季節は秋。トレセン学園の並木道も色づき始め、風には冬の気配が混じり始めていた。
阪神ジュベナイルフィリーズまで、あと1ヶ月。タキオンさんの協力のもと、私の肉体改造は順調に進んでいた。特殊な呼吸法。意識の制御。それらは確実に走りを変えつつあった。
だが。順調なのは「走り」だけだった。
放課後のトレーナー室。机の上に置かれた一枚の紙を、二人で見下ろしていた。
中間テストの結果表。
数学、28点。物理、32点。歴史、赤点ギリギリ。
「……やばいな」
絢原さんが短く言った。
「……仕方ないじゃん。この一ヶ月、頭の中はレースとタキオンさんの理論でいっぱいだったんだから。サイン、コサイン、タンジェントなんて、走るのに関係ないし」
「補習になったらJF出られないぞ」
それだけ言った。脅しではない。事実だ。トレセン学園の規則は厳しい。学業において著しく成績が不良な者は、レースへの出走を認めない場合がある。
「……分かってるよ」
ソファに沈み込んだ。クッションを抱えた。
「……トレーナー、なんとかしてよ」
「俺が教えてやる」
「え?」
「学生時代は成績悪くなかった。任せろ」
数十分後。
「……ねぇ、トレーナー」
シャーペンを置いた。
「ん?」
「発音が、なんかムカつく」
「は?」
「無駄にネイティブぶってるというか……RとLの違いを強調しすぎてて、聞いててイライラする」
「……本場の発音を意識してるんだが」
「それに説明が回りくどい。タキオンさんの話を聞いてるみたいで眠くなる」
「……」
沈黙。絢原さんの顔が少し引きつった。
「もういい。トレーナーに頼るのは時間の無駄みたい」
「数学なら——」
「公式の覚え方がおじさんくさいから却下」
絢原さんが黙った。完全に黙った。
「……じゃあ、どうするんだ」
「……借りてくる」
「何を」
「ノート。一番確実なやつを」
立ち上がった。教科書を抱えて、ドアに向かった。
絢原さんは何も言わなかった。トレーナーとしての威厳が粉々に砕けた音を、私は聞かなかったことにした。
向かったのは図書館だった。
放課後の図書館は静かだった。本棚の間を抜けて、奥の自習スペースへ。
窓際の席。夕日を背に受けながら、背筋を伸ばして机に向かうウマ娘がいた。
ダイワスカーレット。
机の上には教科書とノート、参考書が整然と並んでいる。ペンの走る音だけが規則正しく響いている。
深呼吸を一回。
「……スカーレット」
ペンが止まった。振り返った。
「あら。何の用?」
「……お願いがあるの」
「は?」
「ノート、貸してほしい」
スカーレットが目を丸くした。それから呆れたように鼻を鳴らした。
「……アンタねぇ。ライバルにノートを借りに来るわけ?」
「……本気で困ってるの。このままだと赤点。赤点取ったらJFに出られないかもしれない」
プライドも何もない。でも、ここで意地を張ってレースに出られなくなる方がよほど致命的だ。
スカーレットがじっとこちらを見た。
「……トレーナーは」
「役に立たなかった」
「そう」
少し間があった。
「……バカね」
手元のノートを閉じて、こちらに滑らせた。
「え……いいの?」
「貸してあげるわよ。今回だけね」
拍子抜けした。嫌味の一つでも言われると身構えていたのに。
「テストごときでライバルが自滅するのを待つような、そんなセコい女に見える?」
立ち上がった。見下ろされた。
「万全の状態のアンタに勝たなきゃ、意味ないのよ」
ノートを手に取った。パラパラとめくると、美しい文字で要点が完璧にまとめられていた。授業のメモだけじゃない。補足情報。自分の考察。色分けされた蛍光ペンの線。
「……すごい」
この人もトレーニングに明け暮れているはずだ。それなのに、これだけのものを作っている。
「……アンタ、いつ勉強してるの?」
「隙間時間よ。時間は作ろうと思えばいくらでも作れるわ」
涼しい顔で言った。
「甘いのよ、アンタは」
返す言葉がなかった。
「アタシは阪神JFには出ない」
「え?」
「アタシはホープフルステークスに出るわ」
息を呑んだ。ホープフルステークス。クラシック三冠路線を目指す有力勢が集う、中距離のGⅠ。私がデビュー戦と未勝利戦で挫折した距離に、この子は真っ向から挑もうとしている。
「なんで? 来年ティアラ路線でしょ? だったらJFが王道じゃない」
「だからこそよ」
スカーレットが腕を組んだ。
「
それは、私の想像を超えた発想だった。私は距離適性という壁の前で悩んで、苦しんで、迂回を余儀なくされている。この子は、そんな壁など存在しないかのように全部を狙っている。
「アンタはマイルで結果を出しなさい。決着はティアラ路線でつけるわ」
ノートを胸に抱えた。ずっしりと重い。
「……ありがとう。借りるね」
「汚したら承知しないわよ。コピーしたらすぐ返しなさい。アタシも復習するんだから」
「分かってる。……サンキュ」
「あ、そうそう」
背を向けかけたところで、声がかかった。
「ウオッカもヤバいわよ。あのバカ、授業中ずっと寝てたから」
「……伝えておく」
図書館を出た。
廊下を歩きながら、ノートの重さを感じていた。
「……勝てない」
呟いた。
「今はまだ、あいつに勝てない。勉強でも、覚悟でも」
ノートをもう一度、強く抱えた。
「まず、阪神JFだけは、絶対に勝つ」
早足で歩き出した。まずは赤点回避。その先に、決戦がある。
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