アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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121話 凱旋門Ⅳ

 

——The Aspirant: Breeze Shuttle

 

 

テレビ台の時計は、午後十一時七分を指していた。

 

普段なら、もう寝支度へ入っている時間だ。

 

けれど今夜の談話室には、空いている場所がなかった。

 

テレビの前のソファはもちろん、ローテーブルの周りも生徒で埋まっている。座れなかった者はクッションを抱えて床へ座り、それでも入れなかった者たちは、開け放された扉の向こうから画面を覗き込んでいた。

 

風呂上がりの濡れた髪。膝へ掛けられた薄い毛布。飲むのを忘れられた紙コップ。開いたまま、誰も手を伸ばさなくなった菓子の袋。

 

テレビの音量は大きい。

 

それでも少し前までは、実況が聞き取りづらいほど騒がしかった。

 

「レゾリュートが出た!」

 

「離れる!」

 

「モエ先輩、まだいる!」

 

「戻った、また半身まで戻った!」

 

画面の中で銀色が伸びるたび、悲鳴が上がる。

 

空色が戻るたび、その悲鳴を押し返すように歓声が広がる。

 

「もう一回行った!」

 

「今度こそ——」

 

「待って。まだ、まだいる」

 

「どうなってるの、これ……」

 

「分かんない。分かんないけど、離れてない」

 

誰かが立ち上がり、後ろから「見えない」と声が飛ぶ。

 

けれど、注意された生徒も座らなかった。注意した方も、すぐに立っていた。

 

ブリーズシャトルはソファの端で、胸の前へクッションを抱えていた。

 

声を上げることもできず、画面の中の足音だけを追っている。

 

レゾリュートが踏む。

 

半身の差が、少しだけ広がる。

 

二歩。

 

三歩。

 

空色が、また同じ場所へ戻る。

 

「……また」

 

ブリーズのすぐ後ろで、誰かが呟いた。

 

今度は歓声が起きなかった。

 

同じことが、もう何度目か分からない。

 

離される。

 

戻る。

 

また離される。

 

また戻る。

 

繰り返すたびに、談話室の声が少しずつ小さくなっていった。

 

高松宮記念で、ブリーズはあの背中を抜いた。

 

横へ出て、前へ出て、そのままゴールまで走った。

 

抜いた直後、振り返る余裕なんてなかった。それでも耳は、後ろの足音を待っていた。

 

来なかった。

 

肩の横にあった呼吸が遠ざかり、足音が一歩ずつ小さくなった。

 

自分が勝ったと分かったのは、ゴール板が見えた時ではない。

 

あの音が戻ってこないと気づいた時だった。

 

画面の中では、違う。

 

レゾリュートが離そうとするたび、モエ先輩の足音は戻ってくる。

 

追いつけずに残された半身ではない。

 

離されたあと、自分で取り返している半身だ。

 

テレビの映像が切り替わった。

 

白い髪が汗で頬へ張りついている。

 

口元は影に沈み、表情までは分からない。

 

ただ、目だけが大きく見開かれていた。

 

ゴールではなく、レゾリュートだけを見ている。

 

何を考えているのか、画面越しには読み取れない。

 

それが、余計に怖かった。

 

ブリーズの喉が縮んだ。

 

練習場で初めて話した時のモエ先輩は、いつも少し眠そうな目をしていた。

 

世界一だと伝えても、困ったように目を逸らした。緊張で眠れないと話したブリーズへ、絢原トレーナーの受け売りらしい言葉で、

 

——ちゃんと寝なよ。

 

そう言ってくれた。

 

高松宮のあと、用具庫の角で会った時もそうだった。

 

二人とも相手の顔を見られず、「お疲れさまです」と「お疲れさま」しか言えなかった。

 

あの、ぶっきらぼうで、気まずそうで、ブリーズより先に逃げられなかった人。

 

画面にいるのも、同じモエ先輩のはずだった。

 

同じ白い髪。

 

同じ空色。

 

けれど、普段は眠たげに細められている目が、今は大きく開かれている。

 

その視線は、レゾリュートから一度も外れない。

 

ブリーズの中で、二人が重ならなかった。

 

あの日、練習を見て「迫力がすごいです」と言った。

 

モエ先輩は、少しだけ嫌そうな顔をした。

 

今も、迫力という言葉を使えるはずだった。

 

でも、声にできなかった。

 

モエ先輩は、レゾリュートへ追いつこうとしているようには見えない。

 

何度離されても同じ半身へ戻り、そこから逃がさないように見えた。

 

怖い。

 

そう思った自分に、ブリーズは息を止めた。

 

憧れていた人だ。

 

今も、憧れている。

 

それでも、画面の中のモエ先輩は怖かった。

 

「モエ先輩、抜くつもりなの……?」

 

誰かが聞いた。

 

返事はなかった。

 

答えを知っている者なんて、談話室にはいない。

 

画面の中で、レゾリュートが右を見た。

 

銀色の横顔が映る。

 

その視線の先に、空色がいる。

 

「あ……」

 

誰かの息が漏れた。

 

それまでレゾリュートは、モエ先輩が半身へ戻るたび、前を向いたまま脚を使っていた。

 

今は、自分から右を向いた。

 

何を思ったのかは、画面越しには分からない。

 

ただ、何度離しても半身へ戻る空色を、とうとう目で確かめた。

 

その瞬間、談話室からざわめきが消えた。

 

菓子の袋を握っていた手も、紙コップを口元へ運びかけた手も止まる。

 

廊下から覗いていた生徒まで、息を潜めている。

 

レゾリュートが振り向くのは、もう遅いように思えた。

 

「……先輩」

 

声は、囁きにしかならなかった。

 

レゾリュートが前を向き直る。

 

銀色の右肩が沈む。

 

モエ先輩が半身へ戻るのを待たず、自分から離しにいく。

 

「来る」

 

談話室のどこかで、誰かが言った。

 

次の瞬間。

 

空色の右脚も、同じタイミングで芝へ入った。

 

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

レゾリュートが、前を向き直った。

 

半身前で右脚が沈む。私が戻るのを待たず、今度は自分から離しに来た。

 

私も、同じ瞬間に右脚を入れる。

 

深い芝が沈み、靴底へ返った力が腰を前へ押した。

 

銀色が伸びる。

 

空色も伸びる。

 

半身の差が開かない。

 

右足首は返る。左膝もぶれない。肺は熱いが、息はまだ入る。

 

止まる理由はない。

 

もう一歩。

 

半身が首ひとつへ縮む。

 

肩が近づく。

 

今度は、私が前へ出る。

 

右脚を深く入れた。

 

肩が並んだ。

 

 

 

 

 

 

——Live: Announcer

 

 

 

『カレンモエが、ついに横へ出た! 残り二百五十メートル!』

 

『一度はレゾリュートが前へ出た! しかしカレンモエ、ここで並び返す!』

 

『内カレンモエ、外レゾリュート! 後続は遥か後方! 凱旋門賞は二人だけの争いになった!』

 

 

 

 

 

 

——Hero: Resolute

 

 

 

空色の肩が、すぐ横にある。

 

前を向き直った瞬間、カレンモエも動いた。

 

もう、半身はない。

 

ならば、先に終わらせる。

 

一度息を吐き切り、吸い直す。そこから歩幅を広げた。

 

さっき半身を作るために使った加速を、もう一度重ねる。

 

接地を短くする。重くなった脚を、腰から前へ運ぶ。

 

何度も最後の直線で勝負を決めてきた走り。

 

銀色の身体が、空色より前へ出る。

 

首ひとつ。

 

肩ひとつ。

 

歓声が膨れ上がった。

 

昨年と同じ声だった。

 

私が前へ出れば、勝負は終わる。

 

そう信じる声。

 

だが、内の足音は消えない。

 

カレンモエは歩数を乱さず、私の加速を受けている。

 

焦って追いつこうともしない。

 

離されない位置を保ったまま、私がもう一度伸びるまで歩調を変えない。

 

もう一度踏む。

 

ここで退くわけにはいかない。

 

女王として積み上げてきたものも、勝つことで誰かへ差し出してきた言葉も、まだ捨てるつもりはなかった。

 

銀色が、わずかに前へ出る。

 

その横から、同じだけ重い音が返ってきた。

 

 

 

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

レゾリュートの走りが変わった。

 

歩幅が一段広がり、接地が短くなる。腰の送りも、さっきまでより速い。

 

その代わり、二歩で吐いていた息が、一歩ごとに喉の奥から漏れ始めた。

 

余裕の中から出した加速じゃない。

 

同じ加速を何度も繰り返せる呼吸でもない。

 

一歩だけ受ける。

 

離されない。

 

もう一歩。

 

右の腿から腰へ、芝の押し返しを通す。

 

銀色の肩が横へ戻った。

 

並ぶ。

 

首ひとつ前へ出る。

 

レゾリュートも踏む。

 

差し返される前に、もう一段伸びる。

 

半身。

 

抜いた。

 

背後の脚音が、すぐに強くなる。

 

まだ終わらない。

 

右足裏はまだ返る。

 

左膝も沈まない。

 

苦しさは増えた。

 

それでも、異常はない。

 

背後の音が半身まで近づく。

 

そのぶんだけ、もう一歩速くする。

 

逃げるためじゃない。

 

差し返す余地を残さないために。

 

 

 

 

 

 

——Live: Announcer

 

 

 

『カレンモエが出た! 残り百五十メートル、空色が前へ出る!』

 

『だがレゾリュートも終わらない! 女王が差し返す!』

 

『半身差! レゾリュートが迫る! カレンモエも譲らない!』

 

『残り百メートル——!』

 

 

 

 

 

 

——Hero: Resolute

 

 

 

半身前に、空色の背中がある。

 

カレンモエの腰が、もう一度前へ出る。

 

それを見てから、私も加速を重ねる。

 

近づく。

 

だが、肩へ届く前に向こうがもう一段伸びる。

 

また半身へ戻される。

 

見てからでは間に合わない。

 

分かっているのに、自分から加速へ入るタイミングが掴めない。

 

私が前へ出たあと、抜かれた者は走りを整え直した。

 

一着を取り返すためではない。

 

後ろに残った者へ抜かれず、二着を持ち帰るために。

 

ノワールだけは前を見続けた。

 

だが、私の横まで戻る脚がなかった。

 

抜いた相手に並び返される。

 

そこから抜き返される。

 

それでも、もう一度前を奪いにいく。

 

その時、どこで呼吸を切り直し、どこでもう一段伸びるのか。

 

私の身体は、その応酬を知らない。

 

カレンモエは迷わない。

 

鼻先が肩へ届く前に、もう一度加速を重ねる。

 

届いた頃には、もう次の加速が始まっている。

 

腹の底が煮えた。

 

女王として勝たなければならない。

 

私の走りには意味がある。

 

そう言い聞かせても、空色の背中は遠ざかる。

 

何が女王だ。

 

何が意味だ。

 

そんなものは、もうどうでもいい。

 

私が。

 

この私が。

 

こいつに負けるのが、気に食わない。

 

奥歯を噛んだ。

 

カレンモエの動きを待つのをやめる。

 

腕を強く引き、自分から加速へ入った。

 

腿の裏が焼け、ふくらはぎが悲鳴を上げる。

 

それでも、身体がもう一段前へ出た。

 

一身。

 

半身。

 

空色の肩が近づく。

 

実況が私を女王と呼んでいる。

 

今は、その声すら邪魔だった。

 

ただ前へ出たい。

 

あの背中を抜きたい。

 

この女に負けたくない。

 

それだけで踏む。

 

鼻先が、カレンモエの肩へ届いた。

 

それでも、こちらを見ない。

 

そのことが、どうしようもなく腹立たしかった。

 

喉の奥から、焼けた息ごと名前が出た。

 

「カレンモエェェエエッ!!」

 

 

 

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

名前を叩きつけられた。

 

銀色が、半身後ろまで戻ってくる。

 

さっきまでは、私が伸びてから追ってきた。

 

今は違う。

 

同じ瞬間に、銀色ももう一段伸びてくる。

 

一度で合わせてきた。

 

さすがだね。

 

でも、覚えたのは最初の加速だけだ。

 

知らないでしょ、レゾリュート。

 

叩き合いは、一度の加速へ合わせれば終わりじゃない。

 

並んだまま、どちらが先にもう一段伸びるか。

 

抜き返された身体を、どちらが先に立て直すか。

 

半身まで離されたあと、歩幅を崩さず、もう一度横へ並び返せるか。

 

それを、どちらかの脚が遅れるまで繰り返す。

 

あんたは、抜けば終わってきた。

 

ノワールさんも追った。

 

でも、横へ並ぶ脚がなかった。

 

だから、あんたの身体は、その先を知らない。

 

首ひとつまで、銀色が近づく。

 

右脚を入れる。

 

レゾリュートも来る。

 

左脚。

 

まだ来る。

 

もう一度、右。

 

すぐ横の銀色が、わずかに深く沈んだ。

 

足音が半拍遅れる。

 

そこへ踏み込む。

 

半身。

 

一身。

 

レゾリュートは追ってくる。

 

けれど、次の接地も長い。腰も、さっきより深く沈む。

 

肩が戻らない。

 

覚えるまでに、あんたは脚を使いすぎた。

 

私が半身へ戻るたび、離すために踏んだ。

 

私が横へ出てからも、前を守るために踏んだ。

 

使ったぶんだけ、今の接地が長くなっている。

 

右脚は、まだ身体の真下へ入る。

 

深い芝へ沈んでも、腰は落ちない。

 

私は、日本で何度も抜かれた。

 

並ばれた。

 

差し返そうとして、届かなかった。

 

そのたびに、抜かれたあとも歩幅を崩さず、もう一度加速へ入ることを覚えた。

 

負けるたびに、身体へ残した。

 

だから、お前は負ける。

 

負けて、曲がって、折れて。

 

勝って、また負けて、負けて。

 

それでも走ってきた。

 

そんな私に、あなたは負ける。

 

もう一歩。

 

一身半。

 

さらに踏む。

 

二身。

 

白いゴール板が、視界の横を流れた。

 

銀色の足音は、戻らなかった。

 

 

 

 

 

 

——Live: Announcer

 

 

 

『ゴール——!! カレンモエ、先頭でゴールイン!』

 

『レゾリュートも最後まで追った! 一度は肩まで戻した! しかしカレンモエが、もう一度突き放した!』

 

『二身差!』

 

『カレンモエ! 凱旋門賞制覇——!!』

 

 

 

 

 

 

——Hero: Resolute

 

 

 

ゴールを過ぎても、脚は止まらなかった。

 

止めようとしても、身体がまだ前へ出る。

 

肺には何も残っていない。

 

喉が焼けている。

 

腿も、ふくらはぎも、一歩ごとに軋んでいる。

 

それでも、前には空色の背中があった。

 

二身。

 

最後まで戻せなかった。

 

負けた。

 

言い訳のできない形で。

 

一度は抜いた。

 

並び返されても、もう一度前へ出た。

 

抜き返されたあとも、肩まで戻した。

 

それでも、最後の伸びで前へ出られなかった。

 

悔しい。

 

腹が立つ。

 

今すぐ、もう一度走りたい。

 

次なら、最初から同じ瞬間に加速へ入れる。

 

次なら、あの半拍を渡さない。

 

そう思ったところで、今日使った脚は戻らない。

 

結果も変わらない。

 

私は負けた。

 

いつもなら、敗北の意味を考えただろう。

 

何を誤ったのか。

 

何が足りなかったのか。

 

この結果を、どう次へつなげるのか。

 

今は、何ひとつ考えたくなかった。

 

ただ、あの背中を抜けなかったことが、どうしようもなく気に食わない。

 

口元が歪んだ。

 

笑っているのか、怒っているのか、自分でも分からなかった。

 

私は今まで、勝っていた。

 

けれど、最後まで一着を奪いに来たのは、ノワールだけだった。

 

今になって、ようやくそれを知った。

 

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