アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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ここで一区切り。


最終話 私は私 後編

——Anti-Hero: Curren Moe

 

ウイニングライブを終えて控室へ戻り、ドアが閉まったところでステージ用の笑顔をやめた。

 

頬が疲れている。レースのあとに歌って踊り、最後まで笑って手を振るところまでが勝者の仕事らしい。走るだけで終わらせてくれない辺り、ウマ娘は面倒だ。

 

机の上には、紙パックのミルクティーが一本あった。いつもの銘柄で、ストローは袋から出して添えられている。

 

「ありがと、トレーナー」

 

自分でも少し甘い声になった。

 

別に作ったわけではない。勝った直後くらい、皮肉を一枚挟まずに礼を言ってもいいと思っただけだ。

 

絢原さんが、持っていたタオルを広げながらこちらを見る。

 

「どういたしまして。今日は素直だな」

 

「勝ったのに文句から始めるほど、性格悪くないよ。……髪もお願い」

 

「礼のあとに追加が来た」

 

「そっちも素直に頼んでるでしょ」

 

ミルクティーへストローを刺し、椅子へ座る。絢原さんは呆れたように息を吐きながら、私の髪へタオルを被せた。

 

ステージ用に固めた毛先が絡んでいる。強く引かないように指で解き、耳の後ろへ張りついた髪を外していく手つきは、もう慣れたものだった。

 

「もう少し優しくして」

 

「引っ張ってないだろ」

 

「手じゃなくて、気持ちの話」

 

「難しい注文だな」

 

「今日勝ったんだから、ちょっとぐらい甘やかして貰わないと」

 

次に髪へ触れた手が、ほんの少しだけ軽くなる。

 

こういうところは言うことを聞く。本人は聞いたつもりがない顔をしているけれど、私には分かる。

 

「紹介、長すぎ。香港からドバイまで全部読む必要あった? 今日走るの、中京記念なんだけど」

 

「耳に全部出てたよ」

 

「見てたなら止めて。海外の実績は言わなくて良いって、横から言えばよかったでしょ」

 

「俺が会場の進行を止めたら、次から控室へ入れてもらえなくなるなあ」

 

「じゃあ、次までに別の方法を考えて」

 

「広報には伝える。勝ちレースを全部省くのは無理だと思うけどな」

 

「全部消せとは言ってない。今日のレースより前置きが長いのが嫌だって話」

 

「そこは俺も同意するよ」

 

絢原さんがタオルを持ち替えた。

 

以前なら、こういう話をする時も机を挟んでいた。

 

今は、私の椅子が最初から絢原さんの机の横にある。資料を一緒に見る時だけ寄せていたはずなのに、いつからか戻さなくなった。絢原さんも邪魔だとは言わず、自分の椅子を少し動かして私の場所を空ける。

 

最初の凱旋門賞から、もう二年近い。

 

椅子一つ。帰り道の半歩。食事の一回。急に近づけば構えられるから、気づかれないくらいずつ詰めてきた。

 

絢原さんは、私が横にいる方が資料を見やすいからだと思っている。たぶん、まだ。

 

タオルの端をつかみ、絢原さんの手ごと少し下げる。

 

「もういい。こっち座って」

 

「まだ耳の後ろが濡れてるー」

 

「じゃあ、座って続けて」

 

「注文が増えてないか?」

 

「今日は聞いていい日なの」

 

絢原さんは何か言い返しかけ、結局、隣の椅子へ座った。

 

私は少しだけ体を傾け、その肩へ頭を預ける。タオルを動かしていた手が一度止まったが、離されなかった。

 

「疲れた?」

 

「レースでね。ライブは大したことないよ。今はちょっと、こうしてたいだけ」

 

「そうか」

 

それ以上は聞かず、絢原さんはまた髪を拭き始めた。

 

以前なら、何か理由を足したと思う。脚が重いとか、椅子へ座り直すのが面倒だとか、寄りかかっても仕方がないような言い訳を探していた。

 

今は、こうしていたいだけで通る。

 

絢原さんも、私が肩から離れるようには言わない。

 

ミルクティーを一口飲み、そのまま少し待った。

 

「トレーナー」

 

「何?」

 

「私、今日勝ったよ」

 

「見てた」

 

「そういう返しじゃなくて」

 

「分かってるよ」

 

絢原さんはタオルを持ったまま、少しだけ考えた。

 

「おめでとう。よく走った」

 

「普通!」

 

「去年負けたレースで、今年は同じ相手に勝った。日本の芝(こっち)で最後まで前を追って、離されかけても諦めなかった。十分すごいよ」

 

胸の奥が、少しだけむず痒くなる。

 

「最初からそれ言って」

 

「控室へ入ってすぐ言ったら、モエはミルクティーを飲みながら聞き流しただろ」

 

「今日は聞くよ。もう一回言って」

 

「欲張るな」

 

「今日勝ったんだから、ちょっとぐらい甘やかして貰わないと」

 

さっきと同じ言葉を使うと、絢原さんが小さく笑った。肩が触れているので、声より先に体の動きで分かる。

 

「……おめでとう、モエ。よくやった」

 

「……ありがと」

 

今度は、さっきより小さな声になった。

 

私はまだ、肩から離れなかった。

 

ウマホが震える。

 

四人のグループへ、通知が一気に増えていた。

 

最初はスカーレットだった。

 

『勝ったわね。おめでとう。去年の借りは、ちゃんと返したじゃない』

 

そのすぐ下へ、ウオッカが割り込む。

 

『お、今日は素直に褒めてんじゃねーか』

 

『私だって褒める時は褒めるわよ。今日の勝ちは認めてるもの』

 

『じゃあ最後の一文いらねーだろ』

 

『まだ送ってないでしょ!』

 

少し間が空き、スカーレットから続きが来た。

 

『でも、これで私たちと同じところまで来たと思わないで。こっちは次もGⅠよ。こっちで一緒に走りたいなら、今日くらいで満足しないことね』

 

ウオッカもすぐに続く。

 

『海外で勝ちまくってるやつに言うのも変だけど、こっちじゃまだ追う側だろ。さっさと来いよ。今度は四人で走るぞ』

 

二人とも、分かっている。

 

私がロンシャンで誰より速くても、日本の軽い芝(こっち)では同じように走れないことを。今日のGⅡを一つ勝っただけで、三人が走っているGⅠへ並べるわけではないことを。

 

その上で、仕方がないとは言わない。

 

マーチャンからも届いた。

 

『おめでとうございます。今日のモエちゃんは、最後まできちんと前へ進んでいました』

 

『ですが、スカーレットさんとウオッカさんの言う通りです。マーちゃんたちは、待っています』

 

少し置いて、もう一つ。

 

『モエちゃんを待って止まるつもりはありません。追いついた時に、今より強い四人で走りましょう』

 

三人とも、今も現役のGⅠウマ娘だ。

 

勝って、負けて、次の大きなレースへ名前を載せる。私が海外で世界チャンプと呼ばれている間も、日本の出走表から三人の名前が消えたことはない。

 

悔しくないわけではない。

 

でも、優しく待たれるよりずっといい。

 

「何て返す?」

 

絢原さんが画面を覗く。

 

「考えてる」

 

「珍しいな。いつもなら、先に文句が出るのに」

 

「文句はあるよ。三人とも上からすぎる」

 

「こっちでは、三人の方が上だろ」

 

「トレーナーまでそっち側?」

 

「嘘を言ってほしい?」

 

「それは嫌」

 

入力欄へ親指を置く。

 

待っていて。

 

すぐに行く。

 

次は負けない。

 

どれも少し違う。三人は待たないと言っているし、私も待ってほしいとは思っていない。

 

先へ行けばいい。

 

追いついた時にいるのが、今より強い三人なら、その方が食べがいがある。

 

『待ってなくていい』

 

そこまで打つと、絢原さんが横から見る。

 

「喧嘩を売るのか?」

 

「まだ途中」

 

続ける。

 

『三人とも、そのまま勝ってて。追いついたら、一番前でまとめて抜くから』

 

送った。

 

数秒で既読が三つ並ぶ。

 

スカーレット。

 

『言ったわね。私が一番でいる間に来なさい』

 

ウオッカ。

 

『上等! 抜けるもんなら抜いてみろ!』

 

マーチャン。

 

『では、四人で走る日の写真は、まだ撮らずにおきます』

 

その後へ、小さな猫のスタンプがついた。

 

ウオッカが『何で猫なんだ?』と聞き、スカーレットが『そこから説明するの?』と返している。

 

少し笑っていると、話はすぐ今夜の食事へ移った。

 

スカーレットが店を三つ貼り、ウオッカは肉の量で一軒目を落とす。マーチャンは二軒目のデザートを調べていた。

 

「今日の夜、三人と食べてくる」

 

「早いな。脚は平気か?」

 

「大丈夫だよ。レースするんじゃないんだから。明日は海外部が来るだけで、追い切りもないし」

 

「なら行ってこい。張ってきたら無理するなよ。 寮へ着いたら連絡」

 

「そこまで遅くしないよ」

 

「時間の話じゃない。無事に着いたか分かればいいから」

 

「じゃあ、トレーナーが寝る前には帰る」

 

「俺の就寝時間を基準にするなよ」

 

「何時に寝るか知ってるから大丈夫」

 

「知らなくていいところまで知ってるな」

 

「何となく知ってるから」

 

絢原さんは少しだけ困った顔をした。

 

店と時間が決まったら送る。寮へ戻ったら、もう一度連絡する。

 

いつからそうなったのかは覚えていない。以前なら必要な用件だけを知らせていたのに、今は私がどこにいて、いつ帰るかまで、互いに知っている方が普通になっている。

 

私はミルクティーを飲み切り、三人との食事へ向かう支度を始めた。

 

 

翌日。

 

トレーナー室へ来たURA海外部の職員は、両腕で厚いファイルを抱えていた。背表紙には国名の付箋が並び、角は何度も持ち運ばれたせいで少し曲がっている。

 

「カレンモエさん。昨日はおめでとうございます。中京記念の結果を受けて、海外からの問い合わせがまた増えました」

 

「お祝いじゃなくて、次はどこへ出るんだって問い合わせ?」

 

「半分はそうです。残りは、すでにお送りしている招待状をご覧いただけたかという確認でした」

 

「まだ見てないって返していいよ」

 

「今日は、そのお返事をいただくために伺っています」

 

職員は笑わなかった。去年から何度も同じやり取りをしているので、もう流し方を覚えたらしい。

 

絢原さんが机の上を空け、ファイルを受け取る。私はいつもの椅子へ座った。向かい側ではなく、絢原さんの机の横。

 

職員は椅子の位置へ一度だけ目をやり、何も聞かず一番上の予定表を開いた。

 

「まず、キングジョージについてです。出走意思の最終確認となりますが、変更はありませんか」

 

「行く。荷物も、もう半分くらいできてるし」

 

「俺が畳んだ勝負服を、モエが机へ積んだところまでな」

 

「半分じゃん」

 

「充電器もバッテリーも机の上に残ってる」

 

「忘れないように見えるところへ出したの」

 

「忘れない子は、そのまま鞄へ入れるよ」

 

職員は予定表へ印をつけながら、聞こえていない顔をしている。

 

「勝負服は?」

 

絢原さんが聞く。

 

「トレーナーが入れて」

 

「自分でやれ」

 

「一緒にやれば忘れないでしょ」

 

「最近一緒にやることが増えてないか?」

 

「前からこのくらいだったよ」

 

絢原さんが何か言いかけた。

 

職員の前なのでやめたらしい。

 

「では、キングジョージは出走で先方へ確定を返します」

 

「お願いします」

 

予定表の端には、前年との比較が載っていた。

 

去年、中京記念とキングジョージは同じ週にあった。今年は二週間離れている。春も、ダービー卿チャレンジトロフィーとドバイシーマクラシックの間が広がっていた。

 

「今年、ずいぶん走りやすい日程になったよね」

 

「番組全体の調整です。国際競走との接続、国内の開催間隔、ほかの重賞との関係を総合的に——」

 

「偶然なんだ」

 

職員の説明が止まった。

 

「その言い方をされると、また一部分だけ切り取られますので」

 

「じゃあ、特定の一人だけのためではありません、って言っておく?」

 

「こちらからお願いするまでもなく、正確に覚えていらっしゃいますね」

 

「だけ、じゃないんでしょ」

 

職員は一度だけ絢原さんを見る。

 

絢原さんは資料へ目を落としたまま、口元だけ少し緩めていた。

 

「番組の変更理由について、私からこれ以上は申し上げられません。少なくとも、カレンモエさん一人の希望だけで決まったものではありません」

 

「分かった。じゃあ、偶然に感謝しておく」

 

「そうしていただけると、広報も助かります」

 

職員は次の頁を開いた。

 

海外からの招待には、どれも日本の重賞日程を重ねた予定案がついている。出国日、現地での調整、帰国後に間に合う国内戦。去年、私が国内のレースと近いという理由で断り続けた結果、向こうも断られない書き方を覚えたらしい。

 

最初は香港カップだった。

 

帰国まで含めた予定の横に、国内GⅡの名前が赤く囲われている。去年、私が負けたレースだった。

 

「重なっていますが、主催者側からは帰国便を一日早める案も届いています。ただ、移動後の休養と調整期間を考えると、両方への出走は現実的ではありません」

 

「じゃあ香港は断る。こっちを走る」

 

「理由は、国内GⅡを優先するため、でよろしいでしょうか」

 

「去年負けたから。向こうにも、そのまま伝えて」

 

職員は辞退の欄へ印をつけた。驚きはしない。最初の頃なら、GⅠとGⅡを取り違えていないか確認されていた。

 

次はアメリカの芝GⅠだった。

 

国内の予定とは四週間空いている。出走を表明しているウマ娘の資料も添えられ、前年の勝者と今季のGⅠ勝者が二人、大きく扱われていた。

 

「こちらは日程上、国内の予定を大きく変えずに出走できます。現時点でも、かなり強い皆さんが揃う見込みです」

 

すぐには返さず、三人の名前と戦績を見る。

 

去年なら、日程だけ見て閉じていた。海外で誰が待っているかまで読む前に、日本へ戻る方を選んだと思う。

 

今は少し違う。

 

知らない強い子がいるなら、走ってみたい。世界チャンプと呼ばれたいわけではない。その名前は今でも少し面倒だ。

 

でも、強い子を追いかけたい気持ちまで、面倒なものとして捨てる必要はない。

 

「これは置いていって。出るとは言ってないけど、相手は見とく」

 

「ご検討いただける、という理解でよろしいですか」

 

「期待しすぎないなら」

 

「昨年は、資料を開く前に辞退されていました。それに比べれば十分です」

 

基準が下がりすぎている。

 

絢原さんが横から資料を取り、帰国後の国内日程まで確かめた。

 

「四週なら、数字だけ見れば空いてる。ただ、キングジョージと凱旋門賞の後になる。今ここで決めることじゃないよ」

 

「分かってる。ちょっと確認するだけ」

 

「俺も相手を調べておく。返事はキングジョージのあとでいいか?」

 

「うん」

 

私が海外の資料を見ると言ったことを、珍しいとも、成長したとも言わない。

 

当然のように、自分も見る側へ入ってくる。

 

職員はアメリカの資料を保留の束へ移した。ほとんど壊れ物を扱うような手つきだった。

 

最後に出てきた封筒には、凱旋門賞の紋章がある。

 

職員は詳しい説明を省き、私の前へ向けた。

 

「こちらは、出走でよろしいでしょうか」

 

「行く。返事して」

 

「承知しました」

 

話が早い。

 

絢原さんが封筒の端を指で押さえる。

 

「凱旋門賞だけは迷わないんだな」

 

「レゾリュートから、会うたびに次のロンシャンで待つって言われるし。最近は会ってないのに、取材の記事でまで言ってくるし」

 

「オルフェーヴルからも届いてただろ」

 

「私の返事を待たずに、出る前提で話を進めてる。行かないって言っても、王命であるとか言って聞かないんだもん」

 

「二人とも、モエの都合を気にするつもりがないな」

 

「だから行く。走った方が早い」

 

口から出たあとで、少し違うと思った。

 

二人を黙らせるだけなら、去年勝った時点でもう十分だった。三度目まで行く必要はない。

 

「……それだけじゃないけど。私も、また走りたい」

 

職員がペンを止める。

 

絢原さんは止めなかった。封筒をこちらへ寄せ、出走意思を記す欄を指す。

 

「なら、ここへ署名してくれ。キングジョージから帰ったら、去年より厳しくなるつもりで始めよう」

 

「勝ったのに?」

 

「二回負けた側が、同じまま来るわけないだろ。それに、今度は最初から全員がお前を見て走る」

 

「じゃあ、三回目も勝つ」

 

今度は、口から出た言葉を直さなかった。

 

署名欄へ名前を書く。

 

職員はそれを受け取り、すぐにファイルへ収めた。

 

「先方へ正式にお伝えします。レゾリュートさん側からも、出走決定後に共同会見を希望する連絡が来ています」

 

「断って。レースで会えば足りる」

 

「承知しました」

 

職員が共同会見の欄へ辞退の印をつける。

 

「オルフェーヴルさんには、出走決定の連絡だけでいいです。余計なこと書かなくていいから」

 

「そのようにお伝えします」

 

「話が早くて助かる」

 

「去年から何度も承っていますので」

 

絢原さんが少し笑った。

 

職員は残りの連絡事項をまとめ、ファイルを閉じた。帰る時には、持ってきた時より少しだけ薄くなっている。

 

「今年も、招待はまだ増える見込みです。日程が合うものだけでも、引き続きご検討ください」

 

「国内を先に考えて、それでも空いてたら」

 

「はい。そのお返事にも、こちらは慣れました」

 

疲れた笑顔で頭を下げ、部屋を出ていった。

 

ドアが閉まると、絢原さんが机の脇から別の封筒を出した。

 

海外の主催者が使う厚い紙ではない。普通の白い封筒で、宛名の字だけがやたらと大きい。

 

「バクシンオーさん」

 

「開けなくても分かるな」

 

中には便箋が三枚と、練習記録の写しが入っていた。

 

一枚目の最初から感嘆符が多い。

 

『待っています!』

 

『軽い芝でも、重い芝でも、いつ来ても最高のバクシンでお迎えします!』

 

『ただ待っているだけではバクシンとは言えませんので、こちらも前進あるのみです!』

 

最後の一文は、便箋の横幅いっぱいまで使われていた。

 

「相変わらず、声が聞こえる」

 

「三枚目はもっと大きいぞ」

 

「先に言わないで。読むのに体力がいるから」

 

便箋の下にある練習記録を開く。

 

重い芝で走った時のタイムが、何か月分も並んでいた。最初の頃は普段より大きく落ちている。最近になるほど、その差が小さくなっていた。

 

「これ、ずっと続けてるの?」

 

「この半年は定期的に入れてる。前ほど脚を取られなくなったらしい」

 

「あの子、軽い芝が本職でしょ。重い芝をわざわざ選ばなくてもいいのに」

 

「お前が来た時、どっちの芝でも迎えられるようにするんだと。向こうのトレーナーからも同じ説明が来てる」

 

「待つだけじゃ足りないんだ」

 

「バクシンオーには足りないんだろうな」

 

便箋の二枚目を開く。

 

『カレンモエさんが日本の芝を走り続けるなら、私も重い芝を走ります!』

 

『どちらが先に相手の場所へ辿り着くか、それも立派な勝負です!』

 

『トゥインクルシリーズを走り終えたら、必ず来てください! その時の私は、今よりさらにバクシンです!』

 

三枚目には、最後の一行だけがあった。

 

『待っています!!』

 

「ビックリマークどんどん増えてる」

 

「気合いだろ」

 

「最初から十分うるさいのに」

 

言いながら、練習記録をもう一度見る。

 

私が日本の軽い芝で、三人のいる場所へ戻ろうとしている。その反対側で、バクシンオーさんは重い芝へ何度も踏み込み、私が行く時のために走り方を変えようとしていた。

 

待っているだけではなく、ずっと先へ進んでいる。

 

それでいい。

 

止まった背中を追いかけても、たぶん楽しくない。

 

「……すごいよね、あの先輩」

 

「本人に書いてやれ」

 

「絶対やだ。褒めたら、もっと走るじゃん」

 

「もう走ってるよ」

 

「じゃあ、なおさら言わない。今よりさらにバクシンされたら、待たせてる私が悪いみたいになる」

 

「もう手遅れじゃないか?」

 

「トレーナー、どっちの味方?」

 

「バクシンオーさん」

 

「そっちなんだ」

 

絢原さんが笑ったので、便箋を三枚まとめて押しつけた。

 

「返事、トレーナーが書いて」

 

「俺が書いたら意味がないだろ」

 

「じゃあ、あとで一緒に考えて。私だけだと、たぶん『まだ行かない』で終わるから」

 

「それでも意味は伝わると思うけどな」

 

「待ってる子に、それだけ返すほど性格悪くないよ」

 

「さっきも聞いたな、その言い方」

 

「今日は性格いい日なの」

 

「分かった。キングジョージ(つぎ)の荷物を詰めたあとで考えよう」

 

「勝負服も入れておいて」

 

「それは自分でやれ」

 

「一緒に」

 

「やっぱり増えてるよな。一緒にやること」

 

「気のせい。前からこのくらいだったよ」

 

嘘ではない。

 

前から少しずつ増やしてきた。

 

絢原さんが気づかない速さで。

 

机の上には、キングジョージの予定表、三度目の凱旋門賞の控え、保留にしたアメリカの資料、バクシンオーさんの手紙が広がっている。

 

ウマホでは、スカーレットたちが次のGⅠについて話していた。

 

スカーレットは一番人気を取ると言い、ウオッカは先に勝つと返す。マーチャンは二人の調子を淡々と記録しながら、自分の枠順まで送ってきた。

 

三人は待たない。

 

バクシンオーさんも、待ちながら走る。

 

キングジョージへ行く。

 

凱旋門賞にも、もう一度戻る。

 

海外で強い子が待っているなら、日程が空いていれば走ってもいい。

 

それでも、終わったら日本へ帰る。

 

スカーレット、ウオッカ、マーチャンがいる。もっと先には、ドリームトロフィーリーグでバクシンオーさんが走り続けている。

 

どちらも、まだ日付は決まっていない。

 

今ここで決めなくても、消えたりはしない。

 

私は絢原さんの机の前ではなく、同じ側へ椅子を寄せたまま、国内の番組表を引き寄せた。

 

キングジョージからの帰国日。その先に、凱旋門賞へ向かうまでの空いた週がある。

 

番組表の中に、まだ勝っていない国内GⅡを見つけた。

 

絢原さんのペンを取る。

 

「そこ、気になる?」

 

「見てるだけ」

 

「見るだけなら、ペンはいらないだろ」

 

「持ってた方が考えやすいの」

 

「さっきも見るだけと言って、アメリカの資料を残したよな」

 

「相手を見るのと、日程を見るのは別」

 

「レースの横へ丸をつける気だろ」

 

図星だったので、返事の代わりにペン先を名前の横へ当てる。

 

絢原さんは止めなかった。

 

私の肩越しに日程を見て、帰国日と次の出国日を指でたどる。近づいた顔が、すぐ横にある。

 

「キングジョージから戻って二日後に脚を見よう。張りが抜けていたら、ここへ向けて動ける」

 

「登録は?」

 

「先に出しておくよ。凱旋門賞の前だから、無理なら取り下げる」

 

「止めないんだ」

 

「止めても、モエは丸を消さないだろ」

 

「消さない」

 

「なら、走れるように帰ってこい。そこからは俺が何とかする」

 

絢原さんが帰国後の確認日を書き足す。

 

その間も、ウマホは三人の次のGⅠの話で震えていた。

 

番組表の下からは、バクシンオーさんの便箋が少しだけはみ出している。

 

大きな文字で書かれた『待っています!!』の最後だけが見えた。

 

「バクシンオーさんへの返事、忘れないでね」

 

「モエが書くんだよ」

 

「隣にいてくれたら書く」

 

「分かったよ」

 

「あと、三人のGⅠも一緒に見て」

 

「そのつもりで予定を空けてある」

 

「ふふ、流石♪」

 

「お褒めに預かり恐悦至極」

 

私は少し笑い、ペン先を下ろす。

 

小さく丸をつけた。

 

まだ勝っていないレースに。

 

世界で何度勝っても、追いかけたい背中はなくならなかった。

 

スカーレットたちは次のGⅠへ行く。バクシンオーさんは、ドリームトロフィーリーグで走り続けている。海外にも、まだ知らない強い子たちがいる。

 

私も、ここで終わる気はない。

 

絢原さんが、丸の横へ帰国後の確認日を書き足した。

 

私が勝手につけた印は、それだけで二人の予定になる。

 

「次もよろしくね、トレーナー」

 

「今さらだろ」

 

その返事を聞いて、私は少しだけ肩を寄せた。

 

机の上には、まだいくつもの予定が残っている。

 

どれも、誰かに与えられた役じゃない。

 

私が選んで、私の脚で走る次だった。




ひとまず、ここで一区切りです。

完結というよりは中締めに近いので、また何か書きたくなったら、番外編や後日談のような形でエピソードを追加するかもしれません。
刺さった箇所、引っかかった箇所、どんな短い一言でも構いません。
お気軽にお寄せください。
感想・評価をいただけると嬉しいです。励みになります。
ここまでありがとうございました。
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