アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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第六話 海外初黒星

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

ストローを吸うと、紙パックの底で音がした。

 

もうない。傾けてみても、甘いものは上がってこなかった。絢原さんの肩から少し起きて、テーブルへ置く。

 

テーブルの上で、ウマホが震えた。

 

帰国の案内かもしれない。そう思って手を伸ばしたのに、最初に開いたのはニュースの通知だった。

 

『世界チャンプ、海外初黒星。レゾリュートに三身差の完敗』

 

写真の私は、ゴールの先で口を開けていた。息をしていたんだから仕方ないけど、もう少しましなところを使ってほしい。隣のレゾリュートは、旗を振る客へ手を上げている。

 

下へ送ると、別の会社が同じ結果を載せていた。

 

『無敗ストップ。凱旋門賞三連覇に暗雲』

 

「……知ってるよ」

 

「ニュース?」

 

「うん。私が負けたって」

 

絢原さんにも見えるように画面を傾けた。見出しの下には、私の写真がまだ並んでいる。下を向いて歩いているところ。掲示板を見ているところ。最後の直線で、レゾリュートを追いかけているところ。

 

直線の写真を指で拡げた。私の顔より、二人の間の広さの方が気になって、すぐ元に戻した。

 

「日本じゃ、何回も負けてるのにね」

 

絢原さんは画面を見ていた。写真の私が走っているところを、指先で少し拡げる。

 

「分かってるけど。海外では初めてだって、私が一番よく分かってるのに」

 

記事を閉じた。次に見えたのもキングジョージだった。

 

今度はレゾリュートのインタビュー。再生の印を押すと、マイクの前で白銀が顔を上げた。私がライブの支度をしていた頃に撮られたものらしい。まだ勝負服のままで、額には汗が残っている。

 

映像の下に、日本語訳がついていた。

 

『カレンモエを破っての勝利となりました。今のお気持ちは?』

 

『嬉しい。今日、ここで勝つために準備してきた。最後まで走り切れたことを、陣営にも感謝している』

 

本当に嬉しそうだった。

 

声も、目も。あんなに疲れた後なのに、記者の質問へ真っ直ぐ顔を向けて答えている。途中で客の声が届いたらしく、そちらへ手まで振っていた。

 

私の方は、帰りの車で一言も喋らなかった。

 

『次の目標は、凱旋門賞でしょうか』

 

『もちろんだ。ロンシャンでは二年続けてカレンモエに負けている。次はあの場所でも勝つ』

 

『やはり、一番意識する相手はカレンモエですか』

 

『ああ。さっきも、また来ると言っていた。次に走るのが楽しみだ』

 

言ったけど。

 

レースの後に、本人へ言ったばかりだ。それをもうカメラへ向かって話している。

 

レゾリュートは少し笑い、今度は正面を見た。

 

『凱旋門賞で勝負だ、カレンモエ。待っているぞ』

 

……うわ。

 

再生を止めた。レゾリュートが笑っているところで、止まってしまった。

 

「……なんか、レゾリュートに負けるの、すっごくムカつく」

 

ウマホを持つ手を膝へ下ろした。

 

「あの人、もう秋が楽しみなんだって。私、まだ今日のことでこんななのに。さっきまで、あの人の後ろで踊ってたんだよ」

 

最後のポーズまで、ちゃんとやった。カメラへ顔を向けて、空色のタオルにも手を振った。終わって袖に入るまで、笑っていた。

 

帰りの車に乗ってから、ゴール前のことばかり思い出している。

 

最後にもう一度伸びた時、届くと思った。ほんの一瞬、レゾリュートを抜いてゴールするところまで見えた。それなのに、あの背中は遠くなるばかりだった。

 

「勝ちたかったな……」

 

膝の上では、レゾリュートが笑っている。私は画面を消した。

 

「モエ。勝たせてやれなくて、すまなかった」

 

絢原さんの方を向く。

 

私を見ていた。さっきまで膝に載せていた手を、握っている。

 

「俺の指導不足だ。あの芝で最後まで走り続けられるように、練習のうちに仕上げてやれなかった」

 

「……十日しかなかったじゃん」

 

「その十日をどう使うかは、俺の仕事だろ。苦しくなるのが分かっていて、もっとましな走り方を用意できなかった」

 

掌の保護材へ、一度視線が下がった。

 

その顔を見ていたら、昨日の坂を思い出した。私がもう一歩を出せずに止まった時、絢原さんは撮っていた端末を下ろした。何か言おうとして、一度やめてから、足は痛くないかと聞いた。

 

今も、あの時みたいな顔だった。

 

「トレーナーを責めてるんじゃないよ」

 

「分かってる。俺が、自分の指導に納得できてないんだ」

 

私も、何を言えばいいか分からなかった。大丈夫とも、十分だとも言いたくない。しばらく二人で黙っていた。

 

ウマホをテーブルへ伏せ、絢原さんの手を取った。

 

「……今夜は、頭撫でてほしい。反省会は、明日ちゃんと聞くから」

 

握っていた指がほどけた。

 

「分かった。今日はもう、ゆっくりしよう」

 

手が頭へ来る。耳の間から後ろへ、髪を引っかけないように動いた。

 

肩へ頬をつけ、空いている方の腕を抱え込む。絢原さんは少し身体の向きを変え、私が寄りかかれるように座り直した。撫でてくれる顔は、まだ硬かった。

 

悔しい。もう、本当に悔しい。

 

それで絢原さんに甘えたくなった。今は一人で部屋にいたくないし、あの背中を思い出すたびに、この人へ文句を言っていたい。

 

「最後、もう駄目だと思ったんだよ。脚が重くて、前に出なくなりそうで。それが、もう一回伸びたから」

 

シャツを掴む指に力が入る。

 

「あの時は、追いつけると思った。なのに、あの人もまだ速くなるんだもん。最初から、ずっと前を走ってたのに」

 

言いかけた続きを飲み込み、肩へ顔を押しつけた。目の奥が熱くなる。息を吐くと、思っていたより震えていた。

 

絢原さんの手が、後頭部をゆっくり撫でる。

 

勝たせられなかったぶん、私が欲しがるものくらいは、とでも考えていそうだった。頭を撫でてほしいと頼んだ時、少しほっとしたように見えたから。

 

ここまで距離を詰めるのに、二年もかかった。袖に指を添えるところから、少しずつ。隣へ座って、肩を借りて、手を取って。やっと、何も言わずに抱きついていられる。

 

そのくせ、この人の頭はまだ、指導が足りなかったことでいっぱいらしい。

 

この朴念仁。

 

慰めてくれるなら誰でもいいわけじゃないんだけど。

 

顔を上げると、絢原さんの目がこちらへ戻った。絢原さんが口を開く前に、もう少し身体を寄せる。今日は遠慮せず、この手を借りる。

 

「みんなの前で『勝負だ、カレンモエ』ってさ。よくあんなに堂々と言えるよね。私まで、同じように返さなきゃいけないみたいになるし」

 

あの人はカメラがなくても、きっと同じことを言う。六日前の通路でも、今日のレースの後でもそうだった。

 

「あんなに嬉しそうに言われたら、嫌な顔もしづらいじゃん」

 

「無理に合わせなくていい。お前が凱旋門に出ることは、もう伝わってる」

 

「でも、勝負はする。あの人が嫌だから出ない、って思われるのはもっと嫌」

 

「出ないとは思ってないよ。お前は、あの人に勝ちに行くんだろ」

 

肩に額をつけたまま頷く。次に会うまで、勝った顔をされっぱなしだと思うと、また腹が立った。

 

 

 

~

 

 

 

絢原さんの端末が鳴った。

 

取り出した画面を見て、眉が寄る。私は少し身体を起こした。

 

「何だった?」

 

「明日の取材を増やせないかって。帰国前に、凱旋門賞の話を聞きたいそうだ」

 

「まだ増えるの? もう、あんまり喋りたくない」

 

「追加は断る。決まってた分だけにしてもらうよ」

 

頭から手が離れた。返事を打つ間、私は隣で待った。

 

絢原さんは送信した後も、画面を見ている。端末を持つ親指が止まっていた。

 

「トレーナー」

 

顔がこちらを向く。

 

「明日の取材、そばにいてね」

 

「ああ。俺も一緒に出る。調整や作戦のことを聞かれたら、俺から説明するから」

 

端末をテーブルへ置き、水のボトルを取った。私のグラスへ注いでから、自分の分も足す。

 

「何か食べられそうか?」

 

聞かれて、ようやく空腹に気づいた。レースの前も後も、少しずつしか食べていない。

 

「温かいものがいい。部屋に持ってきてもらえる?」

 

「スープがあったはずだ。メニュー、取るよ」

 

二人で冊子を開いた。写真だけでは量が分からず、絢原さんに下の説明を読んでもらう。スープとサンドイッチ。水も、もう一本。

 

「トレーナーも食べてね」

 

「二人分で頼もう。俺も夕食を取ってない」

 

注文の電話をしている横で、私はメニューを閉じた。聞き取れる単語を拾うのも面倒で、クッションへ顎を載せて待つ。

 

電話が終わると、絢原さんが隣へ戻ってきた。

 

「少し時間がかかるって。待てるか?」

 

「外に行くよりいい。今、誰にも会いたくない」

 

空いた腕を取った。絢原さんはそのまま座り、テーブルに残った空の紙パックを片づけてくれた。

 

料理を待っているうちに、またウマホへ手を伸ばした。

 

映像には戻らず、その下の記事を読む。夏に続いて、秋もレゾリュートが勝つのか。カレンモエが三連覇を果たすのか。二人の写真を並べた記事が、もうできている。

 

勝者と敗者のコメント、と書かれた欄に私の名前があった。

 

レゾリュートが幾つも答えている横で、私のところには、相手が強かったことと、凱旋門賞にも出ることだけが載っている。聞かれたことには答えたけれど、それ以上は喋りたくなかった。

 

下には、次も応援するという人がいた。今日の三身差では秋も厳しい、という人もいる。最後の300mを切り出した動画では、私がもう一度加速する直前で画面が止まっていた。

 

指を近づけ、やめる。

 

再生すれば、あのゴールまで見てしまう。

 

「トレーナー、これ預かって。見ちゃうから」

 

差し出すと、絢原さんが受け取った。画面を消し、自分の端末と重ねて、少し離れた机へ置いてくれた。

 

座り直すところを待ち、腕を引いた。

 

「秋までには、ちゃんと勝てるようにしたい」

 

「俺も、準備から見直す。あの人が強かったから仕方ない、では終わらせない」

 

私を見て言った。前のレースで何をしてきたかも、今日どれだけ追っても届かなかったことも、全部知っている人だった。

 

「明日、今日の映像を見よう。練習のも一緒に」

 

「分かった。用意しておく」

 

そこで話をやめ、肩を借りた。ドアが鳴るまで、二人とも何も言わなかった。

 

 

 

~

 

 

 

スープを一口飲んだら、熱かった。

 

少し冷まして、もう一口。サンドイッチも、食べ始めれば入る。向かいの椅子は空いたままで、絢原さんも隣で皿を持っていた。

 

食べている間、たまにスプーンの音が止まる。

 

気づいて顔を上げると、絢原さんが足元のシューズを見ていた。私の方を向き直り、またスープを口へ運ぶ。

 

私もパンを一口食べた。

 

最後に前へ出た左脚のことは、まだ覚えている。坂でつながらなかった次の一歩が出た。あれで勝てたら、絢原さんに何度も映像を見せていたと思う。ここ、見て。練習したのができたよって。

 

「最後、ちゃんとできたのにね」

 

食べる手が止まり、こちらを向いた。

 

「できてたよ。前へ出した左脚の後も、止まらずに続いてた」

 

「明日、そこも見る」

 

「そこは、何度でも見よう」

 

頷いて、皿へ目を戻した。できたところだけ何回見ても、三身差は変わらない。最後の映像まで、いずれ見なければならなかった。

 

今夜はまだ、嫌だ。

 

食べ終えると、絢原さんがトレーへ皿をまとめた。私はクッションを脇へ避け、隣が空くのを待った。

 

座った腕に手を回し、肩へ頭をつける。

 

「もうちょっと、撫でて」

 

手が髪を梳いた。もう片方の手は、膝に置かれている。その指を取って、自分の指を重ねた。

 

「……私、あの人の悪口、しばらく言うから」

 

「ここでは、好きなだけ言っていいよ」

 

それから少しの間、髪を撫でる手に任せた。喋ろうとすると、また同じことが出てくる。速かった。追いつけなかった。負けたくなかった。

 

絢原さんは、私が顔を上げるたびに話すのを待ってくれた。

 

時計を見たのは、廊下で遠くのドアが閉まった後だった。

 

「そろそろ寝た方がいい。明日は八時前に来るよ」

 

繋いでいた手が緩む。私は指を離さず、肩に頬をつけたまま見上げた。

 

「……あと少し。まだ、一人になりたくない」

 

声は少し甘くした。こう頼めば、待ってくれると知っている。

 

この人が今、何を悔やんでいるかも分かる。だからといって、早く帰して一人で考え込ませてあげるほど、私は物分かりがよくない。

 

絢原さんは椅子の背に掛けた上着を見て、それから座り直した。

 

「もう少しだけな。俺が帰ったら、今日はそのまま寝てくれ」

 

「分かった。……今は、ここにいて」

 

髪に戻ってきた手の下へ、頭を預け直す。目を閉じると、また最後の直線が浮かんだ。

 

私は握っていた指に力を込めた。絢原さんの手は、離れなかった。

 

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