アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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118話 凱旋門賞Ⅰ

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

控え室の鏡に映る私は、どこから見ても完璧だった。

 

空色の勝負服に皺はない。髪も耳飾りも、直すところは残っていない。口元を少し上げれば、赤い瞳にちょうどよく光が入った。

 

何万人を相手にしても崩さない顔。

 

今日は、それを絢原さん一人に使う。

 

鏡越しに見ると、絢原さんはいつもの順番で私を見ていた。肩、腰、膝、足首。左右を見比べて、私が黙っている異常まで見つけようとする。

 

「脚は?」

 

「平気。右も左も、今日はちゃんと私の」

 

その場で踵を上げ、ゆっくり下ろす。続けて左右へ体重を移した。膝も腰もぶれない。

 

絢原さんの視線が、もう一度だけ足元を往復した。

 

「痛みは」

 

「ないよ」

 

「張りは?」

 

「昨日より軽い」

 

そこで顔を上げ、ようやく私の笑顔を見た。

 

一秒くらい、黙った。

 

気づいている。この顔が勝手に出たものじゃないことも、私が安心させるつもりで笑っていることも。

 

でも、笑わなくていいとは言わなかった。

 

代わりに、勝負服の肩へ手を伸ばす。何も付いていない場所を、指先で一度だけ払った。

 

「そうか」

 

それだけ。

 

見破った顔もしない。だから、ずるい。

 

「どこまで走るかは、お前が決めろ」

 

「うん」

 

「少しでも変だと思ったら、その場でやめろ」

 

「レゾリュートが前にいても?」

 

「追うな」

 

「うん、分かった」

 

「約束だからな」

 

「ちゃんと覚えてるよ」

 

廊下から、出走者を呼ぶ声が聞こえた。

 

扉へ向かい、取っ手へ手をかける。振り返った時も、笑顔は崩さなかった。

 

「行ってくるね、トレーナー」

 

「ああ」

 

「ちゃんと帰ってくるから」

 

絢原さんは、今度は黙らなかった。

 

「待ってる」

 

もう一度だけ笑って、廊下へ出た。扉の隙間が閉じ切るまで、絢原さんから見える私は完璧なままにしておく。

 

ばたん、と音がした。

 

頬から力を抜く。耳も自然な位置へ戻した。

 

これでしばらく、アイドルは品切れ。

 

 

 

 

 

 

——The General Public《大衆》

 

 

 

今年の凱旋門賞から、日本の本命が消えた。

 

オルフェーヴル、出走取消。

 

その知らせが流れた時点で、欧州の新聞はレースの中心を一つの名前へ戻した。

 

レゾリュート。

 

昨年の覇者。今季、欧州では無敗。ジャパンカップでは五着に敗れたが、あれは日本の軽い芝だった。ここは、彼女が最も強く走れるロンシャンだ。

 

昨夜の雨が、芝へ深く残っている。

 

低い雲。冷たい風。足を置けば、靴底がゆっくり沈むほど湿った地面。

 

最初の名前が読み上げられた。

 

『一番、カレンモエ』

 

ざわめきは、名前を聞いて初めて起きたものではなかった。

 

出走表からオルフェーヴルの名が消え、それでも一番枠だけが残っていると分かった時から、同じ疑問は何度も交わされていた。

 

空色の勝負服がランウェイへ姿を見せた瞬間、その疑問が一斉に声になった。

 

「本当に出るのか」

 

「オルフェーヴルはもういないぞ」

 

「ラビットだけ残して、どうするつもりだ?」

 

「短距離のウマ娘に、二千四百を走らせるのか」

 

歓声は起きなかった。

 

ざわめきだけが、空色の歩みに沿って広がっていく。

 

モエが香港スプリントの勝者であることは、誰もが知っている。

 

千二百メートルなら、世界の強豪を相手に勝ち切った。

 

だからこそ、分からなかった。

 

ここは、その倍を走る凱旋門賞だ。

 

本命へレースを渡す役目も、もう残っていない。

 

「出走を取り消すと思っていた」

 

「日本陣営は、何を考えている?」

 

「まさか、勝つつもりなのか?」

 

最後の声には、周囲から小さな笑いが返った。

 

それでも、空色のウマ娘は歩調を変えない。

 

観客席へ笑顔を振りまくこともなく、騒ぎへ目を向けることもなく、お立ち台まで真っ直ぐ歩いた。

 

なぜ走るのか。

 

その答えを知っている者は、観客席にはいなかった。

 

モエはお立ち台で短く姿を見せると、準備運動の区画へ下りた。

 

右脚を前へ伸ばす。

 

膝を曲げ、腰を落とす。

 

立ち上がると、その場で軽く二度跳ねた。

 

痛みを庇う様子はない。

 

身体が重い様子もない。

 

二番、三番と紹介が続いていく。

 

モエはその間も、脚や腰の動きを確かめていた。

 

そして十二番。

 

『レゾリュート』

 

名前が読み上げられた瞬間、スタンドの空気が変わった。

 

銀色のウマ娘がランウェイへ姿を見せる。

 

大歓声が立ち上がり、それまでモエへ向けられていたざわめきを呑み込んだ。

 

昨年の覇者。

 

連覇を狙う、欧州の女王。

 

背筋を真っ直ぐ伸ばし、観客席から降る声にも歩調を変えない。お立ち台へ上がって正面を向くだけで、歓声はさらに大きくなった。

 

「今年も決まりだ」

 

「オルフェーヴルとの再戦は残念だったが、敵はいない」

 

「これが本命だよ」

 

紹介を終えたレゾリュートが、準備運動の区画へ下りる。

 

その時、モエの耳が一度だけ横を向いた。

 

少し離れた場所へ入ってきた、銀色のウマ娘へ。

 

顔は動かさない。

 

位置だけを確かめると、耳はすぐに前へ戻った。

 

その短い動きに気づいた者は、ほとんどいなかった。

 

 

 

 

 

 

——Strategist: Dream Journey

 

 

 

「姉上。その顔は何だ」

 

双眼鏡を下ろした。

 

隣では、オルが包帯を巻いた脚を足台へ載せている。

 

「どんな顔でしょう」

 

「余が走れぬことを、まだ引きずっておる顔だ」

 

「……残念ではあります」

 

否定はしなかった。

 

足台の端から、オルの踵が少しずれていた。

 

「あまり動かさないでください」

 

「動かしておらぬ」

 

「では、包帯だけが勝手にずれたんでしょうか」

 

「姉上は細かい」

 

「オルが大雑把なんです」

 

踵を足台の中央へ戻す。

 

オルは不満そうな顔をしたが、脚は引かなかった。

 

事故を後悔している様子はない。もう一度同じことが起きても、きっと同じように幼い子を庇う。

 

そういう妹だから、責める気にはなれなかった。

 

ただ、一年かけて進めてきた旅は、目的地の手前で形を失った。

 

欧州勢が前を引かないことを確かめ、URAへ話を通した。タキオン先輩へ相談し、絢原トレーナーとカレンモエさんに頭を下げた。

 

私がお願いしたのは、オルのために前半を速くしてもらうことだった。

 

短距離を主戦場にするカレンモエさんに、千五百ほどまで前を引いていただく。そこから先を走り切ってもらう話ではない。

 

オルが出ない今、その役目はもうない。

 

二千四百メートルを走る必要もない。

 

「カレンモエは、なぜ残った」

 

オルがターフを見たまま訊いた。

 

「それは、私にも分かりません」

 

「あのトレーナーは何も申さなかったのか」

 

「出ます、とだけ」

 

それ以上は聞いていない。

 

カレンモエさんが距離を延ばすつもりなのか。凱旋門賞そのものに何かを求めたのか。あるいは、ここまで来たから走るだけなのか。

 

どれも、絢原トレーナーからは聞かされていなかった。

 

「……そうか」

 

選択は尊重する。

 

それでも、分からないものは分からなかった。

 

短距離の彼女が、本命を失った凱旋門賞へ残る。

 

得るものより、危険の方が大きく見える。

 

それを承知で、なぜゲートへ向かうのか。

 

双眼鏡の中で、空色の耳が横へ向いた。

 

少し離れた銀色の方角。

 

顔は動かさない。一度だけ位置を確かめ、耳は前へ戻る。

 

「……フ」

 

隣から、低い音が漏れた。

 

「オル?」

 

「フ、ハハハ……!」

 

オルは声を上げて笑った。

 

包帯を巻いた脚が僅かに動き、痛みで眉が寄る。それでも笑いは止まらなかった。

 

「そうか、そうか…… レゾリュートは、踏んではならぬものを踏んだらしい」

 

「……何を、です」

 

「あやつは王座など見ておらぬ。凱旋門も、勝者の冠も眼中にない」

 

金色の目が、愉快そうに細められる。

 

「見ているのは、白銀の首筋だけよ」

 

何が二人の間にあったのかは分からない。

 

けれど、モエさんがオルのいない凱旋門賞へ残った理由はそういうことらしい。

 

レゾリュートを追うためだ。

 

「己が何を怒らせたかも知らず、平然と首を差し出しに行くか。実に愉快よな」

 

オルは笑ったまま、包帯の上へ手を置いた。

 

「今日ほど、この脚が腹立たしい日はない」

 

私は双眼鏡を上げた。

 

空色の身体は、二十人の中で小さく見えた。

 

私の見立てでは、千五百、良くて千八百を過ぎれば脚は鈍る。

 

その先まで走れると考える材料を、私は持っていない。

 

それでも、レンズの中心から外せなかった。

 

 

 

 

 

 

——Trainer: Ayahara

 

 

 

控え室の扉が閉まってから、三秒ほど動けなかった。

 

鏡の中には、まだモエの笑顔が残っている。

 

あいつが俺の前で使う顔ではない。カメラの向こうに何万人いても、一度に振り向かせるための笑い方だ。

 

体は大丈夫。

 

必ず戻る。

 

たぶん、そう言いたかった。

 

肩に何も付いていないことくらい、分かっていた。それでも手を伸ばした。ほかに返し方が思いつかなかった。

 

通路へ出る。

 

右へ曲がれば、出走者がゲートへ向かう導線に近づける。今なら、まだ追いつく。

 

足は関係者席へ続く階段を選んだ。

 

一段上る。

 

昨夜の言葉が戻ってくる。

 

どこまで走るかは、モエが決める。

 

少しでも異常を感じたら、その場でやめる。レゾリュートが前にいても、追わない。

 

二段目で、手すりを握った。

 

二年前、ゴールの先で腕に落ちてきた身体は熱かった。名前を呼んでも返事がなくなった。

 

思い出せば、今でも指に力が入る。

 

それでも、今日は引き返さない。

 

モエの右足首は滑らかに動いていた。膝もぶれていない。呼吸も乱れていなかった。

 

ここへ来てからも、ずっと見ていた。

 

重い芝では、むしろフォームが安定した。千五百を走ったあとの呼吸はすぐに戻り、脚にも余裕が残っていた。

 

見えていなかったわけじゃない。

 

俺は、モエが二千四百を走れないと思っていたわけじゃない。

 

逆だ。

 

()()なら、二千四百を走れても少しもおかしくないと思っていた。

 

だから怖かった。

 

走れないからではない。

 

走れてしまうから、怖かった。

 

千五百で役目を終える。それを条件に、俺はこの遠征を受け入れた。

 

まだ脚が動いていても、そこで終わる。

 

モエを、限界まで走れる場所へ入れずに済む。

 

そう思っていた。

 

昨夜、その条件はなくなった。

 

あいつはレゾリュートを追うと決めた。

 

俺は、走る距離をモエへ預けた。

 

無理だと思ったからではない。

 

走れると分かっていて、預けた。

 

階段を上りきる。

 

ターフの向こうで、空色がゲートへ向かっていた。

 

今でも、名前を呼べば振り返る気がする。

 

今日はやめようと言えば、怒るだろう。それでも最後には、俺の前で足を止めるかもしれない。

 

喉まで上がった声を、飲み込んだ。

 

異常が出たら止まる。

 

何もなければ、どこまで走るかはモエが決める。

 

その約束を、今度こそ俺が守る。

 

手すりから手を離す。

 

指は震えていなかった。

 

場内放送が、一番枠の名を告げる。

 

空色がゲートの中へ消えた。

 

「……頼む、戻ってこい、モエ」

 

もしも神様がいるのなら。

 

お願いします。

 

 

 

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

一番枠。

 

オークスと同じだった。

 

縁起が悪いと思ったけど、今日の私まであの日と同じ扱いにするのは癪だった。

 

後ろの扉が閉まる。

 

左右は金属の壁。前にも、まだ扉がある。

 

あの時は、ここから逃げたかった。脚はもう危ないと分かっていた。それでも、何も残らない方が怖くて、聞こえないふりをした。

 

今日は、ちゃんと聞く。

 

右脚へ体重をかける。痛みはない。

 

左膝も平気。息は深く入る。心臓は速いけど、レース前ならこんなものだ。

 

大丈夫。

 

一度で済ませる。

 

何度も確認し始めたら、絢原さんと変わらない。

 

足元へ少し強く体重を乗せる。

 

芝が沈み、そのぶんだけ足の裏へ返ってきた。

 

やっぱり、踏みやすい。

 

嫌になるくらい、私の脚に合う。

 

日本の軽い芝では、強く踏むほど力が逃げた。ここは違う。深く沈んでも、次の一歩に使うぶんが残る。

 

叩きで走った時から気づいていた。

 

でも、考えないことにしていた。

 

ここでなら長く走れるかもしれない。そんなことを認めたら、また知らない役を押しつけられそうで面倒だった。

 

今日も、その答えを探しに来たわけじゃない。

 

外の十二番枠に、レゾリュートがいる。

 

金属の壁で姿は見えない。それでも、靴底の音が一つ鳴るたび、あいつだと思った。

 

公園での声が戻る。

 

あのトレーナーに、無理矢理走らされているのか

 

何も知らないくせに。

 

絢原さんが、どれだけ止めてきたのかも。私がどれだけ走ると言い張ったのかも。

 

あいつは知らない。

 

知らないまま、絢原さんを悪い方へ決めた。

 

私のことなら、何を言われてもよかった。

 

あの人は駄目だ。

 

腹の底で、黒猫が目を開けている。

 

暴れてはいない。伏せたまま、十二番枠の音を聞いている。

 

私が走れと言うまで、待っていられる。

 

昨夜、タキオンさんに訊いた。

 

レゾリュート(あいつのレース)、どうやったら崩せる?」

 

タキオンさんは紅茶を一口飲んでから、私を見た。

 

「おや。忘れてしまったのかい?」

 

「何を」

 

「その質問には、とっくに答えたじゃないか」

 

少し間を置いて、笑った。

 

「勝ちたいと思って走ればいいさ」

 

それで終わりかと思った。

 

けれど、タキオンさんはそのあと、レゾリュートの過去のレースについて、もう一つだけ話した。

 

聞いた時は、それが何、と思った。

 

今もまだ、何の役に立つのか分からない。

 

でも、勝ちたいと思えと言われるまでもなかった。

 

どこまで走るかは、私が決める。

 

もう決めている。

 

レゾリュートを食い殺す。

 

千五百で役目を終える気はない。前を譲る気もない。あいつが来るなら、そのたびに離す。最後まで来るなら、最後まで前にいる。

 

ただし、身体が止まれと言ったら止まる。

 

脚でも、膝でも、呼吸でも。少しでも変だと思ったら、レースも、あいつも捨てる。

 

それが絢原さんとの約束だった。

 

何も起きないなら、譲る理由はない。

 

レゾリュートを食い殺す。

 

それでも、自分の脚で絢原さんのところへ戻る。

 

どちらかを選ぶ話ではない。

 

両方やる。

 

最後の出走者が枠へ入った。

 

後ろの扉が閉じる音が続き、二十人分の気配が前へ揃う。

 

歓声が遠くなった。

 

残るのは、自分の呼吸と、靴底が芝を擦る音だけ。

 

黒猫が、ゆっくり身体を沈める。

 

私も腰を落とした。

 

——行く。

 

ゲートが開いた。

 




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