——Anti-Hero: Curren Moe
朝のロビーで、絢原さんの肩に頬を載せていた。
迎えの車を待つ間くらい、目を閉じていてもいいと思う。昨日は移動の後に少し歩いて、ほかは大体寝た。それでも、頭の中にまだ日本の時刻が残っている。
「まだ眠い?」
「うん。寝たんだけどね。車でも寝てると思うから、着いたら起こして」
「ああ。もう来ると思うよ」
返事をしたところで、自動扉が開いた。運転手がこちらへ会釈している。
絢原さんが立つので、私も肩から離れた。座席に置いていた鞄を拾い、手を出して待っているところへ渡す。
「ちょっと顔洗ってくる。すぐ戻るから」
「入口で待ってる」
顔を洗って戻り、絢原さんと車へ乗った。窓の外は、朝からよく晴れていた。
七月なのに空気が涼しい。日本で同じ時刻に外へ出れば、それだけで汗をかいていたはずだ。車を降りてからコースまで歩くうちに、眠気も少し抜けてきた。
遠征先の朝としては、悪くなかった。
芝へ足を置くまでは。
ゲートの脇でしゃがみ、手のひらをつく。指で押してみる。立ち上がって、今度は靴底へ体重を掛けた。
硬い。
もう一度、強く踏んだ。足首へすぐ返ってきた力が、膝まで上がる。沈んでから押し返してくるロンシャンの感触を待つ暇もない。
日本で嫌になるほど味わったものと似ていた。私には、その時よりさらに浅いところで返ってくるように感じられた。
「……記事、当たってた」
「雨が二ヶ月降ってないそうだ」
絢原さんも隣へしゃがむ。芝を押し、少し離れた場所でも同じように確かめた。
私はその間も、足元を踏んでいた。
「少し走ってみるか。いつもの靴からにしよう」
嫌な感触が指先にまで残った。手のひらについた芝を払い、靴紐を締め直す。
「うん。昨日、これで走らなくてよかったね。まだ頭がぼんやりしてたし」
「今日はどうだ?」
「今は平気。もう目が覚めた」
絢原さんから水を受け取って一口飲む。ボトルを返し、足首を回してから、最初の位置へ向かった。
~
一本目は、いつもの靴で走った。
最初の数歩で肩が上下する。右脚を着くと腰が浮き、左を出す時には、思っていたより足元が遠い。
着地を間に合わせた次の一歩で、また跳ねる。
速度を上げているつもりなのに、腿と腹にばかり力が入った。坂に掛かる頃には、身体を揺らさずに進めるだけで忙しい。
走り終えた地点で振り返った。
短い。ここまでしか来ていない。
絢原さんの方へ戻る間も、腿の付け根が重かった。
「どこが先に疲れた」
「腿の付け根と、お腹。上に持ち上げられるたびに、戻そうとしてたからかな」
「膝は?」
「痛くはない」
厚いシューズに替えた。
二本目は、上体の揺れが減った。靴底が衝撃を受けてくれる。膝へ上がってくる硬さもましだった。
でも、押したいところまで力が届かない。
一歩を強めると、靴の中で足だけが余計に働く。坂を上り切っても、さっきより速くなった感じはしなかった。
「どうだ」
「揺れるのはまし。膝もさっきほど来ないけど、速くしようとしても進まない」
「力を入れても?」
「うん。これで競り合うのは、ちょっと嫌だな」
紐を解きながら答える。まだ試して一度なのに、もう普通の靴が履きたかった。
三本目は、それに戻した。
腰を落とせば、最初の跳ね方は小さくなる。その姿勢を保とうとすると、今度は足が前へ出ない。歩幅を詰めて数歩続け、また元へ戻る。
坂の途中で一度、上体が前へ流れた。
慌てて左脚を出した。つまずかずには済んだものの、そのあと二歩ほどが揃わない。結局、走り終えるまでに、使えそうな形は見つからなかった。
戻ると、絢原さんはストップウォッチを見ていた。
「時計、どうだった?」
「二本目でも、思ったほど伸びなかった。三本目は走り方を変えてるから、単純には比べられないけど」
「やっぱり遅いか。走ってても、進んでる感じしなかった」
靴底の芝を落としていると、タオルが差し出された。
「ここだと、本来の力の半分も前に使えてないと思う。上体を戻したり、揺れを抑えたりする方へ取られてる」
腹も腿も重い。あんなに力を入れて走ったのに、半分も進む方へ使えていない。靴を履き替えたところで何とかなりそうにはなかった。
タオルを顔へ押しつけた。
「半分も出てないのに、こんなに疲れるんだね。十日で何とかなる?」
「地面との相性までは変わらない。ただ、三本目に少し違う動きがあった。帰ったら、そこを一緒に見たい」
「転びかけたところ?」
「多分、同じところだと思う」
顔を拭き終え、タオルを首へ掛けた。絢原さんは私の足元をもう一度見て、片づけを始める。
「……帰った方がいいって、思ってる?」
「いや。今のところ脚に異常はないし、お前が走るつもりなら、そのための準備をするよ」
私は走った坂を見上げた。
招待を受けたのも、出ると決めたのも私だ。着いて二日目で、もう帰りの便の話をしたくはなかった。
「走るよ。せっかく来たんだし」
「ああ。じゃあ、そのつもりで組む」
「帰りに何か甘いの買って」
「先に昼飯な」
預けていたウマホを受け取り、ポケットへしまった。荷物を持った絢原さんが歩き出すので、その袖を掴む。
「ちょっとゆっくり歩いて。さっきの坂、まだ腿に来てる」
「ああ。痛みが出たら言ってくれ」
半歩前にいた絢原さんが、隣へ戻ってきた。
~
コースを出たところで、記者に呼び止められた。
通訳が質問を訳し終える前に、次の人が口を開きかける。絢原さんがその人へ少し手を上げた。順番にしてほしいという意味は、向こうにも通じたらしい。
私は顔を上げ、汗で張りついた前髪を直した。
「この速い地面には、慣れていないのではありませんか?」
「日本でも速い芝で走ってます。得意ではないですけど」
通訳の後ろで何人かが笑った。
「秋のロンシャンとは条件が違います。勝算はいかがですか」
「今日、初めて走ったところです。まだ、トレーナーと映像も見ていないので」
それでは記事にならない顔をされた。知らない。
次の質問には、レゾリュートの名前が入った。この舞台を得意とする相手が怖くはないのか、と。
「……速い地面の方が怖いです。あの人より」
今度は、ペンを動かす手が一斉に速くなった。
通訳がこちらを見た。言い直すほどのことでもなかったので、そのまま頷く。実際、今朝私を困らせたのは地面で、レゾリュート本人にはまだ会っていない。
囲みを抜けてから、絢原さんが小さく息を吐いた。
「最後のところ、見出しになりそうだな」
「だって、地面の方が怖いんだもん。さっき走ったの見てたでしょ」
「ああ。通訳も、そのまま伝えてくれてたよ」
「ならいい。早くごはん食べたい」
外周を回る途中、スタンドの方が少し騒がしくなった。
人垣の隙間に、白っぽい髪が見える。芝の上を流れるように走り、やがて建物の陰へ消えた。私が何度も跳ね上がった足場で、肩がほとんど上下していなかった。
誰なのかを確かめに行く気にはならなかった。
「今の、見えた?」
「ああ。あの速さでも、ほとんど上体が揺れてなかったな」
「うちにも一人いるよね、ああいう走り方する人」
バクシンオーさんの手紙を思い出した。
私にはあれができないから、いつも追いかけるのが大変だった。今、その人は重い芝で苦労している。私からの生意気な追伸は、そろそろ届く頃だろうか。
~
夕方、絢原さんの部屋へ行くと、机にカップが二つ並んでいた。
ラウンジで淹れてもらった紅茶だという。飲んでみると、ちゃんと美味しかった。持ってきた紙パックが四本しかないので、これは少し助かる。
机の同じ側へ寄せてある椅子に座った。カップを脇へ退けると、絢原さんがタブレットを二人の間に置く。
「お砂糖、もう一個ある?」
「ああ。こっち使ってないから」
渡された袋を開けている間に、朝の映像が出てきた。
最初に見せられたのは、一本目。腰が浮くたびに、一度身体を起こしている。その動作を、左脚を出す前に挟んでいた。
「三本目の、ここを見てくれ」
坂の途中で画面が止まる。
右脚が着く。肩が上がる。その直後、私が前へつんのめり、左脚を出していた。
「こっちは、上がった身体をいったん戻してない。前へ流れた分を、そのまま次の一歩に使ってる。何か変えようとしたのか?」
「転びそうになっただけだよ。左を出さなきゃ、って思って。あとはよく分かんない」
「そうか。ここ、もう一回見るぞ」
ゆっくり再生してもらう。
不格好な一歩だった。けれど、その瞬間だけは、さっきまでの上下の揺れと違う。身体が前へ出て、左脚がそこを受けている。
「明日、これを短い距離で試したいんだ。浮くのを止めずに前へ運べれば、その分は力を使わずに済むかもしれない」
「楽になりそう?」
「今よりは。ただ、ロンシャンと同じにはならないと思う。半分が六割になれば、というくらいで考えてる」
「そっか。……もうちょっと速いので見せて」
普段の速度に戻ると、次の足を出すまでの短さがよく分かった。間に合わなかったら、顔から行く。
絢原さんの腕へ頭を預け、画面の方を見たまま聞いた。
「本当に転んだら?」
「起こしに行く。最初は近くで見てるから」
「うん。お願いね」
絢原さんが私の前のカップを机の奥へ動かす。肘が取っ手に触れかけていたので、少し座り直した。
「ごめん。気づかなかった」
「熱いから、気をつけて」
両手でカップを持ち、一口飲む。さっきより甘くなっていた。
今日の囲みが、もう記事になっていた。知らない英語の見出しから、読める単語を一つ拾う。
Rain。
「雨の女王、だそうだ」
「私、雨が好きなわけじゃないんだけど」
「雨上がりのロンシャンを二度勝った、と続いてる」
「そこは合ってる」
当日に降れば、髪が張りつくし、靴も濡れる。走りやすいのは、その後に残る地面だ。
記事には今朝の写真も載っていた。私はすました顔で立っている。あの直前に、坂で転びかけていた子には見えない。
「訂正するか」
「いい。何を試すかまで聞かれそうだし」
絢原さんが記事を閉じた。元の動画へ戻ると、不格好な私がまた左脚を出す。
その一歩を、もう一度見た。
「明日、これからね」
「ああ」
「で、終わったらラウンジ寄ろ。こっちの紅茶、案外よかった」
「寄ろう。俺もあれは好きだった」
カップの底に残った甘いところを飲んだ。窓の外には、雨雲らしいものは見当たらなかった。