アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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第五話 キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(後)

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

出は五分だった。

 

枠を出て、二歩目で分かった。この地面は、練習の時より一段強く弾く。朝よりさらに乾いて、レースの速度だと返しが速い。

 

白銀が、前へ出た。

 

迷いのない出し方だった。誰も競らない。競れないのだと思う。この庭で、あの人の前を取りに行ける子は今日いない。レゾリュートはすっと先頭へ収まって、そのまま隊列が決まった。

 

速い。

 

体感で分かる。逃げの子が刻むペースじゃない。先頭が自分の呼吸だけで刻む、誰にも遠慮のない速度だった。ついてくるなら、この速さで来い。背中がそう言っている。

 

私は、離されない位置。

 

絢原さんと決めた場所は、前に四つの背中。前が見えて、外へ出られて、あの白銀から離されない位置。そこへ体を置いて、あとは我慢だけだった。

 

前半は地面と喧嘩するな。今朝の声を、そのまま体に流し込む。喧嘩したくても、する余裕がない。踏むたびに弾かれて、弾かれた分の行き場を作って、次の一歩までに間に合わせる。一歩が一仕事だった。周りの子たちは、同じ芝の上で、涼しく脚を畳んでいる。

 

外から一人、番手を上げていった。地元の子だと思う。この流れで動けるということは、脚が地面と噛み合っている。羨ましいとは思わなかった。今日はそんなことを考えている場合じゃない。

 

踏む。弾かれる。弾かれた分を、前へ倒す。

 

一歩ごとに頭で組み立てる走りは、レースの速度だと余計に燃える。腿の付け根が、もう熱い。まだ最初の直線なのに。

 

前を行く背中は、涼しかった。

 

レゾリュートの足音は、ここからでも聞こえない。弾く側の脚が、弾く地面の上で、何も削られずに進んでいく。ペースは落ちない。落とす理由が、あの人にはない。この地面はあの人の味方だ。距離が延びるほど、差は開いていく。

 

凱旋門では、私が前だった。

 

あの人の目の前で、私の背中が離れなかった。今日は逆だ。私の目の前に、あの人の背中がある。追う側の景色は、こんなに遠いのか。

 

遠いのに、綺麗だった。無駄がひとつもない走りは、後ろから見ると余計に分かる。憎らしいくらい、この地面と合っている。

 

……知ってたけどね。日本で、ずっとこっち側だったから。

 

違うのは、今日は追う理由を探さなくていいことだ。日本では、探しながら走っていた時期が長かった。前にいるのがあの人なら、理由はもう足りている。

 

弾かれて、倒して、進む。それだけを続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

——Live: Announcer

 

 

 

 

『先頭はレゾリュート! 単独で運ぶ! 二番手以下を二身離して、ペースは緩みません!』

 

『速い! この中間からさらに時計を詰めてくる! 女王が自分の庭で、誰にも前を渡さないレース運びです!』

 

『日本のカレンモエは中団の内、五番手! 位置は保っている! 保っていますが——さあ、どうか! この速い流れ、追いかける側の脚が持つのか!』

 

『先頭との差は詰まりません! 追う側に息を入れる場面を、女王がひとつも作らない! 貯金のできないレースです!』

 

『残り八百を切って、隊列が縦に伸び始めた!』

 

 

 

 

 

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

 

残り八百のあたりから、前が動き始めた。

 

外の子たちが、白銀との距離を詰めにいく。仕掛けどころだ。誰の目にも分かる。ここから先頭が緩まないなら、後ろは今動くしかない。

 

私は動かなかった。動けなかった、が半分。残りの半分は、我慢だった。ここで数字を使ったら、直線の前に空になる。腿は熱いままで、息は浅くなり始めている。それでも位置は、まだ手の中にある。

 

残り六百。

 

数字の切れ目が来た。

 

絢原さんの計算では、六割の脚はここまでだった。直線の入り口で、燃料の欄が空になる。分かっていた数字だ。分かっていて、その先は数字にない方で走ると決めてきた。

 

体に聞く。

 

——まだある。

 

多くはない。でも、空じゃない。倒し続けた分のどこかが、まだ前を向いている。

 

直線に入った。

 

歓声が、一気に大きくなった。この庭の直線は、あの人の花道だ。客はみんな、それを見に来ている。

 

前で、白銀が動いた。

 

継ぎ目が見えなかった。公開トレーニングで見たあれが、レースの中でもう一度起きた。歩幅が変わったのか回転が変わったのか、後ろから見ても分からないまま、背中だけが遠くなっていく。

 

待つのをやめた人の走りだった。測らない。溜めない。誰かの動きに合わせて出すのではなく、自分の決めた場所で、自分の全部を先に出す。

 

出す。六割の、全部。

 

弾かれる。倒す。進む。差は縮まらない。それでも、離されてもいない。空になるはずの場所を、とっくに過ぎている。倒し続けた前傾のどこかに、まだ使っていない私が残っていたらしい。

 

横の誰かは置き去りにできた。二番手の外の子を、上りに入ったところで交わした。前にはもう、白銀しかいない。

 

残り三百で、脚が(から)になった。

 

膝が笑う。上体が浮く。堪える力は、もうどこにもない。日本ならここで綺麗に失速する。綺麗に堪えて、綺麗に負ける。

 

堪えなかった。

 

浮いた分ごと、倒れる方向へ足を出した。つまずきの続きみたいな一歩が、次の一歩を呼んだ。坂で転びかけて覚えた形が、本番のどん詰まりで、初めて完全に噛んだ。

 

弾かれた力が、初めて逃げなかった。膝の上で渋滞していたものが、まとめて前へ抜ける。ああ、これか。十日探して届かなかった答えが、考える余裕のなくなった体の中に、勝手にあった。

 

二の脚が出た。

 

自分でも驚いた。空になったはずの体が、崩れながら前へ出る。綺麗じゃない。分かる。上体は潰れて、着地は暴れて、フォームと呼べる形はどこにも残っていない。それでも進む。堪えるのをやめた体は、堪えていた分まで前に使える。

 

歓声の質が変わった。白銀を讃える声の中に、別のざわめきが混ざる。崩れながら加速してくる二番手を、この庭の客は初めて見ている。

 

実況が何か叫んでいる。私の名前が交ざっているのは分かったけれど、意味を取る必要はなかった。

 

内から差してきた誰かの足音が、また後ろへ落ちていった。

 

でも、白銀には届かない。

 

差は二身から、三身へ。あの人はまだ伸びている。誰にも運ばせず、最初から最後まで自分の脚だけで、自分の庭を割っていく。

 

追いつけない、と頭が言った。体は聞いていなかった。聞かないまま、ゴールまで倒れ続けた。

 

ゴール板が横を流れた。

 

白銀が先。私が次。

 

海外で初めて、一番前でゴールを通れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

——Trainer: Ayahara

 

 

 

 

ストップウォッチを止めて、しばらく数字を見ていた。

 

俺の計算では、モエの脚は直線の入り口で終わるはずだった。実際は、ゴールまで持った。それどころか残り三百から、もう一度伸びた。あの伸びは計算のどこにもない。転びかけを走りにする——最後まで形にならなかったものが、一番苦しい場所で噛んだ。

 

数字を超えた。それを、この目で見た。

 

隣の関係者席で、誰かが立ち上がったまま戻らなかった。レゾリュートの完勝を見に来た客が、最後の三百は二番手を見ていた。あの崩れた走りが何なのか、この庭の誰も知らない。俺だけが知っている。あれは十日で作った、まだ名前もついていない形だ。

 

そして、三身足りなかった。

 

言い訳の材料なら、いくらでも用意できる。地面は最初からあちらの味方だった。六割の脚でよくやった。数字はむしろ上振れた。全部本当だ。だが、慰めに過ぎない。

 

勝ち時計は、この庭の歴代でも上から数えられる数字だった。向こうの実況が誇らしげに読み上げている。モエはその時計の相手を、本来の半分ちょっとの脚でやった。誰も知らない。知らなくていい。

 

完敗だった。そして、俺の教え子は世界で二番目に強かった。今日のところは。

 

出迎えの位置へ歩きながら、俺は秋の欄のことを考え始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

 

ゴールの先で速度を落として、立ち止まった。

 

脚は空だった。空のまま、立ってはいられた。息が戻らない。喉の奥が乾いた芝の匂いでいっぱいになる。

 

掲示板に、着順が入った。

 

一着、レゾリュート。二着、カレンモエ。

 

海外のレースで、私の名前が一番上にない。初めての並びを、しばらく見ていた。

 

スタンドの一角で、空色のタオルが動いていた。振られてはいない。畳まれてもいない。持ったまま、どうしていいか分からない手の高さで止まっている。

 

ごめん、とは思わなかった。代わりに、凱旋門賞(つぎ)こそは、と思った。

 

足音が近づいてきた。振り向かなくても分かる。ただ、今日は音の意味が違った。勝った側の足音だ。

 

レゾリュートも息が上がっていた。完勝でも、楽に勝ったわけじゃない。最後まで自分の脚で割っていった人の汗だった。

 

「これで、次のロンシャンが本物になる」

 

開口一番、それだった。

 

「……私が言い訳すると思った?」

 

「思っていない」

 

即答だった。

 

「だが、世界は言う。今日の勝ちはここ(コース)のおかげだと。二年、お前が雨のおかげだと言われてきたのと、同じ言い方でだ」

 

……勝った方も言われるんだ、それ。

 

「だから今日のは、まだ半分だ。次、お前の得意で勝って、二つ揃う。揃わないうちは、私は勝っていない」

 

凱旋門(あき)、また行くから」

 

「来い」

 

それだけ言って、白銀は歩いていった。勝者の側の通路へ。歓声が、あの人の名前でスタンドを埋めていく。

 

私はその場に立ったまま、乾いた芝を一度だけ踏んだ。硬い音が返ってくる。最後まで、この地面は変わらなかった。

 

せいにすれば、楽になる。半分の脚だったと言えば、全部に説明がつく。実際、事実だ。この芝は最初から最後まで、私に何も返さなかった。

 

言わない。

 

負けた。私が。

 

あの人は二年、言い訳を一つも言わなかった。同じ場所に立ってみて分かる。こういう重さを、そのまま持つことだ。

 

同じ言い訳の裏と表にいる、とあの人は言った。今日、その言い訳を私も捨てた。裏と表じゃなくなった。

 

絢原さんが、通路の入り口で待っていた。

 

何か言いかけて、やめて、それから私の足元を見た。右、左。歩幅。息。いつもの順番で確かめて、最後に目が合った。

 

「立ってるな」

 

「立ってる」

 

「なら、今日は十分だ」

 

次のある日の言葉だった。

 

並んで歩き出す。壁の向こうで、表彰の音楽が始まった。今日のあれは、私の音楽じゃない。足を止めずに、音の下を通り抜けた。

 

夜は、ウイニングライブがあった。

 

センターは白銀。私の立ち位置は、その斜め後ろだった。負けた側の場所で歌って踊るのは、日本で何度も覚えのある仕事だ。笑顔も、指の先も、最後のポーズも、二着の位置から完璧に揃えた。

 

照明の下のレゾリュートは、レースと同じだった。誰にも運ばせない。センターの仕事を最後の音まで自分の脚で立ち切って、一度も揺れなかった。

 

袖へ下がる時、一瞬だけ目が合った。

 

何も言われなかった。

 

凱旋門の時は、一着の私のパフォーマンスが腹立たしい程完璧だと言わせてみせた。

 

今日は負けても、同じだけ完璧に踊ってやった。文句は言わせない。

 

宿に戻って、冷蔵庫を開けた。

 

最後の一本が、扉の内側で冷えたまま待っていた。走り終わって、戻ってきた。約束どおりだ。中身の味を決めるのは私の脚だと、あの朝は思っていた。

 

ストローを刺して、一口飲んだ。

 

甘かった。いつもと同じ甘さが、いつもと同じ速さで喉を通っていく。悔しさで味は変わらないらしい。ミルクティーはミルクティーで、負けは負けで、別々に私の中にある。

 

それでいいと思った。混ぜたら、どっちかが薄まる。

 

窓の外は、まだ明るい。夏の夜は遅い国だ。

 

海外で、初めて負けた。無敗はもうない。身軽になったとは言わない。重い。ちゃんと重い。

 

この重さごと、秋へ持っていく。

 

雨上がりのロンシャンで、十割のあの人と、私の十割で。

 

今度は、言い訳の余地なんてどこにもない。

 

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