アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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119話 凱旋門賞Ⅱ

 

——Live: Announcer

 

 

『——スタートしました、凱旋門賞!』

 

二十人の勝負服が、一斉にゲートから飛び出した。

 

『ほぼ揃ったスタート! 内、一番枠からカレンモエが速い! 空色の勝負服が先頭へ出ます!』

 

最初の曲がりへ入る前に、カレンモエは内ラチ沿いを押さえた。

 

後続は追わない。

 

短距離を主戦場にする日本のウマ娘が、二千四百メートルの先頭へ立った。誰もが、それを予定された役目だと受け取っていた。

 

『カレンモエが二身、三身と離していく! 昨年の香港スプリント覇者が、今年は凱旋門賞の流れを作ります!』

 

『後続は落ち着いています。十二番レゾリュートは中団の外。慌てる様子はありません!』

 

歓声の中心は、まだ銀色だった。

 

空色は、そのずっと前を走っていた。

 

 

 

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

ゲートが開いた瞬間、前へ出た。

 

一番枠なら、内を取るまでが早い。隣の子がこちらへ寄る前に肩を入れ、そのまま先頭へ抜ける。後ろで脚音が重なったけれど、すぐに離れた。

 

誰も来ない。

 

まあ、そうだよね。

 

二千四百で短距離の私についてきて、一緒に潰れるほど親切な子はいない。

 

最初の曲がりを抜けると、正面から冷たい風が当たった。逃げ場のない先頭で受ける風は強い。それでも、日本で走る時より脚は軽かった。

 

芝へ深く踏み込める。

 

足の裏が沈んで、次の一歩に使う力が残る。日本では力を込めるほど地面の表面だけを掻いたのに、ここでは腰から前へ押し出せた。

 

何度か走って、もう知っている感触だった。

 

今日は、その感触を使う相手がいる。

 

長い上りへ入る。

 

呼吸はまだ浅くない。右足首も、左膝も変わらない。肩に余計な力が入っていないかだけ確かめて、腕を一度小さく振り直した。

 

大丈夫。

 

もう一度は確認しない。

 

前を見る。道は上へ続いている。

 

後ろの脚音は、ひとつの塊になって遠くにあった。その中のどれがレゾリュートかは分からない。

 

分からなくても構わなかった。

 

どうせ、来る。

 

あいつは最後まで待ってから、全部を抜くつもりでいる。私が何のために前にいるのかも考えず、役目が終われば勝手に消えると思っている。

 

その時まで、前を空けておけばいい。

 

坂へ強く足を置く。

 

重い芝が、逃げずに受け止めた。

 

 

 

 

 

 

——Hero: Resolute

 

 

 

一番枠の空色が、先頭へ出た。

 

予想通りだった。

 

短距離の速度で前を取り、後続へ楽をさせない。オルフェーヴルのために選ばれた走者なら、それ以外の役目はない。

 

私は中団の外へ収まった。

 

前には壁を一つ置く。外へ出る進路だけは残し、空色との差を測る。

 

追う必要はなかった。

 

二千四百メートルの最初から、千二百メートルの速度へ付き合う理由はない。坂を越える頃には歩幅が落ちる。千五百まで持てば、役目は十分果たしたことになる。

 

周囲も同じ判断をしていた。

 

空色が三身、四身と離れても、前へ出ようとする者はいない。誰もが自分の呼吸を守り、私がいつ動くかだけを見ていた。

 

何度も見てきた形だった。

 

先頭に誰がいようと、最後に私が動けば隊列は変わる。

 

前を追っていた者は、私の後ろへ入る。

 

外にいた者は進路を譲る。

 

私が先頭へ立てば、その後ろで二着を争う。

 

そうして、レースは正しい順番へ戻る。

 

長い坂へ入った。

 

空色の歩幅は、まだ変わらない。

 

先頭で風を受けながら、深い芝へ一歩ずつ身体を沈めている。力任せに脚を回しているようには見えなかった。

 

千メートルを越える。

 

肩は揺れていない。

 

千二百。

 

短距離なら、もう勝負を始める地点だ。

 

それでも空色は、速度を落とさなかった。

 

少しだけ、見立てと違った。

 

だが、それだけだった。

 

残りはまだ半分ある。

 

脚が動いていることと、最後まで持つことは同じではない。短距離の走者は、自分が疲れていると気づく前に使い切ることがある。

 

私は前へ視線を戻した。

 

空色ではなく、その先のコースを見る。

 

下り。

 

偽りの直線。

 

最後の曲がり。

 

そして、長い直線。

 

動く場所は決まっている。

 

千四百を過ぎたところで、前の肩の外へ出た。

 

その瞬間、左右の気配が変わった。

 

私の後ろへ入ろうとする者が脚を使い、外へ持ち出す者が進路を探す。

 

誰も私の横へ来ない。

 

私より前へ出ようとする者もいない。

 

まだ先頭ではないのに、レースはもう私を中心に動いていた。

 

それでいい。

 

あとは空色を捉えるだけだった。

 

千五百。

 

本来なら、そこで役目を終える。

 

空色は下がらなかった。

 

振り返りもしない。

 

前を空ける気配もないまま、同じ歩幅で坂の頂上へ向かっている。

 

私は脚へ少しだけ力を加えた。

 

予定より長く残ったラビットを、直線へ入る前に処理する。

 

それ以上の意味はなかった。

 

 

 

 

 

 

——Trainer: Ayahara

 

 

 

スタートから、順位は見ていなかった。

 

見ていたのは、モエの右脚だった。

 

接地したあと、踵が真っ直ぐ上がっている。膝の戻りも左右で変わらない。坂へ入ってからも腰が落ちず、上体だけで身体を運ぼうとしていない。

 

オークスでは、もっと早く崩れていた。

 

脚が限界へ近づく前から、肩が先に揺れた。右の戻りが遅れ、遅れたぶんを左で取り返そうとして、歩幅がばらついた。

 

今日は、まだ何もない。

 

場内実況が通過を告げるたび、周囲では数字が飛び交った。速い、離しすぎだ、予定通りだ。どれも耳には入ったが、頭には残らなかった。

 

モエの息は遠くからでは聞こえない。

 

だから、首の角度を見る。口が開きすぎていないか。腕が身体の前を横切っていないか。足先だけで芝を蹴り始めていないか。

 

どれも、まだ出ていない。

 

坂の途中で、モエが一度だけ腕を振り直した。

 

自分で確かめた。

 

俺が教えた合図ではない。身体のどこかに変化があったわけでもない。ただ、余計な力を抜くための動きだった。

 

それを見て、手すりを握っていた指を少し緩めた。

 

「まだ大丈夫だ」

 

声に出す必要はなかったが、口から漏れた。

 

隣にいたタキオンは何も返さなかった。ターフを見たまま、膝の上の記録用紙へ一本だけ線を引いた。

 

「何の線だ」

 

「まだ説明するほどのものではないよ」

 

顔も上げずに答えた。

 

問い返すのはやめた。

 

あいつが黙っている時は、何も見えていない時ではない。見えていても、確かめ終わるまでは口にしない時だ。

 

やがて、実況が千二百の通過を告げた。

 

モエの主戦場なら、もうゴールが来る距離だ。

 

今日は、まだ半分ある。

 

その事実を考えないようにして、また右脚を見た。

 

崩れていない。

 

むしろ、坂へ入る前より踏み込みが安定している。深い芝に足を取られているのではなく、自分から沈めて前へ進んでいた。

 

ここなら走れてしまう。

 

レース前に認めた考えが、もう一度戻ってくる。

 

だからこそ、異常が出るまで目を離せなかった。

 

千四百。

 

空色の背中は、まだ先頭にある。

 

周囲の関係者が動き始めた。双眼鏡が上がり、各陣営の視線が中団へ集まる。

 

そろそろ、レゾリュートが動く。

 

誰もモエを見ていなかった。

 

前を引く役目は、もうすぐ終わる。そのあとは、本命のレースが始まる。ここにいるほとんど全員が、そう考えている。

 

俺だけは、モエを見続けた。

 

千五百が来る。

 

昨日までなら、そこで終わる予定だった。

 

今は違う。

 

止まるのは、身体に異常が出た時だけだ。

 

モエがどこまで行くかは、モエが決める。

 

通過地点を越えた。

 

右脚は真っ直ぐ上がった。

 

左膝も沈まない。

 

呼吸のために顎が上がることもなかった。

 

そして、空色は速度を落とさなかった。

 

 

 

 

 

 

——Live: Announcer

 

 

 

『千五百を通過! 先頭はまだカレンモエ!』

 

実況の声に、わずかな驚きが混じった。

 

観客席でも、空色へ向く顔が増えた。

 

それまで先頭は、レゾリュートが動き出すまでの目印でしかなかった。いつ落ちるかを待たれていた走者が、役目の終わる地点を越えても同じ歩幅で走っている。

 

『ペースメーカーとしては、ここまでが想定された仕事でしょう。しかしカレンモエ、下がりません! なおも先頭を守ります!』

 

『これは予定通りなのか、それとも本人の判断か! 日本の短距離王者が、なおもロンシャンの先頭です!』

 

その時、中団の外から銀色が動いた。

 

『レゾリュートが進出開始! 女王が上がっていく!』

 

一人が動けば、後続も一斉に動く。

 

だが、銀色の横へ並ぼうとする者はいなかった。

 

レゾリュートの後ろへ入る者。外へ持ち出し、その次の位置を確保する者。互いの肩を見ながら、銀色に続く順番を奪い合っている。

 

前へ出るための進路ではない。

 

レゾリュートが先頭へ立ったあと、その後ろに残るための進路だった。

 

『各ウマ娘も反応します! レゾリュートを目標に、隊列が一気に詰まってきた!』

 

まだ最後の直線にも入っていない。

 

それでも、一着の場所だけが銀色のために空けられていく。

 

空色だけが、その列へ加わらなかった。

 

先頭のまま、ひとりで坂を越えた。

 

 

 

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

後ろの音が変わった。

 

ばらばらだった脚音の中から、一つだけ重い音が抜けてくる。

 

来た。

 

振り返らなくても分かる。

 

レゾリュート。

 

千五百は、もう過ぎた。

 

右足首に痛みはない。左膝も平気。息はまだ深く入る。身体のどこからも、止まれとは言われていない。

 

なら、止まらない。

 

絢原さんが見ているところで、あいつを潰す。

 

後ろから近づく足音を聞くたび、脚がもう一段深く芝へ入る。

 

下りへ入ると、前に長い直線が見えた。

 

身体が勝手に前へ出ようとした。

 

ここで踏めば、もっと離せる。

 

黒猫が伏せた身体を起こしかける。

 

でも、ここじゃない。

 

絢原さんから何度も聞いた。ロンシャンには、本物に見える直線がある。その先でもう一度曲がり、最後に本当の直線が来る。

 

今、全部を使えば、そこで終わる。

 

脚を止めるのではなく、出しかけた速さをそのまま運ぶ。腕を強く引きすぎない。下りに身体を持っていかせず、腰の位置を残す。

 

簡単じゃなかった。

 

速く走れる場所で待つのは、いつだって腹が立つ。

 

外から、銀色が近づいてくる。

 

二身。

 

一身半。

 

一身。

 

レゾリュートも、ここではまだ全部を出していない。私を捉える位置まで上がりながら、本物の直線へ脚を残している。

 

後ろの脚音も動いている。

 

でも、あいつらが追っているのは私じゃない。

 

レゾリュートの後ろへ入るために、位置を奪い合っている。銀色が私を抜いたあと、どこへ入れば二着を拾えるか。そればかり考えている音だった。

 

まだ私が先頭なのに、もう一着を渡したつもりでいる。

 

馬鹿みたい。

 

銀色の足音は、もう一身まで来ていた。

 

速い。

 

だから、半端に負けさせるだけじゃ足りない。

 

あいつがいちばん強い場所で、残してきた脚を全部使わせる。

 

勝てると思ったところで、前を奪う。

 

追いついてきたら、また離す。

 

絢原さんを見下したことを、最後の一歩まで思い出させる。

 

口の端が上がった。

 

来ればいい。

 

全部使って。

 

その上で、叩き潰す。

 

偽りの直線が終わる。

 

道が、最後にもう一度だけ曲がった。

 

視界の先が開ける。

 

長い直線。その向こうに、ゴールがある。

 

そして右後ろには、銀色の足音がある。

 

ほかの音は、もう遠かった。

 

すぐそばに残ったのは、銀色の足音だけだった。

 

——ここから。

 

黒猫が、芝へ爪を立てた。

 




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