十二月。カレンダーが最後の一枚になると同時に、空気は急速に冷たさを増していた。吐く息が白く染まる季節。吹き下ろす木枯らしが、肌を刺すように冷たい。
しかし、ここトレセン学園を取り巻く熱気だけは、冬の寒さに反比例するように、異常な高まりを見せていた。
『阪神ジュベナイルフィリーズ』——2歳女王決定戦の一つ。来年のクラシック戦線、ひいてはティアラ路線の覇権を占う重要な一戦であり、多くの若き才能が激突する晴れ舞台。
だが、今年のマスコミとファンの関心は、ある一点に集中していた。
「……またか」
早朝のコンビニエンスストア。寒さから逃れるように入った店内で、俺は雑誌コーナーで眉をひそめた。
スポーツ新聞の一面。そこに、見慣れた芦毛の少女の姿があったからだ。
『カレンモエ、母の夢を継ぐマイル制覇へ!』
『閃光の再来、ターフを席巻するか』
『血統の証明——1600mは通過点に過ぎない』
派手な見出しと共に、パドックで佇むモエの大きな写真が掲載されている。伏し目がちで、どこか憂いを帯びた表情。それが「神秘的なカリスマ性」として切り取られ、消費されている。
記事の内容は、どれも判で押したようなものだ。母・カレンチャンの功績を振り返り、その娘であるモエがいかに素晴らしい素質を持っているかを書き立てる。そして、「母が走らなかったマイル路線への挑戦」を、美しいドラマとして仕立て上げている。
そこには、彼女が抱えるスタミナへの不安も、これまでの苦悩も、タキオンとの特訓の日々もない。あるのは、「天才二世のサクセスストーリー」という、大衆が読みたがる虚像だけだ。
「……勝手なもんだな」
俺は新聞を棚に戻した。
この期待値の高さは、そのまま彼女への重圧になる。勝って当たり前。負ければ、「期待外れ」「親の七光り」と掌を返される。
俺は栄養ドリンクと朝食のパンを掴んで、レジへ向かった。守らなければ。あの小さな背中を。それができるのは、一番近くにいる俺だけだ。
~
その日の午後。冬の日は短く、空は既に茜色に染まり始めていた。
俺とカレンモエは、学園から少し離れた静かな裏通りにある、一軒の古びた建物の前にいた。
看板も出ていない、一見するとただの民家のような佇まい。レンガ造りの壁には蔦が絡まり、長い年月を感じさせる。だが、ここは多くのトップアスリートが信頼を寄せる、伝説的な靴職人の工房だ。喧騒を嫌う主人があえて目立たない場所を選んでいるため、知る人ぞ知る場所となっている。
工房の中は、革と接着剤、そしてコーヒーの香りが混じり合った、独特の匂いが満ちていた。
作業台の向こうで、頑固そうな職人がモエの足元を確認している。老眼鏡の奥の目が、職人特有の鋭い光を放っている。
「……足首、柔らかくなったね」
ぽつりと言った。
「はい」
「前に来た時は、まだ固かった。左の踝の辺りに、ちょっと無理してる筋肉の付き方が見えた。……今日はそれがない。左右のバランスも整ってる」
職人の指が、モエのふくらはぎを下から上へ、軽く辿った。
「太ももの付き方も変わった。外側の筋繊維の束が、前より太くなってる。爆発力は上がったね。問題は、その爆発をどう着地に繋げるか。……今の君なら、踏み込みの角度をあと数ミリ、内側に寄せた方がロスが少ない」
「数ミリ、ですか」
「数ミリだ。それ以上寄せると故障する。それ以下だと、君の今の脚力を殺す」
職人は小さな金槌でソールの内側を叩き、微妙な角度をつけていった。カン、カン、という乾いた音が工房に響く。
作業の途中、職人がふとモエの予備のシューズを手に取った。前回のレースで使ったもの。ソールを裏返して、しばらく眺めていた。
「……この減り方、ちょっと変だね」
「変、ですか」
「普通、この距離をこのペースで走った子のソールは、もっと均一に減るんだよ。君のは、強く踏み込んだ跡だけが異様にはっきり残ってる。他のところがほとんど減ってない」
職人は老眼鏡を押し上げて、もう一度ソールを見た。
「……踏み込みが、余ってる、って言えばいいのかな。力が地面に逃げちゃってる」
独り言のように呟いた。モエに説明している調子ではなかった。
「故障に繋がる踏み方、ですか?」
俺が聞いた。
「いや、それなら止めてる。故障はしない。ただ、もったいないね。脚力があるのに、半分くらい捨てて走ってる感じだ」
職人が首を捻った。
「……まあ、こっちで調整しとくよ。ソールの硬度を少し上げておけば、踏み込みの逃げは多少マシになる」
「お願いします」
モエは短く頷いた。職人の言葉の意味を、深くは考えていない顔だった。俺も「脚力の使い切りの話」くらいに聞いていた。
職人も、それ以上は言わなかった。
「……君、前に来た時と顔が違うね」
職人が手を止めず、横目で言った。
「そうですか」
「前は、走らされてる顔だった。今は、走ってる顔だ」
短い一言だった。モエが少しだけ、口を閉じた。
俺もその言葉を聞いていた。
カレンチャンの工房でもなければ、URA広報の現場でもない。この職人は、ただ目の前のアスリートの脚を見て、その脚がどういう走りをしてきたかを読み取る。血統の話も、肩書きの話も、ここでは一度も出ていない。
モエは、ここでは「カレンモエ」として見られている。
「……うん。これなら大丈夫そうだね」
職人が顔を上げ、満足げに頷いた。
ここ数ヶ月のトレーニングは、彼女の肉体を変えていた。タキオンの理論に基づいた呼吸法の改善と、限界ギリギリの負荷。それによって、太ももの筋肉の付き方や、足首の可動域、踏み込みの角度に、わずかな変化が生じている。
既存のシューズとの間に生まれた、数ミリのズレ。普通のレースなら気にならない誤差かもしれない。だが、GⅠという極限の勝負において、その数ミリは命取りになる。後半の失速を招くか、あるいは故障の原因になるか。だからこそ、本人が足を運び、職人の手で微調整を行う必要があったのだ。
「ありがとうございます」
モエは礼を言い、調整されたばかりのシューズを大切そうにバッグにしまった。その手つきは、宝物を扱うように丁寧だった。
職人は道具を片付けながら、背中越しに言った。
「次来る時は、もっと変わってるだろうね」
「……はい」
「楽しみにしてる」
それだけだった。余計な励ましも、血統への言及もない。ただ、次の仕事への期待だけ。
モエが少しだけ、頭を下げた。
「よし、戻るか。最終調整が待ってる」
「うん」
俺たちは店主に礼を言い、工房を出た。
ドアを開けると、冷たい冬の風が吹き込んできた。マフラーを巻き直し、俺たちは並んで歩き出した。学園までは徒歩で二十分ほど。路地を抜けて大通りに出れば、タクシーも拾えるだろう。
そんなことを考えながら、路地の角を曲がろうとした時だった。
パシャッ、パシャパシャッ。
薄暗い路地に、乾いたシャッター音が連続して響いた。同時に、鋭いフラッシュの光が数回、焚かれる。
「出てきたぞ! カレンモエだ!」
「こっち向いてください!」
「阪神JFへの意気込みを一言!」
路地の出口を塞ぐように、数人の男たちが待ち構えていた。カメラマンと記者、合わせて六、七人ほど。狭い路地においては、それだけで壁のようになるには十分すぎる人数だった。店先での騒ぎを避け、確実に逃げ場のない場所で網を張っていたのだ。
「……ッ」
モエが息を呑み、後退った。バッグを抱きしめる手が、小刻みに震えている。
まだ十代の少女に、大の大人が数人がかりでレンズを向ける。フラッシュの明滅が、彼女の顔色を奪っていく。
一人の記者が強引に前に出て、黒いマイクを突きつけてきた。
「モエちゃん! GⅠ直前にシューズの微調整とは、余念がないですね!」
記者の目は笑っていない。
「……本職ではないマイル戦となると、さすがに道具の助けも必要……ということでしょうか?」
言葉は丁寧だ。だが、意図は別だった。自分の足だけでは勝てないから道具に頼る——そう書きたいのが透けている。
「それとも、お母様からのアドバイスですか?」
畳み掛けてくる。
「お母様なら、直前にここまで道具を気にすることは無かったと思いますが……やはり、偉大な母を持つと、プレッシャーもひとしおですか?」
モエの瞳が揺れた。唇が震え、何か言い返そうとして——言葉が出ない。
俺の中で、何かが切れた。
ガシッ。
俺はその記者の腕を掴み、強引に押し戻した。
「……え?」
記者が驚いた顔をする。俺は彼を睨みつけ、行く手を阻むマスコミ全員に向けて、腹の底から声を張り上げた。
「下がってください」
怒声が、路地に反響した。一瞬、シャッター音が止む。記者たちが、呆気に取られたように俺を見た。
俺はモエを背に庇い、仁王立ちした。背中の震えを感じる。
「彼女は今、レース前の調整期間中です。無遠慮な質問で、アスリートの集中を乱さないでいただきたい」
「い、いや、我々はただファンの期待を——」
「期待?」
俺は彼を睨んだ。レンズ越しではなく、肉眼で。
「期待を煽って、消費して、使い捨てるのがあなた方の仕事ですか。……彼女はタレントじゃない。アイドルでもない」
俺ははっきり言った。それは、記者たちへ向けた言葉であり、同時に、背中のモエへの言葉でもあった。
「彼女は、走ることが好きな一人のアスリートです。親の名前なんて関係ない。彼女自身の走りを見てください」
記者たちが顔を見合わせた。少しだけバツが悪そうに、あるいは「面倒なのが出てきたな」という顔で、彼らは一歩、また一歩と後退った。その隙を見逃さず、俺はモエの背中に手を添えた。
「行くぞ、モエ」
「……うん」
俺たちは早足でその場を離れた。背後で再びシャッター音が鳴り始めたが、追いかけてくる者はいなかった。
~
学園への帰り道。河川敷の道を歩きながら、俺たちはしばらく無言だった。
夕日が川面をオレンジ色に染め、ススキの穂が風に揺れている。冷たい風が、火照った頬を冷やしてくれる。先ほどまでの喧騒が嘘のような静寂。川の流れる音だけが、心地よく響いている。
モエは、シューズバッグを胸に抱いたまま、俯いて歩いていた。
「……ごめん。言いすぎた」
俺は頭を掻いた。マスコミ相手に喧嘩腰になるのは、トレーナーとして褒められた行動ではない。明日の記事で「カレンモエのトレーナー、記者に暴言」と書かれるかもしれない。そうなれば、また彼女に迷惑をかけることになる。
「……ううん」
モエが首を横に振った。顔を上げた。
「……スカッとした」
「え」
「あいつらの顔、見た? トレーナーに怒鳴られて、ポカンとしてた」
モエはクスクスと笑った。さっきまでの強張ったものではなく、年相応の少女の、自然な笑顔だった。瞳の震えはもうない。そこには安堵と、少しの悪戯心だけがあった。
「『タレントじゃない、アスリートだ』……か」
彼女は俺の言葉を反芻するように呟いた。
「……嬉しかったよ」
「事実を言っただけだ」
「その事実を、みんな忘れてるから」
モエは立ち止まり、柵に寄りかかって川を眺めた。夕日が彼女の横顔を照らす。
「生まれてからずっと、私は『ママの娘』だった。何をするにも、ママの影がついて回った。……褒められる時も、慰められる時も、主語は殆どママだった」
彼女の声は静かだった。
「でも、トレーナーは違う。……トレーナーは最初から、私を見てくれてた」
俺は誤魔化すように視線を逸らした。最初は違った、と言おうとしてやめた。今、そう言っても意味がない。今の俺が見ているのは、このカレンモエだ。
「……変な人だけどね」
モエは悪戯っぽく笑い、俺の方へ向き直った。
「プロテインオタクで、ネットリテラシーがなくて、すぐ熱くなる変な人。……でも」
彼女は一歩、俺に近づいた。夕日を反射して、瞳が光っていた。
「私のトレーナーは、貴方でよかった」
それは、これ以上ない信頼の言葉だった。
「……光栄だ」
俺は照れ隠しに、ぶっきらぼうに答えた。顔が熱くなるのを感じるが、夕日のせいにしておく。
「その言葉、レースの後まで取っておけ。……勝たせられなかったら、口先だけの男になっちまう」
「大丈夫」
モエは自信たっぷりに言った。胸に抱いたシューズバッグを掲げる。
「足元は完璧。トレーナーが守ってくれたんだから、私が負けるわけないでしょ? ……見ててよ。阪神の坂なんて、一息で登り切ってやるから」
彼女は拳を突き出した。小さく、けれど力強い拳。
俺も自分の拳を突き出し、軽くぶつけ合う。
コン、という小さな音。
「さあ、学園に戻ろう。……タキオンのスペシャルドリンクが待ってる」
「うげっ……。思い出させないでよ」
モエが顔をしかめた。さっきまでのシリアスな空気が霧散し、いつもの軽口に戻る。
「良薬口に苦しだ。飲め」
「へいへい」
軽口を叩き合いながら、俺たちは学園への道を歩き出した。二人の影が、夕日に長く伸びていく。
今の俺たちが見ているのは、ただ一つ。今週末の、ゴール板の先にある景色だけだ。
誤字報告、評価や、感想、ここすきなど、よろしくお願いいたします。