——Anti-Hero: Curren Moe
本番まで、あと六日。
朝の調整が終わり、控え室棟の裏で絢原さんを待っていた。事務局へ書類を出してくるというので、私は日陰を見つけて座っている。
ミルクティーは残り二本。
帰国する日までの数を指で数えて、いったんやめた。足りない。最初から分かっていたけれど、数えると余計に足りない気がする。
何か代わりを買って帰ろう。ラウンジの紅茶も美味しいが、冷たいのを飲みたい時もある。
足音が近づいてきた。
「逃げずに来たか」
顔を上げる。
白銀が、すぐ前にいた。
「……久しぶり、の方が先じゃないの」
「そういえばそうだったな。先月も画面で見たから、勘違いしてしまった。お前が招待を断る記事だった」
「それは会ったって言わない」
「そうだな。夏の私とは初対面だ」
レゾリュートは、挨拶をやり直す気はないらしかった。
立ち上がって、正面から見る。近くで会うのは久しぶりなのに、探るような間もない。向こうはもう、話すことを決めて来ている。
「二ヶ月、雨が降っていない。お前の地面は、ここにはない」
「天気予報は見てるよ。開催までに降ってくれないかなって」
「見ているのか」
「毎朝。今日も晴れだった」
短く笑われた。
「相変わらずだ、お前は」
「そっちは、待ってるだけじゃなくなったんだね」
レゾリュートの笑いが止まる。
「……ああ。待つのはやめた」
一歩、近づいてきた。こちらの足元でも出走表でもなく、顔を見ている。
「ロンシャンで二年続けて負けた。そのたびに、陣営も新聞も雨の話をした。前の晩に降らなければ、女王は負けなかったと」
聞いた覚えがある。私の勝った記事の隣で、そんな話をしている人たちがいた。
「お前の側にも来るだろう。雨のおかげで勝てた、と。Rain Queenはもう読んだか」
「昨日」
「あれで私の負けが変わるものか。二つとも、お前に負けた」
言い切られると、こっちも軽く返しにくい。
私は背中を壁から離した。
「だから、まずここで勝つ。乾いた芝で。その後はロンシャンへ行って、お前に向いた地面でも勝つ。二つ揃えて、私はお前に勝つ」
「勝手に二つとも取らないでよ」
「取るために来た」
ああ、そう。
本当に、そのために来た顔だった。
知らないうちに、足の指へ力が入っていた。身体の奥が、勝負の前のあの感じで騒ぎ始める。まだ練習も終わったばかりなのに。
「来たことを後悔しろ、Queen」
「しない」
すぐに返した。
レゾリュートが、少し顎を上げる。
「地面が軽くても、相手があんたでも、そこは変わらない。走りたくて来たから」
「それだけか」
「それだけ。悪い?」
しばらく見られた。
そのまま見返して、返事を待った。
「……いや」
レゾリュートは踵を返した。
通路を戻りかけ、途中で足を止める。
「六日後だ。仕上げてこい」
返事を待たずに行ってしまった。
偉そう。そう思ったのは、足音が聞こえなくなってからだった。
握っていた手を開く。手のひらが湿っている。朝の調整の汗は、とっくに乾いていたのに。
冷たいものを買いに行くはずだった。
私はもう一度腰を下ろし、絢原さんの戻ってくる方を見た。
~
「待たせた。書類は済んだよ」
戻ってきた絢原さんの袖を掴み、隣へ座ってもらう。
「レゾリュート、来たよ。今さっき」
「会ったのか。なんて?」
「ここでも秋でも勝つから、仕上げてこいって。すごい自信」
書類を鞄へしまいながら、絢原さんが私の話を聞いている。
「午後、公開トレーニングあるんだって?」
「ああ。見ていくか?」
「うん。見たい」
「じゃあ先に飯にしよう。終わってからだと遅くなる」
私が立つのを待ち、絢原さんも腰を上げた。袖を掴んだまま、二人で通路を歩く。
午後の柵際には、現地の客が集まっていた。
レゾリュートはその向こうを走っていた。背中がほとんど揺れない。私が浮いた身体を戻すのに苦労していたところで、次の足がもう前へ出ている。
直線に入り、最後の200mで強めた。
速くなったのは分かる。けれど、どこから変わったのかを見落とした。歩幅だけでも、足の回転だけでもない。さっきまでの走りと継ぎ目がなく、気づいた時には、離れたところへ進んでいた。
柵を握る手に力が入る。
これと走る。
同じ地面に立っても、私は毎回ああはいかない。朝は一本、右脚を着いた後で上体を戻してしまった。その一歩で、次の左も遅れた。
あの人には、それがない。
「もう一本、見るか」
絢原さんが聞いた。
私は頷き、柵へ少し近づいた。
周りの客が私に気づいて何か話している。レイン、と聞こえたが、そちらを向く気になれない。
レゾリュートが折り返す。息を整え、次の一本へ向かっていく。
もう一度、あの加速を見たかった。
——Hero: Resolute
走り終え、コースの縁へ戻った。
足を置けば、次にどれだけ進めるかが分かる。乾いたアスコットは、私が夏ごとに走ってきた芝だ。ここでは、まだ一度も負けていない。
だからこそ、ここへ来たカレンモエに勝ちたかった。
出走を決める際、陣営は反対した。
秋のロンシャンで待てばいい。夏に仕上げれば、その疲れを持ち込むことになる。その懸念は、もっともだった。この脚で二戦分を払う。私も分かっている。
それでも出ると決めた。
二度目に凱旋門賞を負けた夜、目の前で映像を止められた。雨の影響が出た箇所を、一つずつ説明された。
どこも知っていた。そこを走ったのは私だ。
カレンモエも、同じところを走っている。
あの時の勝者が夏の招待を受けたと知った日から、出走予定を何度も確かめた。国内のレースと重なるからと断る記事を、これまで何度読んだか分からない。
今度は来る。
そう分かったのに、秋まで待っていられるものか。
今日、通路で会った本人は、雨が降らないかと空を見ていた。堂々と、そう言った。
それでいて、来たことを後悔する気はないという。
走りたくて来た。
あの返事を聞いて、思わず足を止めてしまった。肩書きを守るためなら、来なくていい場所だ。実際に踏んでみて、合わないと分かっても帰らない。
二年前、レースが終わった途端に一人のトレーナーを探していた顔を思い出す。
あの子にとって、自分がどれほど巨大な称号になっているかなど、あまり関係がないのだろう。今日も私の前で、世界一としての返答を作ろうとはしなかった。
なら、そのままで来い。
調整用の上着を受け取り、腕を通した。スタッフが明日の時刻を伝えてくる。聞きながら、もう一度だけ芝へ目を向けた。
勝つ。
ここでカレンモエを負かして、次はあの子のロンシャンへ行く。
——Anti-Hero: Curren Moe
「今日、レゾリュートと話してる時、手に汗かいちゃった」
夜、絢原さんの部屋のソファでそう言った。
資料を持ってきた絢原さんが隣へ座る。私はその膝からはみ出した紙を揃え、紙を持っていない方の手を取った。
「怖かったか」
「うん、少し。別に怒ってたわけでもないんだけど、ずっとこっちを見て話すから」
「午後の走りもよかったな。かなり仕上げてきてる」
「そうなんだよね。言うだけなら、まだよかったんだけど」
指を引っ掛けていると、軽く握り返された。絢原さんは空いている手で紙をめくり、止めたところを私にも見えるように向ける。
通路で何を話したか、最初から聞いてもらった。
二度の敗北を雨のせいにされたこと。今度は夏と秋の両方で勝つつもりでいること。来たことを後悔しろとまで言われたこと。
「なんか、ああいうの苦手。次も勝つって、人の顔見ながらあんなにはっきり言う?」
「お前に聞かせたかったんだろうな」
「十分聞いたよ。仕上げてこい、まで言ってったし」
絢原さんが資料の脇からタブレットを出した。私は手を離し、画面をこちらへ寄せる。
「ねえ、どう走ると思う? 今日、速くなったところが分かんなかった」
レゾリュートが直線へ入る。見ていた場所を指すと、少し手前まで戻してくれた。
「前で運ぶと思う。今日の走りを見ても、自分から仕掛けたそうだった。お前に言ったこともあるしな」
「最初から行く?」
「ああ。それで、直線に入ったらこの加速だろうな。離されないところにいたいが、追うだけでもかなり使う」
白銀が、もう一度画面の奥へ進んだ。
「六割くらいまで使えても、あの人についていくのは厳しいか」
「うん。余力を残そうとすると、今度は距離が開く。そこがまだ合ってない」
ソファの背へ頭を倒した。
天井の照明が眩しい。横を向いて、そのまま絢原さんの肩へ寄りかかった。膝から滑りそうな紙を取って渡すと、脇のテーブルに置かれる。
「嫌な場所に来ちゃったね。まだ六日も走るんだよ、あの芝で」
「明日は坂を二本にしよう。短い距離で少し速さを上げて、どこまで続くか見たい」
「また足が間に合わなさそうで嫌なんだけど」
「近くで撮るよ。一本ずつ確認しながらやろう」
「うん。……それで、もう少し続くようになるといいんだけどね」
画面を見ていると、レゾリュートの走りがまた始まった。
秋の分まで勝つと言っていた。私はまだ、この速さについていく方法も決まっていない。
「ロンシャンもあるのに、こっちだけでこんなに苦労するとは思わなかった」
「あっちは、ここが終わってから考えよう。今はこの六日間でできることをやるしかない」
「そうだね。ここでも負けたくないし」
停止を押して、タブレットを膝へ伏せた。明日の二本を走ってから、続きを見る。
絢原さんが時計へ目を向けた。
「そろそろ戻るか?」
「あと五分。このまま休んでたい」
「じゃあ、残りの資料だけ読ませてくれ」
「うん」
肩へ頬を載せ直すと、頭の向こうで紙をめくる音がした。
冷蔵庫には、残り二本のミルクティーがある。明後日まで残しておくつもりだった一本が飲みたくなった。
「戻る前にミルクティー飲もうかな。今日は要る」
「分かった。あとで出すよ」
六日後は、あの白銀を追いかける。
五分経ったら立つつもりで、肩に頬を載せたまま目を閉じた。