アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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第五話 キングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(後)

——Live: Announcer

 

 

 

『スタートしました! 十八人、まずは揃った飛び出し! レゾリュートが行く、白銀が前へ出ます!』

 

『先頭はレゾリュート! 二番手以下を引き離しにかかります。その後ろに三人、日本のカレンモエは内の五番手につけました!』

 

『女王が自ら先導する今年のキングジョージ! 序盤から速い流れ、後続も離されるわけにはいきません!』

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

出遅れてはいない。

 

前には四人。内へ入り、走る場所を確保する。外へ出る余地も残っている。絢原さんと決めていた位置へ入れた。

 

その二歩先で、身体が跳ねた。

 

練習より速い。着いた右足を返され、腰が浮きかける。戻そうとしたところで、前の背中との間が開いた。

 

左を出す。

 

慌てて一歩つなぎ、ようやく間隔が戻る。その足を着く頃には、もう次の着地を考えなければならなかった。

 

朝より乾いた芝が、レースの速さで足を弾く。

 

思い出すのは昨日の坂だ。上へ戻すな。次の足を前へ。頭の中で声をなぞっている間も、レゾリュートは止まらない。

 

白銀は、もう先頭へ収まっていた。

 

二番手が追っている。その肩の後ろに二人。その誰も、先頭へ並びにいこうとはしなかった。位置を取るための最初の加速が終わっても、前の速さが落ちない。

 

このまま行くつもりだ。

 

足が芝を離れた瞬間に、レゾリュートの腰が次の位置へ進む。私のように、着くたび肩が浮いたりしない。二番手の子が頭を少し下げ、その後ろの間隔も伸び始めた。

 

私もついていく。

 

速さを保つために、もう腿の付け根を使っていた。走り出して、まだこんなところなのに。

 

一歩、つなぐ。次の一歩では少し上へ逃げた。前の足が遠くなり、また追いつくために踏む。

 

それを繰り返していたら、持たない。

 

次は弾かれる前から左脚を出すつもりで走った。右足が離れる。左が前へ届く。身体がそこまで運ばれ、その一歩だけは、戻すために力を使わずに済んだ。

 

続ける。

 

二歩目。三歩目。

 

同じようにできるとは限らなかった。それでも、待っていたら余計に削られることは、十日間で分かっている。

 

前の子が外へ寄り、その隙間から白銀の背中が見えた。

 

まだそこにいる。

 

遠くしないでよ。

 

息を吐き、足を出した。

 

 

 

——Live: Announcer

 

 

 

『先頭は変わらずレゾリュート! 二番手との差は二身ほど、単独の先頭です!』

 

『ペースは緩みません! レゾリュートが引っ張る、後続は縦に長くなってきました!』

 

『カレンモエは五番手の内を追走! 海外五戦目、ここまで無敗の日本の世界チャンプは、この速い流れからどう動くのか!』

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

長い。

 

同じ2400mを、ロンシャンでもドバイでも走った。あちらでは、ここまで一歩ずつ考えながら走っていなかった。

 

息を吸っても、胸の上の方にしか入らない。

 

少し間隔を空ければ、今より楽にはなる。前の足を見ながら合わせ続けなくてもいい。自分の走れる速さへ落とせば、最後に残せるものも増える。

 

その間に、レゾリュートは先へ行く。

 

秋にもあるから、なんて考えて走れる相手ではなかった。

 

下がらない。

 

内側の位置を保ち、前の肩を見て走る。腰が浮くたびに、次の足を置く場所だけは遅らせない。

 

残り800m。

 

外から前へ出ようとする子が見えた。二番手がそれに合わせ、隊列がさらに伸びる。

 

今、ついていく?

 

前の背中が動いた瞬間、私の脚もそちらへ行きかけた。腿の奥が強く引きつれ、それで止める。ここでもう一度速さを上げたら、直線で何も残らない。

 

もう少し。

 

前が離れていくのを見ながら、今の歩幅を続ける。

 

指を握る余裕も惜しい。腕を引く。顔を上げる。白銀は前の肩越しに見えていた。

 

残り600mが近づく。

 

この辺りで、脚がかなり苦しくなる。絢原さんはそう言った。苦しいのは、もうずっと苦しかった。それでも、次の足は出る。

 

一歩だけ、ではない。

 

その次も、出せた。

 

直線へ向けて身体の向きが変わる。外へ出る場所が見えた。そこへ足を運び、前の子の背中から離れる。

 

レゾリュートも動いた。

 

公開練習で見た、あの加速だった。

 

さっきまで見えていた白銀の肩が、さらに前へ出る。二番手が追う。一歩、二歩。あちらの間隔がまた開いた。

 

そこで、私も踏んだ。

 

脚が芝を叩き、上体が浮く。堪えて戻す前に、次の足を前へ運ぶ。

 

風が顔へ当たった。

 

横の肩が後ろへずれる。前にはまだ二つ、背中があった。片方がこちらへ寄りかけたが、空いている幅はある。腕を畳み、その外へ出る。

 

上りに入った。

 

腿が熱い。腰を支えるところが、焼けるように痛んでいた。それでも、前の子との間は詰まる。

 

抜く。

 

あと一歩。もう一歩。

 

二番手の肩がすぐ横へ来て、そのまま後ろへ落ちた。

 

ようやく、白銀だけになった。

 

 

 

——Live: Announcer

 

 

 

『カレンモエが二番手へ上がった! 外から前をかわしてきた、日本の世界チャンプ!』

 

『逃げるレゾリュート、追うカレンモエ! 直線はこの二人、しかし先頭との差はまだある! レゾリュートは脚色が衰えません!』

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

残り300m。

 

右足を着いた時、膝が持ち上がった。

 

腰を戻そうとしても、力が入らない。肩が浮く。前傾がほどけ、白銀の背中が高く見えた。

 

あ、駄目だ。

 

ここから、いつものやつが来る。

 

脚を回しても進まなくなる。追うつもりで腕だけ振って、前がどんどん遠くなる。

 

嫌だ。

 

身体を起こすのをやめた。

 

前へ傾いたまま、左脚を出す。

 

近すぎるところへ着いた気がした。けれど、倒れなかった。腰がその上を通り、足を離した時には、もう右が次の位置へ出ていた。

 

続いた。

 

坂で止まった場所の、その先へ足が出る。

 

もう一歩。

 

上へ弾かれた身体を、前へ運ぶ。その勢いを止める暇も、姿勢を直す力もない。次の足で受け、さらに前へ出る。

 

視界が低い。

 

肩も揺れている。普段なら真っ先に直したくなる走り方だった。

 

それなのに、進んだ。

 

内から近づいてきていた足音が、少し遠のく。

 

まだ出る。

 

いけるなら、もっと。

 

私は白銀だけを見て、腕を引いた。

 

 

 

——Live: Announcer

 

 

 

『カレンモエ、もう一度伸びる! 苦しくなったかに見えましたが、ここからさらに追ってくる!』

 

『残り200m! レゾリュートが先頭、カレンモエとの差は二身、三身! レゾリュートもまだ伸びている!』

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

縮まらない。

 

さっきより進めている。私の脚は、まだ前へ出ている。

 

なのに、白銀の背中が遠い。

 

あの人も、まだ速くなっていた。

 

最初から前へ出て、誰にも引かせずに、ここまで走った。そのレゾリュートが、最後の上りでも私を離す。

 

何それ。

 

もう十分走ったでしょ。

 

奥歯を噛み、前へ出る。

 

左。右。

 

二度転んだ手のひらも、坂の上で待っていた絢原さんも、今は遠かった。頭で思い出さなくても、足は次の位置へ出た。

 

届いて。

 

あと少し、近くまで。

 

白銀の髪が揺れる。その向こうへ、ゴール板が迫っていた。

 

腕を引いた。

 

最後の一歩を出しても、レゾリュートは前にいた。

 

 

 

——Live: Announcer

 

 

 

『レゾリュート、先頭でゴールイン! キングジョージを制しました!』

 

『二着にカレンモエ! 最後まで追いましたが、三身届かず! カレンモエ、海外五戦目で初めての敗戦です!』

 

 

 

——Trainer: Ayahara

 

 

 

時計を止め、すぐにモエへ目を戻した。

 

減速している。脚はもつれていない。先ほどまで低くなっていた上体も、少しずつ起きてきた。

 

息を吐いたところで、隣の席の人が何か言った。

 

聞き取れなかった。頷くこともできず、もう一度コースへ顔を向ける。

 

最後の300mが、まだ目に残っていた。

 

朝までなら、あそこで動きが切れていた。坂の途中で一度、二度と止まって、モエは戻ってきた。今日は、苦しくなってからつながった。

 

その走りで追っても、三身足りなかった。

 

掲示板に入った着順を見て、膝の上の紙を閉じる。レゾリュートが最初から最後まで作った流れを、こちらは崩せなかった。

 

確認することはある。残り300mの映像も、必ず持ち帰る。

 

だが今、戻ってくるモエに先に話すことではなかった。

 

荷物を肩へ掛け、出迎えの通路へ向かった。

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

止まったら、脚の重さが一度に来た。

 

立ってはいられる。歩くこともできた。ただ、息が戻らず、喉の奥に乾いた芝の匂いが残っている。

 

掲示板を見る。

 

レゾリュート。

 

その下に、カレンモエ。

 

こう並んだことはなかった。二度のロンシャンでも、あの人は私より下だった。

 

近づく足音に、顔を向ける。

 

レゾリュートも息を切らしていた。額に汗が浮き、胸が大きく上下している。さっきまであれほど滑らかに動いていた脚を、今はゆっくり運んでいた。

 

「これで、次のロンシャンが本物になる」

 

会って最初に言うことが、それ。

 

「……私が言い訳すると思った?」

 

「思っていない」

 

返事が速かった。

 

「だが、世界は言う。今日の勝ちは、ここのおかげだと。お前が二年、雨のおかげと言われてきたのと同じように」

 

私は一度、息を吸い直した。

 

「だから、まだ半分だ。次はお前に向いたところでも勝つ。二つ揃える」

 

まだ喋る。

 

もう終わったのに、あの人の中では秋の勝負が始まっている。

 

「凱旋門、また行くから」

 

「来い」

 

レゾリュートは、それで勝者の通路へ向かった。

 

大きな歓声があの人を追う。

 

私は残された芝を見た。乾いている。最初の朝から、今日までずっとそうだった。

 

分かっていて来た。何度も踏んで、練習して、それであの背中を追った。

 

腹が立つ。

 

負けたのが誰かなんて、掲示板を見なくても分かっている。

 

通路へ歩き始めると、絢原さんが入口からこちらへ来た。

 

「どこか痛む?」

 

「いつもと違う痛みはない。歩けるよ。……水、ちょうだい」

 

差し出されたボトルを受け取る。蓋はもう緩めてあった。

 

少し飲み、絢原さんの腕へ手を掛けた。体重を預けると、荷物が反対側へ移る。肩を借り、ゆっくり通路へ入った。

 

壁の向こうから、レゾリュートの名前が聞こえてきた。

 

私はボトルの口を閉めた。指に力が入りきらず、最後のところを絢原さんが締めてくれる。

 

「最後、もう一回伸びたのにね」

 

「うん。見てた」

 

「……届かなかった」

 

言った後も前を向いていた。絢原さんが歩く速さを落としたので、私も少し足を緩める。

 

身体を確かめる部屋の前で、係員に呼ばれた。足を止め、絢原さんの腕をもう一度引く。

 

「終わったら、迎えに来て」

 

「ここで待ってる」

 

そこで手を放し、係員についていった。

 

 

 

~

 

 

 

夜のライブでは、白銀がセンターだった。

 

私は、その斜め後ろに立った。

 

日本では何度も立った場所だ。真ん中にいないからといって、歌うことも踊ることもなくならない。

 

照明が点く。

 

笑った。

 

正面のカメラを見て、腕を伸ばす。指先まで振りを揃え、次の位置へ踏み出す。歌い出しの前で息を取り、声を乗せた。

 

レゾリュートが中央でターンする。

 

私も遅れずに回り、客席へ顔を向ける。空色のタオルが見えた。そこへ手を伸ばすと、振り返す手が増えた。

 

最後の音まで、笑顔は崩さなかった。

 

退場する時、レゾリュートと目が合う。

 

何も言われない。

 

前は、腹立たしいほど完璧だったと言われた。今日だって、そのくらいはやっている。

 

私は客席へもう一度手を振り、袖へ入った。

 

すぐ先に、タオルを持った絢原さんがいた。

 

「お疲れ」

 

「うん」

 

受け取って顔へ当てる。耳の後ろまで汗を拭き、それから、ようやく口元の力を抜いた。

 

「帰ろ」

 

「車はもう来てる。荷物もあるから、そのまま行けるよ」

 

「うん。着替えだけ、急いでくる」

 

着替えを済ませ、出口で待っていた絢原さんの上着の裾を掴んだ。人の多い通路を抜けるまで、そこを離さずについていった。

 

 

 

~

 

 

 

ホテルへ戻って、冷蔵庫を開けた。

 

最後のミルクティーが、朝と同じところにあった。

 

取り出すと、指へ水滴がつく。ストローを刺して一口飲んだ。冷たくて、甘い。

 

そのままソファへ腰を下ろす。

 

絢原さんが鞄を置き、私の靴を袋から出した。底を一度見てから、脇へ揃える。しばらく二人とも喋らなかった。

 

ウマホが震える。

 

画面を伏せたまま、私はもう一口飲んだ。

 

「今日、もう反省会しないでね。明日なら聞くから」

 

「分かった。明日にしよう」

 

靴の袋を片づけた絢原さんが、私の隣へ座った。私は膝の上の紙パックを持ち直し、肩へ頭を預ける。

 

「帰るの、もう少し後にして」

 

「ああ。まだ大丈夫だよ」

 

掌の保護材は、剥がれていない。

 

一度も転ばずに戻ってきた。最後には、坂でできなかった一歩も出た。

 

それでも三身。

 

「……あの人、ほんとに」

 

口を開きかけて、もう一口飲んだ。飲み込んでも、喉の奥に言いたいことが残っている。

 

絢原さんの肩へ額を押しつけた。しばらくそうしていると、ウマホがまた震える。

 

「誰かから?」

 

「後で見る」

 

「うん」

 

私は紙パックを膝に載せ、空いた手でその袖を掴んだ。

 

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