アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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ウマホってウマ娘世界でのスマホの事じゃなかったっけ……?
なんか勘違いしていたかもしれない。


第八話 札幌記念

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

台に上がった途端、客席で空色のタオルが跳ねた。

 

「モエちゃーん!」

 

声の大きい方へ手を振る。少し遅れて反対側からも呼ばれ、そちらを向くと、今度はタオルの数が増えた。

 

『――前走のキングジョージでは二着。帰国初戦を迎えます、カレンモエ!』

 

……二着の話はもういいって。

 

いちばん近いカメラには笑っておいた。台を下りる前にもう一度客席へ向き直ると、拍手に交じって「頑張れ!」が飛んでくる。

 

頑張るよ。今日は勝ちに来たんだから。

 

準備スペースへ戻り、シャツに留めたゼッケンの端を直す。絢原さんが、蓋を緩めたボトルを差し出してくれた。

 

「飲むか?」

 

「ちょっと。……今日、すごい来てるね」

 

一口飲んで振り返った。台から下りた私を見つけて、まだ手を振っている。空いた手を小さく振ってから、ボトルを返した。

 

「ここでも負けるのは、さすがに癪だなあ」

 

軽く跳ねてから、片脚ずつ腿を上げた。重さはない。最後の調整でも、速めた後に脚がついてきた。終わった時には、もう一度走りたいくらい。

 

少し離れたところで、フレイシュタットさんが脚を伸ばしていた。立ち上がると、その場で短く駆け、ゆっくり戻ってくる。昨夜の映像で見た。

あの子は前へ出てからしぶとかったのを覚えている。

 

「ね、あの子が動いたら私も行く。直線までに並んでおきたい」

 

「GⅠでも勝負になる相手だ。外を回って追いつく分、余力は残しておけよ」

 

「分かってる。追いついて終わりじゃ、嫌だもん」

 

絢原さんがノートをしまった。

 

「最後の調整でも終いまで伸びてた。今日は勝負できる。お前の走りで行ってこい」

 

「行ってくる。今日は勝つよ」

 

ボトルを持つ手に指先で触れ、離した。

 

本走路で軽く流す。アスコットより足裏に手応えがあった。右脚で押している間に腰が前へ進み、左脚がすっと出る。慌てて次の足を着かなくていい。

 

もう少し重ければなあ。もっと重かったロンシャンでは、さらに強く踏んでも、そのまま前へ伸びていけた。

 

それでも、普段の芝よりずっと走りやすい。少し強く蹴ってみると、一歩が大きく伸びた。

 

前を走っていた子が速度を落とした。私も十分に間を空けて減速し、ゲートへ向かう。客席からまだ名前が聞こえたが、今度は手を振らずに歩いた。

 

枠へ入って足の位置を決める。背後で扉が閉まり、隣から短く息を吐く音がした。

 

肩の力を抜く。正面を見る。

 

扉が開いた。

 

 

 

——Live: Announcer

 

 

 

『スタートしました! 札幌記念、芝2000mの一戦! ローカルストリームが前へ出ていきます!』

 

『その後ろに二人、フレイシュタットは四番手! カレンモエが五番手の外につけました!』

 

『先頭から後ろまでは大きく開いていません。ローカルストリームが引っ張って、最初のコーナーへ向かいます!』

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

フレイシュタットさんの背中が、すぐ前にあった。

 

コーナーの入口で内の子が少し下がったので、その分だけ寄せる。外へ出る余地は残した。肩が触れそうなところには誰もいない。

 

前に四人。先頭まで見える。

 

近いなあ。

 

追いかけたくなるけれど、まだ一つ目のコーナーだ。前との間を確かめながら走った。アスコットみたいに、一歩ごとに上体を戻さなくていい。腕まで楽に振れる。

 

あの背中へ少し近づいた。外へずれて前を空け、そのまま追う。

 

向こうも楽そうだった。私が詰めても慌てず、少し速度を上げて間を空ける。もう一つのコーナーを抜け、向こう正面を進んだ。

 

第三コーナーへ入るところで、その背中が外へずれた。

 

前の二人が並びかけている。間に入るつもりはないらしい。腕を大きく引いたのが見えて、私も外へ出た。

 

来た。

 

踏み込む。前との間が縮まりかけたところで、あっちも速度を上げた。大きな背中が遠ざかる。

 

速い。

 

脚へ力を込める。足裏に体重を乗せ、芝を押し切った。腰ごと前へ伸びる勢いに腕の振りを合わせる。内にいた二人の肩が、続けて後ろへ流れた。

 

あの子はもう、先頭の外へ迫っていた。追い越すために、まだ速くなる。

 

私はさらに外へ出た。

 

その背中も抜く。

 

 

 

——Live: Announcer

 

 

 

『フレイシュタットが動いた! 第三コーナーから一気に進出! カレンモエも追っていく!』

 

『先頭ローカルストリーム! 外からフレイシュタット、そのさらに外にカレンモエ! 後続との差が開き始めました!』

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

肩に並びかけても、カーブを進むと、また半歩ほど前へ出られる。

 

外を回る分だけ、前へ出るには余計に脚を使う。すぐ横にいるのに、あの子の顔までは届かない。焦って腕だけ速くなりかけ、脚の動きに合わせ直した。

 

息が速くなってきた。脚にはまだ力が入る。靴底で芝を押すたびに、隣の肩へ近づいた。

 

もっと行ける。

 

もう一歩を強く出す。あの子の肘がすぐ内側で振られ、今度こそ横顔が見えた。私の方は見ない。前を向いたまま、同じ勢いで走っている。

 

内ではローカルストリームがまだ粘っていた。三人が横に広がったまま最後のカーブを回り、正面が開く。

 

歓声がぶつかってきた。

 

ゴールが見える。あそこまで。

 

腕を振り切ると、隣の肩がわずかに後ろへずれた。ローカルストリームもかわす。内側の足音が遠のき、私たち二人が先頭へ抜けた。

 

その途端、隣の肩が戻ってきた。

 

まだ上げるのか。

 

私も踏む。並ばれ、押し返す。目の端にある肘を追い越そうとするたび、あっちの一歩が大きくなる。

 

残り200m。

 

喉がひりついた。息を吸う音が自分でもうるさい。隣からも、同じように荒い呼吸が聞こえる。

 

半歩、出られた。

 

負けるか。

 

右足で芝を押し、振り出した左脚でもう一度前へ出る。隣の肩が少しずつ後ろへずれた。もう一歩踏むと、あの子の横顔が視界の端から消える。

 

腿の奥が熱い。足を出すたびに力が要るようになってきた。それでも、蹴った分は前へ進める。まだあの子を離せる。

 

後ろの足音は近い。追ってくる。

 

だったら、もっと離す。

 

歯を食いしばって踏んだ。自分の息に名前を呼ぶ声が混じる。空色が視界の端で跳ねたが、顔を向ける余裕はなかった。

 

前を見たまま腕を振る。ここで緩めたら、また隣へ来る。

 

ゴールまで全部使ってやる。

 

勝つのは、私だ。

 

 

 

——Live: Announcer

 

 

 

『カレンモエが前に出た! フレイシュタットも食い下がる! しかしカレンモエ、もう一度伸びる!』

 

『カレンモエ、先頭でゴールイン! 札幌記念を制しました! 二着フレイシュタット、三着にローカルストリーム!』

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

ゴールを過ぎても、すぐには脚を緩められなかった。少しずつ速度を落とし、ようやく歩き始める。

 

前に誰もいない。

 

勝った。

 

大きく息を吸い、足を止めて膝に手をついた。しばらくして顔を上げると、近くでフレイシュタットさんも肩を上下させていた。

 

目が合ったので頭を下げると、短く頷き返してくれた。私より長く膝に手をついたままで、顔から汗が落ちている。

 

強かったなあ。抜いてからも、ちっとも終わらなかった。

 

掲示板のいちばん上に自分の名前を見つける。間違っていないのは分かっていたのに、もう一度見た。

 

一着。

 

口元が緩む。息を整えながら、もう少しだけ眺めていた。

 

出口へ向かうと、通路に絢原さんがいた。こちらを見つけ、タオルを広げてくれる。

 

「……勝ったね、トレーナー」

 

「ああ。おめでとう。よく振り切ったな」

 

その顔を見たら、嬉しくなる。

 

汗が目に入り、タオルを受け取って顔へ押し当てた。

 

「先に水を飲め。脚は痛くないか?」

 

「痛くない。疲れたけど、最後までちゃんと踏めたよ」

 

ボトルを受け取り、今度はさっきよりたくさん飲んだ。飲み終えて歩き出すと、絢原さんも隣に並ぶ。

 

「仕掛けもよく見てたな。あそこで遅れてたら、追いつくのも大変だったぞ」

 

「昨日、何回も見たもん。……今日のも、撮れてる?」

 

「撮れてる。後で一緒に見よう」

 

「じゃあ、夕飯の後、部屋行くね」

 

「ああ。待ってるよ」

 

袖を少し引くと、絢原さんも足を止めた。私は顔を見上げて小さく笑い、また歩き出した。

 

 

 

~

 

 

 

「凱旋門賞の三連覇へ向けて、いい弾みになったのではないでしょうか」

 

取材の最初の質問が、それだった。

 

勝ったばかりなのに、もう秋の話か。

 

マイクへ顔を向ける。

 

「……今日は、札幌記念を勝ててよかったです」

 

記者は少し待ってから、手元のメモへ目を落とした。

 

「直線では、一度前へ出られましたね」

 

「はい。あのまま負けるのは嫌だったので」

 

マイクが離れたところで一礼し、絢原さんのところへ戻った。

 

表彰を終え、ライブ用の衣装に着替えた。出番の前に立ち位置を確かめる。

 

真ん中。

 

今日は私がここに立つ。

 

照明が点き、客席の空色が見えた。前の方で男の人が二人、揃ってタオルを振っている。片方は勢いがよすぎて、隣の顔に当たりそうだった。

 

そちらへ手を伸ばすと、二人とも跳ねた。

 

危ないなあ、もう。

 

笑って次の振りへ入る。歌い終わるまで、あの辺りのタオルはずっと動いていた。

 

 

 

——The General Public《大衆》

 

 

 

ライブが終わり、人が出口へ動き始めても、友人はまだステージを見ていた。

 

「もう出てこないぞ」

 

「分かってる。ちょっと待って」

 

声が掠れていた。俺も喉が痛い。途中から、隣の男に負けないくらい名前を呼んでいた気がする。

 

「北海道まで来てよかったな」

 

「お前も来てよかっただろ?」

 

「そうだよ。……タオル振る時、もうちょっと離れろよな」

 

「当たった?」

 

「ずっと当たりそうだったんだよ」

 

友人がようやく立ち上がり、空色のタオルを首へ戻した。

 

階段を下りる人の列に混ざると、後ろから今日のレースの話が聞こえてきた。

 

「これで完全復活だな。やっぱり強いわ」

 

「いや、キングジョージとは相手が違うだろ。ここで勝ったからって、レゾリュートに勝てるかは別だよ」

 

「でも2000mであの勝ち方なら、秋もいけるんじゃないか」

 

「GⅡだぞ。世界チャンプなら、もう少し楽に勝ってほしかったけどな」

 

聞き覚えのある言い争いだった。キングジョージの後にも、会社の食堂で似た話を聞いた。

 

スマホを開くと、早くも札幌記念の記事が上がっていた。写真はゴール直後のモエちゃん。見出しには「復活」の二文字がある。

 

コメント欄では、『これで三連覇が見えた』の下に、『今日の相手なら勝って当然』と続いていた。さらにその下には、フレイシュタットを軽く見すぎだという反論がついている。

 

俺は友人に画面を見せた。

 

「また揉めてる」

 

「もう? まだ会場も出てないのに」

 

「完全復活か、勝って当然か、だって」

 

友人は画面をちらっと見ただけで、また前を向いた。

 

「フレイシュタットが並び返した時、俺、負けるかと思ったよ」

 

「俺も。あのまま前に出られるかと思った」

 

「一瞬、前に出られたもんな。よくあそこから抜き返したよ」

 

話しているうちに、友人の歩く速度が落ちた。後ろの邪魔にならないよう脇へ寄ると、鞄からスマホを出している。

 

「映像、もう来てる?」

 

「たぶん。ほら、あった」

 

差し出されたスマホを受け取った。画面では、二人が直線を走っている。外のモエちゃんが前へ出る。内の子が追いつき、ほんの少し先へ出る。

 

見たばかりなのに、また脚に力が入った。

 

「ここだよ」

 

友人が指を近づけた。

 

「指、どけて。見えない」

 

「あ、悪い」

 

モエちゃんが抜き返す。後ろの子はまだ追っていて、ゴールの直前まで差は大きくならない。

 

勝った。

 

画面の中で見ても、俺は息を吐いた。

 

「もう一回」

 

「まだ見るのかよ」

 

友人は笑ったが、すぐに戻してくれた。

 

今度は内の子の方も見た。抜かれてからも、腕を大きく振って追いすがっている。外のモエちゃんも緩めない。近いまま、二人がゴールへ飛び込んだ。

 

背後を通り過ぎた人が、「ロンシャンなら、やっぱりモエだよ」と連れに話していた。別の方では、今日の相手が軽かっただけだと言っている。

 

秋の予想を聞かれても、俺には答えられない。今日走った子の名前だって、まだ全部は覚えていなかった。

 

フレイシュタットの名前は、覚えた。

 

「この子がまた出る時も、見たいな」

 

俺が言うと、友人は出走表を鞄から引っ張り出しかけた。

 

「次、どこへ行くんだろ。秋の予定が――」

 

「歩きながらでいいから。まず出口まで行こう」

 

「お前がもう一回って言ったんだろ」

 

返す言葉がなかった。俺はスマホを返し、首からずれたタオルを直した。友人は出走表をしまい直しながら、直線で二人が並んだところの話をまだ続けていた。

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

「もうちょっと前。コーナーのところから」

 

夕食と着替えを済ませて、絢原さんの部屋へ来ていた。ソファに並び、間に置いたタブレットを覗き込む。

 

画面の中で、私が外へ上がっていく。

 

「ここか?」

 

「そう。止めないで、そのまま」

 

コーナーを抜ける。私が前へ出る。隣の子が追ってくる。

 

この後、一度抜き返されるんだよね。

 

クッションを抱える腕に力が入った。あの時には見えなかった足元までよく見える。隣の子は顔を歪めているのに、走り方はほとんど変わらない。

 

強かったわけだ。

 

それでも最後は私が前へ出た。ゴールを過ぎ、ようやくクッションを抱き直す。

 

「よし」

 

絢原さんが横で笑った。

 

「さっきも言ってたぞ」

 

「いいでしょ。もう一回、私が抜くところ見せて」

 

絢原さんは黙って戻してくれた。

 

次に開いてもらった映像は、別の位置から撮ったものだった。こっちの方が二人の差がよく見える。私が抜け出してからも、あの子は後ろで追っていた。

 

本当に、最後まで来てたんだ。

 

「それも送って。さっきのと両方」

 

「今送るから、ちょっと待っててくれ」

 

スマホを開き、届いた二つの動画を保存した。同じところに、キングジョージの映像も入っている。

 

その小さな画像を押した。

 

最後の直線。走り方がぐちゃぐちゃになりながら、私がもう一度伸びる。

 

それでも、レゾリュートは前にいた。

 

何回か見たゴールをまた見て、口が曲がる。

 

「……やっぱりアイツ(レゾリュート)に負けたの、腹立つ」

 

絢原さんがこちらの画面を覗いた。

 

「もっと速くなりたい。次は、あの背中をちゃんと抜く」

 

「帰ったら、秋の練習を詰め直そう。向こうも夏より速くなるつもりで来るだろうからな」

 

「分かってる。あの顔で待ってると思うと、ほんとにもう……」

 

スマホを閉じた。

 

タブレットには、札幌の私が止まっている。

 

「ね、最後にもう一回、こっち見よ」

 

今度はゴールの先まで見た。息を切らした私が膝に手をつき、やがて掲示板を見上げる。しばらく動かずにいて、口元だけが少し緩んだ。

 

うわ。こんな顔してたんだ。

 

「戻ってきた時も、その顔だったぞ」

 

「……そんな見なくていいから」

 

クッションへ顎を埋め、もう止めて、と頼んだ。

 

絢原さんがタブレットをテーブルへ移す。その横には、書きかけのノートが開いていた。私は空いた分だけ近づいて、肩を借りた。

 

「もう眠いか?」

 

「まだ。記録、これから?」

 

「結果は書いたよ。あと少し、書いておきたいことがあってな」

 

開いたページに、札幌記念、一着、とある。出国前、番組表に丸をつけたレースの名前だった。

 

その行をもう一度見てから、膝にあった絢原さんの手を取った。

 

「残りは明日にしよ。今日は一緒にゆっくりしたい」

 

時計を見た絢原さんが、ノートを閉じる。

 

「そうだな。続きは明日にするか」

 

片づけ終わるのを待ち、つないだ手を自分の膝へ引き寄せた。

 

「あとね。明日、お土産ちょっと増やしていい?」

 

「鞄に入る分にしてくれよ。来た時から結構詰めてただろ」

 

「トレーナーの方は、まだ空いてるでしょ」

 

「俺の鞄も当てにしてたのか」

 

「帰ったら一緒に食べる分だよ。半分くらい持ってくれてもいいでしょ」

 

買い物の一覧を開いて、隣から見えるように傾けた。絢原さんは載っている箱を見て、それなら入る、と言った。

 

もう一種類を指す。

 

「こっちも食べてみたいんだよね」

 

「食べ切れるか?」

 

「二人で食べたら、すぐだよ」

 

絢原さんにスマホを渡し、肩へ頭を戻した。日持ちだけでなく、明日はどこで買えるかも見てくれている。手はつないだまま、もう少しだけ画面を近づけてもらった。

 

「帰ってから、私が来る前に開けないでね」

 

「一緒に食べるんだろ。待ってるよ」

 

「うん。じゃあ、両方」

 

一覧に二つとも入ったのを確かめて、スマホを伏せた。

 

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