11月下旬。季節外れの冷たい雨が、トレセン学園の窓を叩いている。
阪神ジュベナイルフィリーズが近づいている。トレーナー室の壁のカレンダーには、レースまでのカウントダウンが赤いペンで書き込まれている。
部屋の明かりを消した。モニターの光だけが、絢原さんと私の顔を照らしている。
「まずは、ウオッカだ」
絢原さんが左端のモニターを再生した。先日行われた黄菊賞。芝2000メートル。
『スタートしました! ……おっと、ウオッカ出遅れた!』
ゲートが開いた瞬間、ウオッカの体が浮き上がって、タイミングが遅れた。最後方。
……下手くそ。
でも、目が離せなかった。
道中、ウオッカは馬群の後方でじっとしている。掛かる様子もない。何かを待っているような、不気味な静けさ。
2000メートル。私がデビュー戦で挑んで、跳ね返された距離。
『第4コーナーを回って、直線!』
ウオッカが外に持ち出した。
その土の跳ね上がり方を見た瞬間、体が強張った。
速い。いや、重い。一歩一歩のストライドが巨大で、地面を叩く力が桁違いだ。前を行く子たちを次々と飲み込んでいく。坂を苦にする素振りすらない。むしろ坂を登り切ってからさらに伸びている。
『ウオッカ突っ込んでくる! 届くか! 届くか!』
結果、ハナ差の二着。出遅れが響いた形。ゴール後、ウオッカは肩で大きく息をしていたけれど、悔しそうに、でも楽しそうに笑っていた。2000メートルを全力で走った後だというのに。
「……化け物だね」
「ああ。スタミナとパワーは世代で一番だろう」
絢原さんが短く言った。
「阪神のマイルなら、あの出遅れを帳消しにして差し切る可能性がある」
2000メートルを走り切って、最後にあの末脚。私には逆立ちしたってできない。
「……次」
絢原さんが中央のモニターを再生した。小倉2歳ステークス。芝1200メートル。
アストンマーチャン。私のルームメイト。
スタートからゴールまで、完璧だった。
『アストンマーチャン、逃げる! リードを広げる!』
この子の走りは、私とは違う。独特のピッチ走法で刻まれるリズムがメトロノームみたいに正確で、そして速い。コーナーワークも完璧。スタミナ配分も完璧。つけ入る隙がない。
残り200メートル。独走状態に入ったマーチャンが、ふと顔を上げた。
カメラを見た。
コース脇の中継カメラのレンズと、視線を合わせた。全力疾走の最中に。
背筋が冷えた。
「……レース中に、カメラ目線……?」
「本人は真面目にやってる。勝つのは前提で、その上で自分を見せようとしている」
ゴールイン。圧勝。全力を出し切ったはずなのに、すぐに姿勢を正してカメラに手を振っている。
ウオッカは分かる。熱くて、不器用で、強い。
こっちは底が見えない。
「あいつは短距離だけじゃない。マイルもこなせる」
絢原さんが言った。
「ペースを握られたら厄介だ」
モニターの中のマーチャンが笑っている。にこにこ笑っている。毎朝一緒にご飯を食べている子が、あの顔をしてレースを走っている。
「……最後」
絢原さんが右端のモニターをつけた。
映し出されたのは、ダイワスカーレット。オープン戦の映像。1800メートル。
『スタートしました! ダイワスカーレット、好スタート!』
完璧な飛び出し。ウオッカみたいな出遅れはない。私みたいな掛かりもない。二番手をキープして、折り合いは完璧。無駄な動きが一切ない。
『第4コーナー! ダイワスカーレット、先頭に並びかける!』
早め先頭。直線に入って、もう一段ギアを上げた。
突き放す。突き放す。誰もついて来られない。
ゴール板を通過した時、二着との差は五馬身以上開いていた。全力を尽くして、相手を完膚なきまでに叩き潰した走り。なのに立ち姿は崩れない。
何も言えなかった。
ウオッカのパワーにも驚いた。マーチャンの不気味さにも怯えた。でも、スカーレットの映像の前では、ただ黙った。
スピードがあり、スタミナがあり、レース運びも完璧。私が喉から手が出るほど欲しくて、手に入らなくて、もがいているもの。距離という壁を、才能と努力で飛び越えている。
「……悔しいけど」
声を絞った。
「……完成度が、違いすぎる」
拳を握った。
「あいつが阪神JFに出ない理由、分かった。マイルで勝つなんて当たり前だから。つまらないから。だから2000メートルに行くんだ。クラシック三冠路線に喧嘩を売りに行くんだ」
それは、私がやりたくてもできなかったことだ。
「……ムカつく。ほんと、ムカつく」
絢原さんがモニターの電源を落とした。暗転した画面に、二人の顔が映り込んだ。
「スカーレットは今回いない。お前が戦うのはウオッカとマーチャンだ」
「……分かってるよ」
立ち上がった。
「スカーレットがいない阪神JFなんて、空き巣だとか言われるかもしれない。関係ない」
三つの暗いモニターを見渡した。
「私が一番速い。それを証明して、頂点を獲る」
絢原さんが頷いた。
「対策を練り直す。座れ」
「うん」
窓の外で、雨がまだ降っている。
絢原さんがモニターをもう一度つけた。ウオッカの映像を巻き戻している。
準備を始めた。決戦まで、あとわずか。
誤字報告、評価や、感想、ここすきなど、よろしくお願いいたします。