——Anti-Hero: Curren Moe
イギリスの朝は、乾いていた。
ホテルの窓を開けても、夏の匂いがしない。七月なのに空気が涼しくて、日本の蒸し暑さを思うと、別の季節に来たみたいだった。
初日は歩くだけにする、と絢原さんが決めた。時差で頭が回らなかったから、文句は言わなかった。街とコースの外周を歩いて、あとは寝た。
二日目の朝、私たちはアスコットのコースに立った。
雲が高い。風が乾いている。遠征の朝としては上等だった。
地面に触るまでは。
ゲート脇の芝生へしゃがんで、手のひらをつく。
……硬い。
硬いだけなら知ってる。知りたいのはその先だ。立ち上がって、スパイクの裏で軽く踏む。もう一度、今度は体重ごと。
芝が、弾き返してくる。
沈まない。押し返してもこない。踏んだ力が浅いところでそのまま跳ね返ってくる。地面と話す前に、地面の方が話を終わらせてくる。
知ってる感触だった。中山で。東京で。阪神で。京都で。私が勝てなかった全部のレース場で、足の下にいたやつ。それが海を渡った先で、もっと乾いて待っていた。
日本よりまだ軽い。出国の前の晩に、絢原さんが記事を訳してくれた。あの時は紙の上の話だと思っていた。行けば地面はあるし、踏めば分かる、って。
分かった。分かりたくない方向に。
「……記事、当たってた」
「らしいな。雨が二ヶ月降ってない」
絢原さんも隣にしゃがんで、指先で芝を押している。
「聞いてたのより、下がある」
「数字で知るのと、踏んで知るのは別物だ。昨日、歩くだけで切り上げただろ。時差の残った脚で踏んだら、地面のせいか体のせいか分からなくなる」
「……そこまで考えてたんだ」
「一応トレーナーだからな」
「さっきから同じところばかり踏んでるな」
「踏んでるけど」
意地でもう一度踏んだ。同じだった。芝は硬い音だけ返して、私に興味を示さない。
「ロンシャンはさ、踏んだ日に分かったんだよね。ここでなら走れるって」
「今日も、分かった日ではあるな」
「出た、前向きなまとめ」
「まとめてない」
「声がまとめてた。無理のあるまとめの時、ちょっと下がるの、声」
「……初耳だ」
「でしょうね。言ったの、初めてだから」
絢原さんが横を向いた。負けた側の横顔は、見ないでおいてあげた。
〜
踏むだけでは決まらないから、走って確かめよう、と絢原さんが言った。軽めで、三本。
一本目は様子見のつもりだった。つもりだったのに、最初の十歩でもう分かった。
踏む。芝が浅く弾く。私の脚は弾かれる前提で動いていないから、次の一歩までの間に力の行き場がなくなる。行き場をなくした力は膝の上で渋滞して、上体が揺れる。揺れを収めるのに、また力を使う。
空回り。
日本で嫌になるほど味わった燃費の悪さが、ここでは一段深い。坂を上がり切る頃には、息より先に腿の付け根が音を上げていた。
二本目は、厚いシューズに替えた。
日本の芝で沈む分を逃がすための靴だから、沈まない地面では意味が薄い——と思っていたら、少し違った。弾かれる衝撃を靴が半分食ってくれる。上体の揺れは減る。そのかわり、ただでさえ伝わらない力が、布を一枚挟んだみたいに遠くなった。
揺れを取るか、力を取るか。どっちを選んでも、足りない側が残る。
三本目は普通の靴に戻して、力の行き場を体の中で作る走り方を探した。腰を落としてみる。歩幅を詰めてみる。どっちも途中で崩れて、見つからないまま坂を上がり切った。
戻ると、絢原さんはストップウォッチを見たままだった。私が横に立っても、まだ見ていた。
「……何秒」
「言わない。基準にならない時計だ」
「そんなに?」
「そんなに」
絢原さんはウォッチをポケットへ入れた。それから、少し黙った。
「言っておく。この地面で、モエの本来は出ない。半分も出ない」
香港のあとも、同じ顔で同じことを言われた。重い地面が向いてる、軽い芝ではその分が抉れる。あの時もちゃんと私に言った人だから、今日も言う。分かっていても、聞くと胃の底が冷える。
「半分」
「半分も、だ。出るのが半分、じゃない」
「……言い直さなくていいから」
「正確な方がいいだろ」
「……その正確さ、たまに嫌い」
「モエの脚は、踏んだ力で進む。この芝は、受け止める前に返してくる。さっきの三本、全部それだった」
「仕上げでどうにかなる話じゃなくて?」
「相性だ。あと十日走り込んでも、そこは変わらない」
「直らないんだ」
「直さなくていい。モエの脚は間違ってない。地面が合わないだけだ」
……ずるい。
口の中で言った。声には出さなかった。
十日走り込んでも、半分。世界一と呼ばれてる脚で、それだ。
足の裏がまだ、さっきの弾かれ方を覚えている。踏んだのに、返ってこなかった感触。本番の日、十八人が同じ芝に並ぶ。あとの十七人には、よく手入れされたいい地面だ。踏めば返ってくる。私にだけ、返ってこない。
文句を言う先はない。返ってこないのは私の脚の話で、地面は何も悪くない。
「帰るか、とは聞かないんだね」
「聞いてほしいのか」
「べつに」
「なら聞かない。決めたのはモエで、俺は帯同を決めた側だ。条件が分かったからって、決めた順番は変わらない」
そうだった。呼ばれたから来て、走りたかったから来た。それ以上の理由は最初からないし、それ以下になる理由を地面ごときに作らせる気もない。
「走るよ」
「ああ」
「勝てるかは知らないけど」
「そこは俺も知らない。ただ、半分のモエがどこまでやるかは、俺も見たことがない」
絢原さんは、それを楽しそうに言った。
ちょっと腹が立った。腹が立ったのに、坂を降りる足は軽くなっていた。
〜
コースを出るところで、記者に囲まれた。
日本より数は少ない。そのかわり質問が遠慮なく速い。通訳が追いつく前に、次が飛んでくる。
「速い地面で走るのは、初めてでは」
「初めてじゃないです。日本の芝は速いので」
訳された瞬間、何人かが笑った。訂正はしなかった。面倒だったし。
「秋のロンシャンとは条件が違う。勝算は」
「走ってみないと分かりません」
「レゾリュートは、この舞台を得意としているが」
「知ってます」
「怖くないのか」
「……速い地面の方が怖いです。あの人より」
本気で言ったのに、たぶん強気な切り返しとして載る。
囲みを抜けて、絢原さんと並んで歩く。
「最後の、そのまま載るぞ」
「本当のことしか言ってない」
「それが一番、変な見出しになる」
いつものことだった。世界チャンプも、藍鎚も、カレンチャンの娘も、みんなそうやって出来上がった。今度は何て呼ばれるんだか。
外周を回って戻る途中、スタンドの方から行儀のいいざわめきが聞こえた。誰か大物が入ったらしい。人垣の隙間から、白っぽい何かが芝の上を流れていくのが一瞬だけ見えた。
流れていく、としか言えない走り方だった。踏んでいる音がしない。弾かれるんじゃなく、弾く側の脚。この地面と最初から同じ言葉で喋っている。
白銀かどうかまでは見えなかった。確かめには行かなかった。会うなら向こうから来る。
「見たか」
「ちょっとだけ」
「ああいう走りの庭だ、ここは」
「知ってる。……うちにも一人いるし、ああいうの」
言ってから、トレセンの空を思い出した。地面を叩いて弾んで、誰より速く駆け抜けていく人。軽い芝が本職のくせに、いまは重い芝へ体重を預ける練習をしている人。
あの手紙、もう着いた頃だろうか。
あの人は得意な走り方を捨てにいっていて、私は苦手な地面の上に立っている。逆をやってる。ちょっと笑った。
〜
夕方、絢原さんの部屋の机に、タブレットと紅茶が二つ並んだ。
下のラウンジで淹れてもらったやつだ。ミルクを先に入れるのがこっちの流儀らしい。一口飲んで、思っていたより悪くなくて悔しかった。本場に来て紙パックの銘柄が恋しい私の舌の方が、たぶん間違っている。
「結論から言う。三本目だ」
画面には一本目と三本目が並んでいた。
「一本目は普段のフォームのままだ。綺麗だが、弾かれた力が全部上に逃げてる。三本目は、モエが自分で行き場を探し始めてる。完成してないが、方向はこっちだ」
「探して、見つかんなかったやつだよ、それ」
「今日はな。十日ある」
「それまでに見つかるの」
「見つからないかもしれない。それでも一本目のまま行くよりはいい。あれは綺麗に負けるフォームだ」
綺麗に負ける。
画面の中の私は、たしかに綺麗に走っていた。日本で負けた時と、同じ綺麗さで。
「三本目の、ここ」
絢原さんが画面を止めた。坂の中腹。右足が着いて弾かれ、上体が浮きかけた瞬間だった。
「浮いた分を、前に倒して使おうとしてる。無意識だろうが、これは芽だ。浮くのを止められないなら、浮いた分ごと前へ運べばいい」
顔を近づけて見た。言われてみれば、その一歩だけ姿勢がおかしい。倒れかけているのを、倒れる方向へ足を出して間に合わせている。走りというより、つまずきの続きみたいだった。
「これ、転びかけてるだけじゃない?」
「転びかけを走りにできたら、それが今日の収穫だ」
「すごい言い方するね」
「褒めてるんだよ」
たしかに私は、転びかけていた。弾かれた勢いで体が浮いて、そのまま前へつんのめる。日本の芝でそれをやると沈むから、ずっと堪える側に力を使ってきた。
堪えなければ、どうなるんだろう。
考えた瞬間、腿の裏がぴくりと動いた。まだ椅子に座っているのに。
「これ、疲れそう」
「疲れる。燃費の悪さは変わらない。ただ、逃げてた力の何割かが前を向く。半分が、六割になるかもしれない」
「六割」
「かもしれない、だ。約束はできない」
「じゃあ、明日から」
「ああ。転ぶ準備だけしておいてくれ。前へ倒すのを間違えると、本当に転ぶ」
「転んだら?」
「起こしに行く」
言い切ってから、絢原さんは紅茶を飲んだ。それ以上は足さなかった。
私はもう一度、画面の中の不格好な一歩を再生した。綺麗な一本目より、こっちの方が私だった。
日本での綺麗さは、堪えてる綺麗さだった。この地面では、堪えても何も返ってこない。なら、崩れたまま前へ行くだけだ。
片付けの前に、絢原さんがタブレットをこちらへ向けた。昼の囲みが、もう現地の記事になっている。
読めない単語の並びの中に、読める一語があった。
Rain。
「雨の女王、だそうだ。雨で重くなったロンシャンを二度制した、と」
「……雨、関係ないんだけど」
「知ってる」
雨が好きなわけじゃない。雨が置いていった地面が好きなだけだ。当日に降られたら、髪が張りついて邪魔なだけ。彼らは雨しか見ていないから、雨の名前をつける。
半分だけ合ってる。藍鎚もそうだった。力任せで燃費が最悪、という意味だったのに、綺麗な名前として広まった。
「訂正する?」
「しない。説明したら、地面の話までしなきゃいけなくなるでしょ」
「だな。それはこっちの手の内だ」
絢原さんがタブレットを伏せた。
向こうが知っているのは、雨まで。その先は、走った日に分かればいい。
窓の外を見た。乾いていて、雨の気配がどこにもない空。本番の日も、たぶんこの空だ。
この軽すぎる地面で、半分の——うまくいって六割の私で、あの白銀と走る。
……まあ、いい。
六割でどこまでやれるかは、私もまだ見たことがない。