——The General Public《大衆》
「負けたぞ」
朝の駅で会った友人の第一声が、それだった。
おはようも無しか、と思ったけど、誰が、とは聞かなかった。この男が主語も付けずに「負けた」とだけ言う相手は、世界に一人しかいない。
正確には、駅より前から知っていた。夜中の四時すぎにスマホが一回震えて、友人から「負けた」とだけ届いていた。返事をする気力もなく二度寝して、駅で本人に会った、という順番だ。
「二回言う必要あった?」
「一回目は寝ぼけて読んでただろ」
「読んでた」
「ほらな」
目の下には、はっきり隈が出ていた。首にはいつもの空色のタオル。仕事用の鞄と全然合っていない。
「キングジョージ。日本時間だと今朝の未明」
「見たのか」
「リアルタイムで」
「よく起きてられたな」
「起きてたんじゃない。寝てないだけ」
電車が来て、押し込まれるように乗った。朝の車内はいつも通り混んでいて、いつも通り誰も喋っていない。この男以外は。
「で、どうだったんだ」
「二着」
「二着って、負けなのか? 俺の感覚だと、世界のレースで二着なら十分な気がするけど」
「負けは負けだよ。海外で初めての」
「スタートしてすぐ、白い子がすっと前に出たんだ」
「白い子」
「レゾリュート。二年続けて凱旋門賞でモエちゃんに負けてる、欧州の女王」
「その子が前に出て?」
「誰も追いかけない。追いかけられない速さで、そのまま最後まで先頭」
「逃げ切りってやつか」
「覚えたな、その言葉」
「中京の時に、お前が三十分かけて説明したからな」
「三十分もしてない」
「してた。時計見てた」
「見るなよ、そこは」
つり革を持ち替えて、それから続けた。
「とにかく今回のは、その中でも極端なやつだよ。モエちゃんは途中ずっと真ん中あたりで我慢して、最後の直線で二番手まで上がった。そこまでだった」
「そこまで、って」
「三身差」
「三身って、どのくらいなんだ」
「決定的、ってくらい。序盤も道中も直線も、今回は白い子が全部上だった」
友人はそこで少し黙った。窓の外を見て、タオルの端を指でいじっている。
「ただ、最後の三百だけは別だった。あそこだけは、会場中がモエちゃんを見てたと思う」
「何かあったのか?」
「……うまく言えないんだけど」
言えないなりに、身振りがついた。朝の満員電車でやることではない。
「フォームがぐちゃぐちゃになったんだ。転びそうっていうか、ほとんど転びかけてるのに、そこから逆に加速した。現地の実況も途中から声が変になってた。あんな走り、見たことない」
「それで二着」
「それで二着」
「あと、レースの後にライブがあってさ」と友人は続けた。
「負けてもやるのか、あれ」
「上位は出るんだよ。センターは勝った子。モエちゃんは斜め後ろだった」
「気まずくないのか、その並び」
「普通は気まずいだろうな。でも、完璧だったよ。指の先まで。負けた直後にあれをやられたら、こっちはもう何も言えない」
会社の最寄りで電車を降りた。改札で別れる時、友人が思い出したように振り返った。
「言い忘れてた。おはよう」
「今かよ」
ホームの階段を上がりながらスマホを見たら、ニュースの一覧に見出しが並んでいた。
「世界チャンプ、海外初黒星」
「カレンモエ、欧州女王に完敗」
完敗の二文字の隣には、白い子の写真が大きく載っていた。モエちゃんの写真は、その下に小さくある。海外で勝ち続けていた間、この順番はずっと逆だった気がする。写真の大きさというのは正直だ。
〜
昼休みの食堂で、隣の席がその話をしていた。
「だから言ったんだよ。あの子は雨のロンシャン専用なんだって」
「専用って、香港もドバイも勝ってるだろ」
「乾いた芝じゃ勝てないってことだよ。日本じゃずっとそうじゃないか。海外だから強く見えてただけで、条件が揃わないと普通の子なんだって」
「相手が悪すぎただけだろ。レゾリュートだぞ。自分の庭で、あの仕上がりで来られたら誰でも負ける」
「その言い訳が通るなら、秋のロンシャンだって危ないってことになるぞ。あの女王が本気で仕上げてくるんだから」
「それは……まあ、そうなんだよな」
そこから先は、二人とも同じ結論に落ちていった。秋の三連覇は、思っていたより難しいかもしれない。
「でもお前、この間まではどっちかというとモエ推しだっただろ」
「言ってない。俺は最初から中立」
「調子いいな」
聞きながら、俺は自分の弁当を食べていた。口は挟まなかった。挟めるほど詳しくない。どっちの言い分も、二週間前の中京記念のスタンドで聞いた声と似ていると思った。あの日の午前は「どうせ今日も国内じゃ勝てない」だった。モエちゃんが勝った帰り道には、全員が最初から信じてた側になっていた。
俺も人のことは言えない。あの一勝で、財布からグッズ代を出した男だ。
向かいの席の先輩は、そもそも興味がなかった。
「へえ、負けたんだ。強いんじゃなかったの」
「海外では初めてだそうです」
「ふうん」
それで終わりだった。世間といっても、大半はこのくらいの温度だ。騒いでいるのは一部で、その一部の声が見出しになる。
夜のスポーツニュースでも、扱いは大きかった。専門家が映像を止めながら解説していて、前半は白い子の完璧さの話、後半はモエちゃんの最後の三百の話だった。
「この崩れたフォームからの再加速は、正直、説明がつきません」
専門家がそう言って笑い、スタジオも笑った。説明がつかないものは、テレビでは笑い話になるらしい。
SNSの論争は、もっと大きくなっていた。「所詮ロンシャンだけ」派と、「レゾリュートが強すぎた」派。どっちの投稿にも、それなりの数字がついている。見出しも並んでいた。
「三連覇に黄信号」
「欧州女王、完全復活」
「世界チャンプの限界か」
限界、まで出てきた。中京記念の翌日、同じ場所に並んでいたのは「もはや敵なし」だった。
その中に、少しだけ違う投稿も混ざっていた。現地で見たという人が撮った、最後の三百だけの動画だ。画質は悪い。それでも、崩れた空色が周りと違う伸び方をしているのは分かる。「これを見てから言え」というコメントがついて、そこそこ回っていた。
流れを変えるほどじゃなかった。世間の見立ては、動画一本より見出しの方で決まる。先週まで「三連覇は当然」だった空気は、「三連覇できたら本物」に変わった。
当然、から、できたら。
一晩と少しで、世界チャンプの扱いはそれだけ動いた。
〜
数日後の土曜、友人と昼飯を食った。
いつもの安い定食屋で、友人は生姜焼きを頼んで、静かだった。てっきりネットの論争に怒っているものだと思っていたから、拍子抜けした。
「怒ってないのか。雨専用とか言われてるぞ」
「見た」
「言い返さないのか」
「前は言い返してたけどな」
「前は」
「凱旋門の一回目の頃。掲示板ですごい書かれ方をしてた時期があって、あの頃は夜中まで反論してた。今はやってない」
「夜中まで、何を反論してたんだ」
「ラビットって言葉があってさ。前を引くだけの係、って意味なんだけど、あの頃のモエちゃんはそう呼ばれてた。それに一個ずつ反論してた。今思うと、あれは俺の方が信じてなかったんだな。信じてたら、放っておける」
「そういうもんか」
「そういうもんだよ。たぶん」
「たぶんか」
「たぶんだよ。俺が毎回正しいなら、あの頃だって夜中に反論なんかしてない」
「今は放っておけるのか」
「言い返しても、次のレースの結果は変わらないから。それに」
友人は箸を置いた。置いたまま、少しの間、何も言わなかった。
「負けた後のモエちゃんを、俺はまだ見たことがないんだ」
「この間、負けたばかりだろ」
「海外で、って意味だよ。国内で負けるのは何回も見た。でも、そのたびに次のレースで何かが変わってた。今度のは初めての種類の負けだから、次に何が変わるのか、まだ誰も知らない。ネットの連中も、俺も」
そう言って、友人はスマホをこっちへ向けた。
画面には、座席の予約完了の表示が出ていた。会場の名前に、札幌、とある。
「札幌?」
「次、そこで走る。国内のGⅡ。登録はキングジョージの前から出てるんだよ。取り消してなければ、走る」
「取り消すかもしれないだろ。負けた直後だぞ」
「かもしれない。……でも、あの子は消さないと思う」
「たぶん?」
「たぶん」
さっきのお返しのつもりだったのに、真顔で返された。
「海外の大レースの次が、国内のGⅡなのか」
「変だろ。普通はもっと大きいところを選ぶ。でも、あの子は前からそうなんだ。まだ勝ってないレースに出る。理由はたぶん、それだけ」
「変わるって、さっき言ってたけど、何が変わるんだよ」
「分かんないよ、それは。でも中京の前だって、海外で四連勝した子が国内のGⅢに出てくるなんて誰も思ってなかった。あの子は次に何をするか読めない。読めないものは、生で見るしかない」
「北海道だぞ。飛行機だぞ。宿もいるぞ」
「取ってある」
「行動が早い」
「負けた次のレースだぞ。見ないでどうする」
友人は当たり前の話をする調子でそう言って、残りの生姜焼きに戻った。
世間の期待は下がった。ニュースの見出しも、食堂の会話も、SNSも、揃って一段下げた。それは事実だと思う。正直に言えば、俺の中の期待も少し下がっている。世界一という言葉を疑わずに済んだ期間は、俺の場合ちょうど二週間だった。
目の前のこの男の中では、何も下がっていない。下がるどころか、飛行機の予約が増えた。
「なあ」
「ん」
「俺の分の席は」
友人が顔を上げた。
「取ってある」
「……聞いてからにしろよ」
「中京記念の帰りに、次も行くって言ったのはお前だぞ」
言った。たしかに言った。勝った直後の勢いで。
「言ったけど」
「ほらな」
朝と同じ返事だった。この男は今日、二回目の「ほらな」で勝っている。
会計の時、友人が付け足した。
「宿はまだ取ってない。二人部屋でいいか」
「いびきかくなよ」
「それはこっちの台詞だ」
まあ、いい。有休は残っている。世界チャンプが負けた次に何をするのか、一番前の席で確かめてくるのも悪くない。
八月の札幌は涼しいらしい。タオルくらいは、俺も買っていくか。