——Anti-Hero: Curren Moe
「右の膝、もう一回曲げてくれ」
ベンチに座ったまま、膝を胸へ引き寄せる。ゆっくり伸ばしたところで、絢原さんの手が腿の外側を押した。
「ここは?」
「まだちょっと張る。昨日ほどじゃないけど。階段はもう普通に下りられたよ」
「昨日、歩いた後に重くならなかったか?」
「平気だった。帰ったら寝ちゃったし」
帰国してから、検査して、休んで、少し動いて、また休む。脚に新しい傷はなかったけれど、疲れがなかなか抜けてくれない。
飛行機を降りた時なんて、腿が固まっていた。寮の階段で手すりにつかまりながら、一段ずつ上がる羽目になった。あれだけ寝たのに、私の脚はまだアスコットにいるらしい。
レゾリュートは、最後の坂でも速くなっていた。
……ああ、もう。階段くらい、あの人のことを思い出さずに上がらせてほしい。
「力、抜いてくれ」
「ごめん。今、ちょっと腹立ってた」
息を吐いて、脚の力を抜いた。絢原さんはもう一度確かめてから、前日の記録へ書き足す。私が何時に寝たかまで載っている。
「今日も短いのだけ? そろそろ、もうちょっと走りたいんだけど」
「今日はまだ短くしよう。歩く分にはよくても、走るとまた張るかもしれない」
「札幌は出るんでしょ?」
「予定は変えてない。そこで走るためにも、今は疲れを抜く。夕方の張り具合も、また教えてくれ」
引っ張り上げていたジャージの裾を戻した。札幌に出られなくなるのは、もっと嫌だ。
ベンチの脇には、タブレットと二冊のノートが置いてある。札幌の予定の下から、見慣れた表紙が覗いていた。
「昨日も見てたの? キングジョージ」
「前半を見直してた。身体を起こすたびに前と離れて、その分をまた追いかけてるんだな」
「あー……離される、って思った。まだこんなに残ってるのに、待ってよって」
あの人が待ってくれるわけないんだけど。
レースの翌朝、約束どおり二人で映像を見た。最後の300mから始めたのに、どこであんなに離されたんだろうと思ったら、結局スタートまで戻ることになった。
絢原さんは、私が止めてほしいと言うたびに止めてくれた。横には練習の映像。あれもこれも見比べて、ゴールまで見終わった頃には、朝食の紅茶がすっかり冷めていた。
「前半から余計に脚を使わせてしまった。立て直さずに走れるように、練習のうちにもっと詰めておくべきだった」
ノートが引き出される。帰りの飛行機で書いていたページにも、字が増えていた。少しこちらへ向けてもらって、端を押さえる。
「でも、最後のあれはまたやりたい。あそこはよかったでしょ? 練習じゃできなかったの、できたんだよ」
「あそこはできてた。止まっていた次の一歩まで続いてる。脚が戻ったら、疲れる前から出せるか試そう」
「忘れちゃう前にね。あの時、ほんとに追いつけると思ったんだから」
最後まで追いかけても、三身。
何回見直したって、あの背中は遠かった。二番手まで上がった時は、ここからだと思ったのに。最後にまた離されるところは、まだ見たくない。
ノートを返して、靴を手元へ引き寄せた。
「今日は、走り方を変えなくていい。いつもどおりで」
「分かった。じゃあ、短いのからね」
靴を履いて、紐を結ぶ。足踏みしても、さっきより張りは強くならなかった。
絢原さんが撮影用の端末を持つのを待って、コースへ向かった。
~
札幌へ向かう日は、朝から暑かった。
ミルクティーを買って搭乗口へ戻ると、絢原さんは書類を読んでいた。隣へ行けば、顔を上げて鞄をどけてくれる。
座って、紙パックを頬に当てた。冷たい。生き返る。
「買い物は済んだか?」
「これだけ。帰りはお土産も見たいから、時間取っといてね」
「少し早めに空港へ行くか。何を買うか決めてるのか?」
「まだ。見てから決める。トレーナーも付き合ってよ」
搭乗券を手帳へ挟み、帰りの予定に書き足している。私はそれを見届けてから、ストローの袋を開けた。
テーブルにある端末へ目をやると、札幌記念の記事が出ていた。
『再起を懸けて』。
「……なに、再起って。札幌、前から出るって言ってたじゃん」
飛行機も宿も、イギリスへ行く前から決めてあった。札幌記念に丸をつけた時には、レゾリュートはまだ一度も私に勝っていなかったんだから。
絢原さんが画面を下へ送った。
「本文には、もともとの予定だと書いてあるんだがな」
「そこまで読む前に、負けたから来るんだって思うでしょ、これ」
さらに下から、レゾリュートの写真が出てきた。
「……また出た」
「前と同じインタビューだ。新しく何か言ったわけじゃない」
「もう覚えちゃったよ。声つきで」
『凱旋門賞で勝負だ、カレンモエ。待っているぞ』
顔を見るだけで、あの声が頭の中で流れる。私のウマホでも、絢原さんの端末でも、ずっと同じように嬉しそうだった。
こっちは、ようやく負けたレースを見直せるようになったところなのに。
ミルクティーを飲みながら、画面から目を逸らした。
取材では、気持ちを切り替えて次へ、と聞かれた。そんな便利なことができるなら、とっくにやっている。札幌には出る。あの人に負けたのは腹が立つ。両方あったって、別にいいでしょ。
絢原さんが記事を閉じる。
「札幌でも、最後の300mの走り方を使うのかと聞かれたよ」
「え、私もまだ分かんないんだけど。あれでずっと走れって言われても困る」
「勝つために準備している、とだけ答えた。どう走るかは、札幌で調整してから決める。無理に同じ形へ合わせる必要はない」
「よかった。せっかくできたから、またやんなきゃって思っちゃうんだよね」
帰ってからも、走り出すと左脚を急いで出そうとしてしまう。あの一歩を忘れたくなかった。もっと早くできていれば、とも思う。
まあ、それで勝てたかと聞かれたら、分からないけど。
紙パックが空になったので、捨てに行った。戻ると、今度は札幌の予定が開かれている。絢原さんの肩へ寄りかかって覗いた。
「ね、今日は走らないんだよね?」
「走るのは明日からだ。今日は宿に荷物を置いて、練習場所と時間を確認する」
「じゃあ、お昼ちゃんと食べよ。着いたらすぐ。お腹空いた」
「空港で食べていこう。移動してからだと遅くなる」
「トレーナーも朝、あんまり食べてなかったでしょ」
「今になって腹が減ってきた」
搭乗の案内が始まった。
肩から離れて鞄を持つ。先に立った絢原さんの袖を取ったところで、近くの人と目が合った。
……はいはい。
手を放して、自分の鞄の紐へ持ち替える。外だと、こういうところが面倒くさい。
「上着、すぐ出せるところに入ってるか?」
「入ってるよ。寒かったら着る」
搭乗券を見せ、絢原さんの後ろをついていった。
機内で隣に座ったら、また肩を借りよう。
~
札幌の芝を踏んで、少し体重を掛けてみた。
アスコットみたいに、足首からすぐ押し返されない。腰を落としても、肩がいきなり浮こうとはしなかった。
「……あ、こっちの方がいい」
もう一度踏んでから、絢原さんを振り返る。
「最初はいつもどおり走ってみてくれ。速さは欲張らなくていい」
「分かってるって。いきなり飛ばさないよ」
言われた区間へ向かい、走り出した。
最初の数歩は楽だった。右脚で押した分だけ身体が進んで、左脚もすっと出る。上へ跳ねた身体を、慌てて戻さなくていい。
そうそう。こういうのがいい。
少し速さを上げかけた時、頭にアスコットの坂がちらついた。早く左脚を出さなきゃ、と思ってしまった。
右がまだ押せるうちに足を離し、歩幅が詰まる。次の一歩も窮屈になって、肩が揺れた。
あー、余計なことした。
そのまま速くするのはやめて、区間の終わりで緩めた。戻ると、絢原さんは今撮った映像を出していた。
「途中、変だったでしょ。あっちでやってたの、またやっちゃった」
「左脚を急がせたところだな。その前は揃ってる。ほら」
画面を見せてもらう。
最初の方は、右足を着いてから身体が前へ進み、左脚が出ていた。そこへ私が、わざわざ忙しい一歩を挟んでいる。
見ていると、その一歩が余計に気になった。
「まだ右脚で押せたはずだ。急いで離した分、歩幅が小さくなっている」
「あそこまでは、気持ちよく走ってたんだよ。変えなきゃよかった」
「次は、走り始めの感じをそのまま続けてみよう。左脚を急がせずに」
「もう一回、最初から見せて。よかった方、覚えとく」
映像を戻してもらった。私の肩は、ずっと同じ高さで進んでいる。
イギリスでは早く足を出さなきゃついていけなかったのに、ここでは私が勝手に急いでいる。慣れた頃にまた場所が変わるの、どうにかならないかな。
二本目まで歩いて息を整え、聞かれた腿の張りにも答えた。悪くなってはいない。絢原さんが端末を構えたところで、もう一度走り出す。
右脚で押している間に、身体が前へ運ばれる。左脚を出すのは、それについていくくらいでよかった。
さっきより、ずっと楽だ。
一歩ごとに腹へ力を入れて、上体を戻し続けなくていい。腕も振れる。終わりの目印が近づいてきても、もう少し行けそうだった。
でも、ここまで。
名残惜しいけれど、決めていた場所で緩めた。ここで余計に走って、また休みを増やされたくはない。
絢原さんは、時計の数字をノートへ書き込んでいた。
「今のは楽だった。もうちょっと行けたよ」
「最後まで肩が上がらなかったな。腿の張りは?」
「増えてない。ね、少しだけ長くしてみない?」
「今日は二本で終わりだ。距離を延ばすのは、夕方と明日の朝の脚を確かめてからにする」
「えー……やっと調子よくなってきたのに」
タオルを渡され、首の後ろへ当てた。絢原さんは撮影用の端末を片づけている。はい、本当に終わりですね。
「じゃあ、明日は長いのやりたい。忘れないでよ」
「忘れない。だから今日は、ちゃんと休んでくれ」
芝を振り返った。二本目の終わりの目印が、あんなところにある。あそこまで走ってきたのに、もう息が落ち着いている。
これなら、明日も走りたい。
タオルを首へ掛け、絢原さんの横へ戻った。
「戻ったら寝てる。夕方、また脚見てね」
「時間は空けてある。来る前に連絡するよ」
そう言って鞄を持つ手元へ寄り、しまわれる前の画面を覗いた。札幌で撮った二本が並んでいる。
後で見るなら、まず二本目からにしよう。
~
夕方に脚を見てもらい、二人で食事へ出た。
張りは増えていなかった。絢原さんは明日の朝も確かめると言っていたけれど、長めの練習は予定表に残っている。そこは、ちゃんと見ておいた。
店でメニューを開く。
「私、魚にしよ。ごはん大盛りで」
「俺も同じものにするか。ごはんは普通で」
注文を終えた途端、絢原さんが鞄へ手を伸ばした。ノートが出てきたので、つい、その手を見てしまう。
「……宿へ戻ってからにする」
「そうして。ここで始めたら、ずっとその話になるもん」
ノートが鞄へ戻った。私はコップを取り、向かいの顔を見る。
このところ、私が練習を終えても、絢原さんの仕事は終わらない。一緒に映像を見た後で、また別の場面を開いている。アスコットで自分が何を言ったかまで聞き直していた。
あの夜の「指導不足だ」は、まだ、この人の中で終わっていないらしい。
「今日の二本目、私にも送って。あれは見たい」
「二本とも送ってある。後で一緒に見よう」
「じゃあ、ごはん食べたら部屋行くね」
「分かった。明日の練習も、その時に確認しておこう」
その後は、ソファの方でゆっくりしたい。今夜も、なるべく私の相手をしてもらおう。
料理が来た。白いごはんと焼いた魚。箸を入れると、身が大きく取れた。
食べている途中で、少し離れた席からキングジョージ、と聞こえた。
顔は向けずに味噌汁を飲む。レゾリュートの名前が続いて、その次は凱旋門賞。
あの人、海の向こうにいるくせに、私の夕飯にまで出てくる。
魚の骨を皿の端へ寄せていたら、絢原さんに「どうした?」と聞かれた。
「あっちも凱旋門の話。気が早いよね。私、札幌に来てるんだけど」
小声で言うと、絢原さんもそちらへ一度目をやった。
「私だって早くやり返したいけどさ。その前に札幌があるじゃん。こっちも勝ちに来てるんだから」
ごはんを一口、口へ入れた。
札幌の出走予定は、絢原さんと確かめてある。ここにも速い子はいる。レゾリュートのことばかり考えていて、今度はその子たちの後ろでゴールするなんて、嫌に決まっている。
「ね、戻ったら札幌に出る子のレースも見せて。前に見てた続き」
「用意はしてある。今夜は一本にしよう。遅くなるなら、続きは明日だ」
「いいけど、巻き戻すのは許してよ。一回見ただけじゃ分かんないところもあるし」
「そこは急がなくていい。気になったら止めてくれ」
残っていた魚を取った。今夜見るものが、また増えた。
少し離れた席では、まだ秋の勝ち負けを話している。私は残りのごはんを食べ、空いた茶碗をお盆へ戻した。
宿へ帰ると、絢原さんが約束の映像を出してくれた。
隣の椅子へ座り、ウマホを机に置く。画面では、札幌記念へ出る予定の子が、先頭を追って外へ出てきた。
そのまま、前との差が詰まり始める。
「待って。今のところ、もう一回」
絢原さんが映像を戻す。私は身を乗り出し、追い上げてくる足元を見た。