アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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第三話 女王の庭

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

 

本番まで、あと六日。

 

朝の調整を終えて、絢原さんが事務局へ書類を出しに行っている間、私は控え室棟の裏の通路で待っていた。日陰でも空気が乾いている。ミルクティーは残り二本になっていて、帰国日までの配分を考える必要があった。

 

足音が近づいてきて、通路の先で止まった。

 

顔を上げる前に、誰か分かった。

 

白銀。

 

「逃げずに来たか」

 

レゾリュートは、開口一番そう言った。挨拶を全部飛ばして。

 

「……久しぶり、の方が先じゃないの」

 

「そういえばそうだったな。なにせ、こちらは先月も画面越しに会っているから、勘違いしてしまった。お前が招待を断る記事だった」

 

「それは会ったって言わない」

 

「ふふ。そうだな。夏の私とは初対面だ」

 

近くで見るレゾリュートは、ロンシャンの時と少し違った。何が違うのかは、すぐには分からなかった。仕上がりとか、そういうことじゃない。立ち方の話でもない。

 

目だ。

 

こっちを見る目が、待っている人の目じゃなくなっていた。

 

「二ヶ月、雨が降っていない。お前の地面は、ここにはない」

 

「らしいね、見てるよ。開催までに降ってもくれなさそうだなあ」

 

「見ているのか」

 

「見てる。降らないかなって」

 

正直に答えたら、一瞬の間のあとで短く笑われた。笑うところだったのか、今の。

 

「相変わらずだ、お前は」

 

「そっちは変わったじゃん」

 

言ってから、口が先だったと気づいた。頭はまだ、何が変わったのかを言葉にできていなかったのに。

 

レゾリュートは笑いを消した。

 

「分かるのか」

 

「分かるよ。上手く言えないけど、追いかける側の顔をしてる」

 

通路の空気が、一段静かになった。

 

「……ああ。待つのはやめた」

 

彼女は一歩、こちらへ踏み込んだ。

 

「ロンシャンで、私はお前に二年続けて負けた。世界は優しい。毎年、同じことを言ってくる。雨のせいだと。地面のせいだと。前の晩に降ってさえいなければ、女王は負けなかった、と」

 

「……」

 

「お前の側も同じだろう。勝っても勝っても、雨のおかげだと言われる。Rain Queen——もう読んだか。私たちはずっと、同じ言い訳の裏と表にいる」

 

知らない感覚だった。この人の口から、私と「同じ」という言葉が出ること。

 

「私はもう、その言い訳が要らない」

 

レゾリュートの声は静かなままだった。静かなまま、通路の温度だけ下がっていく。

 

「だから、まずここで勝つ。乾いた芝の上で、言い訳の余地なく。そのあと秋のロンシャンへ行って、お前に向いた地面の上でも勝つ。——二つ併せて、初めて私はお前に勝ったことになる。そう決めた」

 

そう決めた、の語尾が前へ落ちた。守る側の声じゃなかった。

 

腹の底で、黒猫が薄目を開けた。

 

いや、待って。今じゃない。

 

食われる側だと言われているのに、体の方が先に起きようとしている。

 

「来たことを後悔しろ、Queen」

 

「しない」

 

考える前に出た。いつもの、口が先のやつ。でも今回は、頭が追いついても直す気にならなかった。

 

「後悔はしない。地面が軽くても、相手があんたでも。……走りたくて来たから」

 

「それだけか」

 

「それだけ。悪い?」

 

レゾリュートは私を見て、少し長く黙った。

 

「——いや」

 

来た時と同じ足音で、通路を戻っていった。途中で一度だけ立ち止まって、振り向かずに言った。

 

「六日後だ。仕上げてこい」

 

敵に仕上げろと言われて、腹が立たなかったのは初めてだった。半分の脚で来ることを、あの人は知らない。知らないまま、私の全部を要求している。

 

足音が消えてから、私は自分の手のひらを見た。汗をかいていた。この乾いた国で、初めてだった。

 

戻ってきた絢原さんに、レゾリュートの公開トレーニングが午後にあると聞いた。

 

先週までの私なら行かなかった。人垣の隙間から一瞬見えれば十分で、それ以上は本番で見ればいいと思っていた。

 

今日は行った。正面から挑まれたのだから、正面から見る資格ができた。

 

柵の周りには現地の客が集まっていた。庭の主のトレーニングは、それ自体が興行らしい。誰かが私に気づいて、隣の連れに何か囁いた。聞き取れたのは、レイン、の一語だけ。訂正はしない。六日後に地面がしてくれる話だ。

 

柵の一番前で、白銀が走るのを見た。

 

音がしなかった。私が走ると、この芝は踏むたびに硬い音を返してくる。あの人の足元からは、それが聞こえない。地面に置いた足を、地面が嫌がっていない。

 

直線に入って、彼女は最後の二百だけ強めた。

 

伸びた、と思った時にはもう終わっていた。加速の継ぎ目が見えない。歩幅が変わったのか、回転が変わったのか、目で追ったのに分からずじまいだった。私の目は、レースの中でならたいていの走りを分解できる。分解できないのは、格が上の走りだけだ。

 

この地面の上でなら、あの人は、私より強い。

 

見終わって、それだけが残った。悔しさはあとから来ると思っていたのに、先に来たのは別のものだった。腿の裏が、また勝手に動いた。

 

……食われる側の予習に来たはずなんだけど。

 

体は、もう当日の話をしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

——Hero: Resolute

 

 

 

 

自分の庭の芝は、踏まなくても分かる。

 

今朝のアスコットは完璧だった。乾いた芝が、望みうる限り速く仕上がっている。私が積み上げてきた、欧州の夏の地面。ここで負けたことは、一度もない。

 

通路であの子と別れてから、私は一人でコースの縁に立った。

 

二年前、私はあの子をラビットと呼んだ。名前を覚える必要のない、前を引くだけの付属品だと。その認識ごと、ロンシャンの重い芝の上で叩き潰された。

 

翌年もまた、負けた。

 

二度目の敗北の夜、陣営は口を揃えて私を慰めた。前の晩に降った、と。地面が向こうへ向いた、と。

 

私はそれを、一つも拾わなかった。

 

拾えば楽になることは知っている。事実として、正しい部分もあるのだろう。あの子の脚が重い地面で別物になることは、二年続けてこの目で見た。

 

でも、言い訳を拾った瞬間に、私の敗北は私のものでなくなる。

 

負けたのは雨で、地面で、暦で、私ではない誰かになる。そうやって女王のまま、何も負っていない顔で歳を取っていく。——冗談ではない。あれは私の負けだ。二つとも、誰にも渡さない。

 

だから、夏に出ると決めた。

 

あの子が夏の招待を受けたと聞いた日、笑ってしまった。呼ばれたら行く、と言い続けてきた子が、本当に来る。私の庭の、雨の降らない季節に。

 

陣営は反対した。わざわざ危険を冒す必要はない、秋のロンシャンで待てばいい、と。待つ、という言葉を聞いた瞬間に、出走を決めた。

 

危険、という言い分は分かっている。夏に使えば、秋の凱旋門へ疲れを持ち込む。二戦分の消耗を、この歳の脚で払うことになる。全部承知の上だ。払えるうちに払わなければ、あの子との勘定は永遠に終わらない。

 

待つのは、もうやめた。

 

二年前のあの日、私との話が終わるなり、あの子は背を向けて歩き出した。トロフィーの方は見もしない。向かった先は、ラチ沿いに立っている一人の男だった。何のために走るのか分からない、と私は思った。今は少し分かる。あの子は、勝ち負けの手前にあるもので走っている。だからあの子の走りには、言い訳が寄りつかない。

 

今日の通路で、確かめたいことは一つだけだった。世界一と呼ばれて一年、あの子が称号の側の生き物になっていないかどうか。なっていたら、私の二年は安いものになる。

 

走りたくて来た、と言った。称号の話は一度も出なかった。

 

安心して、腹が立った。

 

私も、そこへ行く。

 

六日後。言い訳の降らない空の下で、私は自分の全部を出す。

 

欠けた条件のことは、あの子が自分で考えればいい。私が考えてやる義理はない。私はただ、目の前に来た世界一を、私の庭で、正面から食う。

 

それが、二年ぶんの返事になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

 

夜、部屋で絢原さんに昼の話をした。

 

隠す理由もないし、隠しても明日の練習で顔に出る。それなら先に言った方が安い。

 

「向こうから来たか」

 

「来た。真正面から」

 

「何を言われた」

 

「ここで勝って、秋のロンシャンでも勝つって。二つ併せて初めて私に勝ったことになるから、って」

 

絢原さんは資料をめくる手を止めた。

 

「……そこまで言ったのか」

 

「言い訳が嫌なんだって。雨のせいって言われるのが、もう嫌なんだって」

 

「モエは何て返した」

 

「後悔しないから、かかってこいって」

 

「そうか」

 

絢原さんは資料を閉じて、少しの間、何も言わなかった。

 

「怖いか」

 

「……昼、手汗かいた」

 

「そうか」

 

「笑わないんだ」

 

「笑う話じゃないだろ。二年前にモエが狩った相手が、やり返しに来てるんだ、本気で。まともな神経なら手汗くらいかく」

 

狩り、という言葉を絢原さんが使ったのは久しぶりだった。私の側の言葉なのに。

 

「それでも、条件は変わらない。うちは六割を作る。向こうは十割で来る。やることは昨日と同じだ」

 

「あの人、どう走ると思う」

 

「前だ」

 

絢原さんは考える間も置かずに言った。

 

「今までのレゾリュートは、力を測ってから動く走りだった。今回は測らないと思う。待つのをやめた、と本人が言ったんだろ。それなら走り方にも出る。最初から前で運んで、直線で突き放しに来る」

 

「逃げ切られたら?」

 

「終わりだ。だから、離されない位置の話を明日からやる。六割の脚でどこまで我慢できるか——正直、計算はまだ合ってない」

 

合ってない、を隠さずに言うのが、この人の誠実さだった。

 

「六割で、あの人の十割と」

 

「ああ。足りるかどうかは、俺には約束できない」

 

「知ってる」

 

「ただ、一つだけ確かなことがある」

 

絢原さんは、机の上の番組表を指で叩いた。秋の欄。ロンシャンの日付のところ。

 

「勝っても負けても、ここでもう一回ある。向こうがそう決めて、モエも行くと決めてる。つまり六日後は、どっちに転んでも終わりじゃない」

 

「……前哨戦ってこと?」

 

「向こうにとっては一戦目だ。二つ揃える、って言ったんだろ。なら初戦で全部は終わらない」

 

それを聞いて、胸の中の重いものが少しだけ配置を変えた。消えはしなかった。ただ、置き場所が決まった。

 

六日後に全部が懸かっていると思うから、手が汗をかく。全部じゃないなら、懸かっているのは六日後のぶんだけだ。

 

「寝る」

 

「ああ。明日は坂を二本にする。三本目の形を、実戦の速度で試す」

 

「転んだら?」

 

「起こしに行く。昨日も言った」

 

「確認しただけ」

 

部屋へ戻る前に、冷蔵庫からミルクティーを一本出した。残り二本の片方。配分の予定では明後日のぶんだった。

 

予定は変わった。今日は、使っていい日になったから。

 

甘さが喉を通ると、昼からずっと胸の奥で硬くなっていたものが、少しだけ形を崩した。全部は崩れない。それでいい。硬いままのぶんは、六日後に持っていく。

 

ベッドに入って、天井を見た。

 

あの目を思い出す。

 

二年前、パリの公園で私が牙を剥いた時、あの人は半歩下がって、それから私を見た。目の前にいるものが何なのか、あの時初めて確かめにきた。それからずっと、待つ側にいた。ロンシャンで待っている、必ず来い、と会うたびに言った。

 

今日の目は、待つ側の目じゃなかった。私を食いに来る目だった。

 

私はずっと、狩る側だと思っていた。獲物にされたのは、たぶん初めてだ。

 

……なんで、ちょっと嬉しいんだろう、それが。

 

分からないまま、目を閉じた。予報は明日も晴れだった。

 

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