なんか勘違いしていたかもしれない。
——Anti-Hero: Curren Moe
台に上がった途端、客席で空色のタオルが跳ねた。
「モエちゃーん!」
声の大きい方へ手を振る。少し遅れて反対側からも呼ばれ、そちらを向くと、今度はタオルの数が増えた。
『――前走のキングジョージでは二着。帰国初戦を迎えます、カレンモエ!』
……二着の話はもういいって。
いちばん近いカメラには笑っておいた。台を下りる前にもう一度客席へ向き直ると、拍手に交じって「頑張れ!」が飛んでくる。
頑張るよ。今日は勝ちに来たんだから。
準備スペースへ戻り、シャツに留めたゼッケンの端を直す。絢原さんが、蓋を緩めたボトルを差し出してくれた。
「飲むか?」
「ちょっと。……今日、すごい来てるね」
一口飲んで振り返った。台から下りた私を見つけて、まだ手を振っている。空いた手を小さく振ってから、ボトルを返した。
「ここでも負けるのは、さすがに癪だなあ」
軽く跳ねてから、片脚ずつ腿を上げた。重さはない。最後の調整でも、速めた後に脚がついてきた。終わった時には、もう一度走りたいくらい。
少し離れたところで、フレイシュタットさんが脚を伸ばしていた。立ち上がると、その場で短く駆け、ゆっくり戻ってくる。昨夜の映像で見た。
あの子は前へ出てからしぶとかったのを覚えている。
「ね、あの子が動いたら私も行く。直線までに並んでおきたい」
「GⅠでも勝負になる相手だ。外を回って追いつく分、余力は残しておけよ」
「分かってる。追いついて終わりじゃ、嫌だもん」
絢原さんがノートをしまった。
「最後の調整でも終いまで伸びてた。今日は勝負できる。お前の走りで行ってこい」
「行ってくる。今日は勝つよ」
ボトルを持つ手に指先で触れ、離した。
本走路で軽く流す。アスコットより足裏に手応えがあった。右脚で押している間に腰が前へ進み、左脚がすっと出る。慌てて次の足を着かなくていい。
もう少し重ければなあ。もっと重かったロンシャンでは、さらに強く踏んでも、そのまま前へ伸びていけた。
それでも、普段の芝よりずっと走りやすい。少し強く蹴ってみると、一歩が大きく伸びた。
前を走っていた子が速度を落とした。私も十分に間を空けて減速し、ゲートへ向かう。客席からまだ名前が聞こえたが、今度は手を振らずに歩いた。
枠へ入って足の位置を決める。背後で扉が閉まり、隣から短く息を吐く音がした。
肩の力を抜く。正面を見る。
扉が開いた。
——Live: Announcer
『スタートしました! 札幌記念、芝2000mの一戦! ローカルストリームが前へ出ていきます!』
『その後ろに二人、フレイシュタットは四番手! カレンモエが五番手の外につけました!』
『先頭から後ろまでは大きく開いていません。ローカルストリームが引っ張って、最初のコーナーへ向かいます!』
——Anti-Hero: Curren Moe
フレイシュタットさんの背中が、すぐ前にあった。
コーナーの入口で内の子が少し下がったので、その分だけ寄せる。外へ出る余地は残した。肩が触れそうなところには誰もいない。
前に四人。先頭まで見える。
近いなあ。
追いかけたくなるけれど、まだ一つ目のコーナーだ。前との間を確かめながら走った。アスコットみたいに、一歩ごとに上体を戻さなくていい。腕まで楽に振れる。
あの背中へ少し近づいた。外へずれて前を空け、そのまま追う。
向こうも楽そうだった。私が詰めても慌てず、少し速度を上げて間を空ける。もう一つのコーナーを抜け、向こう正面を進んだ。
第三コーナーへ入るところで、その背中が外へずれた。
前の二人が並びかけている。間に入るつもりはないらしい。腕を大きく引いたのが見えて、私も外へ出た。
来た。
踏み込む。前との間が縮まりかけたところで、あっちも速度を上げた。大きな背中が遠ざかる。
速い。
脚へ力を込める。足裏に体重を乗せ、芝を押し切った。腰ごと前へ伸びる勢いに腕の振りを合わせる。内にいた二人の肩が、続けて後ろへ流れた。
あの子はもう、先頭の外へ迫っていた。追い越すために、まだ速くなる。
私はさらに外へ出た。
その背中も抜く。
——Live: Announcer
『フレイシュタットが動いた! 第三コーナーから一気に進出! カレンモエも追っていく!』
『先頭ローカルストリーム! 外からフレイシュタット、そのさらに外にカレンモエ! 後続との差が開き始めました!』
——Anti-Hero: Curren Moe
肩に並びかけても、カーブを進むと、また半歩ほど前へ出られる。
外を回る分だけ、前へ出るには余計に脚を使う。すぐ横にいるのに、あの子の顔までは届かない。焦って腕だけ速くなりかけ、脚の動きに合わせ直した。
息が速くなってきた。脚にはまだ力が入る。靴底で芝を押すたびに、隣の肩へ近づいた。
もっと行ける。
もう一歩を強く出す。あの子の肘がすぐ内側で振られ、今度こそ横顔が見えた。私の方は見ない。前を向いたまま、同じ勢いで走っている。
内ではローカルストリームがまだ粘っていた。三人が横に広がったまま最後のカーブを回り、正面が開く。
歓声がぶつかってきた。
ゴールが見える。あそこまで。
腕を振り切ると、隣の肩がわずかに後ろへずれた。ローカルストリームもかわす。内側の足音が遠のき、私たち二人が先頭へ抜けた。
その途端、隣の肩が戻ってきた。
まだ上げるのか。
私も踏む。並ばれ、押し返す。目の端にある肘を追い越そうとするたび、あっちの一歩が大きくなる。
残り200m。
喉がひりついた。息を吸う音が自分でもうるさい。隣からも、同じように荒い呼吸が聞こえる。
半歩、出られた。
負けるか。
右足で芝を押し、振り出した左脚でもう一度前へ出る。隣の肩が少しずつ後ろへずれた。もう一歩踏むと、あの子の横顔が視界の端から消える。
腿の奥が熱い。足を出すたびに力が要るようになってきた。それでも、蹴った分は前へ進める。まだあの子を離せる。
後ろの足音は近い。追ってくる。
だったら、もっと離す。
歯を食いしばって踏んだ。自分の息に名前を呼ぶ声が混じる。空色が視界の端で跳ねたが、顔を向ける余裕はなかった。
前を見たまま腕を振る。ここで緩めたら、また隣へ来る。
ゴールまで全部使ってやる。
勝つのは、私だ。
——Live: Announcer
『カレンモエが前に出た! フレイシュタットも食い下がる! しかしカレンモエ、もう一度伸びる!』
『カレンモエ、先頭でゴールイン! 札幌記念を制しました! 二着フレイシュタット、三着にローカルストリーム!』
——Anti-Hero: Curren Moe
ゴールを過ぎても、すぐには脚を緩められなかった。少しずつ速度を落とし、ようやく歩き始める。
前に誰もいない。
勝った。
大きく息を吸い、足を止めて膝に手をついた。しばらくして顔を上げると、近くでフレイシュタットさんも肩を上下させていた。
目が合ったので頭を下げると、短く頷き返してくれた。私より長く膝に手をついたままで、顔から汗が落ちている。
強かったなあ。抜いてからも、ちっとも終わらなかった。
掲示板のいちばん上に自分の名前を見つける。間違っていないのは分かっていたのに、もう一度見た。
一着。
口元が緩む。息を整えながら、もう少しだけ眺めていた。
出口へ向かうと、通路に絢原さんがいた。こちらを見つけ、タオルを広げてくれる。
「……勝ったね、トレーナー」
「ああ。おめでとう。よく振り切ったな」
その顔を見たら、嬉しくなる。
汗が目に入り、タオルを受け取って顔へ押し当てた。
「先に水を飲め。脚は痛くないか?」
「痛くない。疲れたけど、最後までちゃんと踏めたよ」
ボトルを受け取り、今度はさっきよりたくさん飲んだ。飲み終えて歩き出すと、絢原さんも隣に並ぶ。
「仕掛けもよく見てたな。あそこで遅れてたら、追いつくのも大変だったぞ」
「昨日、何回も見たもん。……今日のも、撮れてる?」
「撮れてる。後で一緒に見よう」
「じゃあ、夕飯の後、部屋行くね」
「ああ。待ってるよ」
袖を少し引くと、絢原さんも足を止めた。私は顔を見上げて小さく笑い、また歩き出した。
~
「凱旋門賞の三連覇へ向けて、いい弾みになったのではないでしょうか」
取材の最初の質問が、それだった。
勝ったばかりなのに、もう秋の話か。
マイクへ顔を向ける。
「……今日は、札幌記念を勝ててよかったです」
記者は少し待ってから、手元のメモへ目を落とした。
「直線では、一度前へ出られましたね」
「はい。あのまま負けるのは嫌だったので」
マイクが離れたところで一礼し、絢原さんのところへ戻った。
表彰を終え、ライブ用の衣装に着替えた。出番の前に立ち位置を確かめる。
真ん中。
今日は私がここに立つ。
照明が点き、客席の空色が見えた。前の方で男の人が二人、揃ってタオルを振っている。片方は勢いがよすぎて、隣の顔に当たりそうだった。
そちらへ手を伸ばすと、二人とも跳ねた。
危ないなあ、もう。
笑って次の振りへ入る。歌い終わるまで、あの辺りのタオルはずっと動いていた。
——The General Public《大衆》
ライブが終わり、人が出口へ動き始めても、友人はまだステージを見ていた。
「もう出てこないぞ」
「分かってる。ちょっと待って」
声が掠れていた。俺も喉が痛い。途中から、隣の男に負けないくらい名前を呼んでいた気がする。
「北海道まで来てよかったな」
「お前も来てよかっただろ?」
「そうだよ。……タオル振る時、もうちょっと離れろよな」
「当たった?」
「ずっと当たりそうだったんだよ」
友人がようやく立ち上がり、空色のタオルを首へ戻した。
階段を下りる人の列に混ざると、後ろから今日のレースの話が聞こえてきた。
「これで完全復活だな。やっぱり強いわ」
「いや、キングジョージとは相手が違うだろ。ここで勝ったからって、レゾリュートに勝てるかは別だよ」
「でも2000mであの勝ち方なら、秋もいけるんじゃないか」
「GⅡだぞ。世界チャンプなら、もう少し楽に勝ってほしかったけどな」
聞き覚えのある言い争いだった。キングジョージの後にも、会社の食堂で似た話を聞いた。
スマホを開くと、早くも札幌記念の記事が上がっていた。写真はゴール直後のモエちゃん。見出しには「復活」の二文字がある。
コメント欄では、『これで三連覇が見えた』の下に、『今日の相手なら勝って当然』と続いていた。さらにその下には、フレイシュタットを軽く見すぎだという反論がついている。
俺は友人に画面を見せた。
「また揉めてる」
「もう? まだ会場も出てないのに」
「完全復活か、勝って当然か、だって」
友人は画面をちらっと見ただけで、また前を向いた。
「フレイシュタットが並び返した時、俺、負けるかと思ったよ」
「俺も。あのまま前に出られるかと思った」
「一瞬、前に出られたもんな。よくあそこから抜き返したよ」
話しているうちに、友人の歩く速度が落ちた。後ろの邪魔にならないよう脇へ寄ると、鞄からスマホを出している。
「映像、もう来てる?」
「たぶん。ほら、あった」
差し出されたスマホを受け取った。画面では、二人が直線を走っている。外のモエちゃんが前へ出る。内の子が追いつき、ほんの少し先へ出る。
見たばかりなのに、また脚に力が入った。
「ここだよ」
友人が指を近づけた。
「指、どけて。見えない」
「あ、悪い」
モエちゃんが抜き返す。後ろの子はまだ追っていて、ゴールの直前まで差は大きくならない。
勝った。
画面の中で見ても、俺は息を吐いた。
「もう一回」
「まだ見るのかよ」
友人は笑ったが、すぐに戻してくれた。
今度は内の子の方も見た。抜かれてからも、腕を大きく振って追いすがっている。外のモエちゃんも緩めない。近いまま、二人がゴールへ飛び込んだ。
背後を通り過ぎた人が、「ロンシャンなら、やっぱりモエだよ」と連れに話していた。別の方では、今日の相手が軽かっただけだと言っている。
秋の予想を聞かれても、俺には答えられない。今日走った子の名前だって、まだ全部は覚えていなかった。
フレイシュタットの名前は、覚えた。
「この子がまた出る時も、見たいな」
俺が言うと、友人は出走表を鞄から引っ張り出しかけた。
「次、どこへ行くんだろ。秋の予定が――」
「歩きながらでいいから。まず出口まで行こう」
「お前がもう一回って言ったんだろ」
返す言葉がなかった。俺はスマホを返し、首からずれたタオルを直した。友人は出走表をしまい直しながら、直線で二人が並んだところの話をまだ続けていた。
——Anti-Hero: Curren Moe
「もうちょっと前。コーナーのところから」
夕食と着替えを済ませて、絢原さんの部屋へ来ていた。ソファに並び、間に置いたタブレットを覗き込む。
画面の中で、私が外へ上がっていく。
「ここか?」
「そう。止めないで、そのまま」
コーナーを抜ける。私が前へ出る。隣の子が追ってくる。
この後、一度抜き返されるんだよね。
クッションを抱える腕に力が入った。あの時には見えなかった足元までよく見える。隣の子は顔を歪めているのに、走り方はほとんど変わらない。
強かったわけだ。
それでも最後は私が前へ出た。ゴールを過ぎ、ようやくクッションを抱き直す。
「よし」
絢原さんが横で笑った。
「さっきも言ってたぞ」
「いいでしょ。もう一回、私が抜くところ見せて」
絢原さんは黙って戻してくれた。
次に開いてもらった映像は、別の位置から撮ったものだった。こっちの方が二人の差がよく見える。私が抜け出してからも、あの子は後ろで追っていた。
本当に、最後まで来てたんだ。
「それも送って。さっきのと両方」
「今送るから、ちょっと待っててくれ」
スマホを開き、届いた二つの動画を保存した。同じところに、キングジョージの映像も入っている。
その小さな画像を押した。
最後の直線。走り方がぐちゃぐちゃになりながら、私がもう一度伸びる。
それでも、レゾリュートは前にいた。
何回か見たゴールをまた見て、口が曲がる。
「……やっぱり
絢原さんがこちらの画面を覗いた。
「もっと速くなりたい。次は、あの背中をちゃんと抜く」
「帰ったら、秋の練習を詰め直そう。向こうも夏より速くなるつもりで来るだろうからな」
「分かってる。あの顔で待ってると思うと、ほんとにもう……」
スマホを閉じた。
タブレットには、札幌の私が止まっている。
「ね、最後にもう一回、こっち見よ」
今度はゴールの先まで見た。息を切らした私が膝に手をつき、やがて掲示板を見上げる。しばらく動かずにいて、口元だけが少し緩んだ。
うわ。こんな顔してたんだ。
「戻ってきた時も、その顔だったぞ」
「……そんな見なくていいから」
クッションへ顎を埋め、もう止めて、と頼んだ。
絢原さんがタブレットをテーブルへ移す。その横には、書きかけのノートが開いていた。私は空いた分だけ近づいて、肩を借りた。
「もう眠いか?」
「まだ。記録、これから?」
「結果は書いたよ。あと少し、書いておきたいことがあってな」
開いたページに、札幌記念、一着、とある。出国前、番組表に丸をつけたレースの名前だった。
その行をもう一度見てから、膝にあった絢原さんの手を取った。
「残りは明日にしよ。今日は一緒にゆっくりしたい」
時計を見た絢原さんが、ノートを閉じる。
「そうだな。続きは明日にするか」
片づけ終わるのを待ち、つないだ手を自分の膝へ引き寄せた。
「あとね。明日、お土産ちょっと増やしていい?」
「鞄に入る分にしてくれよ。来た時から結構詰めてただろ」
「トレーナーの方は、まだ空いてるでしょ」
「俺の鞄も当てにしてたのか」
「帰ったら一緒に食べる分だよ。半分くらい持ってくれてもいいでしょ」
買い物の一覧を開いて、隣から見えるように傾けた。絢原さんは載っている箱を見て、それなら入る、と言った。
もう一種類を指す。
「こっちも食べてみたいんだよね」
「食べ切れるか?」
「二人で食べたら、すぐだよ」
絢原さんにスマホを渡し、肩へ頭を戻した。日持ちだけでなく、明日はどこで買えるかも見てくれている。手はつないだまま、もう少しだけ画面を近づけてもらった。
「帰ってから、私が来る前に開けないでね」
「一緒に食べるんだろ。待ってるよ」
「うん。じゃあ、両方」
一覧に二つとも入ったのを確かめて、スマホを伏せた。