アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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117話 ほどく

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

廊下の灯りは、半分落ちていた。

 

日の落ちて間もないホテルは静かで、私の足音だけが規則正しく続いている。手は、もう震えていなかった。怒りはまだ腹の底に残っていた。でも、絢原さんを説得するのに、怒鳴っても意味がない。

 

ドアの前に立つ。ノックする手が、一瞬だけ、止まった。

 

止まったのは、迷ったからじゃない。ドアの向こうで何が待っているか、分かっていたからだ。この人は、反対する。絶対に、する。分かった上で、私は今夜、ここに来た。

 

ノックした。

 

「……モエ? どうした、こんな時間に」

 

開いたドアの向こうの絢原さんは、疲れた顔をしていた。長い電話の跡が、顔にそのまま残っている。机の上には書類が散らばっていて、一番上の一枚に、私の名前が見えた。出走取り消しの、手続きの紙が書き上がっていた。

あとは、出すだけの。

 

「走る」

 

先に言った。座るより、前置きより、先に。回りくどくすれば、負ける。この人相手の交渉で、搦め手が通じたことは一度もない。

 

絢原さんの顔から、疲れが引いて、別のものが入ってきた。

 

「……明日の話か」

 

「うん。出る。取り消さないで」

 

「ちょっと待て」

 

絢原さんは、ドアを閉めて、私と机の間に立った。

 

「オルフェーヴルは走れない。なら、お前が前を引く理由もない。もう出なくていい」

 

「分かってる」

 

「分かってて言ってるのか」

 

「うん。私が走りたい。じゃ、駄目?」

 

「駄目だ」

 

即答だった。この人がこんなに速く「駄目だ」と言うのを、久しぶりに聞いた。

 

「急にどうした。何があった」

 

ごまかせる相手じゃないことは、知っている。だから、半分だけ本当のことを言った。

 

「レゾリュートに会った。さっき」

 

「それで?」

 

「気に入らない」

 

「誰が」

 

「あいつ。すごく気に入らない。だから走る」

 

自分で言っていて、理由になっていないのは分かった。案の定、絢原さんの眉間の皺が深くなる。

 

「何を言われた」

 

「帰れって。ラビットが走る理由はなくなったって」

 

「……間違っちゃいない」

 

「そこはね。でも、あいつに言われたまま帰るのは無理」

 

絢原さんを侮辱されたことは言わなかった。言えば、この人は自分のせいにする。俺なんかのために走るな、と言い出す。

 

「だから、走る」

 

「駄目だ」

 

さっきより強い声だった。

 

「なんで」

 

「お前は、身体を壊すところまで走れてしまう。だから駄目だ」

 

「今は止まれるよ」

 

「駄目だ」

 

「身体の変化も分かる。脚がおかしいと思ったら止まる」

 

「それでも駄目だ」

 

同じ言葉ばかり返ってくる。

 

腹の底に残っていた熱が、少しだけ上がった。

 

「私が止まるって言っても、信じないの?」

 

「そういう話じゃない」

 

「じゃあ、どういう話?」

 

絢原さんは答えなかった。

 

「さっきも同じこと言われた」

 

「何?」

 

「私は自分で決めてるつもりなだけだって。違うって言っても、本人が分かってないだけだって」

 

レゾリュートの平らな声が、耳の奥に戻ってきた。

 

「トレーナーまで、私の言葉を聞かないの?」

 

「同じにするな」

 

初めて、絢原さんの声が荒くなった。

 

「じゃあ、理由を言ってよ」

 

「言っただろ。お前は身体を壊すまで走れる」

 

「それは理由になってない。今の私が止まれないって、どうして決めるの」

 

「モエ」

 

「私はもう、あの時とは違う。何年も一緒にやってきたでしょ」

 

「分かってる」

 

「分かってるなら、なんで駄目なの」

 

返事はなかった。

 

「私を信用できないなら、そう言えばいい」

 

「違う」

 

「じゃあ何」

 

声が少し大きくなった。

 

怒鳴るつもりはなかった。でも、理由も言わずに止められるほど、今の私は素直じゃなかった。

 

「何が、そんなに怖いの」

 

絢原さんの口が開いた。

 

けれど、言葉は出なかった。

 

二歩下がって、ベッドの端に腰を下ろす。両手を膝の上で握ったまま、長くうつむいていた。

 

さっきまで私の前に立ちはだかっていた人が、急に小さく見えた。

 

「……ゴールの先で」

 

ぽつりと、声が落ちた。

 

「走り終わったお前が、俺の腕に落ちてきた」

 

「それって……」

 

「……オークスだ」

 

「ああ」

 

絢原さんは顔を上げなかった。

 

「熱かった。呼吸も、心臓の音もおかしかった。痙攣が止まったと思ったら、今度は体が固まった」

 

一度、言葉が途切れる。

 

「俺が声をかけたら、一度だけ目を開けた」

 

「……私が?」

 

「ああ。『からっぽだ』って笑って、それから目を閉じた」

 

膝の上で握った手に、さらに力が入った。

 

「何度呼んでも、返事をしなくなった」

 

知らない話だった。

 

倒れたことも、この人の腕に抱き留められたことも、そこで何を話したのかも、私は覚えていない。あの日の私の記憶は、直線の途中で白く途切れて、次はもう病院の天井だ。返事をしなくなった私の重さを、この人だけが覚えていた。

 

「最初は、レースに出すだけでも怖かった」

 

絢原さんは、膝の上で組んだ手を見たまま言った。

 

「復帰してすぐの頃は、出走が決まるたびに夢を見た。香港へ行く時も、また同じことになるんじゃないかって考えた」

 

「でも、お前は毎回、自分の脚で戻ってきた。身体の違和感も、自分から言えるようになった」

 

少しだけ顔を上げる。

 

「最近は、ほとんど見なくなってた」

 

そこで、また視線が落ちた。

 

「今回、二千四百を走らせる話が出た頃から、また見るようになった」

 

「夢の中じゃ、お前は目を開けない。何度呼んでも何も言わない。受け止めるのが間に合わない時もある」

 

「そこで目が覚める。手が震えてる。……あの日と同じだ」

 

——知ってた。

 

薄い壁の向こうで、この人が短く唸る声を、何度か聞いた。聞かなかったふりをしてきた。触れていいものか、分からなかったから。

 

「病院で決めた。もう二度と、あそこまで行かせないって」

 

「勝つことより、次も走れることを選ぶって」

 

「それでも、お前から走ることを取り上げるのは違うと思った」

 

「二年、言えなかった。言えば、お前は気にする。また自分で何とかしようとする。だから黙ってた」

 

「ラビットなら最後まで走らない。ゴールの先で、またあのお前を抱えることはない。そう思えたから、この遠征を受けた」

 

絢原さんが、ゆっくり顔を上げた。

 

「なのに今、お前は、自分のためにレゾリュートを追うって言う」

 

「止まるよ」

 

「信じたい」

 

声の底が、震えていた。

 

「でも、お前を送り出そうとすると、腕の中で返事をしなくなった時のお前が浮かぶ」

 

「一度、最後まで行かせた。俺がトレーナーだったのに、お前は倒れた。誰が何を言っても、俺の中では終わってない」

 

「もう一度あれが起きたら、俺は……」

 

言葉が、そこで途切れた。

 

絢原さんは、ベッドの端に座ったまま、またうつむいた。両手は膝の上で固く握られていた。

 

そこで、ようやく分かった。

 

最初の頃は、レースに出すだけでも怖かった。

 

それでも私は何度も走って、そのたびに自分の脚で戻ってきた。身体がおかしい時には、自分から言えるようにもなった。

 

最近は、悪夢もほとんど見なくなっていた。

 

たぶん、この人も少しずつ、大丈夫だと思えるようになっていたのだ。

 

それを、二千四百という距離が、またあの日へ引き戻した。

 

なのに、私には何も言わなかった。

 

ラビットなら最後まで走らない。そうやって、自分を納得させていたのかもしれない。

 

怖がっていると知れば、私が気にすると思ったから。

 

だから、気づかれないようにしていた。

 

あの日、走ると決めたのは私だった。

 

誰かに命じられたからでも、絢原さんに無理をさせられたからでもない。私が走りたかった。自分の中の何かを証明したくて、止まれなくなるところまで行った。

 

私のエゴだった。

 

その結果を、この人は二年、自分のせいだと思い続けていた。

 

なら、明日は勝つだけでは足りない。

 

レゾリュートは叩き潰す。でも、あの日みたいに、自分まで置いてくるつもりはない。

 

自分で走ると決めて、自分で止まり、自分の脚でこの人のところへ戻る。

 

オークスで私が押し通して、この人に残したものを、凱旋門賞で終わらせる。

 

胸の奥に用意していた言葉が、どれも言えなくなった。

 

私の走る場所を決めないで。

 

私を信じて。

 

どちらも間違ってはいない。でも、それを今、この人へぶつける気にはなれなかった。

 

一歩、近づいた。

 

「トレーナー」

 

「……」

 

「ごめん」

 

絢原さんが、ゆっくり顔を上げた。

 

「お前が謝ることじゃない。あの時、最後に決めたのは俺だ」

 

「あの日。私が走りたくて、私が止まらなかった」

 

「それでも、送り出したのは俺だ」

 

「うん。トレーナーは、そう言うよね」

 

できるだけ、ゆっくり言った。

 

「でも、私も知らなかった。二千四百の話で、またあの日に戻されてたなんて」

 

絢原さんは、何も言わなかった。

 

私はベッドの前に立って、手を伸ばした。

 

その頭を、抱き寄せる。

 

子供の頃、転んだ私を抱き上げたのはいつもママだった。トレセンに来てからは、倒れた日も、眠れない夜も、走れなくなっていた時も、この人が隣にいた。

 

今夜は、私が腕を回した。

 

絢原さんの頭は重く、抱き寄せても、すぐには力が抜けなかった。

 

「私、もう、あの時とは違うよ」

 

頭を撫でながら言った。

 

「あの時は、止まり方を知らなかった。体がどうなってもいいって思ってた。証明する方が大事だったから」

 

絢原さんの肩が、少しだけ動いた。

 

「でも、今は分かる。体が変な時も、脚が危ない時も。トレーナーが二年かけて教えたんだよ」

 

「……それでも」

 

「レゾリュートは許せない。でも、そのために自分まで壊す気はないから」

 

腕に、少しだけ力を込めた。

 

「変だと思ったら止まる。その時は、レースも、レゾリュートも捨てる」

 

一度、息を吸った。

 

「今度は、戻れなくなるところまで走らないよ」

 

責めるつもりはなかった。

 

お願いするように、続けた。

 

「ちゃんと、自分の脚でトレーナーのところまで戻る」

 

「だから、明日は私に決めさせて」

 

「トレーナーが教えた私を、少しだけ信じて」

 

絢原さんの背中が、一度、大きく上下した。

 

「ずっと怖かったのに、出してくれてたんだね」

 

抱いた頭へ、少しだけ腕の力を足した。

 

「私に気づかれないように」

 

絢原さんの息は途中で何度かつかえ、最後にやっと抜けた。

 

「ありがと」

 

「もう一人で抱えなくていいよ」

 

どのくらいそうしていたか、分からない。

 

やがて絢原さんは、ゆっくり顔を上げた。目元は赤かった。鼻もちょっとぐずっていたけれど、目にはいつもの落ち着きが戻っていた。

 

「……条件がある」

 

「なに」

 

「どこまで走るかは、お前が決めろ」

 

「うん」

 

「ただ、少しでも変だと思ったら、その場でやめろ。レースも、俺の事も気にするな」

 

「分かった」

 

「約束できるか」

 

「できる。……覚えとくよ、ちゃんと。破ったこと、ないでしょ」

 

絢原さんは、立ち上がって、机の上の取り消しの書類を、二つに畳んだ。ゴミ箱じゃなくて、鞄の奥に仕舞った。この人らしい仕舞い方だと思った。

 

「明日は長い。もう寝ろ」

 

「はーい。……あ、そうだ。トレーナー」

 

「なんだ」

 

「プリンの約束、まだ生きてるからね」

 

絢原さんは、一瞬きょとんとして、それから、ようやく、ちゃんと笑った。今夜初めての、いつもの顔だった。

 

「覚えてるよ。……気が早いんだよ、お前は」

 

ドアのところで、一度だけ振り返った。絢原さんは、もう書類の山に戻っていた。机へ向かった背中は、もう震えていなかった。

 

 

 

 

 

 

部屋へ戻ると、灯りはまだついていた。

 

レゾリュートを食い潰す。

 

それでも、自分の脚で絢原さんのところへ戻る。

 

どちらかを選ぶ話ではない。両方やるために、考えなきゃいけないことがある。

 

怒っているだけで勝てるなら、ノワールは何度も負けていない。今季無敗。この大陸の頂点。まともにやって勝てる材料が、私のどこにあるのか、自分では分からなかった。

 

分からないなら、聞く相手は一人しかいない。

 

タキオンさんは、机を紙の山で埋め、湯気の立つ紅茶を前に端末を見ていた。この時間まで何をしていたのかは、聞かないことにする。

 

「おや、モルモット君。こんな時間まで出歩くのは感心しないねぇ」

 

「タキオンさんが言う?」

 

「私はいいのさ。明日走るのは君だからね」

 

ベッドへ戻る前に、聞きたいことだけ聞くことにした。

 

「ねえ、タキオンさん」

 

一度、息を吸った。

 

レゾリュート(あいつのレース)、どうやったら崩せる?」

 

自分の口から出た言葉に、自分で少し驚いた。特定の相手を倒す方法を聞いたのは、いつぶりだろう。

 

「おや?」

 

タキオンさんは、驚かなかった。

私が夜中にこんなことを聞きに来ることを、まるで予定表に書いてあったみたいな顔をしている。カップを口に運んで、一口飲んで、それから、心底おかしそうに、目を細めた。

 

「忘れてしまったのかい?」

 

「……何を」

 

「その質問には、とっくに答えたじゃないか」

 




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