アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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124話 アンチ・ヒーロー

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

帰国する朝、私の名前の上に、また知らない言葉が増えた。

 

ホテルのロビーで待っていると、絢原さんが一枚の新聞を持ってきた。昨日までトロフィーを抱えていた腕で、今朝は折り畳まれた紙を抱えている。

 

広げられた一面には、ゴール前の写真が大きく載っていた。白銀のレゾリュートを抜き返し、その前へ出た私。顔はほとんど見えない。空色の勝負服と、土を蹴り上げた脚だけが写っている。

 

その上に、太い英字があった。

 

THE ANTI-HERO OF LONGCHAMP

 

英語は得意じゃない。でも、その二語には覚えがあった。

 

アンチ・ヒーロー。

 

前にどこかで、そう言われたような気がする。誰に、いつ言われたのかは思い出せない。ただ、こんなに大きな字で見たのは初めてだった。

 

「また勝手に名前つけられてる」

 

絢原さんは、新聞と私を見比べた。

 

「カレンチャンは入ってないぞ」

 

「そこだけで合格にしろって?」

 

「嫌なら、読まなきゃいい」

 

新聞の下には、記事の翻訳が挟まっていた。

 

凱旋門賞の主役は、白銀の女王と金色の王であるはずだった。

 

カレンモエは、その物語を助けるために連れてこられたラビットにすぎない。千五百で役目を終え、名前さえ残らないはずだった。

 

だが、金色の王は戦列を去った。白銀の女王は一度、彼女の前へ出た。カレンモエが導くはずの英雄は、どこにもいなかった。

 

英雄がいないなら、自分で走ればいい。

 

彼女は消えなかった。抜かれた相手を抜き返し、そのまま二身先でゴールした。助けも、物語も、主役の座が空くのも待たず、自分の脚で奪い取った。

 

英雄を待たず、英雄たちの物語まで踏み越えた勝者。

 

ロンシャンのアンチ・ヒーローである。

 

翻訳を最後まで読み、新聞を畳む。

 

「別に。このままでいい」

 

「気に入ったのか」

 

「前よりはマシ」

 

少なくとも、誰かの娘とは書いていなかった。

 

ホテルの自動扉の向こうには、帰国用の車が待っている。荷物は先に運ばれ、銀色のトロフィーだけが専用のケースに入れられていた。

 

オルフェーヴルさんたちは、私たちより先に別便で帰っている。昨日、別れ際に「貴様と帰れば騒々しい。余は別に征く」と言われた。たぶん、どちらが言っても同じだった。

 

タキオンさんはケースを一度叩き、満足そうに頷いた。

 

「これで輸送中に多少揺れても問題ない。もっとも、中身よりケースの方が興味深い構造だがね」

 

「開けないでくださいよ」

 

「信用がないねぇ」

 

「あると思ってたんですか」

 

タキオンさんは答えず、ケースから手を離した。

 

車へ向かおうとしたところで、ロビーの外から声が上がった。昨日までホテルの前にいた報道陣とは違う。柵の向こうに、レースを見ていたらしい人たちが集まっている。

 

数は多くない。けれど、掲げられた紙には同じ言葉が並んでいた。

 

ANTI-HERO。

 

空色で塗られた文字。黒地に白で書かれた文字。私の名前より、その二語の方が大きいものまである。

 

私が足を止めると、歓声がひとつ大きくなった。絢原さんが横を見る。

 

「行くか」

 

「車、あっちでしょ」

 

「そうじゃない」

 

分かっている。

 

一番手前にいた女の子が、サイン帳を胸に抱えていた。昨日の私と同じ空色のリボンを、右耳の前につけている。

 

私は柵の前まで歩き、差し出されたペンを受け取った。名前を書く。

 

カレンモエ。

 

その下へ、女の子が指で示した。印刷された二語の間だった。

 

少し迷ってから、そこにも名前を書いた。アンチ・ヒーローという言葉に挟まれても、私の名前は消えなかった。

 

顔を上げると、女の子が何かを早口で言った。隣にいた現地スタッフが追いつき、笑いながら訳す。

 

「来年も、ここで待っているそうです」

 

「それ、白いのにも言われた」

 

通訳が困った顔をした。

 

「そのまま訳していいですか?」

 

「やめといて」

 

女の子には笑って手を振った。その笑顔を見て、周りのカメラが一斉に持ち上がる。

 

昨日まで二時間で作った舞台を完璧にこなしていたのだから、これくらいは簡単だった。ただ、車へ乗り込む直前まで、女の子は私の名前を呼んでいた。

 

アンチ・ヒーローではなく、モエ、と。

 

 

 

 

 

 

飛行機が離陸すると、窓の外からフランスがゆっくり消えていった。

 

雲の上へ出たところで、私はシートを倒した。隣では絢原さんが、機内でもらった資料に目を通している。凱旋門賞の映像使用申請、取材依頼、出走の打診。紙の束は、出発した時より明らかに増えていた。

 

「それ、全部私?」

 

「大半はな」

 

「捨てていい?」

 

「帰ってから分ける」

 

私はスマートフォンを機内モードにして、保存した新聞の画像を開いた。画面の上には、またあの二語がある。

 

「前にどこかで言われたような気がする。この呼び方」

 

絢原さんは資料から顔を上げ、画面を見た。

 

「俺も覚えがある」

 

「どこだっけ」

 

「さあな」

 

「頼りにならない」

 

画面を閉じた。思い出せないくらい、小さな呼び名だった。今度は、勝った私を見た世界が呼んでいる。

 

意味はたぶん、同じではない。でも、どちらも私の走りを見てつけた名前だった。

 

窓の外は、どこまで行っても白い。

 

「トレーナー」

 

「なんだ」

 

「着いたら起こして」

 

「今から寝るのか」

 

「昨日まで働きすぎたから」

 

ブランケットを顎まで引き上げる。目を閉じる直前、絢原さんが私のスマートフォンを落ちない位置へ動かした。

 

それから日本までは、ほとんど何も覚えていない。

 

 

 

 

 

 

到着前に起こされ、髪を直し、顔を作った。

 

機内の鏡に映っているのは、十時間近く眠っていた子ではない。凱旋門賞を勝ち、世界から帰ってきたカレンモエだった。

 

通路へ出る前に、空港の職員から説明を受ける。到着ロビーには報道陣とファンがいる。立ち止まる位置は床の印。質問は三つまで。トロフィーを掲げる写真も撮る。

 

「また持つの?」

 

絢原さんがケースを持ち直した。

 

「写真の時だけだ」

 

「終わったら返すからね」

 

「最初からそのつもりだ」

 

扉の向こうから、人の声が重なって聞こえる。

 

フランスへ着いた日とは逆だった。あの日、カメラは私の横を通り過ぎ、オルフェーヴルさんを追っていた。誰も私を見ていなかった。

 

今は、扉が開く前から名前を呼ばれている。

 

職員が合図を出した。私は背筋を伸ばし、笑った。

 

扉が開く。

 

フラッシュで、ロビーが白くなった。

 

「カレンモエさん、凱旋門賞制覇おめでとうございます!」

 

「こちらをお願いします!」

 

「アンチヒーロー!」

 

「モエちゃーん!」

 

紙に書かれた日本語と英語が、柵の向こうで揺れている。

 

ロンシャンのアンチ・ヒーロー、凱旋

 

私より先に、呼び名の方が日本へ帰っていたらしい。

 

床の印で止まり、絢原さんからトロフィーを受け取る。両腕に重さが戻った。持ち上げると、歓声が膨らむ。

 

昨日、赤い背景の前で撮ったものと、ほとんど同じ写真になる。違うのは、カメラの向こうから聞こえる言葉が全部分かることだった。

 

撮影が終わり、記者の一人がマイクを向けた。

 

「欧州では『アンチ・ヒーロー』という呼び名が広がっています。ご本人は、どう受け止めていますか?」

 

考える時間は、ほとんど要らなかった。

 

「好きに呼んでください。私の名前を間違えなければ」

 

ロビーのあちこちから、笑いと拍手が起きた。次の記者が声を張る。

 

「今後は欧州を主戦場にされるのでしょうか?」

 

「帰ってきた日に、もう追い出すんですか?」

 

今度は、さっきより大きく笑われた。

 

「まだ何も決めてません。トレーナーと話してからです」

 

三人目が身を乗り出す。

 

「お母様を超えた、という声もありますが――」

 

「それは、ママに聞いてください」

 

一拍置いてから続ける。

 

「たぶん、すごく長く話すので」

 

どっと笑いが起きた。

 

どこかで、ママがこれを見ている気がした。あとで長いメッセージが届く。たぶん音声で。途中から泣いて、最後は自分の話になる。

 

職員が質問終了の合図を出した。私はもう一度トロフィーを上げ、正面のカメラへ笑う。

 

完璧な凱旋だった。

 

そのまま報道陣の見えない通路まで歩き、角を曲がったところで絢原さんへトロフィーを戻した。

 

「重い」

 

「知ってる」

 

「ミルクティー」

 

「車にある」

 

「プリンも」

 

「帰ってからな」

 

自動扉の向こうに、学園の車が待っていた。

 

乗り込むと同時に、背もたれへ沈む。絢原さんが保冷バッグから紙パックを出し、ストローを刺して渡してくれた。

 

一口飲んでから言う。

 

「プリン、二個」

 

「一個じゃないのか」

 

「勝った気がしてきたから」

 

絢原さんは少しだけこちらを見た。

 

「じゃあ、二個だ」

 

窓の外で、空港の建物が後ろへ流れていく。フランスより見慣れた道路。読める標識。何度も通った景色。

 

ようやく帰ってきた。

 

 

 

 

 

 

トレーナー室の机は、出発前より狭くなっていた。

 

封筒、書類、雑誌。海外から届いたものだけで、端から端まで埋まっている。凱旋門賞の翌日から送られてきたらしく、差出人の国も文字もばらばらだった。

 

一番上の雑誌には、また私のゴール前の写真が使われていた。

 

ANTI-HERO

 

表紙を裏返し、その上へ空になったプリンの容器を置く。二個目は、まだ半分残っていた。

 

「食べながら見るなよ」

 

「こぼしてないでしょ」

 

絢原さんが、海外の封筒を国ごとに分けていく。フランス、香港、アメリカ。取材だけではなく、来季の出走を打診するものも混じっているらしい。

 

「返事を急ぐものから見るぞ」

 

「うん」

 

そう返しながら、私は机の端にあった別の紙を抜いた。来季の国内重賞日程。GⅡとGⅢへ、絢原さんの字で小さな印がつけられている。

 

「先にそっちか」

 

「こっちは読めるから」

 

「海外の分も翻訳はある」

 

「あとで見る」

 

二個目のプリンを一匙すくい、日程を上から追った。

 

日本の芝。私が踏むほど逃げて、走るほど脚を削って、何度勝っても思いどおりにならなかった場所。

 

凱旋門賞のトロフィーは、部屋の隅に置かれている。銀色の塔は照明を受けて光っていたが、今は誰も見ていなかった。

 

「どれが気になる」

 

絢原さんに聞かれ、紙の上で指を止める。

 

「まだ決めない。でも、海外より先にこっち」

 

絢原さんは、私の指先にある日程を見た。

 

「休んでからだぞ」

 

「分かってる」

 

机の上では、世界中から届いた封筒が返事を待っている。

 

世界は、アンチ・ヒーローを呼び始めた。

 

私は、まだ日本の芝に用があった。

 

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