24日からは3日間アイマスのライブに行ってきます
——Trainer: Ayahara
ホテルへ戻っても、凱旋門賞のトロフィーは俺が抱えていた。
赤い背景の裏へ回ったところで押しつけられ、車でもエレベーターでも返そうとしたが、モエはミルクティーの紙パックを見せて「手が塞がってる」と取り合わなかった。
部屋へ入って低いテーブルに下ろすと、厚い天板が鈍く鳴る。
向かいのソファでは、モエが靴を脱いで脚を伸ばしていた。式の間は一度も崩さなかった姿勢が、今は背もたれへ沈み、空色の耳まで横を向いている。
タキオンだけが変わらない。窓際の机へ記録用紙を広げ、持ち込んだポットから紅茶を注いでいる。砂糖は最初から山盛りだった。
「ようやく三人揃ったね。始めようか」
モエがストローから口を離す。
「今度こそ全部話して。明日に延ばすのは禁止」
「今さら窓から逃げる趣味はないよ」
タキオンは笑ったが、書類へ落とした指先は止まっていた。
「まずは昨日の感想から聞こう。千五百を過ぎて、どうだった?」
モエは自分の右脚を見た。腿を指で二度押し、少し考える。
「変だった。千五百を過ぎても、まだまだ余裕があった感じ」
「息の方は、最後まで持ったのかい?」
「うん。きつかったけど、終わって少し歩いたら戻った」
タキオンが一枚目へ数字を書き足す。その横には、昨日の検査結果と今朝の数値が並んでいた。
炎症も左右差も小さい。二千四百を全力で走った翌日の数字には見えなかった。
俺はトロフィーから目を離す。
「結論を聞かせてくれ」
タキオンはペンを伏せ、モエへ向き直った。
「君の本職は、千二百ではない」
モエの耳が動く。
「洋芝の中距離だよ。しかも、重ければ重いほどいい。ダートも走れないわけではないが、本職と呼ぶほどではないね」
部屋の空調だけが低く鳴っていた。
「千二百で、ずっと勝ってきたんだけど」
「だから厄介だった。合わない足元でも、君は勝ててしまったからね」
タキオンは別の紙を引いた。過去のシューズ底を写した写真が、時系列で貼られている。
日本の芝を走ったあとは、つま先の外側だけが深く削れていた。フェブラリーステークスでは減り方が均され、函館、香港と進むほど左右の差まで小さくなる。
昨日の写真は、まだ印刷されていない。代わりに、検査室で描いた簡単な図があった。
「軽い芝では、踏んだ分だけ足元が逃げる。速く走ろうとするほど、余計に脚を使っていたんだ」
モエが紙パックを膝の上へ下ろした。
「昨日は?」
「地面が受け止めたのさ。君の全力を受け止めてくれる場所だったからね」
以前、俺が使った言葉だった。
一速と五速しかなく、中間の出力で巡航できない。踏むか止まるかしかない身体だから、日本では五速が脚と肺を先に削っていた。
ロンシャンでは違った。出した力が前へ返り、フォームも呼吸も最後まで崩れなかった。
タキオンが写真の端を指で弾く。
「La Masse Bleue。あれを名づけた人間は、よく見ていたね。君は一歩ずつ地面を叩いて進む。軽い芝では、その地面の方が逃げていた」
「スクラップ・アンド・ビルドで、中距離の身体になったのか?」
俺が聞くと、タキオンは首を横へ振った。
「作り替えたのは、身体の支え方だよ。あの脚が二度と裂けないように、関節とフォームを組み直した。距離適性まで私が植えつけたわけじゃない」
「……じゃあ、オークスも距離は合ってたの?」
モエの声が少し低くなる。
「距離だけならね。ただ、東京の軽い芝は君に一番合わない。今の身体でも、あの日と同じ踏み方を続ければ無事では済まないよ」
タキオンは紅茶を一口飲んだ。
「昨日は、距離も足元も合っていた。それで、最後まで身体がもったんだよ」
視線が、勝手にモエの脚へ落ちる。
右も左も、ソファの前で力を抜いている。あの日の地下通路のように痙攣していない。自分で歩き、俺へ飛び込んできた脚だ。
写真の日付を追うほど、喉の奥が固くなる。
「いつから分かっていた?」
タキオンは俺の方を見た。
「最初の測定で妙だと思った。フェブラリーで疑いが濃くなって、函館でほぼ決まったよ。香港まで見れば、もう外しようがない」
「函館の時点で、ほとんど分かってたのか」
「仮説としてはね」
俺は机の写真を見る。函館の一枚には、日付と数値だけが書かれていた。
「どうして言わなかった」
タキオンの指が止まった。
笑みは残っている。声も大きくならない。けれど、いつもの遊ぶような響きだけが消えた。
「『君の身体は日本の軽い芝に合わない。フランスの重い芝なら走れるから、私と飛行機に乗ってロンシャンへ行こう』——とでも言えばよかったのかね?」
「少なくとも、俺には言えた」
「君が知っていたら、カレンモエ君に二千四百を試させたかい?」
返事は出なかった。
オークスの数字を見た時点で、俺は止めていた。重い芝で試す前に、二千四百という距離だけで首を横へ振ったはずだ。
タキオンは俺の沈黙を追い詰めず、写真を一枚戻した。
「日本で走る子だよ。教えたところで、どこへ行かせる?」
「決めるのはモエだ」
「何も確かめていないのに?」
言い返せないまま、モエのストローが紙パックの底を鳴らした。
「二人とも。私の進路、勝手に増やさないで」
空になった紙パックが、テーブルの上へ置かれる。
「まだ日本へ帰ることしか決めてないから」
俺は息を吐いた。タキオンも紅茶へ視線を落とす。
誰も、次の言葉を急がなかった。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
二人がやっと黙ったので、私はトロフィーを見る。
赤い背景の前では、世界一らしい形に見えた。ホテルの低いテーブルに乗ると、銀色で大きいだけだった。絢原さんが持ってきたせいで、私の腕はもう痛くない。
「昨日の勝ちは、レゾリュートが失敗したから?」
タキオンさんが、すぐに首を振る。
「彼女はほとんど完璧だったよ。あれだけ走ったから、二身で済んだのさ」
少しだけ息が抜けた。
最後の百メートルで、何度も前へ戻ろうとした白銀の影が浮かぶ。あれを、私はゴールまで押さえた。
「あいつ、次は勝つって言ってた」
「当然だろうね。昨日と同じレースを、もう一度する気はないはずだ」
タキオンさんは角砂糖を二つ足した。もう十分甘そうなのに、匙で平然とかき混ぜている。
「だが、昨日と同じ重さ、同じ距離、同じ仕上がりなら——十回やって、十回とも君が勝つよ」
絢原さんの目が細くなった。
私は、もう一度トロフィーを見る。
「つまらないねぇ」
「勝った本人の前で言う?」
「答えが分かっている実験ほど、退屈なものはないからね」
タキオンさんは匙をカップの横へ戻した。
「そして、それはモエくんにとっては、何の価値もない」
腹は立たなかった。
トロフィーを見ても、腕の重さしか思い出さない。レゾリュートが待っているならまた来るかもしれないが、赤い背景も銀色の塔も、欲しくて走ったわけではなかった。
「うん。世界一より、あいつを抜いた方が気分よかった」
「正直で結構」
「トロフィーは重いし」
絢原さんが、少しだけ口元を緩める。
「それは俺も知ってる」
手首を一度回している。式のあとからずっと持たせたので、本当に重かったらしい。
「……じゃあ、日本で勝ってきたのは何だったの?」
口にすると、部屋が少し静かになった。
千二百でしか勝てないと思っていた。そこが私の場所だと思ったことは一度もないけれど、少なくとも私の距離だとは思っていた。
今日になって全部違ったと言われたら、今までの勝利まで借り物みたいになる。
タキオンさんは、すぐに答えなかった。写真を一枚抜き、私の前へ滑らせる。
高松宮記念のシューズだった。つま先の外側が深く削れ、黒いソールが斜めに薄くなっている。
「君が勝ったんだよ」
タキオンさんの指が、削れた外側をなぞる。
「こんな削れ方をして、それでも前へ出た。私には、こっちの方がよほど興味深いね」
「褒めてる?」
「珍しくね」
写真の端を指で押さえる。ソールは今見てもひどい減り方をしていた。
それでも、あの日の私は最後に前へ出た。
ママのことが浮かんだ。
日本の軽い芝を、何の抵抗もないみたいに走っていた。千二百で誰より速く、最後まで姿勢を崩さず、笑って帰ってきた。
「ママは、千二百と日本の軽い芝が一番合ってたんだよね」
「そうだよ」
私は膝の上で、右足の指を一度曲げた。
「私は、そこが一番合わない」
「身体の作りだけならね。顔はよく似ているが、走りは正反対だ」
窓の外は、いつの間にか暗くなっていた。
ガラスに私の顔が映っている。髪も目元も、黙っていればママに見えるくらい似ていた。その下には、昨日二千四百を走り切った脚がある。
「走りは、ほんとに何も似てなかったんだ」
誰も否定しなかった。
絢原さんがティッシュの箱をこちらへ寄せる。まだ泣いていない、と言おうとした時には、頬が濡れていた。
一枚取って目元を押さえる。
日本で削れた脚も、ロンシャンで最後まで動いた脚も、レゾリュートへ向いた牙も、この身体の中にある。
全部、私。
「ここなら二千四百を走れると思ってはいた。それでも、最後まで行かせるのは怖かったんだ」
絢原さんが、トロフィーではなく私を見ている。膝の上では、右手が固く握られていた。
「走れる方が?」
絢原さんは一度だけ頷いた。
昨日の通路で、私を受け止めた手だった。
「最後まで見てた?」
「ああ。ゴールのあと、お前が抱きついてくるところまで」
「じゃあ、そっち忘れないで」
握られていた手が、ゆっくりほどけた。
そのまま伸びてきて、私の頭に触れる。昨日の通路より、ずっと軽い手だった。
「忘れない」
目元を押さえていたティッシュが、また少し濡れた。
タキオンさんは何も言わず、紅茶を飲んでいる。視線だけは、カップの縁よりこちらへ向いていた。
目元を拭きながら、もう一つ聞く。
「タキオンさん。ジャーニーさんに、私を貸してくれって言われた時、腹立った?」
タキオンさんの耳が、ほんの少しだけこちらへ向く。
「途中で沈む子を貸してほしい、と言われたのでね。私の仕事を随分安く見積もられたものだ」
「私じゃなくて、自分の方なんだ」
「両方ということにしておこう」
絢原さんが、呆れたように書類を見る。
「オルフェーヴルの前を取らせるつもりだったのか?」
「少しばかりね。本人が先にいなくなって、悪戯は不発に終わったが」
私はティッシュを丸め、空になった紙パックの横へ置く。
「性格悪い」
「君に言われるとは光栄だよ、モルモット君」
喉から小さく笑いが漏れた。
絢原さんも息を漏らし、タキオンさんは満足そうに砂糖の底を匙でさらう。
タキオンさんが記録用紙を重ねる。絢原さんはトロフィーをテーブルの中央から少し端へ寄せた。
「それで、君はどうする?」
「日本に帰る」
迷う必要はなかった。
「海外から呼ばれたら?」
絢原さんが聞く。
「その時に考える。レゾリュートが勝手に待ってるみたいだし」
「また来る気はあるんだな」
「しつこかったらね」
絢原さんは、それ以上聞かなかった。
タキオンさんが書類を鞄へしまっても、トロフィーだけはテーブルに残った。誰も、もう一度持ち上げようとはしない。
窓に映る顔は、相変わらずママに似ていた。
それでも、その顔で自分の名前を呼ばれても、もう誰かの続きには聞こえない。
私が、私だけのものになった夜だった。