アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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第七話 北の庭

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

「右の膝、もう一回曲げてくれ」

 

ベンチに座ったまま、膝を胸へ引き寄せる。ゆっくり伸ばしたところで、絢原さんの手が腿の外側を押した。

 

「ここは?」

 

「まだちょっと張る。昨日ほどじゃないけど。階段はもう普通に下りられたよ」

 

「昨日、歩いた後に重くならなかったか?」

 

「平気だった。帰ったら寝ちゃったし」

 

帰国してから、検査して、休んで、少し動いて、また休む。脚に新しい傷はなかったけれど、疲れがなかなか抜けてくれない。

 

飛行機を降りた時なんて、腿が固まっていた。寮の階段で手すりにつかまりながら、一段ずつ上がる羽目になった。あれだけ寝たのに、私の脚はまだアスコットにいるらしい。

 

レゾリュートは、最後の坂でも速くなっていた。

 

……ああ、もう。階段くらい、あの人のことを思い出さずに上がらせてほしい。

 

「力、抜いてくれ」

 

「ごめん。今、ちょっと腹立ってた」

 

息を吐いて、脚の力を抜いた。絢原さんはもう一度確かめてから、前日の記録へ書き足す。私が何時に寝たかまで載っている。

 

「今日も短いのだけ? そろそろ、もうちょっと走りたいんだけど」

 

「今日はまだ短くしよう。歩く分にはよくても、走るとまた張るかもしれない」

 

「札幌は出るんでしょ?」

 

「予定は変えてない。そこで走るためにも、今は疲れを抜く。夕方の張り具合も、また教えてくれ」

 

引っ張り上げていたジャージの裾を戻した。札幌に出られなくなるのは、もっと嫌だ。

 

ベンチの脇には、タブレットと二冊のノートが置いてある。札幌の予定の下から、見慣れた表紙が覗いていた。

 

「昨日も見てたの? キングジョージ」

 

「前半を見直してた。身体を起こすたびに前と離れて、その分をまた追いかけてるんだな」

 

「あー……離される、って思った。まだこんなに残ってるのに、待ってよって」

 

あの人が待ってくれるわけないんだけど。

 

レースの翌朝、約束どおり二人で映像を見た。最後の300mから始めたのに、どこであんなに離されたんだろうと思ったら、結局スタートまで戻ることになった。

 

絢原さんは、私が止めてほしいと言うたびに止めてくれた。横には練習の映像。あれもこれも見比べて、ゴールまで見終わった頃には、朝食の紅茶がすっかり冷めていた。

 

「前半から余計に脚を使わせてしまった。立て直さずに走れるように、練習のうちにもっと詰めておくべきだった」

 

ノートが引き出される。帰りの飛行機で書いていたページにも、字が増えていた。少しこちらへ向けてもらって、端を押さえる。

 

「でも、最後のあれはまたやりたい。あそこはよかったでしょ? 練習じゃできなかったの、できたんだよ」

 

「あそこはできてた。止まっていた次の一歩まで続いてる。脚が戻ったら、疲れる前から出せるか試そう」

 

「忘れちゃう前にね。あの時、ほんとに追いつけると思ったんだから」

 

最後まで追いかけても、三身。

 

何回見直したって、あの背中は遠かった。二番手まで上がった時は、ここからだと思ったのに。最後にまた離されるところは、まだ見たくない。

 

ノートを返して、靴を手元へ引き寄せた。

 

「今日は、走り方を変えなくていい。いつもどおりで」

 

「分かった。じゃあ、短いのからね」

 

靴を履いて、紐を結ぶ。足踏みしても、さっきより張りは強くならなかった。

 

絢原さんが撮影用の端末を持つのを待って、コースへ向かった。

 

 

 

~

 

 

 

札幌へ向かう日は、朝から暑かった。

 

ミルクティーを買って搭乗口へ戻ると、絢原さんは書類を読んでいた。隣へ行けば、顔を上げて鞄をどけてくれる。

 

座って、紙パックを頬に当てた。冷たい。生き返る。

 

「買い物は済んだか?」

 

「これだけ。帰りはお土産も見たいから、時間取っといてね」

 

「少し早めに空港へ行くか。何を買うか決めてるのか?」

 

「まだ。見てから決める。トレーナーも付き合ってよ」

 

搭乗券を手帳へ挟み、帰りの予定に書き足している。私はそれを見届けてから、ストローの袋を開けた。

 

テーブルにある端末へ目をやると、札幌記念の記事が出ていた。

 

『再起を懸けて』。

 

「……なに、再起って。札幌、前から出るって言ってたじゃん」

 

飛行機も宿も、イギリスへ行く前から決めてあった。札幌記念に丸をつけた時には、レゾリュートはまだ一度も私に勝っていなかったんだから。

 

絢原さんが画面を下へ送った。

 

「本文には、もともとの予定だと書いてあるんだがな」

 

「そこまで読む前に、負けたから来るんだって思うでしょ、これ」

 

さらに下から、レゾリュートの写真が出てきた。

 

「……また出た」

 

「前と同じインタビューだ。新しく何か言ったわけじゃない」

 

「もう覚えちゃったよ。声つきで」

 

『凱旋門賞で勝負だ、カレンモエ。待っているぞ』

 

顔を見るだけで、あの声が頭の中で流れる。私のウマホでも、絢原さんの端末でも、ずっと同じように嬉しそうだった。

 

こっちは、ようやく負けたレースを見直せるようになったところなのに。

 

ミルクティーを飲みながら、画面から目を逸らした。

 

取材では、気持ちを切り替えて次へ、と聞かれた。そんな便利なことができるなら、とっくにやっている。札幌には出る。あの人に負けたのは腹が立つ。両方あったって、別にいいでしょ。

 

絢原さんが記事を閉じる。

 

「札幌でも、最後の300mの走り方を使うのかと聞かれたよ」

 

「え、私もまだ分かんないんだけど。あれでずっと走れって言われても困る」

 

「勝つために準備している、とだけ答えた。どう走るかは、札幌で調整してから決める。無理に同じ形へ合わせる必要はない」

 

「よかった。せっかくできたから、またやんなきゃって思っちゃうんだよね」

 

帰ってからも、走り出すと左脚を急いで出そうとしてしまう。あの一歩を忘れたくなかった。もっと早くできていれば、とも思う。

 

まあ、それで勝てたかと聞かれたら、分からないけど。

 

紙パックが空になったので、捨てに行った。戻ると、今度は札幌の予定が開かれている。絢原さんの肩へ寄りかかって覗いた。

 

「ね、今日は走らないんだよね?」

 

「走るのは明日からだ。今日は宿に荷物を置いて、練習場所と時間を確認する」

 

「じゃあ、お昼ちゃんと食べよ。着いたらすぐ。お腹空いた」

 

「空港で食べていこう。移動してからだと遅くなる」

 

「トレーナーも朝、あんまり食べてなかったでしょ」

 

「今になって腹が減ってきた」

 

搭乗の案内が始まった。

 

肩から離れて鞄を持つ。先に立った絢原さんの袖を取ったところで、近くの人と目が合った。

 

……はいはい。

 

手を放して、自分の鞄の紐へ持ち替える。外だと、こういうところが面倒くさい。

 

「上着、すぐ出せるところに入ってるか?」

 

「入ってるよ。寒かったら着る」

 

搭乗券を見せ、絢原さんの後ろをついていった。

 

機内で隣に座ったら、また肩を借りよう。

 

 

 

~

 

 

 

札幌の芝を踏んで、少し体重を掛けてみた。

 

アスコットみたいに、足首からすぐ押し返されない。腰を落としても、肩がいきなり浮こうとはしなかった。

 

「……あ、こっちの方がいい」

 

もう一度踏んでから、絢原さんを振り返る。

 

「最初はいつもどおり走ってみてくれ。速さは欲張らなくていい」

 

「分かってるって。いきなり飛ばさないよ」

 

言われた区間へ向かい、走り出した。

 

最初の数歩は楽だった。右脚で押した分だけ身体が進んで、左脚もすっと出る。上へ跳ねた身体を、慌てて戻さなくていい。

 

そうそう。こういうのがいい。

 

少し速さを上げかけた時、頭にアスコットの坂がちらついた。早く左脚を出さなきゃ、と思ってしまった。

 

右がまだ押せるうちに足を離し、歩幅が詰まる。次の一歩も窮屈になって、肩が揺れた。

 

あー、余計なことした。

 

そのまま速くするのはやめて、区間の終わりで緩めた。戻ると、絢原さんは今撮った映像を出していた。

 

「途中、変だったでしょ。あっちでやってたの、またやっちゃった」

 

「左脚を急がせたところだな。その前は揃ってる。ほら」

 

画面を見せてもらう。

 

最初の方は、右足を着いてから身体が前へ進み、左脚が出ていた。そこへ私が、わざわざ忙しい一歩を挟んでいる。

 

見ていると、その一歩が余計に気になった。

 

「まだ右脚で押せたはずだ。急いで離した分、歩幅が小さくなっている」

 

「あそこまでは、気持ちよく走ってたんだよ。変えなきゃよかった」

 

「次は、走り始めの感じをそのまま続けてみよう。左脚を急がせずに」

 

「もう一回、最初から見せて。よかった方、覚えとく」

 

映像を戻してもらった。私の肩は、ずっと同じ高さで進んでいる。

 

イギリスでは早く足を出さなきゃついていけなかったのに、ここでは私が勝手に急いでいる。慣れた頃にまた場所が変わるの、どうにかならないかな。

 

二本目まで歩いて息を整え、聞かれた腿の張りにも答えた。悪くなってはいない。絢原さんが端末を構えたところで、もう一度走り出す。

 

右脚で押している間に、身体が前へ運ばれる。左脚を出すのは、それについていくくらいでよかった。

 

さっきより、ずっと楽だ。

 

一歩ごとに腹へ力を入れて、上体を戻し続けなくていい。腕も振れる。終わりの目印が近づいてきても、もう少し行けそうだった。

 

でも、ここまで。

 

名残惜しいけれど、決めていた場所で緩めた。ここで余計に走って、また休みを増やされたくはない。

 

絢原さんは、時計の数字をノートへ書き込んでいた。

 

「今のは楽だった。もうちょっと行けたよ」

 

「最後まで肩が上がらなかったな。腿の張りは?」

 

「増えてない。ね、少しだけ長くしてみない?」

 

「今日は二本で終わりだ。距離を延ばすのは、夕方と明日の朝の脚を確かめてからにする」

 

「えー……やっと調子よくなってきたのに」

 

タオルを渡され、首の後ろへ当てた。絢原さんは撮影用の端末を片づけている。はい、本当に終わりですね。

 

「じゃあ、明日は長いのやりたい。忘れないでよ」

 

「忘れない。だから今日は、ちゃんと休んでくれ」

 

芝を振り返った。二本目の終わりの目印が、あんなところにある。あそこまで走ってきたのに、もう息が落ち着いている。

 

これなら、明日も走りたい。

 

タオルを首へ掛け、絢原さんの横へ戻った。

 

「戻ったら寝てる。夕方、また脚見てね」

 

「時間は空けてある。来る前に連絡するよ」

 

そう言って鞄を持つ手元へ寄り、しまわれる前の画面を覗いた。札幌で撮った二本が並んでいる。

 

後で見るなら、まず二本目からにしよう。

 

 

 

~

 

 

 

夕方に脚を見てもらい、二人で食事へ出た。

 

張りは増えていなかった。絢原さんは明日の朝も確かめると言っていたけれど、長めの練習は予定表に残っている。そこは、ちゃんと見ておいた。

 

店でメニューを開く。

 

「私、魚にしよ。ごはん大盛りで」

 

「俺も同じものにするか。ごはんは普通で」

 

注文を終えた途端、絢原さんが鞄へ手を伸ばした。ノートが出てきたので、つい、その手を見てしまう。

 

「……宿へ戻ってからにする」

 

「そうして。ここで始めたら、ずっとその話になるもん」

 

ノートが鞄へ戻った。私はコップを取り、向かいの顔を見る。

 

このところ、私が練習を終えても、絢原さんの仕事は終わらない。一緒に映像を見た後で、また別の場面を開いている。アスコットで自分が何を言ったかまで聞き直していた。

 

あの夜の「指導不足だ」は、まだ、この人の中で終わっていないらしい。

 

「今日の二本目、私にも送って。あれは見たい」

 

「二本とも送ってある。後で一緒に見よう」

 

「じゃあ、ごはん食べたら部屋行くね」

 

「分かった。明日の練習も、その時に確認しておこう」

 

その後は、ソファの方でゆっくりしたい。今夜も、なるべく私の相手をしてもらおう。

 

料理が来た。白いごはんと焼いた魚。箸を入れると、身が大きく取れた。

 

食べている途中で、少し離れた席からキングジョージ、と聞こえた。

 

顔は向けずに味噌汁を飲む。レゾリュートの名前が続いて、その次は凱旋門賞。

 

海の向こうにいるくせに、私の夕飯にまで顔を出さないで欲しい。

 

魚の骨を皿の端へ寄せていたら、絢原さんに「どうした?」と聞かれた。

 

「あっちも凱旋門の話。気が早いよね。ここ札幌なのに」

 

小声で言うと、絢原さんもそちらへ一度目をやった。

 

「私だって早くやり返したいけどさ。その前に札幌があるじゃん。こっちも勝ちに来てるんだから」

 

ごはんを一口、口へ入れた。

 

札幌の出走予定は、絢原さんと確かめてある。ここにも速い子はいる。レゾリュートのことばかり考えていて、今度はその子たちの後ろでゴールするなんて、嫌に決まっている。

 

「ね、戻ったら札幌に出る子のレースも見せて。前に見てた続き」

 

「用意はしてある。今夜は一本にしよう。遅くなるなら、続きは明日だ」

 

「いいけど、巻き戻すのは許してよ。一回見ただけじゃ分かんないところもあるし」

 

「そこは急がなくていい。気になったら止めてくれ」

 

残っていた魚を取った。今夜見るものが、また増えた。

 

少し離れた席では、まだ秋の勝ち負けを話している。私は残りのごはんを食べ、空いた茶碗をお盆へ戻した。

 

宿へ帰ると、絢原さんが約束の映像を出してくれた。

 

隣の椅子へ座り、ウマホを机に置く。画面では、札幌記念へ出る予定の子が、先頭を追って外へ出てきた。

 

そのまま、前との差が詰まり始める。

 

「待って。今のところ、もう一回」

 

絢原さんが映像を戻す。私は身を乗り出し、追い上げてくる足元を見た。

 

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