アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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出走登録書類の一行。

たった一行を間違えた結果。

カレンモエは自身の有記念の出走を、週刊誌で知る事になる。

身に覚えのない出走宣言。

集まる票。

最悪の朝であった。

既に話が世間に回りきった後で、今さら出ないとも言えず。

勝てるわけなくない? と思いながら、ヤケクソトレーニングが始まる。



ジェンティルドンナ。

オルフェーヴル。

ダイワスカーレット。

ウオッカ。



史上最強クラスの一戦だと、誰もが言った。

場ならレコードが出ると、誰もが言った。



しかし。



驚異の勝ちタイム



3:03:03



——曰く。

史上最悪の有記念編






蛇足編
第一話


 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

トレーナー室の床に、開いたスーツケースが二つ並んでいる。

 

出国は明後日。中身は昨日までに大体できていた。大体、というのは、詰めたのが絢原さんで、机の上へ出しっぱなしなのが私、という意味だ。

 

「パスポート」

 

「はい」

 

「充電器」

 

「はい」

 

「予備のバンテージ」

 

「はい」

 

「髪飾り」

 

「……どこだっけ」

 

「モエの機内鞄の内ポケット。昨日俺が入れた」

 

「……分かってたし」

 

「分かってた顔じゃなかったけどな」

 

絢原さんはリストにペンで印をつけていく。海外はもう何度も出ているのに、毎回、同じリストを頭から読み上げる。私が「もう覚えたから飛ばして」と言っても飛ばさない。一度だけ飛ばした年に、私が現地で歯ブラシを買う羽目になったからだ。

 

「勝負服」

 

「まだ机の上」

 

「畳んであるだろ、そこに」

 

「一緒に入れるって約束じゃん」

 

「約束というか、モエが勝手に決めたんだよなあ、それは」

 

言いながら、絢原さんは立ち上がって勝負服を取ってくる。文句の形をした了承。この人のはいつもそうだ。

 

空色の生地を二人で広げて、皺にならないように畳み直す。黒いラインが袖の内側で一本、まっすぐ通っているのを確かめる。畳む係は絢原さんで、角を押さえる係が私。いつからか、そういう分担になっている。

 

「アスコットって、暑いの」

 

「日本よりはましだ。ただ、今年は雨が少ないらしい」

 

「ふうん」

 

「六月からずっとだと。向こうの記事にも、地面が固いって話が出てた」

 

絢原さんの手が一瞬止まって、それから続きを畳んだ。

 

「シューズ、厚いのも入れておくか」

 

「海外なのに?」

 

「海外だから要らない、って決まってるわけじゃないだろ。荷物が一足増えるだけだ。使わなければそれでいい」

 

「重いんだけど、あれ」

 

「持つのは俺だ」

 

そう言われると、断る理由がなくなる。私は棚から厚いほうのシューズを下ろして、ケースの隅へ押し込んだ。日本の芝で沈む分を逃がすための靴。ロンシャンでもドバイでも、一度も箱から出さなかった靴。

 

夏のアスコット。雨の少ない年。

 

……まあ、行けば分かるか。

 

「ミルクティーは向こうで買えないから」

 

「三本まで」

 

「五本」

 

「機内で漏れたら全部モエの服にかかるぞ」

 

「じゃあ四本」

 

「値切られてるのは俺の方か」

 

結局四本入った。一本は絢原さんが自分の鞄に入れた。数に入れていいのか微妙なところだ。

 

ケースの蓋を半分閉じたところで、絢原さんが机の書類の山から一枚を抜いて、こちらへ向けた。

 

「それと、これ。今朝届いた分の出走予定。まだ確定じゃないが、大体この顔ぶれで動かないらしい」

 

横文字の名前が並んでいる。半分は読めて、半分は知らない。読める方を上からたどって、三つ目で指が止まった。

 

レゾリュート。

 

「……出るんだ」

 

「出る。向こうの専門紙は、もう一騎打ちの扱いで書いてる」

 

あの白銀とは、ロンシャンで二回走った。二回とも、私が前で終わった。

 

だから次も秋だと思っていた。あの人が待つと言うのはいつだってロンシャンで、私が行くのもロンシャンで、それ以外の場所で並ぶ絵を、一度も考えたことがなかった。

 

「秋じゃなくて?」

 

「秋も出るだろうな。その前に、ってことだと思う」

 

「……ふうん」

 

紙を返しながら、自分の声がちょっとだけ低くなったのが分かった。絢原さんは何も言わずに受け取って、書類の山へ戻した。何か言われたら誤魔化すつもりだったから、助かった。

 

——選んで来たな。

 

私が勝った二回は、どっちも雨上がりのロンシャンだった。あの人はそのことを、たぶん私より正確に覚えている。

 

固い地面、らしいところで、あの人と。

 

厚いシューズを押し込んだケースの隅を、私は一度だけ見た。理由は、考えないことにした。

 

そのタイミングで、ウマホが続けて震えた。

 

四人のグループに、通知が三つ。

 

最初はスカーレット。

 

『明後日だっけ、出発。イギリスのやつ、ちゃんと勝ってきなさいよ。こっちは秋に向けて動き始めるから、見送りには行かないけど』

 

ウオッカが続く。

 

『向こうの女王が出るんだろ? 面白くなってきたじゃねーか。負けたら年末まで擦るからな』

 

マーチャンは、写真だった。トレセンの掲示板に貼られた秋のGⅠ日程表。三人の名前の横に、それぞれ小さな印がついている。

 

『マーちゃんたちの秋も始まります。モエちゃんの秋も、良い秋になりますように』

 

……誰も「頑張って」と言わない。誰も「気をつけて」で終わらせない。スカーレットは自分の調整の話をして、ウオッカは負けた時の話をして、マーチャンは三人の予定を送ってくる。

 

見送られてる感じが全然しなくて、ちょうどよかった。

 

『勝ってくる』

 

それだけ返した。すぐに既読がついた。スカーレットから『当然でしょ』、ウオッカから『擦るネタが消えたわ』、マーチャンから猫のスタンプ。

 

ウマホを伏せて、スーツケースの蓋を閉じる。

 

「三人か」

 

「そう。誰も見送らないって」

 

「いい友達だな」

 

「……まあね」

 

否定する理由が見つからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

夕方の坂路で、出国前の最後の調整をした。

 

軽めに数本。最後の一本だけ、絢原さんが下で撮った。戻ってくると、もう画面を出して待っている。

 

「右、沈んだあと」

 

「出てた?」

 

「二本目は出てた。最後の一本は、体が起きるのを待っただろ」

 

「……ちょっとだけ」

 

「映像は正直だからな。中京の日が十割なら、今日は七割ってところだ」

 

「減ってるじゃん」

 

「二週間前は五割だった。増えてる方だよ」

 

言い方はいつも通りだったけど、画面を巻き戻す指は止まらなかった。最後の一本の右足のところばかり、何度も。この人の「増えてる方」は、数えた上で言っている。だから信用できるし、だから誤魔化せない。

 

十割になる日は来るのか、と聞きかけて、やめた。聞いても「分からないから撮る」と返ってくるだけだ。それはもう知っている。

 

部屋へ戻って、机の上がようやく片付いた。

 

最後に残ったのは、書類でも充電器でもなくて、白い封筒だった。宛名の字がやたらと大きいやつ。中身は便箋三枚と、重い芝の練習記録。

 

バクシンオーさんの手紙。

 

「書くんだろ」

 

絢原さんが椅子を持ってきて、私の隣に座った。頼む前に隣へ来たのは、たぶん、この間の「隣にいてくれたら書く」を覚えているからだ。律儀な人だと思う。そして、それ以上のことは何も考えていない顔をしている。それでいい。今はまだ。

 

便箋を一枚出す。ペンを持つ。

 

……持ったまま、動かなかった。

 

「進まないな」

 

「分かってるなら黙ってて」

 

「何て書こうとしてる?」

 

「『まだ行かない』」

 

「前も、それで終わっただろ」

 

「事実だし」

 

「事実だけどな。三枚もらって三文字で返すのか」

 

「四文字なんだけど」

 

「数えるところはそこじゃないだろ」

 

絢原さんは机の端から練習記録の写しを引き寄せて、私の前へ滑らせた。何ヶ月ぶんも並んだ、重い芝のタイム。最初は大きく落ちて、最近になるほど差が縮んでいる、あの記録。

 

「これを送ってきた人に返す言葉を考えればいい。手紙に返すんじゃなくて」

 

「……何それ」

 

「宛先の話だよ。文面は自分で考えろ」

 

分かったような分からないような助言だったけど、ペンは動き始めた。

 

書いては消した。「すごいですね」は消した。褒めたらもっと走るから。「無理しないでください」も消した。嘘だから。あの人が無理をやめるわけがないし、やめてほしいとも思っていない。

 

残ったのは、こうだった。

 

 

『記録、見ました』

 

『まだ行きません。イギリスと、そのあとフランスに行くので』

 

『続き、また送ってください』

 

 

「……これだけ?」

 

覗き込んだ絢原さんが言った。

 

「文句あるの」

 

「いや。モエにしては長い」

 

「一言多い」

 

「最後の一行がいいと思ってな。続きを送れってことは、続きを読む側がいるってことだろ」

 

そういうことを言われると書き足しにくくなるんだけど、と思いながら、私はもう一度ペンを持った。実は、もう一行だけ迷っているのがあった。

 

最初に書きかけたのは、中京で掴んだあの一歩のことだった。右足が沈んだら、体が起きるのを待たないで、そのまま左を出す。

 

三文字で、手が止まった。

 

……違う。あれは軽い芝の話だ。私の踏み込みが空回りして沈むから要る技術で、あの人の脚には起きない。バクシンオーさんが重い芝で困ってるのは、たぶん逆のことだ。

 

軽い芝の人は、地面を叩いて弾んでいく。速い。私には一生できない走り方。でも、あの走り方のまま重い芝へ入ったら、地面は返してくれない。叩いた分だけ、飲まれる。

 

初めてロンシャンの芝を踏んだ日を思い出した。

 

変な芝だと思った。軽く弾き返してくるんじゃなくて、沈み込んだ分だけ下から押し返してくる。あの頃の私は何もかも投げやりで、力の抜き方なんて考えるのも面倒で、だから全部そのまま預けた。

 

——それが、正解だった。

 

書けることが、一つだけあった。

 

 

『追伸。重い芝は、軽く走ろうとするほど脚を取られます。思い切り踏んで、沈んだ分が返ってくるのを待ってください。あの地面は、体重を預けた方が優しいです』

 

『軽い芝の走り方は、私に聞かないでください。そっちはまだ一回しか勝ててないので』

 

 

書き終わってから、自分でちょっと驚いた。

 

これ、コツを教えてる。私が。あの人に。

 

短距離の絶対王者に、走り方を。デビュー戦からずっと背中を追いかけてきた相手に、追いかけてきた側が。

 

「……生意気かな、これ」

 

「生意気だな」

 

「消そうかな」

 

「消すな」

 

絢原さんは即答して、それから理由を足した。

 

「バクシンオーさんは重い芝を、モエのために走ってる。モエの側から渡せるものがあるなら、渡さない方が失礼だろ」

 

「教わる方が嫌がるかもよ」

 

「あの人が?」

 

「……喜ぶね。便箋が四枚になる」

 

「五枚じゃないか」

 

想像したら、ちょっと笑ってしまった。感嘆符だらけの五枚。読むのに体力がいるやつ。

 

封筒に便箋を入れて、糊で閉じた。宛名を書く。バクシンオーさんの字の大きさを思い出して、私も少しだけ大きく書いた。対抗したわけじゃない。小さい字で返すのは、なんか、負けた感じがしただけ。

 

書き終えた封筒を持って、私は立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

ポストは寮の門の外にある。

 

夜の空気は、もう秋の入り口の匂いがした。絢原さんが半歩後ろをついてくる。手紙一通出すのに二人で歩く必要はないんだけど、明後日の集合時間の話があるから、という理由がお互いにあった。理由があるうちは、並んで歩ける。

 

「向こうに着いたら、まず脚を見る。時差の抜け具合次第で初日は歩くだけになるかもしれない」

 

「軽くでも走りたい」

 

「芝を見てから決めよう。さっきの記事が本当なら、初日から強くは踏ませたくない」

 

「固いって話?」

 

「速い、って書き方だった。固いと速いは近い」

 

どっちにしても、紙の上の話だ。行けば地面はあるし、踏めば分かる。分かってから二人で決めればいい。いつも通りだ。

 

ポストの前で、封筒をもう一度見た。

 

大きい宛名。中身は素直じゃない三行と、生意気な追伸。あの人はたぶん、追伸のところで一番大きい声を出す。トレセンの端まで聞こえるやつ。それで明日から、重たい足元へ体重を預ける練習を始めるんだろう。得意な走り方を捨てる方向へ。私が行くまで、ずっと。

 

……早く行かないと、先輩の方が重い芝に詳しくなるかもしれない。

 

それは、ちょっと嫌だ。あれは私の地面だ。

 

投函口に封筒を入れる。指を離す。

 

コト、と軽い音が、下から返ってきた。

 

もう取り出せない。読まれるまで止まらない。手紙ってそういうところが走り出しのゲートに似ている。

 

「出したな」

 

「出した」

 

「行くか」

 

「うん」

 

門への道を戻りながら、私は明後日からの予定を頭の中で並べた。イギリス。それが終わればフランス。三度目のロンシャン。帰ってきたら札幌の丸。それから——それから先は、まだ白紙だ。白紙のままでいい。丸は、自分でつけるから。

 

隣で絢原さんが、集合時間を一時間早く言った。私が三十分遅れてくる前提の時間だった。

 

「その手には乗らないから」

 

「何の話だ」

 

「本当の時間、あとでマーチャンに聞くから」

 

「マーチャンは俺の味方だぞ」

 

「……あの子、そういうところあるんだよね」

 

夜の道に、二人分の足音が続いた。急ぐ理由もないのに、歩幅がいつの間にか揃っている。直すのも変なので、揃えたまま歩いた。

 

スーツケースは二つとも、もう閉まっている。手紙は、もうポストの中だ。

 

出国は、明後日。

 

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