——Anti-Hero: Curren Moe
帰国する朝、私の名前の上に、また知らない言葉が増えた。
ホテルのロビーで待っていると、絢原さんが一枚の新聞を持ってきた。昨日までトロフィーを抱えていた腕で、今朝は折り畳まれた紙を抱えている。
広げられた一面には、ゴール前の写真が大きく載っていた。白銀のレゾリュートを抜き返し、その前へ出た私。顔はほとんど見えない。空色の勝負服と、土を蹴り上げた脚だけが写っている。
その上に、太い英字があった。
THE ANTI-HERO OF LONGCHAMP
英語は得意じゃない。でも、その二語には覚えがあった。
アンチ・ヒーロー。
前にどこかで、そう言われたような気がする。誰に、いつ言われたのかは思い出せない。ただ、こんなに大きな字で見たのは初めてだった。
「また勝手に名前つけられてる」
絢原さんは、新聞と私を見比べた。
「カレンチャンは入ってないぞ」
「そこだけで合格にしろって?」
「嫌なら、読まなきゃいい」
新聞の下には、記事の翻訳が挟まっていた。
凱旋門賞の主役は、白銀の女王と金色の王であるはずだった。
カレンモエは、その物語を助けるために連れてこられたラビットにすぎない。千五百で役目を終え、名前さえ残らないはずだった。
だが、金色の王は戦列を去った。白銀の女王は一度、彼女の前へ出た。カレンモエが導くはずの英雄は、どこにもいなかった。
英雄がいないなら、自分で走ればいい。
彼女は消えなかった。抜かれた相手を抜き返し、そのまま二身先でゴールした。助けも、物語も、主役の座が空くのも待たず、自分の脚で奪い取った。
英雄を待たず、英雄たちの物語まで踏み越えた勝者。
ロンシャンのアンチ・ヒーローである。
翻訳を最後まで読み、新聞を畳む。
「別に。このままでいい」
「気に入ったのか」
「前よりはマシ」
少なくとも、誰かの娘とは書いていなかった。
ホテルの自動扉の向こうには、帰国用の車が待っている。荷物は先に運ばれ、銀色のトロフィーだけが専用のケースに入れられていた。
オルフェーヴルさんたちは、私たちより先に別便で帰っている。昨日、別れ際に「貴様と帰れば騒々しい。余は別に征く」と言われた。たぶん、どちらが言っても同じだった。
タキオンさんはケースを一度叩き、満足そうに頷いた。
「これで輸送中に多少揺れても問題ない。もっとも、中身よりケースの方が興味深い構造だがね」
「開けないでくださいよ」
「信用がないねぇ」
「あると思ってたんですか」
タキオンさんは答えず、ケースから手を離した。
車へ向かおうとしたところで、ロビーの外から声が上がった。昨日までホテルの前にいた報道陣とは違う。柵の向こうに、レースを見ていたらしい人たちが集まっている。
数は多くない。けれど、掲げられた紙には同じ言葉が並んでいた。
ANTI-HERO。
空色で塗られた文字。黒地に白で書かれた文字。私の名前より、その二語の方が大きいものまである。
私が足を止めると、歓声がひとつ大きくなった。絢原さんが横を見る。
「行くか」
「車、あっちでしょ」
「そうじゃない」
分かっている。
一番手前にいた女の子が、サイン帳を胸に抱えていた。昨日の私と同じ空色のリボンを、右耳の前につけている。
私は柵の前まで歩き、差し出されたペンを受け取った。名前を書く。
カレンモエ。
その下へ、女の子が指で示した。印刷された二語の間だった。
少し迷ってから、そこにも名前を書いた。アンチ・ヒーローという言葉に挟まれても、私の名前は消えなかった。
顔を上げると、女の子が何かを早口で言った。隣にいた現地スタッフが追いつき、笑いながら訳す。
「来年も、ここで待っているそうです」
「それ、白いのにも言われた」
通訳が困った顔をした。
「そのまま訳していいですか?」
「やめといて」
女の子には笑って手を振った。その笑顔を見て、周りのカメラが一斉に持ち上がる。
昨日まで二時間で作った舞台を完璧にこなしていたのだから、これくらいは簡単だった。ただ、車へ乗り込む直前まで、女の子は私の名前を呼んでいた。
アンチ・ヒーローではなく、モエ、と。
~
飛行機が離陸すると、窓の外からフランスがゆっくり消えていった。
雲の上へ出たところで、私はシートを倒した。隣では絢原さんが、機内でもらった資料に目を通している。凱旋門賞の映像使用申請、取材依頼、出走の打診。紙の束は、出発した時より明らかに増えていた。
「それ、全部私?」
「大半はな」
「捨てていい?」
「帰ってから分ける」
私はスマートフォンを機内モードにして、保存した新聞の画像を開いた。画面の上には、またあの二語がある。
「前にどこかで言われたような気がする。この呼び方」
絢原さんは資料から顔を上げ、画面を見た。
「俺も覚えがある」
「どこだっけ」
「さあな」
「頼りにならない」
画面を閉じた。思い出せないくらい、小さな呼び名だった。今度は、勝った私を見た世界が呼んでいる。
意味はたぶん、同じではない。でも、どちらも私の走りを見てつけた名前だった。
窓の外は、どこまで行っても白い。
「トレーナー」
「なんだ」
「着いたら起こして」
「今から寝るのか」
「昨日まで働きすぎたから」
ブランケットを顎まで引き上げる。目を閉じる直前、絢原さんが私のスマートフォンを落ちない位置へ動かした。
それから日本までは、ほとんど何も覚えていない。
~
到着前に起こされ、髪を直し、顔を作った。
機内の鏡に映っているのは、十時間近く眠っていた子ではない。凱旋門賞を勝ち、世界から帰ってきたカレンモエだった。
通路へ出る前に、空港の職員から説明を受ける。到着ロビーには報道陣とファンがいる。立ち止まる位置は床の印。質問は三つまで。トロフィーを掲げる写真も撮る。
「また持つの?」
絢原さんがケースを持ち直した。
「写真の時だけだ」
「終わったら返すからね」
「最初からそのつもりだ」
扉の向こうから、人の声が重なって聞こえる。
フランスへ着いた日とは逆だった。あの日、カメラは私の横を通り過ぎ、オルフェーヴルさんを追っていた。誰も私を見ていなかった。
今は、扉が開く前から名前を呼ばれている。
職員が合図を出した。私は背筋を伸ばし、笑った。
扉が開く。
フラッシュで、ロビーが白くなった。
「カレンモエさん、凱旋門賞制覇おめでとうございます!」
「こちらをお願いします!」
「アンチヒーロー!」
「モエちゃーん!」
紙に書かれた日本語と英語が、柵の向こうで揺れている。
ロンシャンのアンチ・ヒーロー、凱旋
私より先に、呼び名の方が日本へ帰っていたらしい。
床の印で止まり、絢原さんからトロフィーを受け取る。両腕に重さが戻った。持ち上げると、歓声が膨らむ。
昨日、赤い背景の前で撮ったものと、ほとんど同じ写真になる。違うのは、カメラの向こうから聞こえる言葉が全部分かることだった。
撮影が終わり、記者の一人がマイクを向けた。
「欧州では『アンチ・ヒーロー』という呼び名が広がっています。ご本人は、どう受け止めていますか?」
考える時間は、ほとんど要らなかった。
「好きに呼んでください。私の名前を間違えなければ」
ロビーのあちこちから、笑いと拍手が起きた。次の記者が声を張る。
「今後は欧州を主戦場にされるのでしょうか?」
「帰ってきた日に、もう追い出すんですか?」
今度は、さっきより大きく笑われた。
「まだ何も決めてません。トレーナーと話してからです」
三人目が身を乗り出す。
「お母様を超えた、という声もありますが――」
「それは、ママに聞いてください」
一拍置いてから続ける。
「たぶん、すごく長く話すので」
どっと笑いが起きた。
どこかで、ママがこれを見ている気がした。あとで長いメッセージが届く。たぶん音声で。途中から泣いて、最後は自分の話になる。
職員が質問終了の合図を出した。私はもう一度トロフィーを上げ、正面のカメラへ笑う。
完璧な凱旋だった。
そのまま報道陣の見えない通路まで歩き、角を曲がったところで絢原さんへトロフィーを戻した。
「重い」
「知ってる」
「ミルクティー」
「車にある」
「プリンも」
「帰ってからな」
自動扉の向こうに、学園の車が待っていた。
乗り込むと同時に、背もたれへ沈む。絢原さんが保冷バッグから紙パックを出し、ストローを刺して渡してくれた。
一口飲んでから言う。
「プリン、二個」
「一個じゃないのか」
「勝った気がしてきたから」
絢原さんは少しだけこちらを見た。
「じゃあ、二個だ」
窓の外で、空港の建物が後ろへ流れていく。フランスより見慣れた道路。読める標識。何度も通った景色。
ようやく帰ってきた。
~
トレーナー室の机は、出発前より狭くなっていた。
封筒、書類、雑誌。海外から届いたものだけで、端から端まで埋まっている。凱旋門賞の翌日から送られてきたらしく、差出人の国も文字もばらばらだった。
一番上の雑誌には、また私のゴール前の写真が使われていた。
ANTI-HERO
表紙を裏返し、その上へ空になったプリンの容器を置く。二個目は、まだ半分残っていた。
「食べながら見るなよ」
「こぼしてないでしょ」
絢原さんが、海外の封筒を国ごとに分けていく。フランス、香港、アメリカ。取材だけではなく、来季の出走を打診するものも混じっているらしい。
「返事を急ぐものから見るぞ」
「うん」
そう返しながら、私は机の端にあった別の紙を抜いた。来季の国内重賞日程。GⅡとGⅢへ、絢原さんの字で小さな印がつけられている。
「先にそっちか」
「こっちは読めるから」
「海外の分も翻訳はある」
「あとで見る」
二個目のプリンを一匙すくい、日程を上から追った。
日本の芝。私が踏むほど逃げて、走るほど脚を削って、何度勝っても思いどおりにならなかった場所。
凱旋門賞のトロフィーは、部屋の隅に置かれている。銀色の塔は照明を受けて光っていたが、今は誰も見ていなかった。
「どれが気になる」
絢原さんに聞かれ、紙の上で指を止める。
「まだ決めない。でも、海外より先にこっち」
絢原さんは、私の指先にある日程を見た。
「休んでからだぞ」
「分かってる」
机の上では、世界中から届いた封筒が返事を待っている。
世界は、アンチ・ヒーローを呼び始めた。
私は、まだ日本の芝に用があった。