——The General Public《大衆》
「日曜、空けとけ。世界チャンプを見に行くぞ」
友人から連絡が来た時、俺はボクシングか何かだと思った。世界チャンプという言葉から、ほかに何を連想しろというのか。当日、待ち合わせ場所へ行くと、友人は空色のタオルを首に巻いていた。端の刺繍が少しほつれ、何度も洗った跡がある。
「そのタオル、誰の?」
「電車で話す。遅れるぞ」
行き先が中京レース場だと分かったのは、車内放送を聞いた時だった。
「ウマ娘だったのか」
「今さら?」
「世界チャンプだけじゃ分からないだろ」
「俺が誘ってる時点で気づけ」
「無茶言うな。競技名くらい先に言え」
友人は笑いながら、折り畳んだ出走表を渡してきた。今日のメインは中京記念。芝千六百。十八人。その横には、GⅢとある。そこだけは俺でも分かった。GⅠが一番上で、その下にGⅡとGⅢがある。詳しい条件までは知らないが、世界チャンプを見に行く日のメインがGⅢなのは、どう考えても変だった。
「これ、今日の出走表?」
「そう」
「GⅢに世界チャンプが出るのか」
「出る。だから連れてきたんだ」
「で、どれ?」
友人が出走表の一人を指した。カレンモエ。聞いたことがあるような、ないような名前だった。ニュースで耳にしたことはあるのかもしれない。顔も戦績も、すぐには浮かばない。
「……有名?」
「たぶん、お前でもどっかで映像は見てると思うぞ」
「覚えてない」
「多分、見りゃわかるよ」
戦績欄の海外部分だけ、文字が多かった。香港スプリント 一着。凱旋門賞 一着。その下に、もう一度、凱旋門賞 一着。ドバイシーマクラシック 一着。海外四戦四勝。
「凱旋門賞が二つある」
「連覇してるからな」
「ドバイは今年?」
「の春。香港を入れて、海外は四戦」
「全部一着?」
「そこ、太字で書いてあるだろ。四戦四勝」
ようやく、世界チャンプという言葉に現実味が出た。俺が知らなかっただけで、友人が大げさに呼んでいるわけではないらしい。車内のあちこちに、空色を身につけた人がいる。タオル、帽子、鞄につけた小さなぬいぐるみ。黒いシャツにANTI-HEROと刷られたものもあった。隣の席では、小学生くらいの女の子が父親と出走表を覗き込んでいる。
「モエちゃん、一番?」
「人気は一番だよ」
「勝つ?」
「応援しよう。勝てるといいね、モエちゃん」
俺の隣に座る友人は、何度も洗ったらしい空色のタオルを首へ巻き直した。新しいグッズではない。
「それ、いつから?」
「高松宮のあとだから……えーと……」
「高松宮?」
「国内のGⅠ。ずっと前だけどな」
「随分前から応援してるんだな」
「まぁな」
友人は窓の外を見たまま答えた。俺は出走表をもう一度開く。海外の勝ち鞍は大きい。その下に並ぶ国内戦績には、二着や四着、着外まで普通に混じっていた。世界チャンプという呼び名と、同じ紙に載っている成績とは思えなかった。
駅へ着くと、ホームから改札まで人が途切れない。競技場へ続く道には中京記念の旗が並び、その間に、カレンモエの名を大きく出した横断幕があった。
使われているのは海外の勝利写真ではない。昨年の中京記念。泥のついた顔で、前を走る赤い勝負服を追っているところだった。着順は四着。勝者の写真でも、きれいに笑っている写真でもない。
「どうして四着の写真なんだろ」
「今日も同じレース走るからだろ」
「広告なら、勝った方を使わない?」
「凱旋門の写真は、もう見飽きるほど出てるからじゃないかな?」
友人はそれだけ言い、歩く速度を少し上げた。正面広場には、今日の出走者を並べた大きな看板が立っている。中央に一番大きく置かれているのはカレンモエだった。ただし、その隣には昨年の勝者レディアダマントが同じ高さで並び、下にも多くのウマ娘たちが続いている。世界チャンプ一人の興行ではないらしい。
売店には空色のタオルや旗だけでなく、レディアダマントの赤い応援布、ほかの出走者の缶バッジも並んでいた。
「今日だけで売り切れるのか」
「モエのグッズは午前中に一回消える。赤いのも早い」
「そうなのか」
「去年、並んでる途中でなくなったから……」
友人は何も買わなかった。首に巻いた古いタオルを軽く直す。
「世界チャンプって呼ばれたのは、二度目の凱旋門賞から?」
「広まったのは、そのへん。最初の一勝だけじゃ、まだ認めない声も多かった」
「凱旋門賞を勝っても?」
友人は歩きながら、出走表の裏面を開いた。二度目の凱旋門賞の特集記事が載っている。ゴール板を越える空色の勝負服。その後ろに、国ごとに違う色の勝負服が並んでいた。
「最初の凱旋門賞だけで、世界一って呼んでいいのかって」
凱旋門賞を勝ったのに、世界一と認めない声があった。その年のカレンモエは、主役としてフランスへ渡ったわけではない。本命の前を引く役として連れていかれ、本命が回避したあとも、その役目を変えないまま走った。最後は白銀のレゾリュートを抜き返して勝った。
だが、各国の強豪すべてと走ったわけではない。自分たちの国の一番なら勝てる。自国の芝へ来れば結果は違う。そんな声が残った。
「それで、招待が来た?」
「まずドバイ。去年のシーマクラシック」
「今年勝ったやつ」
「去年は断った」
入場列が少し進む。
「何で」
「GⅢのダービー卿
聞き間違えたのかと思った。
「GⅢで?ドバイを?」
「両方は無理だったから、モエちゃんは国内を選んだ」
「GⅠより?」
「まだ勝ってない方を走るって」
「本当にそれで断ったのか」
「断った。URAからは何度も確認されたらしい」
ドバイへの辞退は、招待元へ返事を送って終わった。発表のために記者を集めたわけではない。春の出走予定にカレンモエの名前がなく、代わりに国内GⅢへの登録が出た。理由は、あとから専門紙や競技番組が追って知られるようになった。
「最初から理由は出てた?」
「いや。登録が出てから、専門紙が追った」
「海外からしたら、翻訳ミスみたいだな」
「次からは、日本の重賞日程まで調べて、遠征と帰国の予定を組んだ案がついてきた。理由を調べたんだろ」
「そこまでして呼んだのか」
「それでも、国内のレースと近ければ断った。去年は凱旋門賞以外、全部」
大きな声明も、挑発する言葉もない。届いた招待を確認し、国内の日程と比べ、行かないと返す。その繰り返しの方が、海外には理解しにくかったのかもしれない。ドバイだけではなかった。香港、アメリカ、欧州。各国の主催者が招待を出した。待遇を上げ、移動日を変え、対戦相手まで揃えた。カレンモエは一つも受けなかった。
国内のGⅡやGⅢと近い。日本の芝でもう一度走りたい。返事はその繰り返しだった。
「海外が嫌だったわけじゃない?」
「凱旋門賞だけは出るって言ってた」
「そこへ集まったのか」
「呼んでも来ないなら、自分たちが行くしかない。そう考えた子は多かったと思う」
呼んでも来ない相手が、凱旋門賞には出る。各国の強豪は、自国へカレンモエを招く代わりに、自分たちがロンシャンへ向かった。出走表の裏にある写真は、その結果だった。前年の欧州王者。ドバイで勝ったウマ娘。香港の中距離王者。アメリカから来た芝の女王。名前の横には、それぞれの国で積み上げた勝ち鞍が小さく並んでいる。
「全員、モエ目当て?」
「それだけじゃない。でも、取材で名前を挙げる子は多かった」
「で、全員に勝った」
「今度は、『あの子がいなかった』とは言えなくなった」
二度目の凱旋門賞以降、世界チャンプという呼び方が広がった。公式の順位表があるわけではない。どこかの団体が認定した称号でもない。ただ、誰が今一番強いかという話になった時、別の名前を出す者が減った。海外へ出れば負けない。呼んでも来ない。来ると分かった場所には、各国の一番が集まる。それでも勝つ。
「それで今年は?」
「招待がもっと増えた。で、今年は
「空いた?」
友人が今年の番組表を見せた。春のドバイシーマクラシック。その前後に、去年は近かった国内GⅢがない。夏のキングジョージ。その二週間前に、今日の中京記念がある。
「去年、中京記念は?」
「キングジョージと同じ週」
「今年は二週前」
「そう」
「モエのために?」
「公式には、国際競走との日程調和。
「それ、否定してないだろ」
「本人も同じこと言ったらしい。今年は空いてたからドバイへ行った」
友人が鞄から空色のタオルを出し、こちらへ差し出した。
「何これ」
「応援用。一本余ってる」
「ファンじゃないが」
「空色の辺りに座るから、何もないと目立つぞ」
「区画まであるのか」
「ないよ。勝手に集まってるだけ。何年か同じ辺りを取ってたら、そうなった」
世界チャンプという呼び方と似ていた。誰かが決めたわけではないのに、人が集まると場所までできる。断る理由もないので、首にタオルを巻いた。友人は少し満足そうにしていた。
国内の日程と離れていたから。それだけで、去年断ったドバイシーマクラシックへ出た。そして勝ち、帰国した。次に選んだのが、今日の中京記念だった。広場の大型モニターで、ちょうど特集映像が始まる。
海外四戦四勝。世界チャンプ、再び日本芝へ。
香港、二度のロンシャン、ドバイ。ゴール場面が順に流れる。海外の直線では、カレンモエは踏んだ分だけ前へ出ていた。体が上下へ揺れず、ほかのウマ娘が苦しくなるほど、同じ形で走り続ける。映像が昨年の中京記念へ切り替わる。
同じ空色の勝負服なのに、走り方が違うのはわかった。
直線で何人かを抜きながら、先頭へ届かず四着でゴールした。
「去年の映像だな。モエちゃんここで負けてる」
「四着」
「だからまた?」
「そう。俺が見せたかったのは、勝った方じゃなくてこっち」
友人は海外の勝利映像ではなく、四着で止まった画面を見ていた。
「去年もいた?」
「いた。めちゃくちゃ応援してた」
「目に浮かぶわ」
昨年の映像では、カレンモエが四着の表示を見上げている。悔しそうに顔を歪めるでもなく、笑って誤魔化すでもない。しばらく数字を見たあと、自分の足元を一度見て、地下通路へ戻っていった。
「海外であれだけ走れたから、日本でも前よりはって」
「負けて、がっかりした?」
「した。かなり」
「それでも来た」
「本人が戻ってきたから。二度目の凱旋門賞まで勝ったら、もう来ないと思ってたんだけどな」
今年の出走発表が出た日、友人はすぐに席を取ったらしい。
「俺の分も先に?」
「二枚取った」
「断ったら?」
「誰か連れてくるつもりだった。でも、お前なら来ると思って」
「まんまと来たな」
「おう、よかったわ」
自分では分からない。友人には、期待どおりだったらしい。世界で勝ったから、国内の負けは小さくなった。そう考えることもできる。カレンモエは、そうしなかった。四着だった場所を残したままにせず、もう一度出走欄へ名前を置いた。
「海外まではさすがに行けないけど、今年の中京はここで見れるから」
説明を聞く前なら、負ける可能性のあるGⅢより、海外の大レースを見たいと思ったはずだった。今は、少し違う。世界で一番と呼ばれても、まだ終わっていないことを持っている。そのウマ娘が、苦手な場所へ戻ってきた。パドックへ向かう人の流れが太くなる。さっき電車で隣にいた女の子が、父親の手を引いて前を歩いていた。空色の旗は、まだきれいに畳まれている。
勝つと決まっているから持ってきたのではない。勝つかどうかを見届けてから、広げるつもりなのだろう。俺も出走表を畳み、友人のあとへ続いた。