アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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13話 1番の方程式

季節は秋。トレセン学園の並木道も色づき始め、風には冬の気配が混じり始めていた。

 

阪神ジュベナイルフィリーズまで、あと1ヶ月。タキオンさんの協力のもと、私の肉体改造は順調に進んでいた。特殊な呼吸法。意識の制御。それらは確実に走りを変えつつあった。

 

だが。順調なのは「走り」だけだった。

 

放課後のトレーナー室。机の上に置かれた一枚の紙を、二人で見下ろしていた。

 

中間テストの結果表。

 

数学、28点。物理、32点。歴史、赤点ギリギリ。

 

「……やばいな」

 

絢原さんが短く言った。

 

「……仕方ないじゃん。この一ヶ月、頭の中はレースとタキオンさんの理論でいっぱいだったんだから。サイン、コサイン、タンジェントなんて、走るのに関係ないし」

 

「補習になったらJF出られないぞ」

 

それだけ言った。脅しではない。事実だ。トレセン学園の規則は厳しい。学業において著しく成績が不良な者は、レースへの出走を認めない場合がある。

 

「……分かってるよ」

 

ソファに沈み込んだ。クッションを抱えた。

 

「……トレーナー、なんとかしてよ」

 

「俺が教えてやる」

 

「え?」

 

「学生時代は成績悪くなかった。任せろ」

 

 

 

数十分後。

 

「……ねぇ、トレーナー」

 

シャーペンを置いた。

 

「ん?」

 

「発音が、なんかムカつく」

 

「は?」

 

「無駄にネイティブぶってるというか……RとLの違いを強調しすぎてて、聞いててイライラする」

 

「……本場の発音を意識してるんだが」

 

「それに説明が回りくどい。タキオンさんの話を聞いてるみたいで眠くなる」

 

「……」

 

沈黙。絢原さんの顔が少し引きつった。

 

「もういい。トレーナーに頼るのは時間の無駄みたい」

 

「数学なら——」

 

「公式の覚え方がおじさんくさいから却下」

 

絢原さんが黙った。完全に黙った。

 

「……じゃあ、どうするんだ」

 

「……借りてくる」

 

「何を」

 

「ノート。一番確実なやつを」

 

立ち上がった。教科書を抱えて、ドアに向かった。

 

絢原さんは何も言わなかった。トレーナーとしての威厳が粉々に砕けた音を、私は聞かなかったことにした。

 

 

 

向かったのは図書館だった。

 

放課後の図書館は静かだった。本棚の間を抜けて、奥の自習スペースへ。

 

窓際の席。夕日を背に受けながら、背筋を伸ばして机に向かうウマ娘がいた。

 

ダイワスカーレット。

 

机の上には教科書とノート、参考書が整然と並んでいる。ペンの走る音だけが規則正しく響いている。

 

深呼吸を一回。

 

「……スカーレット」

 

ペンが止まった。振り返った。

 

「あら。何の用?」

 

「……お願いがあるの」

 

「は?」

 

「ノート、貸してほしい」

 

スカーレットが目を丸くした。それから呆れたように鼻を鳴らした。

 

「……アンタねぇ。ライバルにノートを借りに来るわけ?」

 

「……本気で困ってるの。このままだと赤点。赤点取ったらJFに出られないかもしれない」

 

プライドも何もない。でも、ここで意地を張ってレースに出られなくなる方がよほど致命的だ。

 

スカーレットがじっとこちらを見た。

 

「……トレーナーは」

 

「役に立たなかった」

 

「そう」

 

少し間があった。

 

「……バカね」

 

手元のノートを閉じて、こちらに滑らせた。

 

「え……いいの?」

 

「貸してあげるわよ。今回だけね」

 

拍子抜けした。嫌味の一つでも言われると身構えていたのに。

 

「テストごときでライバルが自滅するのを待つような、そんなセコい女に見える?」

 

立ち上がった。見下ろされた。

 

「万全の状態のアンタに勝たなきゃ、意味ないのよ」

 

ノートを手に取った。パラパラとめくると、美しい文字で要点が完璧にまとめられていた。授業のメモだけじゃない。補足情報。自分の考察。色分けされた蛍光ペンの線。

 

「……すごい」

 

この人もトレーニングに明け暮れているはずだ。それなのに、これだけのものを作っている。

 

「……アンタ、いつ勉強してるの?」

 

「隙間時間よ。時間は作ろうと思えばいくらでも作れるわ」

 

涼しい顔で言った。

 

「甘いのよ、アンタは」

 

返す言葉がなかった。

 

「アタシは阪神JFには出ない」

 

「え?」

 

「アタシはホープフルステークスに出るわ」

 

息を呑んだ。ホープフルステークス。クラシック三冠路線を目指す有力勢が集う、中距離のGⅠ。私がデビュー戦と未勝利戦で挫折した距離に、この子は真っ向から挑もうとしている。

 

「なんで? 来年ティアラ路線でしょ? だったらJFが王道じゃない」

 

「だからこそよ」

 

スカーレットが腕を組んだ。

 

ティアラの一番(いちばん)だけじゃ物足りないの。アタシが欲しいのは世代の一番よ」

 

それは、私の想像を超えた発想だった。私は距離適性という壁の前で悩んで、苦しんで、迂回を余儀なくされている。この子は、そんな壁など存在しないかのように全部を狙っている。

 

「アンタはマイルで結果を出しなさい。決着はティアラ路線でつけるわ」

 

ノートを胸に抱えた。ずっしりと重い。

 

「……ありがとう。借りるね」

 

「汚したら承知しないわよ。コピーしたらすぐ返しなさい。アタシも復習するんだから」

 

「分かってる。……サンキュ」

 

「あ、そうそう」

 

背を向けかけたところで、声がかかった。

 

「ウオッカもヤバいわよ。あのバカ、授業中ずっと寝てたから」

 

「……伝えておく」

 

図書館を出た。

 

廊下を歩きながら、ノートの重さを感じていた。

 

「……勝てない」

 

呟いた。

 

「今はまだ、あいつに勝てない。勉強でも、覚悟でも」

 

ノートをもう一度、強く抱えた。

 

「まず、阪神JFだけは、絶対に勝つ」

 

早足で歩き出した。まずは赤点回避。その先に、決戦がある。




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