パドックの前は、すでに何重もの人で埋まっていた。友人は人の流れから外れ、外周の通路を先へ進む。少し高くなった場所で止まると、前の人の肩越しにランウェイと準備用のスペースが見えた。
「去年来た時もここで見たの?」
「うん。ここなら、紹介が終わったあとも結構見えるからな」
「ずいぶん後ろだけど」
「今日も人が多い。見えるだけでありがたいよ」
首に巻いた空色のタオルが、急に借り物らしく感じられた。周りには同じ色がいくらでもある。少し離れた一角には赤い応援布が並び、赤い勝負服のウマ娘が出てくると、空色に負けない歓声が上がった。
後ろでは外国語らしい会話も聞こえる。モエの海外戦績を見に来た人なのか、それとも別の出走者を追って来たのかは分からない。国内GⅢのパドックにしては、いろいろな国から人が来ているように見えた。
「あれがレディアダマント?」
「去年の一着。モエちゃんは四着」
レディアダマントは左右の客席へ頭を下げ、ゆっくり歩き出した。足を置くたびに腰の位置がぴたりと決まり、止まっても体が揺れない。昨年の映像では勝負服の色しか追えなかったが、近くで見ると、走る前から軽そうだった。
「一番人気はモエなんだよな」
「人気はモエちゃん」
「勝つと思う?」
友人はレディアダマントの足元を見たまま、少し間を置いた。
「……勝ってほしい」
電車で隣にいた女の子が、父親の肩へ乗せてもらっていた。畳まれていた空色の旗は、今は小さな両手の間で広がっている。
次の紹介まで、少し長い間が空いた。スマートフォンが一斉に持ち上がり、俺の隣では、友人が古いタオルの端を握り直す。
『香港スプリント優勝。凱旋門賞二連覇。本年、ドバイシーマクラシック制覇——』
一つ読み上げられるたび、歓声が大きくなった。最後にカレンモエの名前が響く。屋根に返った声が重なる。その中でも、友人の叫びだけは耳のすぐ横から飛んできた。
「モエちゃーん!」
「近いって」
「近くにいるお前が悪い」
「理不尽」
空色と黒の勝負服を着たウマ娘が、ランウェイへ出てきた。
小さい。
写真では比べる相手がいなかったので分からなかったが、先に紹介されたウマ娘たちより明らかに小柄だった。細い脚に対して、淡い空色のシューズだけが妙に大きい。
「あれが世界チャンプ?」
「そう」
「もっと大きいと思ってた」
「俺も最初はそう思った。走り出すと気にならないけど」
アナウンスは、まだ海外での勝ち鞍を読んでいる。カレンモエの右耳が少し後ろへ向いた。
「機嫌悪い?」
「海外の話が長いからじゃないか」
「勝ったのは海外で、国内とは関係ないから」
「本人が言ったの?」
「前に、似たようなことを」
ようやく中京記念と枠順が読み上げられる。後ろを向いていた耳が戻り、友人が笑った。
「ほら」
「本当に戻ったな」
カレンモエが観客席へ片手を上げる。口元を少し緩めただけで、周囲からまた名前が飛んだ。笑顔より、足元のシューズの方が気になる。
「あの靴、かなりごついな」
「去年より厚くなってると思う」
「見て分かるのか」
「形は。詳しい仕組みまでは知らんが」
「日本の芝で沈みすぎるから?」
「そういう記事は読んだ。踏み込みが強すぎるから、靴で少し逃がしてるって」
紹介を終えたカレンモエは、準備スペースへ戻った。黒い髪の男が待っている。担当トレーナーだろう。何か言われたモエは、嫌そうな顔をしながら右足を強く踏んだ。
腰が落ちる。
左足が出るまで、ほんの少し間があった。
今度は数歩だけ走る。右足が沈み、上体が前へ傾く。二回目は、体が戻り切る前に左足が前へ出た。
「今の、何を見てるんだ」
「今日の状態だろ。どれだけ沈むか確認してるんじゃないか」
友人の言い方は、電車で戦績を話していた時より慎重だった。長く応援していても、トレーナーと同じものが見えているわけではないらしい。
レディアダマントも、近くで短く走った。こちらは踏んでも腰が落ちない。止まった次の瞬間には、もう向きを変えて戻っている。同じ芝なのに、確かにカレンモエだけが一歩ずつ足を取られているように見えた。
パドックを離れ、スタンドへ移る。友人が取っていた席は、空色のタオルが集まる一角の端だった。決められた区画ではないはずだが、周囲の何人かと軽く頭を下げ合っている。
「知り合い?」
「顔だけ。なんだかんだ顔見知りになる。 モエちゃんが走る日に来れば、だいたいいるから」
後ろの列では、赤い応援布を持った人と空色のタオルを巻いた人が、昨年の直線について話していた。応援する相手が違っても、互いの名前と走りは知っているらしい。
借りたタオルを巻いただけの俺は明らかに場違いだった。それでも、誰もこちらを気にしない。ゲート入りが始まると、さっきまで話していた人たちも、そろって前を向いた。
十八人が一斉に飛び出す。
レディアダマントは前の集団へ入った。先頭から少し離れた外側。周りに囲まれず、直線で動く場所を最初から残しているように見える。
カレンモエは、ほとんど最後方だった。集団から一人ぶん離れた外を走っている。
「後ろすぎない?」
「日本じゃ、だいたいあそこ」
「ドバイの時は、もっと前だろ」
「前に出たら、最後まで脚がもたない」
向こう正面へ入っても、位置は変わらない。遅れてはいないが、一歩ごとに体が沈み、周りより大きく上下している。パドックで見た右足の動きが、遠目にも分かった。
先頭のウマ娘たちは、足運びまで軽く見える。カレンモエだけが芝を深く踏み、細かく土を跳ね上げていた。海外の映像では、同じ走り方が大きな推進力に見えた。今日は、前へ進む前に地面を押し込んでいる。
ほかのウマ娘は、隊列の中で少しずつ場所を変えていた。前へ出る者、内へ入る者、後ろへ下がる者。カレンモエだけは集団の外を走り、一人分の空間を残している。
「外を回りすぎじゃないか」
「中で詰まるのが嫌なんだろ」
「余計に走ることになる」
「そうなんだけど……まあ、どっちも楽じゃない」
先頭の速度が上がる。レディアダマントは前との差を詰め、外へ出られる位置を保ったまま第三コーナーへ入った。
カレンモエはまだ動かない。
観客席から、少しずつ声が出始める。
「まだだよ、モエちゃん!」
「外、空いてる!」
「そこから来い!」
友人は叫ばなかった。両手でタオルを握り、前だけを見ている。
「まだ?」
返事がない。
「おい」
「……まだ」
残り六百。先頭集団が最終コーナーへ入り、カレンモエとの差が一度広がる。俺にも、これは届かないと思えた。
「間に合う?」
「分からんよ」
「さっきから、そればっかりだな」
「そりゃそうだろ。分かってたら、こんなに緊張してない」
友人の手の中で、古いタオルが細くねじれていた。
最終コーナーの出口で、カレンモエが外へ出た。
右足を踏む。腰が落ちる。
その瞬間、前との差がまた開いた。
次の左足が出る。
体が起きるより先に、左膝が前へ運ばれた。沈んだ姿勢のまま次の一歩へ移り、さっき開いた差を戻している。
「出た」
友人が立ち上がる。
「何が?」
「左。体が起きるの、待たなかった」
カレンモエが一人を抜き、もう一人へ並ぶ。外へ出してからは、進路を変えない。空色が、赤い勝負服の背中へ近づいていく。
残り三百。レディアダマントが先頭へ立った。赤い応援布が一斉に上がり、空色の一角からも名前が飛ぶ。
「モエちゃん!」
「レディアダマント、行け!」
俺も立っていた。タオルが首からずれたが、直している余裕はない。
カレンモエは二番手まで上がる。レディアダマントとの差は、まだ半身ほどある。
右足が沈む。
左足が出る。
差が縮む。
赤が、もう一度前へ出る。空色も踏む。海外の映像のように一気に抜き去るのではなく、沈むたびに取り返しながら、少しずつ並んでいく。
残り五十。
二人の肩が揃った。
「行け!」
自分の声が出たことに、あとから気づいた。
ゴール板を、空色と赤がほとんど同時に通り過ぎる。判定中の表示が出ると、観客席の声が急に小さくなった。
大型モニターに、最後の直線が繰り返し映る。正面からでは分からない。横から見ても、二人の頭はほとんど同じ位置にある。
二回目の映像で、パドックで見た動きと同じだと分かった。カレンモエの右足が沈む。上体はまだ低い。それでも左足が出て、レディアダマントとの間を開かせていない。
「去年は、あそこで離された?」
「少しずつな」
「今日は離れてない」
「うん」
着順が表示される。
一着、カレンモエ。
二着、レディアダマント。
着差、ハナ。
一瞬遅れて、空色の一角から歓声が上がった。友人は両手で顔を覆い、すぐに下ろす。何度も首を振りながら、着順表示を見上げていた。
「勝った」
「見れば分かる」
「いや、分かってるけど。勝った」
返事になっていなかった。
友人は何度も「よし」と言いながら、俺の肩を叩いた。前の方では、電車で見た女の子が父親の肩の上で旗を振っている。赤い一角ではレディアダマントの名前が呼ばれ、空色の側からも拍手が返った。
レディアダマントは息を整えると、赤い応援席へ深く頭を下げた。続いて空色の客席へも向き直り、もう一度頭を下げる。俺も周りに合わせて手を叩いた。
赤い一角の声は最後まで途切れず、空色の側もレディアダマントへ拍手を送っていた。
大型モニターには、ゴール後のカレンモエが映る。両膝へ手をつき、何度も息を吸っている。顔には芝と土がつき、勝った直後なのに笑っていない。
しばらくして顔を上げ、着順を確認する。一着に自分の名前があるのを見て、ようやく口元が少し緩んだ。
「今、喜んでる?」
「かなり」
「あれで?」
「去年より全然マシだ」
レース後のウイニングライブでは、カレンモエはもう背筋を伸ばしていた。カメラの位置を一度で捉え、左右の客席へ順番に手を振る。そのたび、その方向から歓声が返った。
レディアダマントも隣で踊っている。ゴール前では一歩も譲らなかった二人が、今は同じ振り付けを揃えていた。曲の途中で視線が合い、レディアダマントが先に笑う。カレンモエも少し遅れて口元を上げた。
「さっきと別人だな」
「ライブはいつもこう」
「あんな顔できるなら、パドックでも笑えばいいのに」
「本人に言ってみろ。たぶん、すごく嫌な顔されるぞ」
「……そっちはなんか想像できるな」
友人はそう言いながら、誰より大きくタオルを振った。
曲の途中、カレンモエがこちらの一角へ顔を向ける。周りにつられて、俺も名前を呼んだ。一度目は声が裏返った。隣で友人が笑う。
「……笑うな」
「あと1回、チャンスがあるぞ!」
言われるまま、もう一度呼ぶ。今度は、周りの声に少し混ざれた。
ライブが終わり、人の流れに乗って出口へ向かう。借りたタオルを外そうとすると、友人がこちらを見る。
「返すの?」
「借り物だし」
「うーん、余ってるし、次も行くなら使ってていいよ。そのうち買ったら返してくれれば」
「次って、確かキングジョージ?」
「まぁ、海外いれるならそうだな」
「流石に無理だ」
「だろうな」
少し歩いてから、俺はタオルをもう一度首へ戻した。
「また日本で走る時、教えてくれ」
「自分で調べた方が早いと思うけども……」
「カレンモエで検索すればいいんだろ?」
「お、ちゃんと覚えたな」
「今日何回も呼んだから、流石にな」
名前は、もう出走表を見なくても出てきた。借りたタオルは、そのまま首に残しておいた。返すのは、次でいい。