アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

168 / 170
最終話 私は私 前編

——The General Public《大衆》

 

「日曜、空けとけ。世界チャンプを見に行くぞ」

 

友人からそんな連絡が来たのは、火曜の夜だった。

 

世界チャンプと言われて、俺が最初に考えたのはボクシングだった。次がキックボクシングで、その次が、最近よく動画に流れてくる何かの対戦ゲーム。どれにしても友人の趣味とは少し違う気がしたが、聞き返しても「当日までのお楽しみ」としか返ってこない。

 

秘密にするほどのものかとは思った。それでも日曜の予定は空いていたし、こいつがここまで強引に誘ってくるのも珍しい。昼飯くらいは奢らせようと決めて、駅前の待ち合わせ場所へ行った。

 

友人は、空色のタオルを首に巻いていた。

 

七月の朝から暑い。タオル自体は別におかしくないが、それは汗を拭くための物には見えなかった。片端に刺繍された文字は少し毛羽立ち、縁も何度も洗った布の柔らかさになっている。新しい応援グッズを今日だけ身につけてきた、という感じではない。

 

「その色、ずいぶん似合ってないな」

 

「朝一番に言うことがそれか。返事も遅かったし、置いてくぞ」

 

「どこへ行くかも聞いてないのに、置いていかれて困ると思う?」

 

「困る。俺が一枚余計に席を取った意味がなくなる」

 

もう席まで買われていた。断れる段階は、火曜の時点で終わっていたらしい。

 

改札を抜けても、友人は行き先を言わなかった。電車が来る方向を見れば名古屋方面なのは分かるが、世界チャンプにつながる場所が浮かばない。車内へ入ると、同じ空色を身につけた客が何人もいた。帽子、シャツ、手提げ袋。黒地にANTI-HEROと大きく刷られた服もある。

 

「これ、全員お前と同じところに行く?」

 

「たぶん。ほら、あの子の旗も同じ色だろ」

 

少し離れた座席で、小学生くらいの女の子が細長い旗を膝に載せていた。隣の父親と一緒に紙を覗き込み、指で何かを数えている。

 

車内放送が中京レース場前の案内を告げたところで、ようやく話がつながった。

 

「ウマ娘かよ」

 

「今さら気づいたのか」

 

「世界チャンプだけで分かるわけないだろ。競技名を隠す必要、どこにあった?」

 

「先に言ったら、詳しくないからって面倒くさがると思って」

 

「実際、少し面倒くさい」

 

「もう乗ってるから問題ないな。はい、今日の」

 

友人は笑って、鞄から折り畳んだ出走表を出した。今日のメインは中京記念。芝千六百メートル、十八人。その横にGⅢとある。

 

俺でも、GⅠが一番大きいことくらいは知っている。GⅡ、GⅢと続くなら、今日のGⅢは世界チャンプが出る場所としては小さすぎるように見えた。

 

「チャンプ、前座にでも出るの?」

 

「メインだよ。というか、前座って言い方やめろ。ほかの子のファンに聞かれたら普通に怒られるぞ」

 

「じゃあ、どれ」

 

友人はすぐには指ささず、俺の持つ紙を自分の方へ少し引いた。名前の一覧を上から探し、中央より下にある一行を爪で押さえる。

 

カレンモエ。

 

聞き覚えはあった。顔は浮かばない。たぶんニュースか、駅の広告か、何かの見出しで何度も見て、名前だけ薄く残っている。

 

「有名なんだよな?」

 

「その聞き方、本人の前で絶対するなよ。いや、本人の前まで行けないけど。映像を見たら、お前もたぶん分かる」

 

「どこで見たかも思い出せない」

 

「凱旋門賞。二回とも、普通のニュースでもかなり流れたから」

 

戦績欄を見直した。国内の欄より、海外の欄の方が目につくように作られている。

 

香港スプリント、一着。凱旋門賞、一着。翌年の凱旋門賞も一着。今年の春にはドバイシーマクラシック、一着。

 

同じ文字が四つ並んでいる。

 

「海外、これだけ?」

 

「今のところは四回。全部勝ってる」

 

「二回も凱旋門賞を勝って、まだ海外四回しか走ってないのか」

 

「呼ばれても、去年はほとんど行かなかったからな。そこはあとで話す。いっぺんに言っても、お前どうせ誰が何を勝ったか混ざるだろ」

 

「もう半分混ざってる」

 

「ほらな」

 

友人は出走表を俺の手へ戻し、自分のタオルを巻き直した。空色の布の中央には、今のカレンモエの姿らしい小さな刺繍がある。そこだけ何度も指で触れたのか、糸の表面が少し平らになっていた。

 

「そのタオル、今日買ったやつじゃないよな」

 

「見れば分かるだろ」

 

「いつから使ってる?」

 

友人は窓へ目を向けた。すぐには答えず、指先で刺繍の端をなぞる。

 

「高松宮のあとに出たやつ。何年前だっけな……いや、年数で言うと妙に長いからやめとく」

 

「長いなら長いでいいだろ」

 

「別に隠してない。ちょっと引いただろ、今」

 

「まだ何も言ってない」

 

「顔が言ってた」

 

向かいの窓に映る友人は、少し笑っていた。長く応援してきたことを誇るでもなく、照れるほど大げさに否定するでもない。使い続けたタオルを今日も持ってきた。それで十分らしい。

 

出走表へ視線を戻す。海外の欄には一着しかないのに、国内の戦績には二着、四着、さらに下の着順まで混じっていた。世界チャンプという呼び方と同じ紙に印刷されているのが、妙にちぐはぐだった。

 

「海外だと負けてないのに、日本だと普通に負けてるんだな」

 

「普通に、は本人に失礼じゃないか。まあ、負けてる。今日の中京記念も、去年は四着」

 

「同じレースへまた出るの?」

 

「それを見るために連れてきたんだよ」

 

友人は、そこから先をすぐには説明しなかった。出走表の国内欄を見たまま、親指で四着の数字を一度隠し、また離す。

 

電車が駅へ近づくにつれ、空色は増えていった。赤い布を肩へ掛けた客もいる。緑や白の帽子を被った集団もいた。全員が同じウマ娘を見に行くわけではないらしい。それでも降りる駅は同じで、ホームへ出た瞬間、人の流れが一つになる。

 

改札からレース場へ続く道には、中京記念の旗が並んでいた。その間に大きな横断幕があり、中央へカレンモエの名前が出ている。

 

写真を見て、少し足が遅くなった。

 

使われていたのは、凱旋門賞で両腕を上げる姿でも、ドバイのゴール場面でもない。空色と黒の勝負服に泥をつけ、赤い勝負服の背中を追っている写真だった。顔は笑っていない。口を開け、前だけを睨んでいる。

 

下に小さく、昨年の中京記念と書かれていた。

 

「これ、四着の時?」

 

「そう。前にいる赤い子がレディアダマント。去年の一着で、今日も出る」

 

「広告なら勝った写真を使えばいいのに。凱旋門賞、二枚もあるんだろ」

 

「俺も勝った写真を使うと思ってた。でも今日の相手はロンシャンにいないし、ここで勝ったこともないから。たぶん、そっちを見せたいんじゃないか」

 

最後は少し曖昧だった。主催者に聞いたわけではないのだから、それでいい。友人は横断幕を見上げたまま、赤い勝負服の方へも目をやった。

 

正面広場の大看板では、カレンモエとレディアダマントがほとんど同じ大きさで扱われていた。その下にも今日走るウマ娘たちが並んでいる。入口の外まで空色で埋まっているのに、中へ入れば一人だけの催しではないことが分かる。

 

売店には空色のタオルが何種類も積まれ、隣にはレディアダマントの赤い応援布が並んでいた。開場してそれほど経っていないはずなのに、どちらも棚の一部がもう空いている。

 

「買い替えないの?」

 

俺が聞くと、友人は自分の首元を見下ろした。

 

「まだ使えるし。去年もこれだったから、今日まではこれでいい」

 

「今日まで?」

 

「勝ったら考える。負けたら、たぶん次もこれ」

 

勝つ前提で新しい物を買うのではなく、結果を見てから決めるらしい。応援というものは、もっと景気よく勝利を信じる行為だと思っていた。友人のやり方は、期待より少し重い。

 

入場列に並ぶ。前後から聞こえる話は、半分も分からない。仕上がり、枠、展開、去年の直線。専門用語らしい言葉が続いたかと思えば、急に髪型やライブ衣装の話へ変わる。外国語で話す二人組までいて、国内のGⅢという言葉から想像していた規模ではなかった。

 

列の横に、カレンモエの海外戦績をまとめた特設パネルが立っていた。香港、ロンシャン、もう一度ロンシャン、ドバイ。四枚の写真の下に、四戦四勝と大きく書いてある。

 

「世界チャンプって、誰かが正式に決めた称号?」

 

「ああ、そこからか。違う。少なくとも俺が見た記事では、ランキング一位みたいな認定じゃない。二回目の凱旋門賞のあとから、海外の中継でもそう呼ぶ人が増えた」

 

「一回目では足りなかった?」

 

「足りないって言う連中がいた。最初の時は、そもそも優勝候補として行ったわけじゃなかったし……前を引く役だったんだよ。途中で本命が出られなくなって、それでも走って、最後にレゾリュートっていう向こうの女王を抜き返した」

 

友人は一度そこで止まり、俺の顔を見た。

 

「今の、分かる?」

 

「本命の手伝いで行って、本人が勝った」

 

「大体それでいい。細かく言うと怒るやつがいるけど、今日は俺しかいないから」

 

「後ろに詳しそうな人、いるぞ」

 

友人は少しだけ声を落とした。

 

「じゃあ、大体じゃなくて、かなり雑。で、勝ったあとも『自分の国の一番とは走ってない』『こっちへ来れば違う』って話が残った。俺は記事と番組で見ただけだけどな」

 

「それで海外から招待が来た?」

 

「来た。ドバイ、香港、アメリカ、ヨーロッパ。最初は普通の招待だったのが、帰国日まで組んだ予定案つきになっていったらしい」

 

「そこまでして、行かなかったのか」

 

「去年は、凱旋門賞以外は全部断った」

 

列が少し進み、友人は話しながら入場券をウマホへ出した。俺の分まで表示させてから、空いた手で出走表の裏を開く。二度目の凱旋門賞を扱った記事が、半面を使って載っていた。

 

「これ。前年の欧州王者、ドバイで勝った子、香港の中距離王者、アメリカから来た芝の女王。ほかにもいる。全員がモエちゃんだけを目当てに来た、なんて言ったら盛りすぎだと思う。でも、取材で名前を出す子は多かった」

 

「呼んでも来ないなら、自分たちが凱旋門賞へ行く?」

 

「そう考えた子もいたんじゃないかって話。本人たちの事情もあるし、俺にはそこまで分からん。二度目は少なくとも、『あの相手がいなかった』って言い訳ができる顔ぶれじゃなかった」

 

写真の中で、空色の勝負服が先頭を走っている。その後ろには、白銀、青、緑、紫。国ごとに違う色が重なり、名前の横には俺でも見たことのある大きなレース名が並んでいた。

 

「それでも勝ったから、世界チャンプ」

 

「そう呼ばれて、訂正する人が減った。俺が勝手に呼んでるだけじゃないからな」

 

「そこは少し疑ってた」

 

「連れてくる前に調べろよ」

 

「行き先を隠したのはお前だろ」

 

友人が何か言い返しかけたところで、係員に入場画面を見せる順番が来た。会話はそのまま切れた。

 

中へ入ると、広場の大型モニターで特集映像が流れていた。ちょうど最初の凱旋門賞のゴールが映り、空色のウマ娘が白銀の相手を抜き返す。歓声が上がる。映像が二度目の凱旋門賞へ移ると、立ち止まって画面を見上げる人が増えた。

 

その次が、今年のドバイだった。

 

「去年は断ったんだよな、これ」

 

「ダービー卿CTと近かったから」

 

「国内のGⅢ?」

 

俺が聞き返すと、友人は待ってましたという顔をしたあと、少しだけ困ったように笑った。

 

「そこ、俺も発表が出た時に何回か確認した。海外GⅠを断って、まだ勝ってない国内GⅢへ出た。理由はあとから専門紙が追ってたけど、『両方は無理だから、勝ってない方』って。たぶん本人はもっと雑に言ったんだと思う」

 

「世界チャンプになる前?」

 

「一回目の凱旋門賞を勝ったあと。だから海外の主催側も、最初は意味が分からなかったんじゃないか。次から日本の重賞日程まで調べた案を送ってきたって記事にあった」

 

大型モニターの横には、今年の主な日程が掲示されている。春のドバイシーマクラシック。夏の中京記念。その二週間後にキングジョージ。前年の比較欄では、中京記念とキングジョージが同じ週に並んでいた。

 

「今年、ずれてる」

 

「公式には国際競走との日程調和。特定の一人のためじゃない、って説明も出てる」

 

「わざわざ説明が出る時点で怪しくない?」

 

「だから()()()()って言葉だけ広まった。本人も取材で『今年は偶然空いてたから』って返したらしくて、さらにややこしくなった」

 

「否定する気、ないだろ」

 

「モエちゃんに聞かないと分からん。聞けても、嫌そうな顔はされると思う」

 

世界チャンプの印象が、少しずつ変になってきた。

 

世界中から呼ばれ、実際に行った四戦は全部勝っている。それでも国内のGⅡやGⅢと重なれば断り、各国の強豪が集まる凱旋門賞だけは二度走って、二度勝った。今年は日程が空いたからドバイへ行き、そこでも勝った。帰国して次に選んだのが、去年四着だった中京記念だ。

 

筋が通っているようで、普通の順番ではない。

 

「海外が嫌いってわけじゃないんだな」

 

「嫌いなら凱旋門賞に二回も行かないだろ。海外のレースそのものを避けてるわけじゃない。海外を優先する理由がない、みたいな感じなんじゃないか。そこは本人のインタビューを読んでも、俺にはうまく説明できない」

 

友人は言い切らず、鞄を開けた。中から、畳んだ空色のタオルをもう一本出す。首に巻いている物より新しいが、こちらも袋には入っていない。

 

「ほら」

 

「何」

 

「貸す。俺らの席、空色が多いところだから。何も持ってないと、お前の方が落ち着かないぞ」

 

「公式の応援区画?」

 

「違う。何年か同じ辺りを取ってたら、いつの間にか集まるようになっただけ。知らない顔でも、だいたい同じタオル持ってる」

 

「そういう場所へ、何も知らない俺を入れるの?」

 

「だから朝から説明してる。嫌なら首じゃなくて膝に置いとけ」

 

俺はタオルを受け取り、ひとまず首へ掛けた。周りに空色が多すぎて、つけた方が確かに目立たない。

 

友人は俺の姿を一度見て、満足そうに頷きかけたが、何も言わなかった。言えばからかわれると分かっている顔だった。

 

大型モニターでは、海外四戦の勝利映像が終わっていた。

 

画面が暗くなり、次に映ったのは昨年の中京記念だった。

 

同じ空色と黒の勝負服。けれど、海外の映像とは見え方が違う。俺には走り方の仕組みなんて分からない。それでも、直線へ入ってから、ほかのウマ娘より一歩ごとに体が大きく揺れているのは見えた。何人かを抜きながら、先に出た赤い勝負服には届かない。

 

一着、レディアダマント。

 

カレンモエは四着。

 

ゴール後の映像で、カレンモエは表示板を見上げていた。悔しがって何かを叫ぶでも、笑って客席へ手を振るでもない。四着の数字をしばらく見て、次に自分の足元へ目を落とし、そのまま通路へ戻っていく。

 

「去年も、ここにいた?」

 

「いたよ。凱旋門賞を一回勝ったあとだったから、日本でも前より走れるかもって、かなり期待してた」

 

「四着で、どうだった」

 

「がっかりした。そりゃするだろ。レディアダマントが強かったのも分かるし、ほかの子だってこのレースに合わせてきてる。でも、モエちゃんにも勝ってほしかった。あの時は、海外であれだけ走れたんだからって……勝手に期待して、勝手に落ち込んだ」

 

友人はそこで一度笑った。自分の勝手さを認めたからといって、落胆がなかったことにはならないらしい。

 

「じゃあ、今日は雪辱戦みたいな?」

 

「そう言うと格好よすぎるんだよな。本人が何を考えてるかは知らない。でも、出走登録に名前があった。二度目の凱旋門賞まで勝ったあとで、まだここへ戻ってくるんだって、それが……」

 

言葉を探したまま、友人はモニターへ目を戻した。映像では四着の表示が消え、今日のパドック開始時刻へ切り替わっている。

 

「もう国内の負けなんて、無かったことにしても誰も責めないだろ。世界で一番って呼ばれてるんだから」

 

俺が言うと、友人はすぐには返さなかった。

 

首の古いタオルを外し、折れた端を直してから巻き直す。朝から何度もやっている動作だった。

 

「そうなんだよ。別に、ここへ来なくてもいい。海外だけ走っても、十分すぎるくらいすごい。でも、本人が残したままにしなかったからさ。じゃあ見たいだろ。去年ここで負けたのを見たやつは、特に」

 

それは世界チャンプの強さを見せたい、という話とは少し違った。

 

友人は勝った凱旋門賞へ行っていない。ドバイにも行けなかった。画面越しに何度も見て、ニュースも記事も追った。その間も手元には、二着だった頃に買った古いタオルが残っていた。

 

そして去年、この場所で四着を見た。

 

「席、いつ取ったの?」

 

「登録が出た日。二枚」

 

「俺が断ったらどうするつもりだったんだよ」

 

「誰か捕まえるつもりだった。お前なら、世界チャンプって言えば来るかなとは思ったけど」

 

「そこだけは正しかったな」

 

「いや、来たあとこんなに質問されるとは思わなかった。昼飯を奢るくらいで済む予定だった」

 

「奢るのは確定なんだ」

 

「そこはまだ交渉中」

 

「席を勝手に取った時点で終わってる」

 

言い合いながら、パドックへ向かう人の流れに入る。さっき電車で見た女の子が、父親の手を引いて前を歩いていた。畳んでいた空色の旗は、まだ広げていない。父親が何かを言うと、女の子は旗を抱え直し、大きく頷いた。

 

俺の首には借りたタオルがある。布は新しく、まだ少し硬い。隣の友人のタオルは柔らかく、歩くたびに端が揺れていた。

 

説明を聞く前なら、海外の大きなレースで圧勝する姿の方を見たいと言ったと思う。今も、世界の強豪と走る方が派手だとは思う。

 

それでも友人が見に来たのは、世界で勝った姿の続きではなかった。去年この場所で止まった、四着の続きだ。俺はまだ同じ気持ちにはなっていないが、隣で古いタオルを握るやつが何を待っているのかは、もう分からなくなかった。

 

パドックの周りは、すでに何重もの人で埋まっていた。友人は正面へ突っ込まず、外周の通路を先へ進む。少し高くなった場所で足を止めると、前の客の肩越しに、中央の歩道が見えた。

 

「去年もここ?」

 

「ここ。前の方は無理でも、紹介が終わったあとまで見やすい。今日は去年より多いな……お前、そこ立つと後ろの子が見えない。半歩こっち」

 

言われるまま位置をずらす。借りたタオルが、周囲の空色へ紛れた。

 

少し離れた一角には、赤い応援布が集まっている。レディアダマントの名前がアナウンスされると、空色に負けない歓声が上がった。赤い勝負服のウマ娘が姿を見せ、左右の客席へ丁寧に頭を下げる。

 

「あれが去年の一着?」

 

「レディアダマント。去年の直線、強かった。今日も調子がいいって記事は見たけど……まあ、記事だからな」

 

「モエが一番人気なんだろ。勝つと思う?」

 

友人は、すぐに答えなかった。歩くレディアダマントを目で追い、赤い布を振る客席へ視線を移す。次に、自分のタオルの端を指へ巻きつけた。

 

「分からん。人気はモエちゃんだけど、去年負けた相手もいるし、日本の芝で何度も負けてるのも見てる。勝ってほしいとは思う。そこを一緒にすると、あとでしんどいから」

 

最後の部分は、自分へ言い聞かせているように聞こえた。

 

電車で見た女の子は、父親に肩へ乗せてもらっていた。まだ畳まれていた旗が、今度は両手の間で広がっている。カレンモエの名前と、小さな空色の花が描かれていた。

 

次の紹介まで少し間が空く。

 

場内のざわめきが、かえって大きく聞こえた。前の列ではスマートフォンが一斉に持ち上がり、外国語の会話も止まる。友人が古いタオルの端を握り直した。

 

アナウンスが始まる。

 

『香港スプリント優勝。凱旋門賞二連覇。本年、ドバイシーマクラシック制覇——』

 

一つ読み上げられるたびに、歓声が膨らんだ。

 

紙の上で見た四つの一着。広場のパネル。大型モニターのゴール映像。ここへ来るまで、世界チャンプという言葉は、ずっとそういう大きなものの中にあった。

 

最後に、カレンモエの名前が呼ばれる。

 

友人が息を吸ったのが分かった。

 

「モエちゃーん!」

 

耳のすぐ横で叫ばれ、反射的に顔をしかめる。

 

「近いって。俺の耳を応援してどうする」

 

「位置取りが悪い。次はもう半歩離れろ」

 

「次も連れてくる気かよ」

 

友人は答えなかった。歩道の入口だけを見ている。

 

空色と黒の勝負服が、明るい場所へ出てきた。

 

見た瞬間、口に出かかったのは、ひどく単純な感想だった。

 

小さい。

 

写真や映像では、走っている姿ばかり見ていた。追う相手も、並ぶ相手も同じウマ娘だから、実際の大きさを考えたことがない。先に出てきた何人かと比べると、カレンモエは明らかに小柄だった。

 

白に近い髪。空色の中を、黒い線が一本走っている。大歓声の中へ出てきたのに、満面の笑顔を作るでもなく、少し眩しそうに目を細めている。

 

俺が勝手に想像していた世界チャンプは、もっと大きくて、近寄れない何かだった。

 

隣で友人がもう一度名前を呼ぶと、カレンモエの片耳がこちらへ動いた。少し遅れて、空色の客席へ片手が上がる。

 

世界チャンプは、空色と黒をまとった、小柄な一人のウマ娘だった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。