——Anti-Hero: Curren Moe
カーテンの隙間から、細い日が差していた。
開けてみるまでもない。今日も晴れだ。
ベッドの上に並べた二足を見て、普通のスパイクを袋へ入れる。厚い方は、予備の靴紐と一緒に鞄の底へ戻した。
十日間、履き替えながら走った。厚い靴なら、上体の揺れは小さくなる。そのかわり、踏んでから進むまでが遠い。もっと力を入れたくなって、結局余分に疲れる。
最後まで、そちらには慣れなかった。
扉が二度鳴る。
開けると、絢原さんが進行表を持って立っていた。
「おはよう。そろそろ出られそうか?」
「うん。靴、いつものにした」
袋を持ち上げると、絢原さんが頷いた。
「俺もそれでいいと思う。厚い方は、予備に入れておこう」
「入れたよ。鞄の底」
絢原さんは入ってきて、椅子の背へ上着を掛けた。私はその椅子へ座り、片脚を前に出す。
足首、膝、腰。朝の点検はいつもの順だった。痛む場所はない。伸ばした時の張りも、昨日と変わらない。
「手も」
言われて両手を開く。坂で転んだ時の擦り傷が、掌に薄く残っていた。二度目に転んだ方は、まだ触ると少し痛い。
「こっち、まだ少し痛い。走るのは平気だけど」
「端が浮いてるな。貼り直しておこう」
絢原さんは、小さな保護材の端を貼り直した。私はその手元を見ていた。指の腹で浮いていたところを押さえ、引っ掛からないか軽くなぞる。
反対の手も見てもらい、終わったところで、その指を掴んだ。
「今日、緊張してる」
「昨日は眠れたか?」
「寝た。寝られないと思ってたのに、普通に朝だった」
「ならよかった」
絢原さんはしゃがんだまま、私の手を持っていた。私は鞄から出ているタオルを、空いた方の手で押し込む。
「もう一晩くらいあってもよかったんだけど」
「それは俺も欲しいな」
顔を見合わせ、少し笑った。手を放すと、絢原さんが立ち上がる。
上着のポケットを順に確かめている。ストップウォッチ、筆記具、予備の保護材。入っている場所まで知っているものばかりだった。
十日間、同じ人と同じ坂へ行った。
初めのうちは、足を前へ出せずに止まった。次は本当に転んだ。絢原さんが駆けてくる前に起きようとして、待てと怒られた。昨日の最後の一本では、坂の途中まで続いた。
そこでまた、上体を起こしてしまった。
今日持ってきたのは、それをまだ毎回はできない脚だ。
「結局、あの人についていくのは、最後まで厳しそう?」
鞄の肩紐を直しながら聞くと、絢原さんの手が止まった。
「ああ。直線に入る前には、かなり苦しくなると思う。昨日の走りで少しは残せるようになったが、向こうがどこまで上げるかだな」
「なるべくゆっくり走ってくれるように、頼んできてよ」
「無理だろ、あの人は」
「すごくいい顔で断りそう」
言ってみると、簡単に想像できてしまった。きっと、今頃はあの人も支度を終えている。
絢原さんが進行表を畳んだ。
「前半は、弾かれるたびに身体を戻そうとしないこと。昨日みたいに、次の足を前へ出す」
「形が崩れても、そのまま?」
「そう。いったん起こすと、また余分に使うから。練習で続いたところを思い出してくれ」
「分かった」
冷蔵庫を開けた。
最後のミルクティーが一本、扉の内側にある。手を伸ばしかけて、やめた。
「それは帰ってからにする」
「向こうへ持っていかなくていいか」
「ここで飲む。冷やしといて」
閉めた扉を、もう一度だけ手で押さえた。
鞄を持つと、絢原さんが隣の大きい方を肩に掛けた。鍵を取ったところで、私はその袖を引く。
「ちょっと待って。頭、撫でて」
空いている方の手が、頭に載った。前髪から耳の間へゆっくり動く。私は少し下を向き、その手の下で息を吐いた。
「……うん。行こ」
絢原さんが手を下ろす。先に廊下へ出て、鍵を掛けるのを待った。
~
車の窓の向こうを、帽子を被った人たちが歩いていた。
入口が近づくほど列が長くなる。腕に新聞を挟んだ人も、子供の手を引く人も、みんな同じ方へ向かっていた。
隣では絢原さんが進行表を見ている。
紙を持つ手へ、自分の手を重ねた。絢原さんは進行表を反対へ移し、空いた指で握り返してくる。
車が曲がり、窓の向こうに長いスタンドが見えた。
着くまで、手はそのままだった。
控え室で勝負服に着替える。
空色の裾を伸ばし、黒いラインが捻れていないか鏡で確かめた。肩を回す。両腕を振る。いつもの服、いつもの靴。
掌を拭いても、すぐまた湿ってくる。
廊下へ出ると、受付を済ませた絢原さんが待っていた。その腕へ指を掛け、パドックへの案内を待つ。
「あとどのくらい?」
「もう呼ばれるって。ここで待ってていいそうだ」
「うん」
絢原さんの袖を掴んだまま、廊下の向こうを見た。案内の係員が近づいてくる。そこで手を離し、並んで歩き出した。
パドックの中央には、細長いランウェイが延びていた。先のお立ち台で、一人が観客へ手を振っている。
その脇の準備スペースでは、出走者たちが脚を伸ばしたり、その場で軽く跳ねたりしていた。ドバイで見た顔もある。目が合った一人に小さく顎を引き、私は絢原さんの隣で順番を待った。
今日走るのは、十八人。まだレゾリュートの姿はない。
柵の向こうでは、観客が新聞とこちらを交互に見ていた。顔を上げると目が合い、相手が軽く頷く。そのすぐ隣では、連れ同士で何かを話している。
レイン・クイーン。
覚えてしまった言葉が聞こえる。年配の人が新聞で空を指して、肩をすくめた。
こんなに晴れているのに、とでも話しているのだろう。
係員に呼ばれ、ランウェイの入口へ進む。私の名前が読み上げられた。
お立ち台へ上がると、正面からカメラが向けられた。顔を上げ、笑っておく。
香港、ロンシャン、ドバイ。知っている地名の間に、拍手が重なる。遠くの方で空色のタオルが上がったので、そちらへ手を振った。
紹介を終えて台を降り、絢原さんのいる準備スペースへ戻る。片脚を後ろへ引き、踵をつけたまま膝を曲げた。
入口の方から、大きな歓声が来た。
白銀が姿を見せる。
レゾリュートは客へ顔を向けながらランウェイを進み、お立ち台へ上がった。子供が親の肩の上で旗を振っている。レゾリュートの勝負服と同じ色だった。
長い紹介の間、拍手が何度も強くなる。あの人が片手を上げると、旗も一斉に揺れた。
あの人は、ここへ勝ちに来た。私を負かすつもりで、夏からここまで仕上げた。
台を降りたレゾリュートが、少し離れた場所で足首をほぐし始めた。その途中で目が合う。
私の足元を一度見て、顔へ視線を戻す。それからまた、自分の準備を続けた。
こっちも、仕上げてきたよ。
十日でできるところまでは。
握りかけた指を開く。空いたところで短く足を動かすと、靴底から朝と同じ硬さが返ってきた。
~
本走路へ移る時間になり、絢原さんと最後に足元を確かめた。
「地面は朝と同じ。乾いてる」
こちらから言うと、頷かれた。
「靴はどうだ?」
「平気。これで行くよ」
「分かった。練習したやり方でいこう」
絢原さんはしゃがみ、右の靴紐を確かめた。結び目はほどけていなかったが、端をもう一度しまい直す。
私はその肩へ手を置いて待った。
立ち上がったところで、手が触れる。離れる前に、こちらから一度握った。
「行ってくる」
「ああ。行ってこい」
もう一度握り返されてから、手を放した。
通路の入口で、準備を終えたレゾリュートと一緒になった。
「手をどうした」
視線を追うと、掌の保護材を見ていた。
「練習で転んだの。脚は平気だよ」
「そうか」
歩き出したので、私も隣へ並んだ。外から次々に名前が呼ばれ、レゾリュートがそちらへ手を上げる。
「機嫌いいね」
「ああ。ようやくお前とここで走れる」
「……少しゆっくり走ってくれない? さっきトレーナーにも頼んだんだけど」
「断る。お前に勝つために、ここまで仕上げてきたんだ」
本当に、いい顔で断られた。
「うん、知ってる。練習も見たし」
掌を一度、閉じて開く。保護材の端が少し突っ張った。
「でも、あんたの後ろで終わるつもりはないからね」
「来い。私も譲る気はない」
出口に立つ係員が、走路の方へ手を向けた。レゾリュートが先に出ていく。その背へ、私も続いた。
本走路に入ると、スタンドの声が急に大きくなる。
ゴール板が遠くに見えた。今からコースを回り、あそこへ戻ってくる。2400m。
軽く流して、足元を確かめる。
着地すると、上体が浮こうとした。そこで戻さず、前へ足を出す。続けてもう一歩。速くすると、まだ肩が揺れる。
練習と同じだった。
流し終え、息を整える。ふくらはぎを軽く叩いてから、足首を回した。掌の傷が少し引きつれる。それを気にしていたら、先ほどの絢原さんの指まで思い出した。
転んだ二回とも、私が立とうとする前には、もう走ってきていた。
今日も見ている。
この足で、まだできていないところも知っている。
スタンドを振り返ると、空色の一角は思ったより小さかった。その分、タオルが動くたびによく分かる。あちらには、ちゃんと私を見に来た人たちがいる。
近くで係員が手を挙げた。
待っていた輪が解け、一人ずつゲートへ向かう。
レゾリュートが先に入った。狭い枠の中へ収まるところまで、背筋が伸びている。
朝の車で握った絢原さんの手を、もう一度思い出す。
それから、目の前の芝へ視線を戻した。
私の番だ。
枠へ入り、前を向く。背後で金属の扉が閉まった。外から聞こえていた声が少し遠くなり、自分の息が近くなる。
靴底で一度、芝を踏んだ。
やっぱり硬い。
好きになれない足場へ、体重を掛ける。何度練習しても、勝手には前へ運んでくれなかった。次の足を自分で出して、弾かれた身体を前へ運ぶ。
あの人が先に行っても、見失わない位置へ。
膝を曲げ、肩の力を抜いた。
隣の枠から、靴が芝を踏み直す音がする。係員が離れていく。
息を吸う。
ゲートが、開いた。