「……思ってたより、小さいな」
口にした途端、友人がこちらを見た。
「聞こえるところで言うなよ」
「いや、ここからじゃ聞こえないだろ」
「ウマ娘の耳、甘く見るなよ。聞こえてたら、あの顔でこっち見られるぞ」
「機嫌悪い前提なんだ」
「見れば分かる」
分からなかった。カレンモエは観客席へ片手を上げ、ほんの少しだけ口元を緩めている。歓声はそれだけで一段大きくなった。
場内アナウンスは、香港、二度の凱旋門賞、ドバイと海外での勝ち鞍を順に読み上げていく。そのたびに彼女の右耳が後ろへ傾き、中京記念と枠順の紹介へ移ると元へ戻った。
「……今のは、ちょっと分かった」
「だろ。海外の話、長いんだよ」
「全部勝ったんだから、紹介されるのは仕方なくないか」
「本人は今日の話をしろって思ってるんじゃないか。前にも似たような顔してた」
友人はそう言ったが、本人から聞いたわけではないらしい。カレンモエの表情を追いながら、自信のないところだけ声が少し落ちた。
紹介を終えた彼女は、ランウェイ脇の準備スペースへ戻った。黒い髪の男が待っている。パンフレットの写真で見た担当トレーナーだった。
何か言われたカレンモエが、露骨に嫌そうな顔をする。それでも指示には従い、右足をその場へ強く踏み込んだ。
腰が沈んだ。
靴底が芝へ食い込み、上体まで引かれる。そこから左足を出すまで、ほんのわずかに間があった。
「今の、何してる?」
「足元の確認だと思う。たぶん」
「また、たぶん」
「俺はトレーナーじゃないんだから仕方ないだろ。記事で読んだことしか知らんよ」
黒髪の男が短く何かを告げる。カレンモエはもう一度、今度は数歩だけ走った。
右足が沈む。体が低くなる。
二歩目では、上体が戻り切るより先に左膝が前へ出た。さっきより流れが途切れない。本人は止まるとすぐ男へ何か言い、男も足元を見たまま答えている。
「今のは?」
「二回目の方が早かった。左を出すのが」
「そこまで見えるのか」
「見えるっていうか、去年はああならなかったから。たぶん……いや、映像でもう一回見ないと分からん」
言い切らず、友人は古いタオルの端を指で撫でた。
レディアダマントも同じ場所で短く足を動かしている。こちらは踏み込んでも腰の高さが変わらず、芝の上を滑るように次の足が出た。
同じレース場、同じ芝なのに、カレンモエだけが一歩ごとに地面へ引き留められている。
それを見ても、一番人気の表示は変わらなかった。
~
席は、空色のタオルが集まる一角の端だった。
指定された応援区画ではないらしい。友人は近くの何人かと目が合うたび、小さく頭を下げている。
「知り合い?」
「名前までは知らない。モエちゃんが国内で走る日に来ると、だいたい同じ辺りにいるから」
「それ、もう知り合いじゃないのか」
「向こうが俺を覚えてるか分からないし。まあ、さっき会釈返ってきたから、たぶん覚えられてる」
少し後ろでは、赤い応援布を持った男性が、空色のタオルを巻いた女性と昨年の直線について話していた。応援する相手は違っても、互いの推しているウマ娘がどう走るかは知っているらしい。
俺だけが借り物の色を首に巻いている。場違いなはずなのに、周りの誰も気にしていなかった。
ゲート入りが始まると、話し声が一つずつ消えていく。
大型モニターに十八人が映った。赤い勝負服のレディアダマント。空色と黒のカレンモエ。ほかにも一人ずつ名前を呼ばれていたはずなのに、見つけられるのは前編で教えられた二人だけだった。
ゲートが開く。
十八人が一斉に飛び出した。
レディアダマントはすぐ前の集団へ入った。先頭に立つわけではなく、少し外へ余裕を残した場所にいる。周りに囲まれても、いつでも横へ出られそうに見えた。
カレンモエは後ろだった。
後ろというより、最後方の集団からさらに一人ぶん外へ離れている。
「遅れてない?」
「出遅れではない。日本だと、だいたいあそこから」
「ドバイではもっと前にいたよな。さっき映像で見た」
「今日はあの走り方ができないんだよ。前へ行ったら、たぶん最後がなくなる」
「たぶんばっかりだな」
「今日は本当に分からん。去年より良くなってるって記事は出てたけど、勝てるまでとは誰も書いてない」
向こう正面へ入っても、位置はほとんど変わらない。
先頭に近いウマ娘たちは、足が芝の表面を弾いているように見えた。カレンモエだけは、一歩ごとに体が沈む。蹴った土が細かく後ろへ飛び、腰が上下するたび、前へ進む力まで使い切っているようだった。
海外の勝利映像では、同じ踏み込みが前へ押し出す力に見えた。
今日の芝では、前へ進む前に力のいくらかが下へ抜けているように見える。
ほかのウマ娘たちは、集団の中で少しずつ位置を変えた。内へ入る子、前へ上がる子、後ろへ下がる子。カレンモエは外側の空間を保ったまま、誰の後ろにも入らない。
「外を回りすぎじゃないか。距離、余計に走るだろ」
「中に入って詰まる方が嫌なんだと思う。あの子、一回止まるともう一度出すのが重いから」
「それも記事?」
「去年、ここで見た」
友人はモニターを見たまま答えた。
第三コーナーへ入る。前の集団が少しずつ速くなり、レディアダマントが外側から差を詰め始めた。
カレンモエは動かない。
観客席のあちこちから、まだだ、行ける、外が空いている、と声が飛び始める。誰も同じことを言っていないのに、焦りだけは揃っていた。
友人は叫ばなかった。古いタオルを両手で掴み、口を閉じている。
「まだ?」
返事がない。
こちらを見ないまま、握った手に力が入った。
「なあ、これ、本当に間に合うのか」
「分からん。分からんけど、今動いてもたぶん……」
そこで言葉が切れた。
残り六百。先頭集団が最終コーナーへ入り、最後方との差が一度大きく開く。
俺にも、届かないように見えた。
「去年も、こんな感じだった?」
「去年は、ここから上がって四着。だから待ってる。待つしかない」
友人の手の中で、タオルが細くねじれていた。
最終コーナーの出口で、空色が外へ膨らんだ。
カレンモエが右足を踏む。
腰が落ちた。
その一歩だけで、前との差がまた広がる。
次の左足が出た。
体を起こし切ってからではない。低い姿勢のまま膝が前へ運ばれ、沈んだ体ごと次の一歩へ進んでいる。
「出た」
友人が立ち上がった。
「何が?」
「左。今、起きるの待たなかった」
さっき準備スペースで見た動きだった。
右足が芝へ沈む。上体が低くなる。それでも左足は止まらず、前へ出る。
カレンモエが一人を抜いた。続けてもう一人へ並ぶ。外へ出てからは進路を変えず、空いた場所をまっすぐ走ってくる。
周囲の声が一気に大きくなった。
「来た!」
「モエちゃん、外!」
「そのまま!」
残り三百。
レディアダマントが先頭へ立つ。赤い応援布が一斉に上がり、スタンドの別の場所から彼女の名前が何度も飛んだ。
空色の一角も、すぐに声を返す。
カレンモエは二番手まで上がっていた。それでも、レディアダマントとの間には半身ほど残っている。
右足が沈む。
左足が先に出る。
半身が、少し縮む。
レディアダマントがもう一度前へ出た。こちらは足が軽い。地面に触れた次の瞬間には、もう次の一歩へ移っている。
カレンモエは違った。沈むたび、追いつくまでに余計な力を使う。それでも体を起こしている時間だけを削り、離されかけた分を一歩ずつ戻していく。
海外の映像のように、まとめて抜き去る走りではない。
今日の彼女は、失った半歩を何度でも取り返していた。
残り百。
赤と空色が並びかける。
周りが何を叫んでいるのか、もう聞き分けられなかった。友人も何か言っている。前の席の誰かが立ち、視界の下半分が隠れる。
俺も立っていた。
残り五十。
二人の肩が揃う。
「行け!」
声が出てから、自分が叫んだのだと分かった。
レディアダマントが首を前へ伸ばす。カレンモエも最後の一歩を踏み込み、二人はほとんど同時にゴール板を通り過ぎた。
判定中の表示が出る。
さっきまで揺れていたスタンドが、急に静かになった。
誰かの荒い息と、遠くでまだ続いている実況だけが聞こえる。友人は立ったまま、タオルを握りしめていた。
大型モニターに直線の映像が映る。
一度目は正面。分からない。
二度目は横。赤と空色の頭がほとんど重なっている。
三度目で、俺はカレンモエの足元を見た。
右足が沈み、腰が落ちる。以前ならそこで体を起こしていたのだろう。今日は低いまま左足が出て、レディアダマントとの間を広げさせていない。
「去年は、あそこで離れた?」
「一気にじゃない。半歩ずつ、ずっと。最後には届かなくなった」
「今日は、離れてない」
友人は返事をしなかった。
大型モニターの表示が切り替わる。
一着、カレンモエ。
二着、レディアダマント。
着差、ハナ。
空色の一角が、一瞬遅れて弾けた。
友人は両手で顔を覆った。すぐに下ろし、もう一度表示を見て、それでも足りないように首を振る。
「勝った。今、勝ったよな」
「一着って出てる」
「見えてる。見えてるけど、ちょっと言わせろよ。勝った」
最後の一言は、俺ではなく画面へ向いていた。
友人は何度も頷き、俺の肩を強く叩いた。痛いと言う前に、前の方で小さな空色の旗が振られているのが見えた。
電車で隣にいた女の子だった。父親の肩の上で、両手をいっぱいに伸ばしている。
赤い応援席からは、レディアダマントの名前が途切れずに続いていた。空色の側からも、自然に拍手が起こる。
レディアダマントは息を整えると、自分の応援席へ深く頭を下げた。それから空色が集まるこちらへ向き直り、もう一度頭を下げる。
友人が先に手を叩いた。俺も続いた。
大型モニターには、ゴール後のカレンモエが映っている。
両膝へ手をつき、肩を大きく上下させていた。顔には芝と土がつき、髪も頬へ張りついている。世界チャンプと呼ばれるウマ娘は、勝った直後なのに観客へ笑う余裕もなかった。
やがて顔を上げ、着順表示を確かめる。
自分の名前が一番上にあるのを見てから、口元がほんの少しだけ緩んだ。
「今の、笑った?」
「笑った。かなり喜んでる」
「あれで、かなり?」
「去年は表示見て、そのまま帰ったからな。今日は全然違う」
友人は笑いながら、目元をタオルの端で拭いた。
~
ウイニングライブが始まる頃には、カレンモエの顔から土は消えていた。
空色と黒の勝負服を整え、背筋を伸ばしてステージへ出てくる。さっきまで膝に手をついていたとは思えない。最初のカメラが寄るより早く顔を向け、客席へ笑いかけた。
歓声がまた大きくなる。
「別人みたいだな」
「ライブになると、いつもああだよ」
「足、まだ重いだろ」
「重くてもやる。そういうところは、俺もよく分からん」
「お前でも分からないのか」
「ファンだからって、何でも知ってるわけじゃないって」
レディアダマントも隣で踊っている。
ゴール前では互いに一歩も譲らなかった二人が、今は同じ曲に合わせて腕を上げ、同じところでターンする。途中で視線が合うと、レディアダマントが先に笑った。
カレンモエは一瞬だけ競う時の顔へ戻り、それから負けじと笑い返した。
「あれ、張り合ってない?」
「張り合ってるな。たぶん、今のはライブの顔じゃない」
「ライブ中に?」
「レディアダマントが先に笑ったから。モエちゃん、負けたと思ったんじゃないか」
「笑顔でも勝負するのか」
「知らん。俺にはそう見えた」
ステージのカレンモエが、空色の一角へ顔を向けた。
周りが一斉に名前を呼ぶ。隣の友人は、今日一番大きな声を出していた。
つられて俺も口を開く。
「モエちゃーん!」
声が裏返った。
友人が吹き出す。
「笑うな」
「悪い。初回でそれだけ出れば十分だろ」
「初回扱いするな。もう一回あるのか」
「次、こっち向いた時。今度は腹から出せ」
「急に指導者になるなよ」
それでも、次にカレンモエがこちらへ手を振った時、もう一度名前を呼んだ。
今度は声が裏返らなかった。周りの何百という声の中へ混ざり、どこまで届いたのかは分からない。
ステージの上で、空色の袖がこちらへ揺れた。
曲が終わるまで、借りたタオルを振り続けた。
ライブが終わり、人の流れに乗って出口へ向かう。
首のタオルを外しかけると、友人が気づいた。
「返す?」
「今日返すつもりだった」
「だった?」
「また日本で走る時、連絡して。海外は無理だけど、国内なら予定が合えば行く」
友人は少し黙ったあと、俺の手にあるタオルを見た。
「連絡はするけど、自分でも調べろよ。俺が忘れたら終わるぞ」
「何で誘った側が急に雑になるんだ」
「もう名前は覚えただろ。カレンモエで検索すれば、たぶん俺より早い」
「そこまで分かってる。次の国内戦がいつか聞いてるんだよ」
「まだ発表されてない。キングジョージから帰って、それからだな」
「じゃあ、発表されたら送れ」
「結局、俺に頼るのかよ」
「目の前に詳しいやつがいるのに、わざわざ調べるの面倒だろ」
「今日まで競技名も知らなかったくせに、態度だけ育つの早いな」
言い返しながら、俺はタオルをもう一度首へ巻いた。
駅へ向かう列の中でスマートフォンを開く。検索欄へ入れたのは、もう「世界チャンプ」ではなかった。
検索結果が出ても、借りた空色は首から外さなかった。