——Anti-Hero: Curren Moe
出は五分だった。
枠を出て、二歩目で分かった。この地面は、練習の時より一段強く弾く。朝よりさらに乾いて、レースの速度だと返しが速い。
白銀が、前へ出た。
迷いのない出し方だった。誰も競らない。競れないのだと思う。この庭で、あの人の前を取りに行ける子は今日いない。レゾリュートはすっと先頭へ収まって、そのまま隊列が決まった。
速い。
体感で分かる。逃げの子が刻むペースじゃない。先頭が自分の呼吸だけで刻む、誰にも遠慮のない速度だった。ついてくるなら、この速さで来い。背中がそう言っている。
私は、離されない位置。
絢原さんと決めた場所は、前に四つの背中。前が見えて、外へ出られて、あの白銀から離されない位置。そこへ体を置いて、あとは我慢だけだった。
前半は地面と喧嘩するな。今朝の声を、そのまま体に流し込む。喧嘩したくても、する余裕がない。踏むたびに弾かれて、弾かれた分の行き場を作って、次の一歩までに間に合わせる。一歩が一仕事だった。周りの子たちは、同じ芝の上で、涼しく脚を畳んでいる。
外から一人、番手を上げていった。地元の子だと思う。この流れで動けるということは、脚が地面と噛み合っている。羨ましいとは思わなかった。今日はそんなことを考えている場合じゃない。
踏む。弾かれる。弾かれた分を、前へ倒す。
一歩ごとに頭で組み立てる走りは、レースの速度だと余計に燃える。腿の付け根が、もう熱い。まだ最初の直線なのに。
前を行く背中は、涼しかった。
レゾリュートの足音は、ここからでも聞こえない。弾く側の脚が、弾く地面の上で、何も削られずに進んでいく。ペースは落ちない。落とす理由が、あの人にはない。この地面はあの人の味方だ。距離が延びるほど、差は開いていく。
凱旋門では、私が前だった。
あの人の目の前で、私の背中が離れなかった。今日は逆だ。私の目の前に、あの人の背中がある。追う側の景色は、こんなに遠いのか。
遠いのに、綺麗だった。無駄がひとつもない走りは、後ろから見ると余計に分かる。憎らしいくらい、この地面と合っている。
……知ってたけどね。日本で、ずっとこっち側だったから。
違うのは、今日は追う理由を探さなくていいことだ。日本では、探しながら走っていた時期が長かった。前にいるのがあの人なら、理由はもう足りている。
弾かれて、倒して、進む。それだけを続けた。
〜
——Live: Announcer
『先頭はレゾリュート! 単独で運ぶ! 二番手以下を二身離して、ペースは緩みません!』
『速い! この中間からさらに時計を詰めてくる! 女王が自分の庭で、誰にも前を渡さないレース運びです!』
『日本のカレンモエは中団の内、五番手! 位置は保っている! 保っていますが——さあ、どうか! この速い流れ、追いかける側の脚が持つのか!』
『先頭との差は詰まりません! 追う側に息を入れる場面を、女王がひとつも作らない! 貯金のできないレースです!』
『残り八百を切って、隊列が縦に伸び始めた!』
〜
——Anti-Hero: Curren Moe
残り八百のあたりから、前が動き始めた。
外の子たちが、白銀との距離を詰めにいく。仕掛けどころだ。誰の目にも分かる。ここから先頭が緩まないなら、後ろは今動くしかない。
私は動かなかった。動けなかった、が半分。残りの半分は、我慢だった。ここで数字を使ったら、直線の前に空になる。腿は熱いままで、息は浅くなり始めている。それでも位置は、まだ手の中にある。
残り六百。
数字の切れ目が来た。
絢原さんの計算では、六割の脚はここまでだった。直線の入り口で、燃料の欄が空になる。分かっていた数字だ。分かっていて、その先は数字にない方で走ると決めてきた。
体に聞く。
——まだある。
多くはない。でも、空じゃない。倒し続けた分のどこかが、まだ前を向いている。
直線に入った。
歓声が、一気に大きくなった。この庭の直線は、あの人の花道だ。客はみんな、それを見に来ている。
前で、白銀が動いた。
継ぎ目が見えなかった。公開トレーニングで見たあれが、レースの中でもう一度起きた。歩幅が変わったのか回転が変わったのか、後ろから見ても分からないまま、背中だけが遠くなっていく。
待つのをやめた人の走りだった。測らない。溜めない。誰かの動きに合わせて出すのではなく、自分の決めた場所で、自分の全部を先に出す。
出す。六割の、全部。
弾かれる。倒す。進む。差は縮まらない。それでも、離されてもいない。空になるはずの場所を、とっくに過ぎている。倒し続けた前傾のどこかに、まだ使っていない私が残っていたらしい。
横の誰かは置き去りにできた。二番手の外の子を、上りに入ったところで交わした。前にはもう、白銀しかいない。
残り三百で、脚が
膝が笑う。上体が浮く。堪える力は、もうどこにもない。日本ならここで綺麗に失速する。綺麗に堪えて、綺麗に負ける。
堪えなかった。
浮いた分ごと、倒れる方向へ足を出した。つまずきの続きみたいな一歩が、次の一歩を呼んだ。坂で転びかけて覚えた形が、本番のどん詰まりで、初めて完全に噛んだ。
弾かれた力が、初めて逃げなかった。膝の上で渋滞していたものが、まとめて前へ抜ける。ああ、これか。十日探して届かなかった答えが、考える余裕のなくなった体の中に、勝手にあった。
二の脚が出た。
自分でも驚いた。空になったはずの体が、崩れながら前へ出る。綺麗じゃない。分かる。上体は潰れて、着地は暴れて、フォームと呼べる形はどこにも残っていない。それでも進む。堪えるのをやめた体は、堪えていた分まで前に使える。
歓声の質が変わった。白銀を讃える声の中に、別のざわめきが混ざる。崩れながら加速してくる二番手を、この庭の客は初めて見ている。
実況が何か叫んでいる。私の名前が交ざっているのは分かったけれど、意味を取る必要はなかった。
内から差してきた誰かの足音が、また後ろへ落ちていった。
でも、白銀には届かない。
差は二身から、三身へ。あの人はまだ伸びている。誰にも運ばせず、最初から最後まで自分の脚だけで、自分の庭を割っていく。
追いつけない、と頭が言った。体は聞いていなかった。聞かないまま、ゴールまで倒れ続けた。
ゴール板が横を流れた。
白銀が先。私が次。
海外で初めて、一番前でゴールを通れなかった。
〜
——Trainer: Ayahara
ストップウォッチを止めて、しばらく数字を見ていた。
俺の計算では、モエの脚は直線の入り口で終わるはずだった。実際は、ゴールまで持った。それどころか残り三百から、もう一度伸びた。あの伸びは計算のどこにもない。転びかけを走りにする——最後まで形にならなかったものが、一番苦しい場所で噛んだ。
数字を超えた。それを、この目で見た。
隣の関係者席で、誰かが立ち上がったまま戻らなかった。レゾリュートの完勝を見に来た客が、最後の三百は二番手を見ていた。あの崩れた走りが何なのか、この庭の誰も知らない。俺だけが知っている。あれは十日で作った、まだ名前もついていない形だ。
そして、三身足りなかった。
言い訳の材料なら、いくらでも用意できる。地面は最初からあちらの味方だった。六割の脚でよくやった。数字はむしろ上振れた。全部本当だ。だが、慰めに過ぎない。
勝ち時計は、この庭の歴代でも上から数えられる数字だった。向こうの実況が誇らしげに読み上げている。モエはその時計の相手を、本来の半分ちょっとの脚でやった。誰も知らない。知らなくていい。
完敗だった。そして、俺の教え子は世界で二番目に強かった。今日のところは。
出迎えの位置へ歩きながら、俺は秋の欄のことを考え始めていた。
〜
——Anti-Hero: Curren Moe
ゴールの先で速度を落として、立ち止まった。
脚は空だった。空のまま、立ってはいられた。息が戻らない。喉の奥が乾いた芝の匂いでいっぱいになる。
掲示板に、着順が入った。
一着、レゾリュート。二着、カレンモエ。
海外のレースで、私の名前が一番上にない。初めての並びを、しばらく見ていた。
スタンドの一角で、空色のタオルが動いていた。振られてはいない。畳まれてもいない。持ったまま、どうしていいか分からない手の高さで止まっている。
ごめん、とは思わなかった。代わりに、
足音が近づいてきた。振り向かなくても分かる。ただ、今日は音の意味が違った。勝った側の足音だ。
レゾリュートも息が上がっていた。完勝でも、楽に勝ったわけじゃない。最後まで自分の脚で割っていった人の汗だった。
「これで、次のロンシャンが本物になる」
開口一番、それだった。
「……私が言い訳すると思った?」
「思っていない」
即答だった。
「だが、世界は言う。今日の勝ちは
……勝った方も言われるんだ、それ。
「だから今日のは、まだ半分だ。次、お前の得意で勝って、二つ揃う。揃わないうちは、私は勝っていない」
「
「来い」
それだけ言って、白銀は歩いていった。勝者の側の通路へ。歓声が、あの人の名前でスタンドを埋めていく。
私はその場に立ったまま、乾いた芝を一度だけ踏んだ。硬い音が返ってくる。最後まで、この地面は変わらなかった。
せいにすれば、楽になる。半分の脚だったと言えば、全部に説明がつく。実際、事実だ。この芝は最初から最後まで、私に何も返さなかった。
言わない。
負けた。私が。
あの人は二年、言い訳を一つも言わなかった。同じ場所に立ってみて分かる。こういう重さを、そのまま持つことだ。
同じ言い訳の裏と表にいる、とあの人は言った。今日、その言い訳を私も捨てた。裏と表じゃなくなった。
絢原さんが、通路の入り口で待っていた。
何か言いかけて、やめて、それから私の足元を見た。右、左。歩幅。息。いつもの順番で確かめて、最後に目が合った。
「立ってるな」
「立ってる」
「なら、今日は十分だ」
次のある日の言葉だった。
並んで歩き出す。壁の向こうで、表彰の音楽が始まった。今日のあれは、私の音楽じゃない。足を止めずに、音の下を通り抜けた。
夜は、ウイニングライブがあった。
センターは白銀。私の立ち位置は、その斜め後ろだった。負けた側の場所で歌って踊るのは、日本で何度も覚えのある仕事だ。笑顔も、指の先も、最後のポーズも、二着の位置から完璧に揃えた。
照明の下のレゾリュートは、レースと同じだった。誰にも運ばせない。センターの仕事を最後の音まで自分の脚で立ち切って、一度も揺れなかった。
袖へ下がる時、一瞬だけ目が合った。
何も言われなかった。
凱旋門の時は、一着の私のパフォーマンスが腹立たしい程完璧だと言わせてみせた。
今日は負けても、同じだけ完璧に踊ってやった。文句は言わせない。
宿に戻って、冷蔵庫を開けた。
最後の一本が、扉の内側で冷えたまま待っていた。走り終わって、戻ってきた。約束どおりだ。中身の味を決めるのは私の脚だと、あの朝は思っていた。
ストローを刺して、一口飲んだ。
甘かった。いつもと同じ甘さが、いつもと同じ速さで喉を通っていく。悔しさで味は変わらないらしい。ミルクティーはミルクティーで、負けは負けで、別々に私の中にある。
それでいいと思った。混ぜたら、どっちかが薄まる。
窓の外は、まだ明るい。夏の夜は遅い国だ。
海外で、初めて負けた。無敗はもうない。身軽になったとは言わない。重い。ちゃんと重い。
この重さごと、秋へ持っていく。
雨上がりのロンシャンで、十割のあの人と、私の十割で。
今度は、言い訳の余地なんてどこにもない。