのか確かめるような目だった。

 

遅い。

 

今さら見ても、もう遅い。

 

「お前は、彼を庇っているだけだ」

 

「違う」

 

返事はすぐに出た。

 

「庇われてたのは、ずっと私の方」

 

「本人がそう信じ込んでいる可能性もある」

 

「まだ言うの?」

 

自分でも驚くほど、声は低かった。

 

「自分だけが正しいって顔で、私の言葉まで取り上げるんだ」

 

レゾリュートの眉が、わずかに寄った。

 

「私は、お前が同じ過ちを繰り返すのを止めようとしている」

 

「頼んでない」

 

「本人が気づいていない時こそ、誰かが止める必要がある」

 

そこで、ようやく分かった。

 

この相手は、悪意で言っているのではない。

 

本気で私を助けようとしている。

 

自分なら間違えないと思っている。

 

目の前の相手が否定しても、その否定まで被害の一部として扱える。正しい答えを知っているから、私の答えを聞く必要がない。さっきから一度も、私が何を望んでいるのか聞かなかった。

 

あの人は、何度でもやめていいと言った。

 

走らなくてもいい。

 

勝たなくてもいい。

 

私が自分で決めるまで、隣で待っていた。

 

それを、この相手は知らない。

 

知らないまま、正しい言葉だけで、絢原さんを悪者にした。

 

正義の味方(ヒーロー)

 

そういう顔をしている。

 

誰かを助けるために間違いを正し、本人も気づいていない不幸から救い出す。そのためなら、助ける相手の言葉より、自分の判断を信じる。私が違うと言っても、分かっていないだけだと片づける。

 

たぶん、レゾリュートにとっては、それが優しさなのだ。

 

だから余計に、気に入らなかった。

 

「答え、教えてやるよ。正義の味方(ヒーロー)さん」

 

私は立ったまま、世界女王を見上げた。

 

「あんたが絢原さんを貶めた。それで全部」

 

「それが、走る理由になると?」

 

「なるよ」

 

「感情は、適性も距離も変えない」

 

「知ってる」

 

「お前が怒ったところで、明日の勝敗には関係がない」

 

「ははっ」

 

笑った私の顔を見て、レゾリュートが思わず半歩下がった。

 

まだ、勝敗の話をしている。

 

明日のレースを勝つことしか見えていない。

 

こっちはもう、そんなものどうでもいいのに。

 

口の端が、勝手に上がる。

 

「まだ分かってないんだ」

 

もうそんなレベルの話じゃないんだって。

 

「何を……」

 

「もういいよ、ばいばい」

 

それだけ告げて、踵を返した。

 

返事を聞く理由はなかった。

 

公園を出ても、身体の熱は引かなかった。

 

手が震えている。指を握れば、爪が手のひらへ食い込んだ。

 

今すぐ走りたかった。

 

ここからロンシャンまででもいい。脚の中に溜まったものを、何かにぶつけたかった。

 

でも、走らなかった。

 

明日まで残せ。

 

絢原さんなら、そう言う。

 

だから歩いた。

 

夜風を吸っても、胸の奥はまだ熱い。さっき蹴った感触も、足の裏に残っていた。

 

足首に問題はなさそう。

 

怒りのゲージが振り切れていても、無意識に守っていたらしい。

 

ゴミ箱。

 

あれ、弁償だろうな。

 

絢原さんに話したら、走ると言ったことより先に、そっちを叱られるかもしれない。

 

そう考えたら、少しだけ息が戻った。

 

ホテルの窓に灯りが見える。

 

絢原さんの部屋の明かりは、まだ点いている。

 

走る、と言いに行く。

 

たぶん止められる。

 

それでも、今度は引かない。

 

オルフェーヴルさんの代わりなんて知らない。誰かの無念も、世界女王の物語も、今はどうでもいい。

 

私の()()を貶めた。

理由はそれで全部。

 

あのコースを思いきり踏みこんで、あいつの前へ出たい。

 

それだけで、今は十分だった。

 

私は灯りのついた窓へ向かって歩いた。

 

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