——Anti-Hero: Curren Moe
廊下の灯りは、半分落ちていた。
日の落ちて間もないホテルは静かで、私の足音だけが規則正しく続いている。手は、もう震えていなかった。怒りはまだ腹の底に残っていた。でも、絢原さんを説得するのに、怒鳴っても意味がない。
ドアの前に立つ。ノックする手が、一瞬だけ、止まった。
止まったのは、迷ったからじゃない。ドアの向こうで何が待っているか、分かっていたからだ。この人は、反対する。絶対に、する。分かった上で、私は今夜、ここに来た。
ノックした。
「……モエ? どうした、こんな時間に」
開いたドアの向こうの絢原さんは、疲れた顔をしていた。長い電話の跡が、顔にそのまま残っている。机の上には書類が散らばっていて、一番上の一枚に、私の名前が見えた。出走取り消しの、手続きの紙が書き上がっていた。
あとは、出すだけの。
「走る」
先に言った。座るより、前置きより、先に。回りくどくすれば、負ける。この人相手の交渉で、搦め手が通じたことは一度もない。
絢原さんの顔から、疲れが引いて、別のものが入ってきた。
「……明日の話か」
「うん。出る。取り消さないで」
「ちょっと待て」
絢原さんは、ドアを閉めて、私と机の間に立った。
「オルフェーヴルは走れない。なら、お前が前を引く理由もない。もう出なくていい」
「分かってる」
「分かってて言ってるのか」
「うん。私が走りたい。じゃ、駄目?」
「駄目だ」
即答だった。この人がこんなに速く「駄目だ」と言うのを、久しぶりに聞いた。
「急にどうした。何があった」
ごまかせる相手じゃないことは、知っている。だから、半分だけ本当のことを言った。
「レゾリュートに会った。さっき」
「それで?」
「気に入らない」
「誰が」
「あいつ。すごく気に入らない。だから走る」
自分で言っていて、理由になっていないのは分かった。案の定、絢原さんの眉間の皺が深くなる。
「何を言われた」
「帰れって。ラビットが走る理由はなくなったって」
「……間違っちゃいない」
「そこはね。でも、あいつに言われたまま帰るのは無理」
絢原さんを侮辱されたことは言わなかった。言えば、この人は自分のせいにする。俺なんかのために走るな、と言い出す。
「だから、走る」
「駄目だ」
さっきより強い声だった。
「なんで」
「お前は、身体を壊すところまで走れてしまう。だから駄目だ」
「今は止まれるよ」
「駄目だ」
「身体の変化も分かる。脚がおかしいと思ったら止まる」
「それでも駄目だ」
同じ言葉ばかり返ってくる。
腹の底に残っていた熱が、少しだけ上がった。
「私が止まるって言っても、信じないの?」
「そういう話じゃない」
「じゃあ、どういう話?」
絢原さんは答えなかった。
「さっきも同じこと言われた」
「何?」
「私は自分で決めてるつもりなだけだって。違うって言っても、本人が分かってないだけだって」
レゾリュートの平らな声が、耳の奥に戻ってきた。
「トレーナーまで、私の言葉を聞かないの?」
「同じにするな」
初めて、絢原さんの声が荒くなった。
「じゃあ、理由を言ってよ」
「言っただろ。お前は身体を壊すまで走れる」
「それは理由になってない。今の私が止まれないって、どうして決めるの」
「モエ」
「私はもう、あの時とは違う。何年も一緒にやってきたでしょ」
「分かってる」
「分かってるなら、なんで駄目なの」
返事はなかった。
「私を信用できないなら、そう言えばいい」
「違う」
「じゃあ何」
声が少し大きくなった。
怒鳴るつもりはなかった。でも、理由も言わずに止められるほど、今の私は素直じゃなかった。
「何が、そんなに怖いの」
絢原さんの口が開いた。
けれど、言葉は出なかった。
二歩下がって、ベッドの端に腰を下ろす。両手を膝の上で握ったまま、長くうつむいていた。
さっきまで私の前に立ちはだかっていた人が、急に小さく見えた。
「……ゴールの先で」
ぽつりと、声が落ちた。
「走り終わったお前が、俺の腕に落ちてきた」
「それって……」
「……オークスだ」
「ああ」
絢原さんは顔を上げなかった。
「熱かった。呼吸も、心臓の音もおかしかった。痙攣が止まったと思ったら、今度は体が固まった」
一度、言葉が途切れる。
「俺が声をかけたら、一度だけ目を開けた」
「……私が?」
「ああ。『からっぽだ』って笑って、それから目を閉じた」
膝の上で握った手に、さらに力が入った。
「何度呼んでも、返事をしなくなった」
知らない話だった。
倒れたことも、この人の腕に抱き留められたことも、そこで何を話したのかも、私は覚えていない。あの日の私の記憶は、直線の途中で白く途切れて、次はもう病院の天井だ。返事をしなくなった私の重さを、この人だけが覚えていた。
「最初は、レースに出すだけでも怖かった」
絢原さんは、膝の上で組んだ手を見たまま言った。
「復帰してすぐの頃は、出走が決まるたびに夢を見た。香港へ行く時も、また同じことになるんじゃないかって考えた」
「でも、お前は毎回、自分の脚で戻ってきた。身体の違和感も、自分から言えるようになった」
少しだけ顔を上げる。
「最近は、ほとんど見なくなってた」
そこで、また視線が落ちた。
「今回、二千四百を走らせる話が出た頃から、また見るようになった」
「夢の中じゃ、お前は目を開けない。何度呼んでも何も言わない。受け止めるのが間に合わない時もある」
「そこで目が覚める。手が震えてる。……あの日と同じだ」
——知ってた。
薄い壁の向こうで、この人が短く唸る声を、何度か聞いた。聞かなかったふりをしてきた。触れていいものか、分からなかったから。
「病院で決めた。もう二度と、あそこまで行かせないって」
「勝つことより、次も走れることを選ぶって」
「それでも、お前から走ることを取り上げるのは違うと思った」
「二年、言えなかった。言えば、お前は気にする。また自分で何とかしようとする。だから黙ってた」
「ラビットなら最後まで走らない。ゴールの先で、またあのお前を抱えることはない。そう思えたから、この遠征を受けた」
絢原さんが、ゆっくり顔を上げた。
「なのに今、お前は、自分のためにレゾリュートを追うって言う」
「止まるよ」
「信じたい」
声の底が、震えていた。
「でも、お前を送り出そうとすると、腕の中で返事をしなくなった時のお前が浮かぶ」
「一度、最後まで行かせた。俺がトレーナーだったのに、お前は倒れた。誰が何を言っても、俺の中では終わってない」
「もう一度あれが起きたら、俺は……」
言葉が、そこで途切れた。
絢原さんは、ベッドの端に座ったまま、またうつむいた。両手は膝の上で固く握られていた。
そこで、ようやく分かった。
最初の頃は、レースに出すだけでも怖かった。
それでも私は何度も走って、そのたびに自分の脚で戻ってきた。身体がおかしい時には、自分から言えるようにもなった。
最近は、悪夢もほとんど見なくなっていた。
たぶん、この人も少しずつ、大丈夫だと思えるようになっていたのだ。
それを、二千四百という距離が、またあの日へ引き戻した。
なのに、私には何も言わなかった。
ラビットなら最後まで走らない。そうやって、自分を納得させていたのかもしれない。
怖がっていると知れば、私が気にすると思ったから。
だから、気づかれないようにしていた。
あの日、走ると決めたのは私だった。
誰かに命じられたからでも、絢原さんに無理をさせられたからでもない。私が走りたかった。自分の中の何かを証明したくて、止まれなくなるところまで行った。
私のエゴだった。
その結果を、この人は二年、自分のせいだと思い続けていた。
なら、明日は勝つだけでは足りない。
レゾリュートは叩き潰す。でも、あの日みたいに、自分まで置いてくるつもりはない。
自分で走ると決めて、自分で止まり、自分の脚でこの人のところへ戻る。
オークスで私が押し通して、この人に残したものを、凱旋門賞で終わらせる。
胸の奥に用意していた言葉が、どれも言えなくなった。
私の走る場所を決めないで。
私を信じて。
どちらも間違ってはいない。でも、それを今、この人へぶつける気にはなれなかった。
一歩、近づいた。
「トレーナー」
「……」
「ごめん」
絢原さんが、ゆっくり顔を上げた。
「お前が謝ることじゃない。あの時、最後に決めたのは俺だ」
「あの日。私が走りたくて、私が止まらなかった」
「それでも、送り出したのは俺だ」
「うん。トレーナーは、そう言うよね」
できるだけ、ゆっくり言った。
「でも、私も知らなかった。二千四百の話で、またあの日に戻されてたなんて」
絢原さんは、何も言わなかった。
私はベッドの前に立って、手を伸ばした。
その頭を、抱き寄せる。
子供の頃、転んだ私を抱き上げたのはいつもママだった。トレセンに来てからは、倒れた日も、眠れない夜も、走れなくなっていた時も、この人が隣にいた。
今夜は、私が腕を回した。
絢原さんの頭は重く、抱き寄せても、すぐには力が抜けなかった。
「私、もう、あの時とは違うよ」
頭を撫でながら言った。
「あの時は、止まり方を知らなかった。体がどうなってもいいって思ってた。証明する方が大事だったから」
絢原さんの肩が、少しだけ動いた。
「でも、今は分かる。体が変な時も、脚が危ない時も。トレーナーが二年かけて教えたんだよ」
「……それでも」
「レゾリュートは許せない。でも、そのために自分まで壊す気はないから」
腕に、少しだけ力を込めた。
「変だと思ったら止まる。その時は、レースも、レゾリュートも捨てる」
一度、息を吸った。
「今度は、戻れなくなるところまで走らないよ」
責めるつもりはなかった。
お願いするように、続けた。
「ちゃんと、自分の脚でトレーナーのところまで戻る」
「だから、明日は私に決めさせて」
「トレーナーが教えた私を、少しだけ信じて」
絢原さんの背中が、一度、大きく上下した。
「ずっと怖かったのに、出してくれてたんだね」
抱いた頭へ、少しだけ腕の力を足した。
「私に気づかれないように」
絢原さんの息は途中で何度かつかえ、最後にやっと抜けた。
「ありがと」
「もう一人で抱えなくていいよ」
どのくらいそうしていたか、分からない。
やがて絢原さんは、ゆっくり顔を上げた。目元は赤かった。鼻もちょっとぐずっていたけれど、目にはいつもの落ち着きが戻っていた。
「……条件がある」
「なに」
「どこまで走るかは、お前が決めろ」
「うん」
「ただ、少しでも変だと思ったら、その場でやめろ。レースも、俺の事も気にするな」
「分かった」
「約束できるか」
「できる。……覚えとくよ、ちゃんと。破ったこと、ないでしょ」
絢原さんは、立ち上がって、机の上の取り消しの書類を、二つに畳んだ。ゴミ箱じゃなくて、鞄の奥に仕舞った。この人らしい仕舞い方だと思った。
「明日は長い。もう寝ろ」
「はーい。……あ、そうだ。トレーナー」
「なんだ」
「プリンの約束、まだ生きてるからね」
絢原さんは、一瞬きょとんとして、それから、ようやく、ちゃんと笑った。今夜初めての、いつもの顔だった。
「覚えてるよ。……気が早いんだよ、お前は」
ドアのところで、一度だけ振り返った。絢原さんは、もう書類の山に戻っていた。机へ向かった背中は、もう震えていなかった。
~
部屋へ戻ると、灯りはまだついていた。
レゾリュートを食い潰す。
それでも、自分の脚で絢原さんのところへ戻る。
どちらかを選ぶ話ではない。両方やるために、考えなきゃいけないことがある。
怒っているだけで勝てるなら、ノワールは何度も負けていない。今季無敗。この大陸の頂点。まともにやって勝てる材料が、私のどこにあるのか、自分では分からなかった。
分からないなら、聞く相手は一人しかいない。
タキオンさんは、机を紙の山で埋め、湯気の立つ紅茶を前に端末を見ていた。この時間まで何をしていたのかは、聞かないことにする。
「おや、モルモット君。こんな時間まで出歩くのは感心しないねぇ」
「タキオンさんが言う?」
「私はいいのさ。明日走るのは君だからね」
ベッドへ戻る前に、聞きたいことだけ聞くことにした。
「ねえ、タキオンさん」
一度、息を吸った。
「
自分の口から出た言葉に、自分で少し驚いた。特定の相手を倒す方法を聞いたのは、いつぶりだろう。
「おや?」
タキオンさんは、驚かなかった。
私が夜中にこんなことを聞きに来ることを、まるで予定表に書いてあったみたいな顔をしている。カップを口に運んで、一口飲んで、それから、心底おかしそうに、目を細めた。
「忘れてしまったのかい?」
「……何を」
「その質問には、とっくに答えたじゃないか」
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