——Anti-Hero: Curren Moe
「あのトレーナーに、無理矢理走らされているのか」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
言葉は聞こえた。一つ一つの意味も分かる。それでも、文として頭に入ってこない。あまりにも見当違いで、理解するまでに時間がかかった。
あのトレーナーが、私の意思を無視して、私を走らせている。
——絢原さんが、私の気持ちなんてお構いなしに、私を走らせようとしている、と言っている。
そこまで分かったところで、目の奥がわずかにざわついた。
私が黙っている間に、レゾリュートは先を続けた。
「また、あのレースを繰り返させるつもりか、お前のトレーナーは」
——オークス。
私に向けた言葉ではなかった。絢原さんが、また私をあそこへ連れていくつもりなのかと、責めるでもなく言っていた。
「最後の直線。お前の脚は、もう終わっていた。誰が見ても分かる壊れ方だ。それでも、お前は止まらなかった。あの状況で止まらない理由が、走っている本人の中にあるとは考えにくい」
レゾリュートの声は、変わらず平らだった。
「理解し難かったが」
私のことなら、好きに言えばよかった。
無謀だった。壊れていた。勝つことしか見えていなかった。
全部、否定する気はない。脚が壊れたのも、走ると決めたのも私だ。あの日の私をどう判断されても、聞き流せた。
「トレーナーから強制的に走らされていたのなら、説明がつく」
——強制的に、走らされていた。
意味は分かる。それでも、絢原さんと私の間へ当てはめると、何を言われているのか分からなくなった。
「お前のトレーナーは、経験が浅いと聞いた」
絢原さんの顔が浮かんだ。
私が無茶を言うたびに困った顔をして、それでも最後まで一緒に考えてくれる人。オークスの前夜、俺が責任を取る、と少し震えた声で言った人。
「経験の浅い指導者が、素質のある教え子で功を急ぐ。距離の壁へ当て、壊れるまで気づかない。珍しい話ではない」
まだ怒りにはならなかった。
頭が、レゾリュートの言葉へ追いつこうとしていた。
「お前は、自分の意思で走っていると思っているのかもしれない。だが、強制された者ほど、そう思い込むものだ」
一つ、また一つ。
レゾリュートは私の返事を待たず、自分の中で答えを固めていく。
「それならば、合点が行く。あんな走りを選ぶ理由が、お前自身にあるはずがない」
そこで、ようやく全部が繋がった。
こいつは、私が自分で走ると決めたことを認めていない。
絢原さんが何度も止めたことも、私がそれを押し切ったことも知らないまま、私の意思を消して、全部を絢原さんのせいにした。
止めた人を、走らせた人にした。
私を被害者にして、絢原さんを加害者にした。
腹の底にいた黒猫が、目を開けた。
世界で一番強い相手を前にしても眠っていたくせに、今は真っ直ぐレゾリュートを見ている。
獲物を見る目ではなかった。
絢原さんを侮辱した相手を見る目だった。
「それでも、明日走るつもりか。今ならまだ——」
——ドガシャアアアアンッ!!!!
気づいた時には立ち上がり、真横のゴミ箱を足裏で蹴り払っていた。金属製の箱が地面から浮き、数メートル先の街路樹へ叩きつけられる。
鈍い音が夜の公園へ響いた。
箱はくの字にへこみ、中身が根元へ散らばった。
足裏に鈍い衝撃が残る。
レゾリュートの声が止まった。
彼女の視線が、ひしゃげた箱へ動く。
それから私へ戻った。
驚いてはいた。
けれど、怯えてはいない。
そのことに腹は立たなかった。今は、怯えさせたいわけではない。二度と同じことを言わせたくなかった。
蹴って、ようやく口が利けるくらいには落ち着いた。
レゾリュートが口を開きかける。
「その口で、絢原さんのこと喋んな」
腹の底から声が出た。
低く、平らだった。
開きかけた口が止まる。
「次、また勝手なこと言ったら、その小綺麗な顔、二度と表に出られなくしてやる」
脅しではなかった。
今なら本当にやれる。
そう思っている自分が、妙に冷静だった。
「今の行動は、お前が冷静な判断を失っている証明にしかならない」
「そう」
自分でも驚くほど、簡単に返せた。
「なら、もう一個増えたね。あんたが私を帰したい理由」
レゾリュートが何か言う前に、続けた。
「オークスを走ると決めたのは私」
声を抑える必要はなかった。
「絢原さんは止めた。距離が長いって、無茶だって、何度も言った。それでも私が止まらなかったから、最後に一緒に行くって答えた」
「結果として、お前は壊れた」
「そうだよ」
否定する気はなかった。
「私が決めて、私が走って、私が壊れた。そこだけ切り取って、あの人がやったことにするな」
あの日のことを、私は後悔していない。
正しかったとも思っていない。
脚を壊して、長い間走れなくなった。
絢原さんにも、ママにも、たくさんの人に迷惑をかけた。
それでも、走ると決めたのは私だ。
あの時の私が、止まりたくないと望んだ。誰かへ押しつけて軽くしていいものではない。
私の業だった。
「あんたは映像を何回見たか知らないけど、何も見えてない」
病院のベッドで過ごした時間を思い出す。私が眠っている間、絢原さんは一人で批判を受けた。
素質を潰した。
功を焦った。
経験の浅いトレーナーが、教え子を壊した。知らない人たちが好き勝手に言った。それでも絢原さんは、一度も言い返さなかった。
走りたいと言ったのはモエだ。
自分は止めた。
その二つを口にすれば、自分だけは守れたはずなのに。
言わなかった。
私がまだ自分の口で何も説明できない時に、走ると決めたのはモエだと明かして、自分だけ逃げようとはしなかった。
オークスを走らせたトレーナーとして、黙って批判を受け続けた。
病室で目を覚ました時も、絢原さんは私を責めなかった。トレーニングへ戻れなくなっても、急かさなかった。
私が何も話さず、何も決めず、ただ不機嫌に時間を潰していた間も、絢原さんは隣にいた。
自分が浴びた批判を、私への貸しにもしなかった。
その二年を、こいつは数本の映像だけで判断した。私を被害者にして、絢原さんを加害者にした。
「よくある話」の一言で、全部分かったつもりになった。
「あの人が黙って何を被ったかも知らないくせに、勝手に話を作るな」
一歩、近づく。
レゾリュートは退かなかった。
「私のことなら、好きに言えばいい。壊れてたでも、狂ってたでも、走らされてたでも。聞き流してやる」
喉の奥で、低い音が鳴った。
「絢原さんの
夜の公園が静まり返っている。
レゾリュートは私を見ていた。
ラビットでも、オルフェーヴルさんの付属品でもない。初めて、目の前にいるものが何なのか確かめるような目だった。
遅い。
今さら見ても、もう遅い。
「お前は、彼を庇っているだけだ」
「違う」
返事はすぐに出た。
「庇われてたのは、ずっと私の方」
「本人がそう信じ込んでいる可能性もある」
「まだ言うの?」
自分でも驚くほど、声は低かった。
「自分だけが正しいって顔で、私の言葉まで取り上げるんだ」
レゾリュートの眉が、わずかに寄った。
「私は、お前が同じ過ちを繰り返すのを止めようとしている」
「頼んでない」
「本人が気づいていない時こそ、誰かが止める必要がある」
そこで、ようやく分かった。
この相手は、悪意で言っているのではない。
本気で私を助けようとしている。
自分なら間違えないと思っている。
目の前の相手が否定しても、その否定まで被害の一部として扱える。正しい答えを知っているから、私の答えを聞く必要がない。さっきから一度も、私が何を望んでいるのか聞かなかった。
あの人は、何度でもやめていいと言った。
走らなくてもいい。
勝たなくてもいい。
私が自分で決めるまで、隣で待っていた。
それを、この相手は知らない。
知らないまま、正しい言葉だけで、絢原さんを悪者にした。
そういう顔をしている。
誰かを助けるために間違いを正し、本人も気づいていない不幸から救い出す。そのためなら、助ける相手の言葉より、自分の判断を信じる。私が違うと言っても、分かっていないだけだと片づける。
たぶん、レゾリュートにとっては、それが優しさなのだ。
だから余計に、気に入らなかった。
「答え、教えてやるよ。
私は立ったまま、世界女王を見上げた。
「あんたが絢原さんを貶めた。それで全部」
「それが、走る理由になると?」
「なるよ」
「感情は、適性も距離も変えない」
「知ってる」
「お前が怒ったところで、明日の勝敗には関係がない」
「ははっ」
笑った私の顔を見て、レゾリュートが思わず半歩下がった。
まだ、勝敗の話をしている。
明日のレースを勝つことしか見えていない。
こっちはもう、そんなものどうでもいいのに。
口の端が、勝手に上がる。
「まだ分かってないんだ」
もうそんなレベルの話じゃないんだって。
「何を……」
「もういいよ、ばいばい」
それだけ告げて、踵を返した。
返事を聞く理由はなかった。
公園を出ても、身体の熱は引かなかった。
手が震えている。指を握れば、爪が手のひらへ食い込んだ。
今すぐ走りたかった。
ここからロンシャンまででもいい。脚の中に溜まったものを、何かにぶつけたかった。
でも、走らなかった。
明日まで残せ。
絢原さんなら、そう言う。
だから歩いた。
夜風を吸っても、胸の奥はまだ熱い。さっき蹴った感触も、足の裏に残っていた。
足首に問題はなさそう。
怒りのゲージが振り切れていても、無意識に守っていたらしい。
ゴミ箱。
あれ、弁償だろうな。
絢原さんに話したら、走ると言ったことより先に、そっちを叱られるかもしれない。
そう考えたら、少しだけ息が戻った。
ホテルの窓に灯りが見える。
絢原さんの部屋の明かりは、まだ点いている。
走る、と言いに行く。
たぶん止められる。
それでも、今度は引かない。
オルフェーヴルさんの代わりなんて知らない。誰かの無念も、世界女王の物語も、今はどうでもいい。
私の
理由はそれで全部。
あのコースを思いきり踏みこんで、あいつの前へ出たい。
それだけで、今は十分だった。
私は灯りのついた窓へ向かって歩いた。