——Live: Announcer
『——スタートしました、凱旋門賞!』
二十人の勝負服が、一斉にゲートから飛び出した。
『ほぼ揃ったスタート! 内、一番枠からカレンモエが速い! 空色の勝負服が先頭へ出ます!』
最初の曲がりへ入る前に、カレンモエは内ラチ沿いを押さえた。
後続は追わない。
短距離を主戦場にする日本のウマ娘が、二千四百メートルの先頭へ立った。誰もが、それを予定された役目だと受け取っていた。
『カレンモエが二身、三身と離していく! 昨年の香港スプリント覇者が、今年は凱旋門賞の流れを作ります!』
『後続は落ち着いています。十二番レゾリュートは中団の外。慌てる様子はありません!』
歓声の中心は、まだ銀色だった。
空色は、そのずっと前を走っていた。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
ゲートが開いた瞬間、前へ出た。
一番枠なら、内を取るまでが早い。隣の子がこちらへ寄る前に肩を入れ、そのまま先頭へ抜ける。後ろで脚音が重なったけれど、すぐに離れた。
誰も来ない。
まあ、そうだよね。
二千四百で短距離の私についてきて、一緒に潰れるほど親切な子はいない。
最初の曲がりを抜けると、正面から冷たい風が当たった。逃げ場のない先頭で受ける風は強い。それでも、日本で走る時より脚は軽かった。
芝へ深く踏み込める。
足の裏が沈んで、次の一歩に使う力が残る。日本では力を込めるほど地面の表面だけを掻いたのに、ここでは腰から前へ押し出せた。
何度か走って、もう知っている感触だった。
今日は、その感触を使う相手がいる。
長い上りへ入る。
呼吸はまだ浅くない。右足首も、左膝も変わらない。肩に余計な力が入っていないかだけ確かめて、腕を一度小さく振り直した。
大丈夫。
もう一度は確認しない。
前を見る。道は上へ続いている。
後ろの脚音は、ひとつの塊になって遠くにあった。その中のどれがレゾリュートかは分からない。
分からなくても構わなかった。
どうせ、来る。
あいつは最後まで待ってから、全部を抜くつもりでいる。私が何のために前にいるのかも考えず、役目が終われば勝手に消えると思っている。
その時まで、前を空けておけばいい。
坂へ強く足を置く。
重い芝が、逃げずに受け止めた。
~
——Hero: Resolute
一番枠の空色が、先頭へ出た。
予想通りだった。
短距離の速度で前を取り、後続へ楽をさせない。オルフェーヴルのために選ばれた走者なら、それ以外の役目はない。
私は中団の外へ収まった。
前には壁を一つ置く。外へ出る進路だけは残し、空色との差を測る。
追う必要はなかった。
二千四百メートルの最初から、千二百メートルの速度へ付き合う理由はない。坂を越える頃には歩幅が落ちる。千五百まで持てば、役目は十分果たしたことになる。
周囲も同じ判断をしていた。
空色が三身、四身と離れても、前へ出ようとする者はいない。誰もが自分の呼吸を守り、私がいつ動くかだけを見ていた。
何度も見てきた形だった。
先頭に誰がいようと、最後に私が動けば隊列は変わる。
前を追っていた者は、私の後ろへ入る。
外にいた者は進路を譲る。
私が先頭へ立てば、その後ろで二着を争う。
そうして、レースは正しい順番へ戻る。
長い坂へ入った。
空色の歩幅は、まだ変わらない。
先頭で風を受けながら、深い芝へ一歩ずつ身体を沈めている。力任せに脚を回しているようには見えなかった。
千メートルを越える。
肩は揺れていない。
千二百。
短距離なら、もう勝負を始める地点だ。
それでも空色は、速度を落とさなかった。
少しだけ、見立てと違った。
だが、それだけだった。
残りはまだ半分ある。
脚が動いていることと、最後まで持つことは同じではない。短距離の走者は、自分が疲れていると気づく前に使い切ることがある。
私は前へ視線を戻した。
空色ではなく、その先のコースを見る。
下り。
偽りの直線。
最後の曲がり。
そして、長い直線。
動く場所は決まっている。
千四百を過ぎたところで、前の肩の外へ出た。
その瞬間、左右の気配が変わった。
私の後ろへ入ろうとする者が脚を使い、外へ持ち出す者が進路を探す。
誰も私の横へ来ない。
私より前へ出ようとする者もいない。
まだ先頭ではないのに、レースはもう私を中心に動いていた。
それでいい。
あとは空色を捉えるだけだった。
千五百。
本来なら、そこで役目を終える。
空色は下がらなかった。
振り返りもしない。
前を空ける気配もないまま、同じ歩幅で坂の頂上へ向かっている。
私は脚へ少しだけ力を加えた。
予定より長く残ったラビットを、直線へ入る前に処理する。
それ以上の意味はなかった。
~
——Trainer: Ayahara
スタートから、順位は見ていなかった。
見ていたのは、モエの右脚だった。
接地したあと、踵が真っ直ぐ上がっている。膝の戻りも左右で変わらない。坂へ入ってからも腰が落ちず、上体だけで身体を運ぼうとしていない。
オークスでは、もっと早く崩れていた。
脚が限界へ近づく前から、肩が先に揺れた。右の戻りが遅れ、遅れたぶんを左で取り返そうとして、歩幅がばらついた。
今日は、まだ何もない。
場内実況が通過を告げるたび、周囲では数字が飛び交った。速い、離しすぎだ、予定通りだ。どれも耳には入ったが、頭には残らなかった。
モエの息は遠くからでは聞こえない。
だから、首の角度を見る。口が開きすぎていないか。腕が身体の前を横切っていないか。足先だけで芝を蹴り始めていないか。
どれも、まだ出ていない。
坂の途中で、モエが一度だけ腕を振り直した。
自分で確かめた。
俺が教えた合図ではない。身体のどこかに変化があったわけでもない。ただ、余計な力を抜くための動きだった。
それを見て、手すりを握っていた指を少し緩めた。
「まだ大丈夫だ」
声に出す必要はなかったが、口から漏れた。
隣にいたタキオンは何も返さなかった。ターフを見たまま、膝の上の記録用紙へ一本だけ線を引いた。
「何の線だ」
「まだ説明するほどのものではないよ」
顔も上げずに答えた。
問い返すのはやめた。
あいつが黙っている時は、何も見えていない時ではない。見えていても、確かめ終わるまでは口にしない時だ。
やがて、実況が千二百の通過を告げた。
モエの主戦場なら、もうゴールが来る距離だ。
今日は、まだ半分ある。
その事実を考えないようにして、また右脚を見た。
崩れていない。
むしろ、坂へ入る前より踏み込みが安定している。深い芝に足を取られているのではなく、自分から沈めて前へ進んでいた。
ここなら走れてしまう。
レース前に認めた考えが、もう一度戻ってくる。
だからこそ、異常が出るまで目を離せなかった。
千四百。
空色の背中は、まだ先頭にある。
周囲の関係者が動き始めた。双眼鏡が上がり、各陣営の視線が中団へ集まる。
そろそろ、レゾリュートが動く。
誰もモエを見ていなかった。
前を引く役目は、もうすぐ終わる。そのあとは、本命のレースが始まる。ここにいるほとんど全員が、そう考えている。
俺だけは、モエを見続けた。
千五百が来る。
昨日までなら、そこで終わる予定だった。
今は違う。
止まるのは、身体に異常が出た時だけだ。
モエがどこまで行くかは、モエが決める。
通過地点を越えた。
右脚は真っ直ぐ上がった。
左膝も沈まない。
呼吸のために顎が上がることもなかった。
そして、空色は速度を落とさなかった。
~
——Live: Announcer
『千五百を通過! 先頭はまだカレンモエ!』
実況の声に、わずかな驚きが混じった。
観客席でも、空色へ向く顔が増えた。
それまで先頭は、レゾリュートが動き出すまでの目印でしかなかった。いつ落ちるかを待たれていた走者が、役目の終わる地点を越えても同じ歩幅で走っている。
『ペースメーカーとしては、ここまでが想定された仕事でしょう。しかしカレンモエ、下がりません! なおも先頭を守ります!』
『これは予定通りなのか、それとも本人の判断か! 日本の短距離王者が、なおもロンシャンの先頭です!』
その時、中団の外から銀色が動いた。
『レゾリュートが進出開始! 女王が上がっていく!』
一人が動けば、後続も一斉に動く。
だが、銀色の横へ並ぼうとする者はいなかった。
レゾリュートの後ろへ入る者。外へ持ち出し、その次の位置を確保する者。互いの肩を見ながら、銀色に続く順番を奪い合っている。
前へ出るための進路ではない。
レゾリュートが先頭へ立ったあと、その後ろに残るための進路だった。
『各ウマ娘も反応します! レゾリュートを目標に、隊列が一気に詰まってきた!』
まだ最後の直線にも入っていない。
それでも、一着の場所だけが銀色のために空けられていく。
空色だけが、その列へ加わらなかった。
先頭のまま、ひとりで坂を越えた。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
後ろの音が変わった。
ばらばらだった脚音の中から、一つだけ重い音が抜けてくる。
来た。
振り返らなくても分かる。
レゾリュート。
千五百は、もう過ぎた。
右足首に痛みはない。左膝も平気。息はまだ深く入る。身体のどこからも、止まれとは言われていない。
なら、止まらない。
絢原さんが見ているところで、あいつを潰す。
後ろから近づく足音を聞くたび、脚がもう一段深く芝へ入る。
下りへ入ると、前に長い直線が見えた。
身体が勝手に前へ出ようとした。
ここで踏めば、もっと離せる。
黒猫が伏せた身体を起こしかける。
でも、ここじゃない。
絢原さんから何度も聞いた。ロンシャンには、本物に見える直線がある。その先でもう一度曲がり、最後に本当の直線が来る。
今、全部を使えば、そこで終わる。
脚を止めるのではなく、出しかけた速さをそのまま運ぶ。腕を強く引きすぎない。下りに身体を持っていかせず、腰の位置を残す。
簡単じゃなかった。
速く走れる場所で待つのは、いつだって腹が立つ。
外から、銀色が近づいてくる。
二身。
一身半。
一身。
レゾリュートも、ここではまだ全部を出していない。私を捉える位置まで上がりながら、本物の直線へ脚を残している。
後ろの脚音も動いている。
でも、あいつらが追っているのは私じゃない。
レゾリュートの後ろへ入るために、位置を奪い合っている。銀色が私を抜いたあと、どこへ入れば二着を拾えるか。そればかり考えている音だった。
まだ私が先頭なのに、もう一着を渡したつもりでいる。
馬鹿みたい。
銀色の足音は、もう一身まで来ていた。
速い。
だから、半端に負けさせるだけじゃ足りない。
あいつがいちばん強い場所で、残してきた脚を全部使わせる。
勝てると思ったところで、前を奪う。
追いついてきたら、また離す。
絢原さんを見下したことを、最後の一歩まで思い出させる。
口の端が上がった。
来ればいい。
全部使って。
その上で、叩き潰す。
偽りの直線が終わる。
道が、最後にもう一度だけ曲がった。
視界の先が開ける。
長い直線。その向こうに、ゴールがある。
そして右後ろには、銀色の足音がある。
ほかの音は、もう遠かった。
すぐそばに残ったのは、銀色の足音だけだった。
——ここから。
黒猫が、芝へ爪を立てた。
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