——Anti-Hero: Curren Moe
本番の朝は、憎らしいほど晴れていた。結局この庭には、二ヶ月と少し、雨が降らなかったことになる。
支度は早く終わった。迷ったのは靴だけだ。
ベッドの上に、普通のスパイクと厚いシューズを並べて置く。
十日試して、答えは出ていた。厚い方は揺れを消してくれるけど、そのぶん地面が遠くなる。あの布一枚の距離が、最後まで我慢できなかった。どうせ半分しか出ないなら、地面に近い方の半分を選ぶ。
普通の靴を袋へ入れて、厚い方はバッグの底へ戻した。
「決めたか」
部屋へ来た絢原さんが、バッグを見て言った。
「普通の。理由いる?」
「いらない。ずっと隣で見てたから」
それだけで話は終わった。
朝の点検も済んでいた。足首、膝、腰。絢原さんが順番に確かめて、最後に「問題なし」とだけ言った。体は今日も、私の言うことを聞いてくれるらしい。
坂で転びかけて、実際に二度転んで、掌の擦り傷がまだ薄く残っている。浮いた分ごと前へ運ぶ走りは、結局完成しなかった。昨日の最後の一本で、やっと坂の途中まで続くようになった。それが今の全部だ。
「計算、最後まで合わなかったんでしょ」
「合わなかった」
絢原さんは隠さなかった。
「六割の脚で、あの人の十割から離されない位置。数字の上では、直線の入り口まで持たない」
「持たないんだ」
「数字の上では、だ」
絢原さんは資料を閉じた。
「だから今日は、数字にない方を頼む。前半は地面と喧嘩するな。弾かれた分を堪えるのに使うな。全部、前へ倒すのに回せ。崩れかけたら、崩れかけたまま走れ。綺麗に走ろうとした瞬間に、日本の負けが始まる」
「不格好に走れって、送り出す言葉がそれ?」
「モエの一番いい走りが不格好なんだ。俺のせいじゃない」
言い返せなかったので、冷蔵庫を開けた。ミルクティーの最後の一本が冷えている。
手を伸ばしかけて、やめた。
「飲まないのか」
「帰ってから」
扉を閉めた。今日走って、戻ってきてから飲む。そう決めた。
部屋を出る前に、もう一度だけ荷物を確かめた。靴。替えの紐。タオル。全部ある。
「忘れ物は」
「ない。私を誰だと思ってるの」
「ちょっと前に、スマホ充電し忘れたって騒いでたからなぁ」
「もう!大丈夫だから。忘れてない」
絢原さんが笑って、部屋の鍵を取った。
「着いたら、俺は先に受付を済ませてくる。モエは控え室で待機だ」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
会場までは車で行った。窓の外は完全に夏の観光地で、帽子を被った客がぞろぞろとゲートの方へ吸い込まれていく。この人たち全員が、あの白銀を見に来ている。
隣の絢原さんは、窓の外じゃなくて手元の紙を見ていた。今日の進行表だ。もう頭に入っているはずのものを、まだ見ている。緊張しているのは、私だけじゃないらしい。
控え室で勝負服に着替えた。空色に、黒のライン。鏡の前で襟を直して、手のひらを見た。もう少し湿っている。まあ、いい。汗は走れば乾く。
〜
パドックの拍手は、日本と違った。
音が揃っている。歓声というより、品定めの拍手だ。柵の向こうの目は騒がない。そのかわり、頭のてっぺんから足の先まで、じっと見てくる。
場内の英語の中に、聞き取れる単語が混ざる。レイン・クイーン。そのたびに、どこかで笑いが起きた。悪意のある笑いじゃない。今日の空を見ろ、という笑いだ。
柵のすぐ内側を通った時、新聞を丸めた年配の客が、連れに何か話していた。新聞で芝を指して、空を指して、首を振る。連れが笑って、私を顎で示す。速い、という単語だけ、何度も聞き取れた。
彼らの言葉では、今日の地面をそう呼ぶ。時計の出る、いい芝。それが一番よく乾いた日に、雨の女王が来てしまった。気の毒に。そういう話だった。
踏めば分かるのに、と思う。まあ、いい。説明する気は最初からない。
出走者は揃っていた。欧州の中距離で今年名前の挙がった子が、ほとんど残らず来ている。女王が夏に出ると決めた途端、避けていた面々まで戻ってきたらしい。その全員が、周回しながら二人だけを見ていた。私と、まだ入ってこない白銀を。
……出るなら勝つ気で来なよ、みんな。
人のこと言えた立場じゃないけど。
私の名前が場内に流れた時、拍手は丁寧だった。大きくはない。うるさくもない。遠い国の世界一を、とりあえず一度見ておこう、くらいの音だった。
柵の外では、子供が親の肩の上で旗を振っていた。旗は白銀の勝負服の色だ。まあ、そうだよね。ここはあの人の庭だ。
拍手が急に大きくなった。
見なくても分かる。白銀が入ってきた。
レゾリュートは静かだった。急がず、跳ねず、歩いているだけなのに足音が聞こえない。仕上がりは素人目にも分かるくらい完璧で、公開トレーニングの日より、さらに研がれていた。
陣営の皆が、少し離れて見ている。誰も声をかけない。かける必要のある子に見えないからだと思う。
紹介のアナウンスが長い。去年の戦績を読み上げているらしくて、単語の切れ目ごとに拍手が重なる。読み上げが終わる頃には、パドック全体があの人のものになっていた。
周回の対角で、一度だけ目が合った。
会釈もない。笑いもしない。私の足元を一度見て、顔へ戻って、前を向いた。仕上げてきたか。それだけ確かめた目だった。
腿の裏が、ぴくりと動いた。
……はいはい、分かってる。もうすぐだから、静かにして。
周回を終えて、柵際の絢原さんの前で止まった。
「地面は」
「変わってない。朝と同じ」
「よし。予定どおりだ」
「弾かれるのが予定どおりって、どういう作戦なの」
「知ってる条件で走れるって意味だ。当日に知らない地面が出てくるのが、一番怖い」
絢原さんがしゃがんで、私の右足を見た。ほどけてはいない。それでも結び目を一度だけ指で確かめて、立ち上がった。凱旋門の日と同じ手順だった。
「行ってくる」
「ああ」
それだけだった。足す言葉は、二人とも持っていなかった。
〜
本走路へ出た瞬間、音の量が変わった。
腹に響く歓声。スタンドは横に長くて、端が霞んで見える。直線の先に、ゴール板。
柵沿いに、ぎっしり人が並んでいる。あの数の人が一斉に声を出すと、音というより風に近い。日本の歓声とは種類が違う。低くて、厚い。
ゲート裏の芝で軽く流した。踏むたびに硬い音が返ってくる。弾かれて、浮いて、浮いた分を前へ。一歩ごとに頭で組み立てないと崩れる走りを、本番の脚でなぞっていく。完成はしていない。今日はこれで走る。これしかない。
流し終わりに、一度だけ強く踏んでみた。
同じだった。この地面は、最初の朝から一度も返事を変えていない。裏切られる心配だけはない。そう思ったら、少し笑えた。
ふくらはぎを軽く叩いて、伸ばして、終わり。あとはもう、待つだけだ。
スタンドの一角に、空色のタオルが見えた。
日本から来た人たちなのか、こっちに住んでいる人たちなのか、ここからでは分からない。あの一角だけは、品定めの目じゃなかった。
半分の私を、あの人たちは知らない。知っているのは絢原さんと私だけだ。この庭で、私の本来は出ない。出るのは、うまくいって六割。数字の上では直線の入り口まで持たない脚で、十割の女王と走る。
怖いか、と昨日も聞かれた。
怖い。ゲートが近づくほど、掌が湿ってくる。二年前に凱旋門を勝って、去年も勝って、それでも怖いものは怖い。相手は十割の女王で、こっちは六割なんだから、当たり前だと思う。
でも、それだけじゃなかった。
日本で負け続けていた頃、レースの朝はいつも、早く終わってほしかった。同じ空回りを人前でやるだけの一日が、始まる前から嫌だった。
今朝は、早く始まってほしい。
昨日の夜、絢原さんに聞かれた。眠れそうか。眠れると答えたら、嘘つけ、と笑われた。でも本当に眠れた。枕に頭をつけて、次に目を開けたら朝だった。体の方が、私より肝が据わっている。
半分の私がどこまでやるか、私も見たことがない。絢原さんも知らない。世界の誰にとっても白紙だ。一番前の席で見られるのは、私だけだ。
それに、転ぶかもしれない走り方で二千四百を行くけど、転んだら起こしに来る人がいる。昨日も、その前の日も、同じことを言われた。確認しただけ、といつも返してきたけど、本当は毎回、それを聞いてから坂へ向かっていた。
だから、この走り方は二人で作った。計算の合わないところまで含めて、二人のだ。
スタンドのどこかに、絢原さんがいる。場所は聞いていない。聞かなくても、ゴールの先で待っているのは知っている。
係員が手を挙げた。輪が解けて、一人ずつゲートへ向かう。
順番待ちの間、隣の子と目が合った。ドバイで一緒に走った子だ。向こうが小さく顎を引いたので、こっちも同じだけ返した。挨拶はそれで終わり。ここから先は、全員ただの相手だ。
ゲートの列は、直線の入り口に置かれている。ここから二千四百。コースを回って、この直線へ帰ってくる。帰ってくる時、自分が何番手で、どんな形で走っているのか。考えても分からないから、考えるのをやめた。
レゾリュートが先に入った。金属の枠に収まっても、姿勢が変わらない。開く瞬間と同じ形で、もう立っている。
私の番が来た。
歩き出す前に、スタンドの一角を見た。空色のタオルは、もう振られていなかった。全員が手を止めて、こっちを見ている。
振り返す余裕はなかった。かわりに、心の中でだけ言っておく。
見てて。半分でも、私は私だから。
枠の中は狭くて、金属の匂いがした。世界中どこへ行っても、この匂いだけは同じだ。少し安心する。
係員が外から扉を確かめて、離れていく。どこかの枠で誰かが一度足踏みをして、それきり静かになった。静かになると、自分の息の音がよく聞こえた。
後ろで扉が閉まる。歓声が遠くなって、自分の心臓の音が近くなった。落ち着いている。体はとっくに準備を終えていて、頭が追いつくのを待っていたらしい。
正面の芝が、ゲートの隙間から見える。乾いた、軽い芝。私に興味のない地面。
二千四百の間、ずっとこの地面と付き合う。仲良くなれないのは、もう十日で分かった。でも、喧嘩しないで走ることはできる。今日はそれでいい。
いいよ、別に。呼ばれたから来た。走りたいから走る。あんたが弾くなら、弾かれた分ごと前へ行く。十日かけて、それだけ覚えてきた。
外の方の枠で、金属の軋む音がした。
白銀は見えない。壁一枚向こうで、靴底が芝を一度だけ踏み直す音がした。それだけで立ち方が分かる。真っ直ぐ、前だけ。最初から前で運んで、直線で突き放しに来る。
十割の女王が、壁の向こうにいる。こっちは六割。数字の上では、直線の入り口まで。
……持たせるけどね。
数字にないところで走れって、送り出されてきたから。
膝を一度曲げて、伸ばして、足首の返りを確かめる。弾かれた分ごと、前へ。形は頭より先に、体が覚えていてくれた。
腿の裏はもう静かだった。腹の底の黒猫は伏せたまま、耳だけ立てている。獲物の走りじゃない。狩りでもない。今日は、見たことのない私を見に行くだけだ。
奥歯の力を抜く。肩を下げる。最後にもう一度、前を見た。
息を吸って、吐いて、もう一度深く吸った。
場内の音が、すっと引いた。
ゲートが開いた。