アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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体調不良で遅れました
24日からは3日間アイマスのライブに行ってきます


123話 答え合わせ

 

——Trainer: Ayahara

 

ホテルへ戻っても、凱旋門賞のトロフィーは俺が抱えていた。

 

赤い背景の裏へ回ったところで押しつけられ、車でもエレベーターでも返そうとしたが、モエはミルクティーの紙パックを見せて「手が塞がってる」と取り合わなかった。

 

部屋へ入って低いテーブルに下ろすと、厚い天板が鈍く鳴る。

 

向かいのソファでは、モエが靴を脱いで脚を伸ばしていた。式の間は一度も崩さなかった姿勢が、今は背もたれへ沈み、空色の耳まで横を向いている。

 

タキオンだけが変わらない。窓際の机へ記録用紙を広げ、持ち込んだポットから紅茶を注いでいる。砂糖は最初から山盛りだった。

 

「ようやく三人揃ったね。始めようか」

 

モエがストローから口を離す。

 

「今度こそ全部話して。明日に延ばすのは禁止」

 

「今さら窓から逃げる趣味はないよ」

 

タキオンは笑ったが、書類へ落とした指先は止まっていた。

 

「まずは昨日の感想から聞こう。千五百を過ぎて、どうだった?」

 

モエは自分の右脚を見た。腿を指で二度押し、少し考える。

 

「変だった。千五百を過ぎても、まだまだ余裕があった感じ」

 

「息の方は、最後まで持ったのかい?」

 

「うん。きつかったけど、終わって少し歩いたら戻った」

 

タキオンが一枚目へ数字を書き足す。その横には、昨日の検査結果と今朝の数値が並んでいた。

 

炎症も左右差も小さい。二千四百を全力で走った翌日の数字には見えなかった。

 

俺はトロフィーから目を離す。

 

「結論を聞かせてくれ」

 

タキオンはペンを伏せ、モエへ向き直った。

 

「君の本職は、千二百ではない」

 

モエの耳が動く。

 

「洋芝の中距離だよ。しかも、重ければ重いほどいい。ダートも走れないわけではないが、本職と呼ぶほどではないね」

 

部屋の空調だけが低く鳴っていた。

 

「千二百で、ずっと勝ってきたんだけど」

 

「だから厄介だった。合わない足元でも、君は勝ててしまったからね」

 

タキオンは別の紙を引いた。過去のシューズ底を写した写真が、時系列で貼られている。

 

日本の芝を走ったあとは、つま先の外側だけが深く削れていた。フェブラリーステークスでは減り方が均され、函館、香港と進むほど左右の差まで小さくなる。

 

昨日の写真は、まだ印刷されていない。代わりに、検査室で描いた簡単な図があった。

 

「軽い芝では、踏んだ分だけ足元が逃げる。速く走ろうとするほど、余計に脚を使っていたんだ」

 

モエが紙パックを膝の上へ下ろした。

 

「昨日は?」

 

「地面が受け止めたのさ。君の全力を受け止めてくれる場所だったからね」

 

以前、俺が使った言葉だった。

 

一速と五速しかなく、中間の出力で巡航できない。踏むか止まるかしかない身体だから、日本では五速が脚と肺を先に削っていた。

 

ロンシャンでは違った。出した力が前へ返り、フォームも呼吸も最後まで崩れなかった。

 

タキオンが写真の端を指で弾く。

 

「La Masse Bleue。あれを名づけた人間は、よく見ていたね。君は一歩ずつ地面を叩いて進む。軽い芝では、その地面の方が逃げていた」

 

「スクラップ・アンド・ビルドで、中距離の身体になったのか?」

 

俺が聞くと、タキオンは首を横へ振った。

 

「作り替えたのは、身体の支え方だよ。あの脚が二度と裂けないように、関節とフォームを組み直した。距離適性まで私が植えつけたわけじゃない」

 

「……じゃあ、オークスも距離は合ってたの?」

 

モエの声が少し低くなる。

 

「距離だけならね。ただ、東京の軽い芝は君に一番合わない。今の身体でも、あの日と同じ踏み方を続ければ無事では済まないよ」

 

タキオンは紅茶を一口飲んだ。

 

「昨日は、距離も足元も合っていた。それで、最後まで身体がもったんだよ」

 

視線が、勝手にモエの脚へ落ちる。

 

右も左も、ソファの前で力を抜いている。あの日の地下通路のように痙攣していない。自分で歩き、俺へ飛び込んできた脚だ。

 

写真の日付を追うほど、喉の奥が固くなる。

 

「いつから分かっていた?」

 

タキオンは俺の方を見た。

 

「最初の測定で妙だと思った。フェブラリーで疑いが濃くなって、函館でほぼ決まったよ。香港まで見れば、もう外しようがない」

 

「函館の時点で、ほとんど分かってたのか」

 

「仮説としてはね」

 

俺は机の写真を見る。函館の一枚には、日付と数値だけが書かれていた。

 

「どうして言わなかった」

 

タキオンの指が止まった。

 

笑みは残っている。声も大きくならない。けれど、いつもの遊ぶような響きだけが消えた。

 

「『君の身体は日本の軽い芝に合わない。フランスの重い芝なら走れるから、私と飛行機に乗ってロンシャンへ行こう』——とでも言えばよかったのかね?」

 

「少なくとも、俺には言えた」

 

「君が知っていたら、カレンモエ君に二千四百を試させたかい?」

 

返事は出なかった。

 

オークスの数字を見た時点で、俺は止めていた。重い芝で試す前に、二千四百という距離だけで首を横へ振ったはずだ。

 

タキオンは俺の沈黙を追い詰めず、写真を一枚戻した。

 

「日本で走る子だよ。教えたところで、どこへ行かせる?」

 

「決めるのはモエだ」

 

「何も確かめていないのに?」

 

言い返せないまま、モエのストローが紙パックの底を鳴らした。

 

「二人とも。私の進路、勝手に増やさないで」

 

空になった紙パックが、テーブルの上へ置かれる。

 

「まだ日本へ帰ることしか決めてないから」

 

俺は息を吐いた。タキオンも紅茶へ視線を落とす。

 

誰も、次の言葉を急がなかった。

 

 

 

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

二人がやっと黙ったので、私はトロフィーを見る。

 

赤い背景の前では、世界一らしい形に見えた。ホテルの低いテーブルに乗ると、銀色で大きいだけだった。絢原さんが持ってきたせいで、私の腕はもう痛くない。

 

「昨日の勝ちは、レゾリュートが失敗したから?」

 

タキオンさんが、すぐに首を振る。

 

「彼女はほとんど完璧だったよ。あれだけ走ったから、二身で済んだのさ」

 

少しだけ息が抜けた。

 

最後の百メートルで、何度も前へ戻ろうとした白銀の影が浮かぶ。あれを、私はゴールまで押さえた。

 

「あいつ、次は勝つって言ってた」

 

「当然だろうね。昨日と同じレースを、もう一度する気はないはずだ」

 

タキオンさんは角砂糖を二つ足した。もう十分甘そうなのに、匙で平然とかき混ぜている。

 

「だが、昨日と同じ重さ、同じ距離、同じ仕上がりなら——十回やって、十回とも君が勝つよ」

 

絢原さんの目が細くなった。

 

私は、もう一度トロフィーを見る。

 

「つまらないねぇ」

 

「勝った本人の前で言う?」

 

「答えが分かっている実験ほど、退屈なものはないからね」

 

タキオンさんは匙をカップの横へ戻した。

 

「そして、それはモエくんにとっては、何の価値もない」

 

腹は立たなかった。

 

トロフィーを見ても、腕の重さしか思い出さない。レゾリュートが待っているならまた来るかもしれないが、赤い背景も銀色の塔も、欲しくて走ったわけではなかった。

 

「うん。世界一より、あいつを抜いた方が気分よかった」

 

「正直で結構」

 

「トロフィーは重いし」

 

絢原さんが、少しだけ口元を緩める。

 

「それは俺も知ってる」

 

手首を一度回している。式のあとからずっと持たせたので、本当に重かったらしい。

 

「……じゃあ、日本で勝ってきたのは何だったの?」

 

口にすると、部屋が少し静かになった。

 

千二百でしか勝てないと思っていた。そこが私の場所だと思ったことは一度もないけれど、少なくとも私の距離だとは思っていた。

 

今日になって全部違ったと言われたら、今までの勝利まで借り物みたいになる。

 

タキオンさんは、すぐに答えなかった。写真を一枚抜き、私の前へ滑らせる。

 

高松宮記念のシューズだった。つま先の外側が深く削れ、黒いソールが斜めに薄くなっている。

 

「君が勝ったんだよ」

 

タキオンさんの指が、削れた外側をなぞる。

 

「こんな削れ方をして、それでも前へ出た。私には、こっちの方がよほど興味深いね」

 

「褒めてる?」

 

「珍しくね」

 

写真の端を指で押さえる。ソールは今見てもひどい減り方をしていた。

 

それでも、あの日の私は最後に前へ出た。

 

ママのことが浮かんだ。

 

日本の軽い芝を、何の抵抗もないみたいに走っていた。千二百で誰より速く、最後まで姿勢を崩さず、笑って帰ってきた。

 

「ママは、千二百と日本の軽い芝が一番合ってたんだよね」

 

「そうだよ」

 

私は膝の上で、右足の指を一度曲げた。

 

「私は、そこが一番合わない」

 

「身体の作りだけならね。顔はよく似ているが、走りは正反対だ」

 

窓の外は、いつの間にか暗くなっていた。

 

ガラスに私の顔が映っている。髪も目元も、黙っていればママに見えるくらい似ていた。その下には、昨日二千四百を走り切った脚がある。

 

「走りは、ほんとに何も似てなかったんだ」

 

誰も否定しなかった。

 

絢原さんがティッシュの箱をこちらへ寄せる。まだ泣いていない、と言おうとした時には、頬が濡れていた。

 

一枚取って目元を押さえる。

 

日本で削れた脚も、ロンシャンで最後まで動いた脚も、レゾリュートへ向いた牙も、この身体の中にある。

 

全部、私。

 

「ここなら二千四百を走れると思ってはいた。それでも、最後まで行かせるのは怖かったんだ」

 

絢原さんが、トロフィーではなく私を見ている。膝の上では、右手が固く握られていた。

 

「走れる方が?」

 

絢原さんは一度だけ頷いた。

 

昨日の通路で、私を受け止めた手だった。

 

「最後まで見てた?」

 

「ああ。ゴールのあと、お前が抱きついてくるところまで」

 

「じゃあ、そっち忘れないで」

 

握られていた手が、ゆっくりほどけた。

 

そのまま伸びてきて、私の頭に触れる。昨日の通路より、ずっと軽い手だった。

 

「忘れない」

 

目元を押さえていたティッシュが、また少し濡れた。

 

タキオンさんは何も言わず、紅茶を飲んでいる。視線だけは、カップの縁よりこちらへ向いていた。

 

目元を拭きながら、もう一つ聞く。

 

「タキオンさん。ジャーニーさんに、私を貸してくれって言われた時、腹立った?」

 

タキオンさんの耳が、ほんの少しだけこちらへ向く。

 

「途中で沈む子を貸してほしい、と言われたのでね。私の仕事を随分安く見積もられたものだ」

 

「私じゃなくて、自分の方なんだ」

 

「両方ということにしておこう」

 

絢原さんが、呆れたように書類を見る。

 

「オルフェーヴルの前を取らせるつもりだったのか?」

 

「少しばかりね。本人が先にいなくなって、悪戯は不発に終わったが」

 

私はティッシュを丸め、空になった紙パックの横へ置く。

 

「性格悪い」

 

「君に言われるとは光栄だよ、モルモット君」

 

喉から小さく笑いが漏れた。

 

絢原さんも息を漏らし、タキオンさんは満足そうに砂糖の底を匙でさらう。

 

タキオンさんが記録用紙を重ねる。絢原さんはトロフィーをテーブルの中央から少し端へ寄せた。

 

「それで、君はどうする?」

 

「日本に帰る」

 

迷う必要はなかった。

 

「海外から呼ばれたら?」

 

絢原さんが聞く。

 

「その時に考える。レゾリュートが勝手に待ってるみたいだし」

 

「また来る気はあるんだな」

 

「しつこかったらね」

 

絢原さんは、それ以上聞かなかった。

 

タキオンさんが書類を鞄へしまっても、トロフィーだけはテーブルに残った。誰も、もう一度持ち上げようとはしない。

 

窓に映る顔は、相変わらずママに似ていた。

 

それでも、その顔で自分の名前を呼ばれても、もう誰かの続きには聞こえない。

 

私が、私だけのものになった夜だった。

 

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