——Hero: Resolute
白いゴール板は、もう後ろにあった。
二身先で、カレンモエが速度を落としていく。
歓声が降り注ぐ中、私はその背を追った。
「カレンモエ」
掠れた声を張り上げた。
少し前を歩いていた空色の耳が、こちらを向く。
足は止めなかった。肩越しに、目だけが戻ってくる。
「何」
息は荒い。
それでも、その声には勝者らしい昂りも、私を打ち負かした誇りもなかった。
用件があるなら早くしろ。そう言われているようだった。
腹が立つ。だが、その前に済ませなければならないことがある。
「絢原という男について」
カレンモエの足が止まった。
今度は、身体ごとこちらを向く。
先ほどまで私だけを追っていた赤い目が、温度を失った。
「あの男がお前の意思を奪い、壊れるまで走らせていると思っていた」
言葉にすると、自分がどれほど勝手なものを見ていたのか分かる。私は映像の中で倒れた彼女を見て、壊れるまで走った者が自分でそこまで選んだとは考えなかった。理解できない走りを、誰かに強いられた結果だと決めた。
だから救わなければならないと思った。相手が望んでもいないのに。
「お前の言葉を聞いても、私は自分の見立てを捨てなかった」
カレンモエは何も言わない。許すとも、続きを促すとも言わず、こちらを見ている。
「私が間違っていた」
「二度と、絢原さんが私を壊してるなんて言わないで」
即座に返された。
「私をあの人から救うとかも」
赤い目は、こちらから逸れない。
「二度と言わない」
「それと、ついでにあの黒いのにも謝っておいて」
「ノワールに?」
「今なら、あの子が何をやってたか分かるでしょ」
フォワ賞の直線が戻ってくる。離されても、ノワールは私を追った。あの子は、私に勝とうとしていた。
「……ああ」
しばらく、赤い目がこちらを測っていた。
やがて、カレンモエは前を向く。
話は終わったらしい。
「待て」
「まだ何かあるの」
ある。
こちらの方が、今はずっと大事だった。
「このままで済むと思うな」
空色の耳が、また後ろへ向いた。
「次は、私が勝つ」
「……今終わったばっかりなんだけど」
「関係ない」
「少しは休みなよ」
「お前に言われたくはない」
カレンモエが、ようやく振り返った。
呆れたように細められた目には、先ほどまでの暗いものは残っていない。
だが、笑ってもいなかった。
「次は、最初からそうやって来なよ」
「何?」
「女王とか、意味とか。そういうの全部捨てて」
最後の百メートル。
肩書も、勝者の責任も、誰かを導く言葉も、何ひとつ頭にはなかった。
ただ、この女に負けたくなかった。
「言われるまでもない」
空色の耳が、わずかに後ろへ倒れた。
彼女は再び歩き出した。
「凱旋門賞で待っている」
「しつこい」
「必ず来い」
「勝手に待ってれば」
「来るのだな?」
返事はなかった。
空色の耳だけが、今度は露骨に後ろへ倒れている。
負けたことは、まだ腹立たしい。今すぐ走り直せないことも。
けれど、次にこの女と並ぶ時は、何も背負う必要がない。ただ勝ちにいけばいい。
そう考えるだけで、空だったはずの胸へもう一度熱が戻ってきた。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
面倒なものに目をつけられた。さっきまで世界の女王だったくせに、負けた途端、次だの待っているだの言い始める。今度会ったら、もっとしつこくなっている気がする。
まあ、いい。今はどうでもいい。
歩く。一歩目、もう一歩。
走るのをやめても身体は倒れず、脚を緩めた瞬間に膝から崩れることもなかった。右脚へ体重を乗せ、左脚を前へ出す。どちらも、ちゃんと私の言うことを聞いた。
肺は熱いし、喉は乾いている。腿もふくらはぎも重い。でも、それだけだった。足を引きずるほどの痛みはなく、指先の感覚も残っている。視界も暗くならない。
二年前は、走り終わってから一つずつ身体が遠くなった。今日は逆だった。速すぎた心臓が少しずつ落ち着き、浅かった息が深く入る。走っている間に散っていた感覚が、全部こちらへ戻ってくる。
私は、自分の脚で立っている。
二千四百を走ったあとに。
「……ほんとに?」
声にしても、脚は消えなかった。
ロンシャンの芝を踏むと、沈んだぶんだけ足の裏を押し返してくる。最後まで、その感触は変わらなかった。日本では踏むたびに力がどこかへ逃げたのに、今日は押したぶんだけ身体が前へ出た。
どうしてなのかは分からない。タキオンさんは、たぶんずっと前から知っている。絢原さんも、フランスへ来てから何かに気づいていた。
あとで二人まとめて聞く。逃げられない場所で。
今は、それより先に行くところがある。
顔を上げると、スタンド全体が揺れていた。何万人いるのか分からない。知らない言葉で何度も私の名前が呼ばれ、日の丸や空色の布が波打っている。泣きながら跳ねる人も、両手を合わせたまま動けない人もいた。
実況は、凱旋門賞ウマ娘とか、歴史とか、世界一とか叫んでいた。どれも、まだ自分のことには聞こえない。世界で一番有名らしいゴール板も、近くで見ればただの板だった。
脚が重い。喉が渇いた。早く座って、ミルクティーを飲みたい。
ただ、レゾリュートより先にゴールした。一度は抜かれたけど、取り返した。そこだけは、はっきり分かる。
少しだけ、気分がよかった。
係員が示す方へ歩く。遠くから別の係員が何かを叫んでいる。たぶん、決められた場所へ行けと言っている。
分かっている。でも、その前に探す。
ラチ沿いの人の列を探す。身を乗り出して手を振る関係者が何百人いたって、すぐ見つかった。
周りでは誰かが抱き合い、跳ね、泣いている。その中で絢原さんだけは動かず、真っ直ぐ立っていた。
見ているのは私の顔ではなく、右脚、左脚、歩幅、肩の上下、呼吸。私が進むたび、視線が順番に確かめていく。
勝ったかどうかなんて、もう見ていない。私が壊れていないか、それだけだった。
歩く速度を少し上げる。右脚を庇わず、左膝もきちんと曲げた。ちゃんと歩けると、遠くからでも分かるように。
走ろうかとも思ったが、たぶん怒られるのでやめた。近づくほど、絢原さんの肩が少しずつ下がっていく。
それでも、遠くから歩いているのを見せただけでは足りない。手で触れられるところまで戻らなければ。
二年前、地下の通路で私は自分の脚で戻れず、絢原さんの腕の中へ倒れた。何か話したらしい。何度も名前を呼ばれたらしい。けれど、何も覚えていない。最後には声も出ず、戻るとも言えなかった。
あの人は、ずっとその続きを夢に見ていた。腕の中で私が燃え尽きる夢。また走らせれば壊れるかもしれない。今度こそ、自分が私を殺すかもしれない。
二年間、そこから動けないままだった。
今日は違う。一歩ずつ、自分で戻れる。
係員に導かれ、戻りの通路へ入る。壁に遮られ、歓声が少し遠くなった。絢原さんは、通路の入口で待っていた。
私が近づいても何も言わない。手を伸ばしかけ、途中で止める。触っていいのか、まだ迷っている。
「絢原さん」
声が少し掠れただけで、絢原さんの目が動いた。口元、胸、また足元。声が出る。息をしている。立っている。それを一つずつ確かめても、伸ばしかけた手は止まったままだった。
面倒くさい。
だから、残りの距離は私から詰めた。
絢原さんの手が上がりきる前に、その胸へ飛び込む。
両腕を背中へ回して、逃げられないように抱きついた。
受け止めた靴が、通路の床を半歩滑る。
ウマ娘に、人間が勝てるわけが無い。
それでも絢原さんは倒れなかった。私を抱えたまま踏みとどまり、少し遅れて腕を背中へ回す。
「ただいま」
胸元へ押しつけた声は、さっきより小さかった。
背中へ回った腕に、力が入る。
「おかえり、モエ」
その一言で、肩から力が抜けた。顔を上げたくない。視界が滲んでいることも、たぶん気づかれている。
でも、ここなら見られない。
「痛くないか」
「今それ聞く?」
「聞く」
「痛くない」
背中を二度、軽く叩かれる。
誰かが、そろそろ、と声をかけてきた。腕を緩めたのは、私の方だった。
スタッフから受け取った白いタオルを、絢原さんが差し出す。
「顔」
「芝が入っただけ」
「まだ何も言ってない」
「なら見ないで」
タオルを奪って目元へ押しつけると、汗と芝と、たぶん別のものが染みた。絢原さんは先へ行かず、私が顔を上げるまで待っている。
タオルを下ろし、私から歩き出した。その隣へ、絢原さんが並ぶ。
自分の脚で、ここまで帰ってきた。
そのまま抱きつけた。
それで、ようやく勝った気がした。
~
検査室へ入るなり、タキオンさんは言った。
「靴を脱ぎたまえ」
「先に言うことないんですか」
「順位なら掲示板が教えてくれるだろう? 私はまだ、靴底も見ていないんだ」
白衣の袖を捲りながら床を指す。机の上には計測器と記録用紙が並び、横には、いつ用意したのか分からない紅茶まで置いてあった。
椅子へ座って紐を解く。絢原さんはすぐ横に立ったまま、私の手元を見ている。
「自分で脱げる」
「見てるだけだ」
「さっきから、そればっかり」
返事はなかった。靴を脱いで渡す。
タキオンさんは受け取ると、外側、内側、踵、つま先の順に指を滑らせた。芝と泥を薄く落とし、靴底の減り方を光へかざす。その顔に、驚きはなかった。
右足首を支えられ、一度回される。次に左膝。腰。指先が順番に移っていく。
どこにも、止めるほどの痛みはない。
タキオンさんの指が、左のふくらはぎを押す。
「これは?」
「普通に痛い」
「結構」
指が離れる。
「今ので?」
「反応がいつも通りだ」
記録用紙へ線が増える。体温、脈拍、呼吸数、左右の張り、足裏の熱。ひとつずつ測られていく。
私は途中から窓の外を見た。歓声は壁を越えてまだ遠くで続き、私の名前が何度も聞こえる。さっきまで走っていた場所で、知らない人たちが私の勝利を自分のことみたいに喜んでいた。
変な感じだった。
「息が戻るのが早いな」
絢原さんが言った。
「そう?」
「いつもより早い」
「こっちの芝、楽だったから」
口に出してから、タキオンさんを見る。
ペンは止まらなかった。
「レース中も?」
「ずっと」
「千五百を過ぎても?」
私は頷いた。
「うん」
絢原さんの目がタキオンさんへ移った。
「驚かないんだな」
「何にだい?」
「二千四百を走り切った」
タキオンさんは、そこで初めてペンを置いた。
私ではなく、絢原さんを見る。
「今は検査を終えよう。話は記録を揃えてからだ」
「何の話」
「君の体の話だよ、カレンモエ君」
それだけ言って、また記録用紙へ戻る。絢原さんの口が少しだけ硬くなった。
何かを知っていた顔。何かを隠している顔。前からずっと二人の間にあって、私が気づかないふりをしていたもの。
検査室の扉が叩かれた。
現地スタッフが、短いインタビューの時間だと告げる。
タキオンさんは時計を見て、私の靴を床へ置いた。
「歩行に問題はない。行っておいで」
「検査、終わったの」
「外へ出していいところまではね」
タキオンさんが、靴をこちらへ滑らせる。
「まだあるんですか」
「君が二千四百を走って帰ってきた。ないと思うかい?」
靴を履き直す。
絢原さんが片膝をついて、ほどけかけた右の紐へ手を伸ばした。
私は足を引かなかった。
結び目が、いつもの形に整う。
「きつくないか」
「平気」
「じゃあ行くか」
立ち上がった絢原さんへ、手を出す。
一瞬だけ見られた。
「立てるけど」
「分かってる」
手を取られて、立ち上がる。
扉の外には、何本ものマイクが待っていた。
~
質問は、通訳の声を挟んで次々に飛んできた。
「千五百メートルを過ぎても、なぜ走り続けたのですか」
「走れたから」
通訳が一瞬、こちらを見る。
私は何も足さなかった。
「この勝利を、最初に誰へ伝えたいですか」
ラチの向こうで聞いた声を思い出す。
「担当のトレーナーに。もう伝えました」
今度は、記者たちの方が黙った。
「凱旋門賞を制した実感はありますか」
「まだ、あんまり」
「では、今いちばん感じていることは」
喉の奥が張りついている。
「喉が渇きました」
何人かが笑った。
通訳も、少し遅れて笑った。
世界最強、新しい女王、藍鎚、カレンチャンの娘。どれも、まだ私の身体へ入ってこなかった。
最後に、現地の司会者が笑顔でマイクを向けた。
「今夜のウイニングライブでは、『L'Arc de gloire』のセンターに立ちます。楽しみにしているファンへ、一言お願いします」
今夜。
ウイニングライブ。
センター。
頭の中で、三つの言葉が順番に並んだ。
そのあと、何も出てこなかった。
通訳が、もう一度こちらを見る。
絢原さんが、ほんの少し眉を動かした。
思い出した。
レースに勝ったウマ娘には、その晩の仕事がある。
曲の資料も、振り付けの映像も、ずっと前に届いていた。
開いていない。
一度も。
昨日まで、まともにゴールする予定すらなかった。
今日だって、途中から頭にあったのはレゾリュートを叩き潰すことだけだった。
ライブなんて、完全に消えていた。
「……楽しみにしていてください」
口だけが先に動いた。
声も、笑顔も、たぶん完璧だった。
フラッシュが一斉に光る。
インタビューが終わるまで、その顔を崩さなかった。
通路へ入って扉が閉まると、私は絢原さんを見た。
「何時」
「開演か」
「それ以外に何があるの」
現地スタッフが、手元の進行表を確認した。
「二時間四十分後です。移動と着替えを引くと、練習に使えるのは二時間ほどになります」
現地スタッフは進行表を指で追い、そのまま次の頁を開いた。
「事前映像は、もう確認されていますよね」
「見てない」
頁をめくる指が止まった。
「どこまでご存じですか」
「曲名まで」
絢原さんも黙った。
タキオンさんだけが、喉の奥で笑った。
「非常に興味深いねぇ」
「笑ってないで何とかしてください」
「歌と踊りは、私の研究分野ではないよ」
絢原さんが、スタッフの時計へ目をやった。
「二時間しかないぞ」
「二時間ある。間に合わせる」
~
臨時で借りたリハーサル室へ入った時点で、使える時間はほぼ二時間だった。
大きな鏡とモニター。ステージ衣装。現地の振付師と通訳。進行スタッフは、私より先に時計を見ている。
私は椅子へ座り、『L'Arc de gloire』を初めて最初から聞いた。
映像が終わると、通訳がここまでの事情を手短に伝えた。
振付師は私と時計を見比べ、それから両袖をまくった。
「二時間で、本番へ出られるところまで仕上げます。ついてきてください」
「お願いします」
そこから二時間、休憩はなかった。
映像を止め、動き、歌い、直され、また最初から。衣装を着せられている間も歌詞を回し、髪を整えられている間も足だけで拍を取った。
最初は当然、何も噛み合わなかった。
ただ、一度直された場所を二度は間違えなかった。通すたびに振付師が止める回数が減り、最後には曲の方が長く続くようになった。
二時間が過ぎたところで、最後の通しが終わった。
振付師の手は、上がらなかった。
鏡の前にいた全員が、音の止まったモニターと私を見比べている。
振付師が、通訳へ何かを小さく尋ねた。
「本当に、今日が初めてですか」
「タイトルは前から知ってました」
通訳が訳し終えると、振付師は両手で顔を覆った。
そこで扉が開く。
「出演者のみなさん、舞台袖へお願いします」
廊下へ出ると、絢原さんが待っていた。私の顔を見るなり、乱れた前髪を指で整える。
「歌詞も振りも、立ち位置まで入ったけど、今は何も聞かないで。出る順番まで飛びそう」
絢原さんは何も聞かず、前髪から手を離した。
舞台監督が指を三本立てる。
三十秒。
頭の中で、イントロから最後のポーズまでを一度だけ流す。
顔を上げた。
~
——Trainer: Ayahara
本番の二時間前、モエが知っていたのは曲名だけだった。
歌詞も、振付も、立ち位置も、カメラの順番も知らなかった。
二時間で覚える量ではない。
それでも照明が点いた時、ステージの中央にいたのは、最初からこの舞台を知っていたようなセンターだった。
『L'Arc de gloire』のイントロが、夜のスタンドへ広がる。
空色の衣装。完璧な笑顔。正面のカメラを射抜く目。
一歩目から迷いはない。歌い、踊り、笑う。二時間前まで曲名しか知らなかった痕跡を、客席には一つも見せなかった。
最後の音が落ちる。
モエが片手を高く上げ、スタンドが揺れた。
誰も、舞台裏の騒ぎを知らない。
それでいい。
照明が落ちる直前、モエの視線が一度だけこちらへ来た。
笑顔は崩さないまま。
俺は小さく頷いた。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
ステージ袖へ入ると、照明が背中で切れた。笑顔も切って、壁へ手をつく。
「ミルクティー」
絢原さんが、紙パックを差し出した。
いつ買ったのかは知らない。たぶん、私がリハーサル室で映像を見ている間だ。
ストローを刺して一口飲む。甘い。やっと、喉に何か戻ってきた。
「レースより疲れた」
「スタッフも大変だっただろうな……」
「世界一だし?ちょっとは付き合ってもらわないと」
絢原さんが、少し笑った。
通路の向こうでは、まだ歓声が続いている。レゾリュートがこちらへ歩いてきて、私の前で足を止めた。もうステージの顔ではない。
「腹立たしいほど完璧だった。……次は予めちゃんと覚えてこい」
「はいはい」
現地スタッフが、明日の予定表を差し出す。午後に表彰式。出席者の欄には、私の名前しかなかった。
今夜、レゾリュートたちと並んだステージとは違う。明日は、勝った子ひとりだけらしい。
紙を折って、絢原さんへ渡した。
「持ってて」
「自分の予定だぞ」
「今はミルクティー持ってるから」
絢原さんは何も言わず、予定表を受け取った。
タキオンさんが、通路の壁から身体を起こす。
「さて。今夜は戻ろうか」
「二千四百の話は?」
絢原さんが先に聞いた。
タキオンさんは、抱えていた記録用紙を軽く叩く。
「逃げはしないよ。二千四百を走ったうえ、二時間で仕込んだライブまで終えたんだ。今夜これ以上やれば、数字が濁る」
「明日?」
「式が終わってからにしよう」
私は二人の間へ入った。
「先に帰ろ。今日はもう十分うるさい」
絢原さんが、空いた手をこちらへ差し出した。
私は少しだけ見て、その手を取った。
三人で、通路の出口へ歩き出す。
外では、まだ私の名前が呼ばれていた。
~
翌日の会場には表彰台がなく、赤い背景の前に立つ場所がひとつだけ用意されていた。二着の場所も、三着の場所もない。
呼ばれたのは私の名前だけだった。聞き慣れない抑揚で、カレンモエ、と響き、フラッシュが一斉に焚かれる。
係員から銀色のトロフィーを渡される。塔みたいな形をしたそれは見た目よりずっと重く、両腕で受け取ると昨日のレースとは別のところが痛んだ。
「高く掲げてください」
通訳に言われて持ち上げると、歓声が上がった。昨夜のライブより静かで、レース直後より整った声だった。
世界一の勝者が、世界一のトロフィーを掲げる。たぶん、向こうが欲しかったのは、そういう写真だ。
私は正面を見る。一台目、二台目、少し右、次は左。言われる前に視線を移すと、撮影スタッフが満足そうに頷いた。
昨日、二時間で覚えたステージと同じだった。見られる場所では、見たいものを出せばいい。
カメラの列の向こうに絢原さんがいた。今日は脚ではなく、私の顔を見ている。それを確認して、最後にもう一度トロフィーを上げた。
式が終わり、赤い背景の裏へ回った途端に腕を下ろす。
「持って」
絢原さんへ押しつける。
「昨日も聞いた気がするな」
「昨日は持ってない」
「そうだったな」
両腕で受け取った絢原さんが、少しだけ沈む。
「重い」
「世界一らしいよ」
「そうか」
その隣で、タキオンさんが記録用紙の束を抱えている。
「では、今度こそ始めようか」
絢原さんの目が細くなる。
「タキオン。今度は聞かせてもらう」
「分かっているよ、トレーナー君。逃げはしないさ」
私はトロフィーを抱えた絢原さんの隣へ並んだ。
世界一の重さは、もう私の手にはなかった。
答え合わせは、これからだった。