アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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上手い感想の返しが思いつかず、返信はなかなかできていませんが、感想は楽しく拝見させていただいています。
ありがとうございます。


120話 凱旋門賞Ⅲ

 

——Live: Announcer

 

 

『ロンシャン、最後の直線へ! 先頭はまだカレンモエ!』

 

偽りの直線(フォルスストレート)が終わり、スタンド前の本当の直線が開けた。

 

内ラチ沿いを走る空色へ、中団から抜け出した銀色が迫る。

 

『残り五百メートル! レゾリュートが来る! 昨年の覇者が、一気に差を詰めていく!』

 

三身あった差が消える。

 

二身。

 

一身。

 

半身。

 

レゾリュートの肩が、カレンモエへ届いた。

 

『並んだ! 女王が並ぶ!』

 

深い芝へ、二人の脚がほとんど同時に沈む。

 

銀色の一歩が、空色より半歩先へ抜けた。

 

『レゾリュート先頭! 欧州の女王がカレンモエを捉えました!』

 

スタンドが爆発する。

 

大型映像へ映し出されたのは、先頭へ立った銀色だった。

 

昨年と同じ場所で、昨年と同じ勝負服が前へ出た。観客の多くは、その瞬間に決着を見た。

 

あとはレゾリュートが差を広げるだけ。

 

前半から逃げ続けた短距離の走者は、ここから一歩ずつ下がっていく。

 

そんな空気が、歓声と一緒にロンシャンを包んだ。

 

後続も一斉に動いた。

 

だが、銀色の横へ出ようとする者はいない。誰もがレゾリュートの背後へ進路を取り、その後ろで残る順位を奪い合っていた。

 

三番手のウマ娘が外へ持ち出す。

 

四番手はその内へ入る。

 

誰も先頭を奪う進路を探していない。

 

すでに一着をレゾリュートへ渡し、二着へ入るための走りを始めていた。

 

『カレンモエはここまでか! 女王が後続を引き離しにかかります!』

 

実況も同じものを見ていた。

 

空色だけが、その列へ加わらない。

 

半身後ろ。

 

レゾリュートのすぐ右後ろに、カレンモエの足音が残った。

 

 

 

 

 

 

——Hero: Resolute

 

 

 

前へ出た。

 

これで終わる。

 

抜かれた者の走りが変わる瞬間を、私は何度も見てきた。

 

最初の一歩で肩から力が抜ける。

 

次の一歩で後ろを確かめる。

 

それでも追ってきた者も、やがて足音が重くなり、私の後ろへ下がった。

 

今回も同じだ。

 

私は呼吸を一つ整え、予定していた加速へ入る。

 

右脚を深く沈めた。芝から返る力を腰へ通し、歩幅を広げる。

 

半身差が一身へ変わった。

 

歓声が一段大きくなる。

 

私が突き放したと思ったのだろう。

 

後ろでは、他の者たちが進路を奪い合う音が重なっていた。誰もこちらへ並ぼうとはしていない。私の後ろで、次の順位を決めようとしている。

 

いつもの形だった。

 

次の呼吸で、ひとつだけ足音が戻ってきた。

 

右後ろ。

 

半身。

 

私は前を向いたまま、もう一度踏んだ。

 

今度は歩幅を変えず、接地だけを短くする。最後の三百メートルまで残すはずだった脚を、少しだけ早く使った。

 

足音が遠ざかる。

 

一身。

 

一身半。

 

だが、消えない。

 

数歩後には、また半身後ろへ戻っていた。

 

追いつこうと焦っている音ではなかった。

 

歩数は乱れていない。上体を前へ投げ、足先だけで縋りついているわけでもない。

 

こちらが離す。

 

空色は一度だけ、その差を受け入れる。

 

そして、同じ速さで戻ってくる。

 

半身まで。

 

それより前へは来ない。

 

私が次に踏むまで、そこにいる。

 

何をしている。

 

私はもう一度、強く踏んだ。

 

今度こそ終わらせる。

 

銀色の一歩が芝を押し切り、身体が前へ出る。

 

背後の音が遠ざかった。

 

一歩。

 

二歩。

 

三歩。

 

四歩目で、また近づき始めた。

 

 

 

 

 

 

——Live: Announcer

 

 

 

『レゾリュート、一身半まで広げた!』

 

銀色が前へ出るたび、スタンドから歓声が上がった。

 

空色が半身まで戻ると、今度はどよめきが起きる。

 

それでも実況は、同じ言葉を繰り返した。

 

『カレンモエ、懸命に食い下がっています!』

 

食い下がる。

 

耐える。

 

粘る。

 

誰の目にも、そう見えていた。

 

二千メートルを越えた短距離の走者が、最後の力で女王の背中へ縋りついている。

 

レゾリュートがもう一度踏めば、今度こそ空色は下がる。

 

観客は、その瞬間を待っていた。

 

銀色が加速する。

 

差が一身へ開く。

 

歓声が上がる。

 

空色が戻る。

 

半身。

 

驚きの声が混じる。

 

だが、そこから先へ出ないため、誰も二人の関係が逆転しているとは思わなかった。

 

先頭はレゾリュート。

 

後ろにいるのはカレンモエ。

 

映像だけを見れば、追っているのは空色だった。

 

『残り四百メートル! レゾリュート先頭! カレンモエ、まだ二番手で粘っています!』

 

まだ。

 

その一言に、すべてが入っていた。

 

いずれ落ちる。

 

いずれ離される。

 

外から見ている者は、誰もがそう思っていた。

 

 

 

 

 

 

——Trainer: Ayahara

 

 

 

レゾリュートが前へ出てから、モエは三度差を詰めた。

 

ただし、すぐに並び返そうとはしていない。一身ほど離されても慌てず、右脚が戻るのを待ってから速度を上げ、決まって半身後ろまで戻っていた。

 

俺が見ていたのは、二人の順位ではなくモエの右脚だった。

 

接地は真っ直ぐだ。踵は外へ流れていない。左膝の入り方にも乱れはなく、呼吸が荒くなっても顎は上がっていなかった。

 

追いつくたびに、無理を重ねている走りではない。

 

「歩幅は?」

 

隣のタキオンは、記録用紙へ目を落としたまま答えた。

 

「変わっていないよ」

 

千五百の欄に、一本の線が引かれている。

 

モエが役目を終えるはずだった地点だ。その先にも千六百、千八百、二千と数字が続き、レゾリュートに抜かれたあとも大きな変化はない。

 

「まだ行けるのか」

 

「少なくとも、身体は止まれと言っていない」

 

タキオンの答えを聞きながら、ターフへ目を戻した。

 

レゾリュートがさらに速度を上げる。モエは一度離され、また半身後ろへ戻った。

 

前へ出られないのではない。

 

そう見えた。

 

並ぶためなら、今の戻り方はおかしい。差を詰めたところでもう一段踏めば、肩までは届く。それをせず、レゾリュートが次に加速するまで同じ位置にいる。

 

モエはまだ、一着を取りに行っていない。

 

実況は、食い下がっていると言った。

 

違う。

 

レゾリュートが差を決めようとするたび、すぐ後ろへ戻り、もう一度走らせている。

 

モエが必死に追いついているんじゃない。

 

レゾリュートの方が、モエを消すために何度も踏まされている。

 

あいつを休ませないために。

 

そう気づいた時、喉が乾いた。

 

「モエ」

 

届かない声で名前を呼んだ。

 

少しでも変なら、そこで止まれ。

 

レゾリュートが前にいても追うな。

 

昨夜の約束は変わらない。

 

だが、モエの走りにはまだ乱れがない。

 

俺は、モエの脚から目を離せなかった。

 

 

 

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

また離された。

 

一身半。

 

焦らない。

 

右脚を戻す。

 

二歩で一身。

 

もう一歩で半身。

 

そこまででいい。

 

レゾリュートの耳が、後ろへ向いている。

 

私の音を聞いている。

 

なら、もう一度踏む。

 

銀色が前へ飛ぶ。

 

少し待って、追う。

 

また半身へ戻る。

 

楽に終わらせない。

 

私が消えたと思うたび、すぐ後ろへ戻る。

 

息を整えさせない。

 

脚も休ませない。

 

何度でも踏ませる。

 

全部使わせる。

 

最後に前へ出て、何も残さない。

 

右脚は動く。左膝も真っ直ぐ入る。

 

息は苦しい。

 

それでも、まだ吸える。

 

だから、まだ追える。

 

銀色がまた踏んだ。

 

行っておいで。

 

すぐ行くから。

 

 

 

 

 

 

——Live: Announcer

 

 

 

『レゾリュートが突き放す! しかしカレンモエ、また差を詰める!』

 

『一身半から一身、そして半身! ですが並びません! 女王の直後へついたまま離れない!』

 

中継映像は、先頭を走るレゾリュートの横顔を大きく抜いた。

 

力強い腕の振り。

 

崩れない上体。

 

深い芝を押し切る脚。

 

映像の中心にいるのは、あくまで女王だった。

 

画面の端へ、白い髪が入る。

 

一度消える。

 

また戻る。

 

実況席でも、それをレゾリュートの優勢が揺らいだとは捉えていなかった。

 

『カレンモエも驚異的な粘りです! しかし、前はレゾリュート!』

 

後続は、すでに三身以上離れている。

 

銀色が速度を上げるたび、空色も同じだけ前へ進む。

 

追いつかない。

 

離されない。

 

半身の間だけを残し、二人は直線を上がっていく。

 

観客が見ているのは、いつ空色が消えるかだった。

 

レゾリュートが一度踏む。

 

差が開く。

 

スタンドが沸く。

 

数歩後、空色が半身まで戻る。

 

今度はどよめきが起きる。

 

それでも、次に銀色が踏めば終わると思われていた。

 

誰も気づかない。

 

レゾリュートが差を広げるたび、そのために残していた脚を一つずつ使っていることに。

 

『残り三百メートル! レゾリュート先頭!』

 

『カレンモエが、その背後から消えません!』

 

 

 

 

 

 

——Hero: Resolute

 

 

 

何度目だ。

 

離しても、戻る。

 

こちらが踏むたび、空色の足音は一度だけ遠ざかり、必ず半身後ろへ帰ってくる。

 

追い抜こうとはしない。

 

ただ、()()()()()

 

呼吸を整えようとすれば近づき、差を決めようとすればついてくる。

 

私は前を走っているはずだった。

 

それなのに、背中を押されている。

 

速く走れ。

 

もっと使え。

 

止まるな。

 

右後ろの足音が、そう言っている。

 

私はもう一段踏んだ。

 

ゴール直前まで取っておくはずだった加速だった。

 

肩が前へ出る。膝が上がる。深い芝が後方へ弾ける。

 

今までなら、これで勝負は終わっている。

 

歓声が大きくなった。

 

私の名前が聞こえる。

 

観客には、私が空色を突き放しているように見えている。

 

実況も、私が先頭を守っていると叫んでいる。

 

間違ってはいない。

 

順位だけを見れば、私は前にいる。

 

その声の中へ、また足音が戻ってきた。

 

半身。

 

そこから動かない。

 

視線だけを右へ向ける。

 

カレンモエの、見開かれた目がこちらを向いていた。

 

白い髪が汗で頬へ張りついている。

 

口元は陰になっていて、それ以上を窺い知ることは出来なかった。

 

その瞳はゴールなど見ていない。

 

後ろも見ていない。

 

私だけを見ている。

 

あの公園で、私はこの目を見た。

 

あの時は分からなかった。

 

何故、彼女が笑っただけで足が下がったのか。

 

今なら分かる。

 

彼女は、救われるのを待っていたわけではない。

 

私が勝手にそう決めて、触れてはならないものへ手を伸ばした。

 

この女は、その代償を取りに来たのだ。

 

凱旋門賞に勝つためではない。

 

私をただ抜くためでもない。

 

私が離そうとするたび、半身後ろへ戻る。

 

息を整える暇も、脚を休める暇も与えず、もう一度踏ませる。

 

前を走っているのは私だ。

 

それなのに、走らされているのも私だった。

 

追っているのはカレンモエのはずなのに。

 

追い立てられているのは、私だった。

 

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