——Anti-Hero: Curren Moe
ストローを吸うと、紙パックの底で音がした。
もうない。傾けてみても、甘いものは上がってこなかった。絢原さんの肩から少し起きて、テーブルへ置く。
テーブルの上で、ウマホが震えた。
帰国の案内かもしれない。そう思って手を伸ばしたのに、最初に開いたのはニュースの通知だった。
『世界チャンプ、海外初黒星。レゾリュートに三身差の完敗』
写真の私は、ゴールの先で口を開けていた。息をしていたんだから仕方ないけど、もう少しましなところを使ってほしい。隣のレゾリュートは、旗を振る客へ手を上げている。
下へ送ると、別の会社が同じ結果を載せていた。
『無敗ストップ。凱旋門賞三連覇に暗雲』
「……知ってるよ」
「ニュース?」
「うん。私が負けたって」
絢原さんにも見えるように画面を傾けた。見出しの下には、私の写真がまだ並んでいる。下を向いて歩いているところ。掲示板を見ているところ。最後の直線で、レゾリュートを追いかけているところ。
直線の写真を指で拡げた。私の顔より、二人の間の広さの方が気になって、すぐ元に戻した。
「日本じゃ、何回も負けてるのにね」
絢原さんは画面を見ていた。写真の私が走っているところを、指先で少し拡げる。
「分かってるけど。海外では初めてだって、私が一番よく分かってるのに」
記事を閉じた。次に見えたのもキングジョージだった。
今度はレゾリュートのインタビュー。再生の印を押すと、マイクの前で白銀が顔を上げた。私がライブの支度をしていた頃に撮られたものらしい。まだ勝負服のままで、額には汗が残っている。
映像の下に、日本語訳がついていた。
『カレンモエを破っての勝利となりました。今のお気持ちは?』
『嬉しい。今日、ここで勝つために準備してきた。最後まで走り切れたことを、陣営にも感謝している』
本当に嬉しそうだった。
声も、目も。あんなに疲れた後なのに、記者の質問へ真っ直ぐ顔を向けて答えている。途中で客の声が届いたらしく、そちらへ手まで振っていた。
私の方は、帰りの車で一言も喋らなかった。
『次の目標は、凱旋門賞でしょうか』
『もちろんだ。ロンシャンでは二年続けてカレンモエに負けている。次はあの場所でも勝つ』
『やはり、一番意識する相手はカレンモエですか』
『ああ。さっきも、また来ると言っていた。次に走るのが楽しみだ』
言ったけど。
レースの後に、本人へ言ったばかりだ。それをもうカメラへ向かって話している。
レゾリュートは少し笑い、今度は正面を見た。
『凱旋門賞で勝負だ、カレンモエ。待っているぞ』
……うわ。
再生を止めた。レゾリュートが笑っているところで、止まってしまった。
「……なんか、レゾリュートに負けるの、すっごくムカつく」
ウマホを持つ手を膝へ下ろした。
「あの人、もう秋が楽しみなんだって。私、まだ今日のことでこんななのに。さっきまで、あの人の後ろで踊ってたんだよ」
最後のポーズまで、ちゃんとやった。カメラへ顔を向けて、空色のタオルにも手を振った。終わって袖に入るまで、笑っていた。
帰りの車に乗ってから、ゴール前のことばかり思い出している。
最後にもう一度伸びた時、届くと思った。ほんの一瞬、レゾリュートを抜いてゴールするところまで見えた。それなのに、あの背中は遠くなるばかりだった。
「勝ちたかったな……」
膝の上では、レゾリュートが笑っている。私は画面を消した。
「モエ。勝たせてやれなくて、すまなかった」
絢原さんの方を向く。
私を見ていた。さっきまで膝に載せていた手を、握っている。
「俺の指導不足だ。あの芝で最後まで走り続けられるように、練習のうちに仕上げてやれなかった」
「……十日しかなかったじゃん」
「その十日をどう使うかは、俺の仕事だろ。苦しくなるのが分かっていて、もっとましな走り方を用意できなかった」
掌の保護材へ、一度視線が下がった。
その顔を見ていたら、昨日の坂を思い出した。私がもう一歩を出せずに止まった時、絢原さんは撮っていた端末を下ろした。何か言おうとして、一度やめてから、足は痛くないかと聞いた。
今も、あの時みたいな顔だった。
「トレーナーを責めてるんじゃないよ」
「分かってる。俺が、自分の指導に納得できてないんだ」
私も、何を言えばいいか分からなかった。大丈夫とも、十分だとも言いたくない。しばらく二人で黙っていた。
ウマホをテーブルへ伏せ、絢原さんの手を取った。
「……今夜は、頭撫でてほしい。反省会は、明日ちゃんと聞くから」
握っていた指がほどけた。
「分かった。今日はもう、ゆっくりしよう」
手が頭へ来る。耳の間から後ろへ、髪を引っかけないように動いた。
肩へ頬をつけ、空いている方の腕を抱え込む。絢原さんは少し身体の向きを変え、私が寄りかかれるように座り直した。撫でてくれる顔は、まだ硬かった。
悔しい。もう、本当に悔しい。
それで絢原さんに甘えたくなった。今は一人で部屋にいたくないし、あの背中を思い出すたびに、この人へ文句を言っていたい。
「最後、もう駄目だと思ったんだよ。脚が重くて、前に出なくなりそうで。それが、もう一回伸びたから」
シャツを掴む指に力が入る。
「あの時は、追いつけると思った。なのに、あの人もまだ速くなるんだもん。最初から、ずっと前を走ってたのに」
言いかけた続きを飲み込み、肩へ顔を押しつけた。目の奥が熱くなる。息を吐くと、思っていたより震えていた。
絢原さんの手が、後頭部をゆっくり撫でる。
勝たせられなかったぶん、私が欲しがるものくらいは、とでも考えていそうだった。頭を撫でてほしいと頼んだ時、少しほっとしたように見えたから。
ここまで距離を詰めるのに、二年もかかった。袖に指を添えるところから、少しずつ。隣へ座って、肩を借りて、手を取って。やっと、何も言わずに抱きついていられる。
そのくせ、この人の頭はまだ、指導が足りなかったことでいっぱいらしい。
この朴念仁。
慰めてくれるなら誰でもいいわけじゃないんだけど。
顔を上げると、絢原さんの目がこちらへ戻った。絢原さんが口を開く前に、もう少し身体を寄せる。今日は遠慮せず、この手を借りる。
「みんなの前で『勝負だ、カレンモエ』ってさ。よくあんなに堂々と言えるよね。私まで、同じように返さなきゃいけないみたいになるし」
あの人はカメラがなくても、きっと同じことを言う。六日前の通路でも、今日のレースの後でもそうだった。
「あんなに嬉しそうに言われたら、嫌な顔もしづらいじゃん」
「無理に合わせなくていい。お前が凱旋門に出ることは、もう伝わってる」
「でも、勝負はする。あの人が嫌だから出ない、って思われるのはもっと嫌」
「出ないとは思ってないよ。お前は、あの人に勝ちに行くんだろ」
肩に額をつけたまま頷く。次に会うまで、勝った顔をされっぱなしだと思うと、また腹が立った。
~
絢原さんの端末が鳴った。
取り出した画面を見て、眉が寄る。私は少し身体を起こした。
「何だった?」
「明日の取材を増やせないかって。帰国前に、凱旋門賞の話を聞きたいそうだ」
「まだ増えるの? もう、あんまり喋りたくない」
「追加は断る。決まってた分だけにしてもらうよ」
頭から手が離れた。返事を打つ間、私は隣で待った。
絢原さんは送信した後も、画面を見ている。端末を持つ親指が止まっていた。
「トレーナー」
顔がこちらを向く。
「明日の取材、そばにいてね」
「ああ。俺も一緒に出る。調整や作戦のことを聞かれたら、俺から説明するから」
端末をテーブルへ置き、水のボトルを取った。私のグラスへ注いでから、自分の分も足す。
「何か食べられそうか?」
聞かれて、ようやく空腹に気づいた。レースの前も後も、少しずつしか食べていない。
「温かいものがいい。部屋に持ってきてもらえる?」
「スープがあったはずだ。メニュー、取るよ」
二人で冊子を開いた。写真だけでは量が分からず、絢原さんに下の説明を読んでもらう。スープとサンドイッチ。水も、もう一本。
「トレーナーも食べてね」
「二人分で頼もう。俺も夕食を取ってない」
注文の電話をしている横で、私はメニューを閉じた。聞き取れる単語を拾うのも面倒で、クッションへ顎を載せて待つ。
電話が終わると、絢原さんが隣へ戻ってきた。
「少し時間がかかるって。待てるか?」
「外に行くよりいい。今、誰にも会いたくない」
空いた腕を取った。絢原さんはそのまま座り、テーブルに残った空の紙パックを片づけてくれた。
料理を待っているうちに、またウマホへ手を伸ばした。
映像には戻らず、その下の記事を読む。夏に続いて、秋もレゾリュートが勝つのか。カレンモエが三連覇を果たすのか。二人の写真を並べた記事が、もうできている。
勝者と敗者のコメント、と書かれた欄に私の名前があった。
レゾリュートが幾つも答えている横で、私のところには、相手が強かったことと、凱旋門賞にも出ることだけが載っている。聞かれたことには答えたけれど、それ以上は喋りたくなかった。
下には、次も応援するという人がいた。今日の三身差では秋も厳しい、という人もいる。最後の300mを切り出した動画では、私がもう一度加速する直前で画面が止まっていた。
指を近づけ、やめる。
再生すれば、あのゴールまで見てしまう。
「トレーナー、これ預かって。見ちゃうから」
差し出すと、絢原さんが受け取った。画面を消し、自分の端末と重ねて、少し離れた机へ置いてくれた。
座り直すところを待ち、腕を引いた。
「秋までには、ちゃんと勝てるようにしたい」
「俺も、準備から見直す。あの人が強かったから仕方ない、では終わらせない」
私を見て言った。前のレースで何をしてきたかも、今日どれだけ追っても届かなかったことも、全部知っている人だった。
「明日、今日の映像を見よう。練習のも一緒に」
「分かった。用意しておく」
そこで話をやめ、肩を借りた。ドアが鳴るまで、二人とも何も言わなかった。
~
スープを一口飲んだら、熱かった。
少し冷まして、もう一口。サンドイッチも、食べ始めれば入る。向かいの椅子は空いたままで、絢原さんも隣で皿を持っていた。
食べている間、たまにスプーンの音が止まる。
気づいて顔を上げると、絢原さんが足元のシューズを見ていた。私の方を向き直り、またスープを口へ運ぶ。
私もパンを一口食べた。
最後に前へ出た左脚のことは、まだ覚えている。坂でつながらなかった次の一歩が出た。あれで勝てたら、絢原さんに何度も映像を見せていたと思う。ここ、見て。練習したのができたよって。
「最後、ちゃんとできたのにね」
食べる手が止まり、こちらを向いた。
「できてたよ。前へ出した左脚の後も、止まらずに続いてた」
「明日、そこも見る」
「そこは、何度でも見よう」
頷いて、皿へ目を戻した。できたところだけ何回見ても、三身差は変わらない。最後の映像まで、いずれ見なければならなかった。
今夜はまだ、嫌だ。
食べ終えると、絢原さんがトレーへ皿をまとめた。私はクッションを脇へ避け、隣が空くのを待った。
座った腕に手を回し、肩へ頭をつける。
「もうちょっと、撫でて」
手が髪を梳いた。もう片方の手は、膝に置かれている。その指を取って、自分の指を重ねた。
「……私、あの人の悪口、しばらく言うから」
「ここでは、好きなだけ言っていいよ」
それから少しの間、髪を撫でる手に任せた。喋ろうとすると、また同じことが出てくる。速かった。追いつけなかった。負けたくなかった。
絢原さんは、私が顔を上げるたびに話すのを待ってくれた。
時計を見たのは、廊下で遠くのドアが閉まった後だった。
「そろそろ寝た方がいい。明日は八時前に来るよ」
繋いでいた手が緩む。私は指を離さず、肩に頬をつけたまま見上げた。
「……あと少し。まだ、一人になりたくない」
声は少し甘くした。こう頼めば、待ってくれると知っている。
この人が今、何を悔やんでいるかも分かる。だからといって、早く帰して一人で考え込ませてあげるほど、私は物分かりがよくない。
絢原さんは椅子の背に掛けた上着を見て、それから座り直した。
「もう少しだけな。俺が帰ったら、今日はそのまま寝てくれ」
「分かった。……今は、ここにいて」
髪に戻ってきた手の下へ、頭を預け直す。目を閉じると、また最後の直線が浮かんだ。
私は握っていた指に力を込めた。絢原さんの手は、離れなかった。