出走登録書類の一行。
たった一行を間違えた結果。
カレンモエは自身の有馬記念の出走を、週刊誌で知る事になる。
身に覚えのない出走宣言。
集まる票。
最悪の朝であった。
既に話が世間に回りきった後で、今さら出ないとも言えず。
勝てるわけなくない? と思いながら、ヤケクソトレーニングが始まる。
ジェンティルドンナ。
オルフェーヴル。
ダイワスカーレット。
ウオッカ。
史上最強クラスの一戦だと、誰もが言った。
良馬場ならレコードが出ると、誰もが言った。
しかし。
驚異の勝ちタイム
3:03:03
——曰く。
史上最悪の有馬記念編
第一話
――その年の夏、私たちはまだ、イギリスへ持っていく荷物を詰めていた。
——Anti-Hero: Curren Moe
「トレーナー、こっちも押さえて。角のところ」
「待って、服が挟まってる」
絢原さんがはみ出した袖を押し込み、もう一度蓋を押さえる。私は横からファスナーを引いた。角まで来たところで動かなくなる。
「……駄目かあ」
「さっき増やした服、少し出そう。三着とも着るつもりか?」
「まだ決めてない。向こうで選ぼうと思ってた」
蓋を開け直され、上着を一枚渡された。
「似たのがもう一枚あるだろ。こっちは置いていこう」
「でも、朝は寒いかもしれないし」
「持っていく方も羽織れるよ。ほら、これ」
中から襟だけ出して見せられる。確かに、それも私が選んだものだった。
「……じゃあ、そっちでいい」
上着をソファへ置き、絢原さんの隣へ座り直した。
出国は明後日。トレーナー室の床にはケースが二つ並んでいる。昨日ほとんど終わっていた荷造りに、私が着替えを足していたら、閉まらなくなった。
膝の上のリストを覗くと、パスポートと充電器には印がついていた。ほかにも、まだ何行か残っている。
「髪飾り、どこ入れたっけ」
「小さい鞄。内ポケットにないか?」
開けてみると、ケースごと入っていた。
「あ、あった。……帰りも手伝ってね、荷造り」
「いいよ。前の日に済ませような」
「じゃあ、ごはん食べたら部屋行く」
「うん。そこのシューズ袋に、替えの紐も入れといてくれ」
差し出された紐をシューズ袋へ入れた。顔を上げると、絢原さんが机に残っていた勝負服を持ってくる。
二人の膝の間に空色の生地を広げ、私は裾の角を押さえた。
「袖、もうちょっと内側」
「ここでいいか?」
「うん。そのまま待って。袋、開けるから」
黒いラインが捻れないように畳み、不織布の袋へ収める。一人でしまわずに残してくれていた服が、ようやくケースへ入った。
絢原さんが次の紙を拾う。今度は英語の記事だった。
「アスコット、今年は雨が少ないんだって。六月から地面が乾いてるって話が続いてる」
「厚い靴もいる?」
「持っていこう。使うかは、着いてから決めればいい」
棚の下段に、日本の芝で使っていたシューズの箱があった。ロンシャンでもドバイでも、荷物に入ったままだったものだ。
「じゃあ、そっちに入れて。こっち、もう閉まらないから」
「分かった。箱ごと持ってきてくれ」
抱えて戻ると、絢原さんが自分のケースに場所を作っていた。そこへ入れ、周りの隙間にタオルを詰める。
シューズを入れた後、ミルクティーの本数でも揉めた。三本と言われて五本を出し、四本で決着する。最後の一本は、私のケースに場所がなくなって、絢原さんの荷物へ移った。
それがどこに入ったかも、ちゃんと見ておいた。
「出走予定も来てる」
絢原さんが紙をこちらへ向ける。
半分くらいしか読めない名前を、指で追った。三つ目で止まる。
Resolute。
「……あの人も出るんだ」
「出る。向こうの専門紙は、もうお前たちの対決で記事を組んでる」
「秋だけじゃ足りないのかな、あの人」
「お前が来るなら、ってことかもしれないな」
ロンシャンでは二度、一緒に走った。二度とも私が先にゴールして、そのたびに次のロンシャンで待つと言われた。
だからまた秋だと思っていた。
紙の上の名前と、さっきしまったシューズの箱を見比べる。あの二度は、どちらも雨上がりだった。レゾリュートだって覚えているはずだ。
夏のアスコット。乾いた芝。そこへ私が出ると決めたら、あの人も来る。
「去年の夏の映像、ある?」
「あるよ。あとで一緒に見よう」
「うん。この紙、机に置いといて」
紙を返すと、ウマホが続けて震えた。LANEの四人のグループに通知が来ている。
『明後日だっけ、出発。イギリスのやつ、ちゃんと勝ってきなさいよ。こっちは秋に向けて動き始めるから、見送りには行かないけど』
スカーレットに続いて、ウオッカ。
『向こうの女王が出るんだろ? 面白くなってきたじゃねーか。負けたら年末まで擦るからな』
マーちゃんからは写真だった。掲示板に貼られた秋のGⅠ日程表。三人の名前の横に、小さな印がついている。
『マーちゃんたちの秋も始まります。モエちゃんの秋も、良い秋になりますように』
画面を絢原さんへ見せた。
「誰も見送りに来ないって」
「朝も早いしな。向こうに着いたら、三人にも知らせておいてくれ」
「うん。ウオッカ、ほんとに年末まで言いそう」
『勝ってくる』
そう返すと、すぐに既読がついた。
スカーレットの『当然でしょ』の下に、ウオッカが『その返事、保存したぜ』と重ねる。マーちゃんは猫のスタンプだった。
まだ出国もしていないのに、逃げ道を塞がれた。
もう一度返そうとして、机へウマホを置いた。絢原さんが二つ目のケースを閉めている。私も横から押さえ、今度は最後までファスナーを引いた。
~
夕方、坂路で出国前の最後の調整をした。
軽めに数本。戻ると、絢原さんは撮った映像をもう出していた。汗を拭きながらその腕へ寄り、画面を覗く。
「最後、右脚が沈んでから待ったな」
「左脚を出す前?」
「ああ。二本目は待たずに出てる。最後の一本は、上体を起こしてからになった」
動画を止めてもらう。確かに、足が前へ出るより先に、私の肩が少し上がっていた。中京記念の日は、こんなふうにはならなかった。
「まだ毎回はできないか」
「中京の一本と比べれば、七割くらいの出来だな。前に見た時よりは近い」
絢原さんは二本目を再生した。左脚が出るところで、指が止まる。
「こっちは続いてる。最後の一本で何が違ったか、帰ってから比べよう」
もう一度、と思ったけれど、さっきまで走っていた坂へは戻らなかった。出発前に疲れを足す日ではない。
首に掛けていたタオルが、襟の下へ入り込んでいた。肩を回しても取れないので、絢原さんへ背を向ける。
「後ろ、引っかかった。取って」
「少し下向いて」
端を引き出してもらうと、首の後ろに残っていた汗まで流れた。
「あ、そのまま拭いて。右のとこ」
絢原さんの手が襟を少し引き、タオルを当てる。私は髪を持ち上げて待った。
「ありがと。カメラは私がしまっとくね」
拭き終えたタオルを受け取った時、腕時計にも汗がついているのが見えた。乾いた端でそこを拭き、ベンチのカメラをケースへ戻した。
~
部屋へ戻ると、机には白い封筒だけが残っていた。
バクシンオーさんからの手紙。便箋三枚と、重い芝での練習記録。
荷造りを全部終えたら書く、と言ってあった。二つのスーツケースは閉まっている。歯ブラシまで入っている。ほかに言い訳に使えそうなものはなかった。
机に便箋を置き、絢原さんの隣へ椅子を寄せた。私が肘を載せると、邪魔になっていたペンケースを向こうへ動かしてくれる。
ペンの蓋を取ったまま、白い紙を見ていた。
「何て書こう。まだリーグには行かないし」
「遠征の話でいいと思う。次はキングジョージで、そのあと札幌だろ」
「秋の凱旋門も書く?」
「ああ。記録を見た感想もあれば」
届いた記録を広げてもらう。最初は落ちていたタイムが、最近は少しずつ詰まっていた。私がドリームトロフィーリーグへ行く時のために、あの人はまだ走り方を変えようとしている。
「早く来いって返ってきそう」
「それは来るだろうな」
「……だよね」
宛名を書いた。続けて、短く書く。
『記録、見ました。まだドリームトロフィーリーグには行きません。次はイギリスで、そのあと札幌記念、秋にはまた凱旋門賞を走ります。』
そこで止まる。便箋にはまだ、随分と余白があった。
『練習の続きも、また送ってください。』
書き足して、ペンを置く。
「こんなのでいいかな。もう少し書く?」
「読ませて。……うん、これでいいと思うよ。予定も分かるし」
便箋を戻してもらい、まだ空いている下の方へ目を落とした。
「返事来たら、また一緒に読んでね」
「うん。届いたら持っておいで」
私はペンを持ち直した。絢原さんが片づけかけた記録を、手で止める。
「待って。もう一つ、書こうかなと思って」
中京でできた、右脚が沈んだまま左脚を出す動き。あれをそのまま伝えても、バクシンオーさんの困っていることとは違う。
あの人は軽い地面を速く弾いていく。私にはできない走り方だ。送られてきた重い芝の記録には、その足が抜けずに遅れた箇所が残っていた。
ロンシャンで最初に走った日、私は足を軽く抜こうとはしなかった。力を預けたまま、地面が押してくる方へ進んだ。
便箋の下へ、追伸と書いた。
『重い芝は、軽く走ろうとするほど脚を取られます。思い切り踏んで、沈んだ分が返ってくるのを待ってください。私は、体重を預ける方が走りやすかったです。』
『軽い芝の走り方は聞かないでください。中京でできた動きも、まだ練習中なので。』
書いてから、隣を見る。
「急に走り方まで書いたら、生意気かな」
絢原さんが追伸を読み終わるまで待った。
「送っていいと思うよ。あの人なら、明日にでも試すだろ」
確かに。たぶん、読む時から大声だ。
「……返事、五枚くらいになるかも」
「読む時間も空けておくよ」
封筒へ入れた。糊をつけ、端から押さえる。大きな宛名に負けない程度の字で、こちらも名前を書いた。
ポストまでついてきて、と頼むと、絢原さんは部屋の鍵を取った。
外へ出ても、昼間の暑さがまだ残っていた。隣を歩く腕の、肘の少し下を掴む。絢原さんは部屋の鍵を反対のポケットへしまった。
「帰ったら、あの上着も持っていってくれよ。ソファに置いたままだから」
「あ、忘れてた。明日取りに来る」
「じゃあ置いとく」
見えている投函口へ封筒を入れた。下で紙の落ちる音がする。
これでもう、消そうかと聞くこともできない。
門へ戻る途中、絢原さんが明後日の集合時間を言った。私は腕を掴んだまま顔を上げる。
「そんなに早かったっけ?」
「荷物もあるから、余裕を見てる」
「私、マーちゃんにも時間聞いてみるからね」
「起こす時刻は、もう相談してあるよ」
「あの子、そういうところは信用できないな……」
門の前まで来て、足を止めた。
「トレーナーも朝、電話して」
「ああ。用意できたか聞くつもりだった」
「うん。出る前にちょっと話したい」
「分かった。起きる頃にかけるよ」
「うん。おやすみ」
腕を離して、寮へ入った。
明後日は、この人とイギリスへ行く。