アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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油断するとすぐ牝馬とか血統理論とか書いちゃう。
3/23 書き直しました。


第一章 ジュニア級
1話 写真の影


春の陽気が、アスファルトの照り返しを揺らしている。

 

日本ウマ娘トレーニングセンター学園、通称トレセン学園。

その正門をくぐった瞬間、独特の熱気が肌を刺した。

夢を追うウマ娘たちの息遣い、遠くのコースから響く足音、芝と土の混じり合った匂い。

 

ここが、俺の新しい戦場だ。

 

真新しいトレーナーバッジの冷たさを胸元に感じながら、深呼吸をする。

緊張していないと言えば嘘になるが、それ以上に高揚感があった。

 

十数年前、テレビの画面越しに受けたあの衝撃。

その正体を解き明かし、そして超えるための日々が、今日から始まる。

 

 

 

~~

 

 

 

荷物をトレーナー寮に置くと、吸い寄せられるようにある場所へ足を向けた。

 

学園の資料室――通称、記念室。

歴代の名ウマ娘たちの栄光が、トロフィーや写真と共に眠る場所だ。

 

これから始まるスカウト活動の前に、少しだけ初心に帰ろうと思った。

俺の原点である「彼女」の写真を見て、ここまで来れたことを静かに噛み締める。ただそれだけの、軽い願掛けのつもりだった。

 

重厚な扉を開けると、静謐な空気が流れ出す。

外の喧騒が嘘のように遮断され、埃と古紙の匂いが微かに漂う空間。壁一面に飾られた栄光の記録たち。

俺は迷うことなく、奥のスプリント路線のコーナーへ進んだ。

 

そこにあった。

 

ガラスケースの中、スポットライトを浴びて飾られている一枚のパネル。

十数年前の輝きを今に伝える、カレンチャンの高松宮記念のゴールシーン。

 

泥一つついていない勝負服。極限のスピードの中で、カメラに向けられた余裕のウインク。色褪せないその笑顔の前に立つ。

 

「……やっぱり、いい顔して走るな」

 

小さく呟き、ポケットに手を突っ込んだまま写真を見上げる。

そこにあるのは、かつてのような盲目的な崇拝ではない。遠い親戚の古いアルバムを眺めるような、懐かしく、温かい敬意だ。

 

あなたは最高だった。俺の人生を変えてくれて、ありがとう。

だからこそ俺は、あなたとは違う新しい夢を探しに行く。あなたの幻影を追うのではなく、目の前のウマ娘だけを見るトレーナーに。

 

そう心の中で語りかけ、決別の儀式を終えようと視線を外した、その時だった。

 

「……すごいでしょ、今もそんなに変わんないんだよこの人」

 

静かな声が、鼓膜を震わせる。

俺は驚いて横を見た。

 

いつの間にそこにいたのだろう。

俺の数メートル横に、小柄な芦毛の少女が立っていた。

 

セミショートの髪、華奢に見えるが引き締まった手足、整った顔立ち。

息を呑む。

 

似ている。あまりにも、似すぎている。

写真の中の彼女がそのまま抜け出してきたかのような錯覚。一瞬、時が巻き戻ったのかと思った。

 

「ウチのママなんだ」

 

彼女は、写真のカレンチャンと同じ顔で、けれどどこか自嘲気味に、困ったように笑う。

その言葉を聞いた瞬間、胸に小さなしこりのような違和感が残った。

 

「ああ、そうか……娘さん、か」

 

驚きを隠しつつ、努めて平静に相槌を打つ。確かにニュースで聞いたことがある。カレンチャンの一人娘が今年入学すると。彼女がそうか。

 

「よく言われるよ。そっくりだねって」

 

彼女は肩をすくめた。その仕草は洗練されていて可愛らしいが、どこか投げやりで、諦めが混じっている。

再び母親の写真へと視線を戻す彼女の瞳は、偉大な母への誇りを見ているようで、同時に憎むべき壁を見上げているようでもあった。

 

「ここに来ると落ち着くの。自分がどれだけママに似ているか。それと、どれだけ違うかを確認できるから」

 

「違う……?」

 

俺が聞き返すと、彼女はハッとしたように口を噤む。しまった、という顔。初対面のトレーナー相手に漏らすべき言葉ではなかったと思ったのだろう。

 

「……なんでもない。忘れて」

 

瞬時に表情を切り替えた。浮かべたのは、完璧なアイドルの笑顔。口角の上がり方も、目の細め方も、すべてがカレンチャンの再現。だが、温かみがない。精巧に作られた能面のようだ。

 

「……じゃあ、お邪魔しました。トレーナーさん、頑張ってね」

 

軽く会釈をすると、興味を失ったように出口へと歩き出す。

その背中は小さく、どこか人を寄せ付けない空気を纏っていた。拒絶、とも違う。「分かってもらえるはずがない」という、深い諦念。

 

俺はしばらくその場に残り、高松宮記念の写真をもう一度見上げてから、今去っていった少女のことを考えた。

 

「……似てるけど、笑い方が全然違うな」

 

ふと口をついて出た感想。

カレンチャンは、世界を自分の色に染めるように、能動的に笑っていた。自分の「カワイイ」が世界をひれ伏させることを知っている、絶対強者の笑みだ。

 

でも、あの少女の笑顔は、世界から身を守るための盾のようだった。過剰なまでの「カレンチャンらしさ」を演じることで、自分自身を守っているような脆さ。

 

「カレンモエ、か……」

 

つぶやいた名前が、妙に耳に残った。

 

 

 

~~~

 

 

 

それから数日が経った。

 

トレセン学園は、新入生たちの模擬レース期間に入っていた。新人トレーナーである俺にとっても、これは重要なイベントだ。未来のパートナーを見つけるため、連日コース場に通う。

 

その日は、朝から学園内の空気が違った。食堂でも、廊下でも、あちこちから期待と好奇心が入り混じった会話が聞こえてくる。

 

「今日だろ? カレンチャンの……」

 

若いトレーナーがスマホ片手に声を上げる。

 

「カレンモエちゃんでしょ? ニュースで見たけど、全盛期のカレンチャンそのままだったよね」

 

隣の女性トレーナーが同意した。

 

「でもさ、距離マイルだぜ? 普通、1200mから入るだろ。大丈夫なのか?」

 

もう一人が首をかしげると、出走表に目を落としていたベテランの職員が鼻を鳴らす。

 

「血ってのは嘘をつかねえんだよ。顔があれだけ似てりゃ、中身も同じさ。マイルなんて色気出しても、結局はスプリントに帰ってくる」

 

期待、好奇心、そして値踏みするような視線。学園中の関心が、たった一人の少女に注がれている。

俺は複雑な心境で模擬レース場へと向かった。

 

スタンドは、模擬レースにしては異様な入り。普段ならスカウト目的のトレーナーがぱらぱらといる程度なのに、メディアのカメラまで入っている。

 

出走表を確認する。第3レース、芝1600m。その出走者リストに、カレンモエの名前。

 

周囲のトレーナーたちも気づいていた。

 

「マイルにエントリーしてるぞ。間違いじゃないのか?」

「掲示板にも載ってる。本気みたいだな」

「カレンチャンの娘がマイルって……」

 

どよめきが広がる。誰もが当然、スプリント戦に出ると思っていたのだ。

 

俺は双眼鏡を構えた。記念室で会った時の、あの聡明そうな瞳を思い出す。彼女は分かっていて選んでいる。

 

 

 

~~

 

 

 

ゲートが開いた。

 

その瞬間、スタンドからどよめきが上がる。

 

カレンモエのスタートダッシュ。桁外れだった。マイル戦のペース配分などお構いなし。天性のスプリンターの脚が、抑えようとしても溢れ出る爆発的なスピードで先頭に立つ。

 

「……すげぇ」

「モノが違うな」

 

周囲のトレーナーたちが色めき立つ。だが、俺の目は厳しかった。

 

速すぎる。これじゃ持たない。

 

美しいフォーム。完璧なコーナリング。誰も追いつけない独走。

だが、ここは1600mだ。スプリントより400m長い。

 

第3コーナーを過ぎた頃、明らかに脚色が鈍る。スタミナの枯渇。体が悲鳴を上げているのが、遠目にも分かった。後方で脚を溜めていた本職のマイラーたちが、虎視眈々と背後に迫る。

 

かわされる。誰もがそう思ったはずだ。

 

だが。

 

彼女は諦めなかった。

 

歯を食いしばり、必死に腕を振り、重心を低くして地面を蹴る。アイドルの顔をかなぐり捨てた、泥臭い形相。「負けてたまるか」という絶叫が聞こえてきそうな気迫。

 

俺の心臓が、ドクンと跳ねた。

 

それは、カレンチャンへの憧れとは違う。もっと生々しく、痛々しい「執念」への共鳴。

 

彼女は戦っている。ライバルとではない。「短距離ウマ娘だろう」と決めつけるこの場の空気と。自分自身の肉体の限界と。

 

結果は、掲示板には載るものの、勝利には届かない順位。ゴール板を過ぎた彼女の肩は激しく上下し、足元がふらついていた。

 

 

 

~~

 

 

 

レース終了後。

 

コースから戻ってきたカレンモエの周りに、たちまち黒山の人だかりができた。スカウト合戦がその場で始まる。

 

「君、すごいスピードだったね!」

「前半のラップタイム、古バのスプリントGⅠ並みだったよ」

「あのバネは、1200mでこそ輝くよ。僕と契約して、君にふさわしい舞台を目指さないか?」

「君の走りには、閃光の系譜を感じる。高松宮記念だって夢じゃない素質だ」

「ウチなら、その素晴らしい才能を一番正しい形で開花させてあげられるよ」

 

飛び交う言葉を、俺はフェンスの影で聞いていた。

 

一人として、今日のレースが「マイル」だったことに触れない。彼女がなぜ1600mを選んだのか、聞こうとしない。第3コーナーで失速してからの粘りについて、言及する者がいない。

 

全員が、前半600mのラップタイムだけを見ている。「やはり短距離の才能は本物だ」という結論が先にあって、そこに嵌るデータだけを拾い上げている。

 

彼女がマイルで何をしようとしたのか。なぜ苦しい場面で脚を止めなかったのか。

 

その問いを投げかけた者は、一人もいなかった。

 

悪意がない分、余計にたちが悪い。彼らは本気で、短距離に導くことが彼女のためになると信じて疑っていないのだ。正しい善意。正しい分析。そして、完全な無理解。

 

モエの表情を見る。完璧なアイドルの笑みを浮かべていた。口角を上げ、愛想よく頷き、丁寧に名刺を受け取っている。

 

「ありがとうございます。考えておきますね」

「光栄です。参考にさせていただきます」

 

その姿もまた、カレンチャンそっくりだった。だが、俺には見えた。笑顔の裏で、彼女の心が冷たく凍りついているのが。

 

一人、また一人と、トレーナーたちが満足げに去っていく。人垣がばらけた瞬間、モエの表情から色が消えた。受け取った名刺の束を、無造作にバッグに放り込む。その手つきは、ゴミを捨てるそれと変わらない。

 

彼女は小さくため息をつき、近くの壁にもたれかかった。

 

その時だった。

 

「カレンモエさぁん!!」

 

背後から、台風みたいな声量が叩きつけられた。

俺は思わず首を竦める。

 

ドドドドド、と地面を踏み鳴らす足音。振り返ると、ジャージ姿のウマ娘が、全力疾走の勢いそのままにこちらへ突っ込んでくる。ハチマキ。ポニーテール。弾けるような笑顔。

 

サクラバクシンオー。

この学園の学級委員長にして、短距離の絶対王者。

 

モエが身構える暇もなく、バクシンオーは目の前で急停止した。ブレーキの利かないトラックのような登場。靴底が地面を擦る音がギュッと鳴る。

 

「今日のレース見ました! すっごかったです!! あの前半の加速、もう、バクシン的に大興奮でした!!」

 

声が、でかい。さっきまでのスカウトたちのひそひそ声とは真逆の、スタジアム仕様の声量。周りの関係者が何事かと振り返っている。

 

「あ、ありがとうございま――」

 

「あのスピード! あのバネ! 短距離で走ったら間違いなく凄いことになりますよ! 学級委員長の目は誤魔化せません!! ぜひスプリントに来てください! 私と一緒にバクシンしましょう!!!」

 

……来た。やっぱりそう来る。「短距離に来い」。結局、この人も同じ――

 

「……ありがとうございます。でも、私は短距離には――」

 

「あ! いえ! 違います! ちょっと待ってください! まだ言い終わってません!!」

 

バクシンオーが両手をぶんぶん振る。勢いが強すぎて、隣にいたスタッフが巻き添えで風圧を食らっていた。

 

「えっと、つまりですね! 前半のスピードもすごかったんですけど! それより! 私が一番びっくりしたのは! 脚が止まりかけた後なんです!!」

 

モエの表情が、ほんの少し変わった。

 

「普通、あそこでバテたら終わりです! 委員長として断言します! 1200mの脚で1600mに挑んだら、第3コーナーで沈むのが当然です! ……なのに!」

 

バクシンオーの目が、きらきらと輝いている。天然で、無邪気で、だからこそ容赦がない。

 

「貴方、沈まなかった! 前に出ようとした! あれは脚の力じゃありません! もっとこう、こっちの!」

 

自分の胸をドンと叩く。

 

「ここの力です! すごいです! 学級委員長として感服しました!!」

 

モエが、ぽかんとした顔をしている。営業スマイルを貼る隙すら与えられなかったのだ。バクシンオーの勢いは、嘘も仮面も吹き飛ばしてしまう。

 

「だから! もし! いつか! 貴方がスプリントを走りたくなった時は!!」

 

バクシンオーは胸を張り、ビシッと指を突き出した。

 

「この学級委員長サクラバクシンオーが、全力でお相手します! 私を倒すつもりで来てください! 待ってますから!! バクシーーーン!!!」

 

言うだけ言って、来た時と同じ速度で去っていった。文字通り、嵐のように。

残されたのは、砂埃と、呆然としたモエと、同じく呆然とした俺。

 

「……なに、あの人」

 

モエが、ぼそっと呟いた。その声には、スカウトたちに向けていた冷たさがなかった。困惑はある。でも、それだけじゃない。敵意を向ける暇すらなかった、という顔。

 

バクシンオーは、たぶん何も考えていない。計算もない。戦略もない。速い走りを見たら嬉しくなって、第3コーナーの粘りに感動して、それを全力で伝えに来ただけだ。

 

だからこそ、あの言葉には嘘がなかった。スカウトたちの「正しい善意」と違って、バクシンオーの言葉には下心も計算も一切ない。ただの、純粋な衝動。

 

だが、バクシンオーが見ていたのは「スプリンターとしてのカレンモエ」だ。才能への純粋な称賛。走りへの素直な感動。それでも、モエの中にある本当の叫びには、たぶん届いていない。

 

なら、俺はどうだ。

 

……分からない。

 

正直に言えば、俺の中にもまだカレンチャンの残響がある。記念室であの子を見た時、最初に浮かんだ感情は「似ている」だった。プロとしてそれを切り離したつもりでも、俺の目がカレンモエに向いた最初の動機が、あの面影にあったことは否定できない。

 

俺が今ここで声をかけたとして、それはカレンモエのためなのか。それとも、カレンチャンのファンだった俺の、形を変えた執着なのか。

 

……分からない。

 

だが、一つだけ確実なことがある。

 

さっきのスカウトたちは、前半の600mしか見ていなかった。バクシンオーは、スプリンターとしての才能を認めた上で、第3コーナーの粘りにも触れた。誠実だった。だが、彼女がマイルの直線で歯を食いしばった理由には、踏み込まなかった。

 

あの粘りを見て、「なぜ」と思った人間がこの場に何人いる。少なくとも俺は思った。あの走りには、才能とは別の何かがあった。速さとは関係のない、もっと切実な何か。

 

それを見たのが、たまたま俺だった。カレンチャンの元ファンだからこそ、彼女がカレンチャンではないことが分かる。走り方も、笑い方も、苦しい時の顔も、全部違う。

 

似ているのは外見だけだ。中身は、全くの別人。

 

……その「別人」に、俺は惹かれているのか?

 

自問に、即座には答えられなかった。答えられないまま、俺の脚は動いていた。考えるより先に、体が彼女の方へ歩き出す。

 

不格好な動機でもいい。今は純粋じゃなくてもいい。

 

あの走りを見た以上、黙って帰ることだけはできなかった。

 

モエが顔を上げる。また新しいスカウトか、と身構える目。

 

俺は名刺を差し出すのではなく、真っ直ぐに彼女の目を見て言った。

 

「君は……カレンモエさん、だね」

 

「……はい。またママの話ですか? サインなら持ってませんけど」

 

棘のある言葉。「どうせあんたも同じなんでしょ」と語る瞳。

 

俺は首を横に振った。

 

「いいや。俺が見ていたのは、今日のレースだ」

 

モエの目が少しだけ開かれる。

 

「マイルを選んだ理由、なんとなく分かるよ。……でも、それ以上に気になったことがある」

 

「……何?」

 

「第3コーナー、苦しくなった時。君は脚を止めなかった。普通ならスタミナ温存のために下げる場面で、君は歯を食いしばって前に出ようとした」

 

彼女の瞳を、真っ直ぐに見つめる。

 

「俺は、君を『カレンチャンの娘』としてスカウトしに来たんじゃない」

 

一拍。

 

「不利な距離でも、泥臭く前へ出ようとする『カレンモエ』というウマ娘の、その魂に惚れ込んだんだ」

 

周囲の雑音が遠のく。モエは俺の顔をじっと見つめていた。値踏みするような、でもどこか、初めて自分を見つけてもらえた子供のような視線。

 

「……口ではなんとでも言えるよ」

 

「ああ、そうだな」

 

肯定する。信頼は言葉で作るものじゃない。

 

「だから、証明させてほしい。君が望むなら、俺は君が『君自身』になるための手伝いをする。たとえそれが、どんなに険しい道だとしても」

 

モエはしばらく沈黙した後、ふっと口元を緩めた。それはアイドルの笑顔ではなく、等身大の少女の、少し意地悪そうな笑み。

 

「……ふーん。変わった人」

 

一歩、俺の方へ近づく。

 

「いいよ。そこまで言うなら、試してあげる」

 

瞳に宿る、挑戦的な光。そして、とんでもない条件を突きつけてきた。

 

「私の担当になるなら……『トリプルティアラ』を目指して」

 

「……っ」

 

トリプルティアラ。桜花賞、オークス、秋華賞。クラシックの頂点にして、過酷な王道。特にオークスは2400m。スプリント戦の実に二倍の距離だ。今日のマイルですらガス欠を起こした彼女にとって、未知の領域どころではない。

 

「短距離もマイルも関係ない。皆が私を『カレンチャンの娘』だと納得しない距離、中距離の道で、私自身を証明したいの」

 

彼女の声は震えていた。恐怖からではない。魂からの切実な叫び。短距離で勝っても、マイルで勝っても、血統のせいにされる。なら、絶対に血統では説明できない距離で勝つしかない。あまりに悲痛で、あまりに高潔な答え。

 

「……無理だと思う?」

 

彼女が問う。常識的に考えれば無理だ。トレーナーとして、止めるのが正解かもしれない。だが、ここで「無理だ」と言えば、俺もまた彼女を型に押し込める大人の一人になる。

 

俺は拳を握りしめ、深く息を吸った。

 

「……分かった。その挑戦、乗ろう」

 

「ほんと? 後悔しても知らないよ?」

 

「させないさ。俺が必ず、君を勝たせる」

 

「……言ったね」

 

モエは鞄から書類を取り出した。契約書だ。ペンを走らせ、俺に突きつける。

 

「じゃあ、これにサインして。……それと、トレーナーにお願いがあるんだけど」

 

「なんだ?」

 

「契約自体はこれで成立なんだけど……うちのパパ、元トレーナーでさ。契約する前に一回顔を見せに来いってうるさいの」

 

「……パパって、あの?」

 

「うん。あの人、仁義を通さないと後ですっごく面倒くさいことになるから。……悪いけど、挨拶に来てくれないかな? ショットガン突きつけられても逃げないでね」

 

「……は?」

 

「あと、ママもついてくると思うけど、圧倒されないでね」

 

背筋に、冷たい汗が伝った。()()名トレーナーと、伝説のアイドルウマ娘。その二人が両親。これからそこへ挨拶に行かなければならない。

 

……オークスの2400mより高いハードルが、いきなり目の前に現れた気がした。

 

「……努力する」

 

引きつった笑顔で答えると、モエは初めて、声を上げて楽しそうに笑った。

 

それは記念室で見た寂しい笑顔でも、スカウトたちに向けた仮面の笑顔でもない。

俺という共犯者を得た、等身大の少女の笑顔だった。

 

こうして。

俺とカレンモエの、無謀で、けれど誰よりも切実な戦いが幕を開けた。




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バクシンオーエミュがムズい。
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