3/23 書き直しました。
1話 写真の影
初日の説明と、寮への荷物の搬入を終える頃には、昼を過ぎていた。
午後の予定まで、少し時間がある。
食堂へ向かう同僚たちと別れ、俺は校舎の奥へ足を向けた。学園内の案内図は事前に渡されていた。ほかの部屋はまだ覚えていないが、そこだけは迷わずに行けた。
資料室。歴代の名ウマ娘たちの記録が保管され、展示されている場所だった。
重い扉を開けると、廊下の話し声が遠くなった。古い紙と、磨かれた床の匂いがする。窓から入る光の下に、トロフィーや写真の収められたガラスケースが並んでいた。
急ぐ用事ではない。それでも、今日のうちに来ておきたかった。
奥のスプリント路線の一角で、足を止める。
カレンチャンの写真があった。
高松宮記念。ゴールを過ぎ、カメラに顔を向けた瞬間だった。白い髪が頬に貼りつき、口元には勝利の笑みがある。
あのウインクだ。
自室にも同じ場面の写真を飾っている。何度見たか分からない。だが、トレーナーバッジをつけてこの前に立つと、少し違って見えた。
「……やっぱり、いい顔してるな」
声が、思ったより静かな室内に響いた。
今日からここで働く。誰を担当するかは、まだ決まっていない。
写真に向かって報告するのもおかしな話だったが、ここまで来たことだけは伝えておきたかった。彼女が知るはずもない、小さな子供のその後だった。
「……すごいでしょ、今もそんなに変わんないんだよこの人」
横から声がした。
振り向いて、息を呑んだ。
まるで、写真から抜け出てきたような女の子が立っていた。
白っぽい、外へ跳ねたセミショートの髪。小柄な身体に学園の制服を着て、薄い鞄を片手に提げている。目元も、鼻筋も、こちらを見上げる顔の輪郭も、たった今まで見ていた写真に重なった。
「ウチのママなんだ」
女の子は、自嘲気味に笑った。
「……娘さん、か」
それだけ返すのに、少し時間がかかった。
カレンモエ。
入学の記事は読んでいた。写真も見た。けれど、実際に目の前へ立たれると、記事で知っているだけでは済まなかった。
よく似ている。
喉まで出かかった言葉を、彼女が先に口にした。
「よく言われるよ。そっくりだねって」
俺の顔を見て、言われることが分かったらしい。そう言って写真へ目を戻した横顔も、やはりよく似ていた。
彼女はガラスの向こうを見ていた。
「……似てないところも、あるんだけどね」
小さく付け足された言葉に、俺はもう一度彼女を見た。
「似ていない?」
こちらへ戻った目が、胸のバッジで止まる。
「……なんでもない。忘れて」
口元に笑みが戻った。
今度は、自嘲ではなかった。相手を不快にさせない角度で首を傾け、目を細める。写真の中の笑顔に、さっきより近かった。
「お邪魔しました。お仕事、頑張ってくださいね」
軽く会釈して、彼女は出口へ向かった。
呼び止める用件はなかった。まだ名前すら名乗っていない相手に、今の言葉の意味を聞いていいとも思えなかった。
扉が閉まる。
俺はしばらく、その方を見ていた。
最初に見たのは、よく似た顔だった。最後に残ったのは、彼女が笑い直した時の、取りつく島のなさだった。
写真を見上げる。
カレンチャンは、こちらを見て笑っていた。
~~
数日後、新入生の模擬レースが始まった。
新人トレーナーにとって、担当を探す最初の機会だ。俺も出走表とノートを持ち、朝からコースへ通っていた。
その日は、スタンドの埋まり方が違った。
普段なら空いている前列に、既に何人ものトレーナーがいる。フェンス際には大きなレンズをつけたカメラが並び、隣同士で見せ合っている出走表には、同じ名前が囲まれていた。
カレンモエ。
俺の手元の紙にも、その名があった。
『続いて第3レース、芝1600mに出走する皆さんをご紹介します』
場内放送が流れ、出走者が順に呼ばれる。
彼女の名前が読み上げられたところで、すぐ後ろの男が顔を上げた。
「本当にマイルか。1200の方じゃないのか?」
「こっちに載ってるだろ」
「いや、誤植かと思ってたんだよ」
紙をめくる音が、あちこちで重なった。
「短距離の組にいないから、おかしいと思ったんだ」
「まずは母親と同じ距離で見るもんじゃないのか」
「本人が選んだんだろう。どこまで持つか見ればいい」
「しかし、最初から1600ねえ……」
ざわめきの中へ、制服からジャージに着替えた彼女が出てきた。
「ほら、見てみろ。顔なんか、全盛期のカレンチャンそのままだ」
隣のトレーナーが身を乗り出した。その視線は、歩く彼女の顔を追っていた。
髪の揺れ方も、目を伏せた時の横顔も、現役時代の母によく似ている。そこを入口に彼女を見てしまうのは、俺も同じだった。
後ろで、年配のトレーナーが鼻を鳴らした。
「血ってのは嘘をつかねえんだよ。顔があれだけ似てりゃ、中身も同じさ。マイルなんて色気出しても、結局はスプリントに帰ってくる」
何人かが笑った。
彼女は気づいた様子もなく、コースの方へ歩いていく。聞こえているかどうかは、この距離からでは分からなかった。
俺は出走表を畳み、双眼鏡を構えた。
資料室で聞いた声が、耳に残っていた。
似ていないところも。
~~
ゲートが開くと同時に、白い髪が前へ出た。
速かった。
最初の数歩で抜け出し、そのまま後続を引き離す。周りが位置を取り合っている間に、カレンモエは単独の先頭へ立っていた。
「おお……!」
低い声が重なった。
隣のトレーナーがストップウォッチへ目を落とす。俺も途中の通過を取ったが、その数字に眉をひそめた。
速すぎる。
このまま最後まで行けるのか。
前半の勢いは落ちなかった。腕を振り、力強く地面を蹴る。後続との差が広がるたび、周囲の声が大きくなった。
「やっぱり、モノが違うな」
「これは短いところなら相当やるぞ」
双眼鏡の中で、彼女の肩が上下し始めた。
まだ先は長い。だが、ペースを落として後ろを待つ気配はなかった。
第3コーナーを過ぎたあたりで、歩幅が詰まった。
後続の先頭が近づいてくる。道中を抑えて走っていた子だった。カレンモエの外へ出ると、並ぶ間も惜しむように前へ出た。
彼女の顔が、その背中を追った。
腕を強く引く。重心が沈み、もう一度、脚が伸びた。
抜き返そうとしていた。
一瞬、肩へ届きかける。だが、次の一歩で差が開いた。そこへ別の子が並び、前へ抜ける。
俺は双眼鏡を持つ肘を、フェンスの上に固定した。
カレンモエは、まだ追っていた。
直線へ入ってからも、顔を上げて前を見ている。口が大きく開き、歯が見えた。髪が頬に貼りついても、払う余裕はない。踏み込んだ脚を引き戻し、また前へ出す。
綺麗な走りではなかった。
前半には揃っていた動きがばらばらになっている。身体を支えるだけでも苦しそうなのに、隣へ並ばれると腕を振り直した。
残り200m。もう一度、前へ出ようとした。
届かなかった。
それでも、ゴール板を過ぎるまで追うのをやめなかった。
先頭の子が速度を落とし、後続も次々に走り終える。その向こうで、カレンモエは両膝に手をついていた。
掲示板に彼女の名前が出る。上には、いくつも別の名前が並んでいた。
俺は時計を止めたまま、手元を見ていなかった。
「まあ、距離だな」
後ろの男が言った。
前半の数字を見直す音がした。既に席を立ち、出口へ急いでいる者もいる。
カレンモエは、まだ頭を上げなかった。
~~
コースから戻った彼女の周りには、たちまち人垣ができた。
「すごいスピードだったね。前半のラップを見たかい?」
「1200なら、今日とは全く違う結果になるよ。うちで一緒にやってみないか」
「カレンチャンをよく研究しているんだ。君の才能なら、きっと高松宮記念だって狙える」
名刺が、次々に差し出される。
彼らがあの加速を買うのは分かった。勝てる距離を選ぶという考えも、間違ってはいない。俺自身、前半の速さを見た時には1200の時計が頭をよぎった。
だが、今日彼女が選んだのは1600だった。
その話をする者はいなかった。母の名前と前半のタイムだけで、もう次に走るべきレースまで決まりかけている。
彼女が何か答えようとすると、別の名刺が割って入った。
「ありがとうございます。考えておきますね」
カレンモエは笑っていた。
さっきまで息を切らしていた顔に、疲れを見せない笑みを浮かべている。誰に対しても同じように頭を下げ、両手で名刺を受け取った。
資料室で、最後に俺へ向けた顔だった。
一人、また一人と、トレーナーたちが満足げに帰っていく。人垣がばらけた瞬間、モエの顔から色が消えた。受け取った名刺の束を、無造作にバッグへ放り込む。ゴミを捨てる手つきと、変わらなかった。
彼女は壁へ背を預け、長く息を吐いた。
あれほど褒められた直後の顔ではなかった。
母のように走れる。母と同じ場所で勝てる。彼らが口にした期待を思い返すと、最後の名刺を押し込んだ手つきの意味は、そう分かりにくいものではなかった。
「カレンモエさぁん!」
通路の向こうから、大きな声が響いた。
彼女が顔を上げる。ジャージ姿のウマ娘が、こちらへ駆けてきていた。ハチマキとポニーテールが揺れている。
サクラバクシンオーだった。
この学園の学級委員長にして、短距離の絶対王者。目の前で足を止めた彼女に、俺まで反射的に姿勢を正してしまったが、その目にはカレンモエしか入っていない。
「レース、拝見しました! 素晴らしい加速でしたね! ぜひ一度、私とスプリントを走りましょう!」
カレンモエの目が細くなった。
「……短距離には行きません」
「そうですか! では、走りたくなった時で構いません!」
返事を待たず、バクシンオーが続ける。
「それより、あの直線です! 抜かれてから、もう一度前へ出ようとしましたね!」
鞄を肩へ掛け直しかけた手が、止まった。
「……見てたんですか」
「もちろんです! 最初から最後まで!」
彼女は胸を張った。
「脚が苦しいのは見ていて分かりました。なのに、横へ来られるたびに追い返そうとする! あれを見たら、こちらまで走りたくなります!」
「結局、抜かれましたけど」
「ええ。ですから、もっと強くなっていただかなくては!」
慰める様子は、少しもなかった。
バクシンオーは楽しそうだった。相手が困った顔をしていることにも構わず、真っ直ぐ見据えている。
「あの粘りで私を追ってきてください。簡単には抜かせませんよ!」
カレンモエは黙っていた。貼り直しかけていた笑顔も、いつの間にか消えている。
「いつかスプリントを走る気になったら、私を倒すつもりで来てください。全力でお相手します! 待ってますから!」
言い終えると、バクシンオーは満足そうに頷いた。
「では! 次のレースも見てきます!」
大きく手を振り、スタンドへ向かって駆けていく。途中で誰かに声をかけられ、同じ声量で挨拶を返していた。
カレンモエは、その後ろ姿を見送った。
「……話、聞いてた?」
短距離には行かないと言ったばかりなのに、次に走る時の話までされてしまった。そう言いたげな顔だった。
ただ、鞄を放り出すような手つきは、もうしていなかった。
俺はフェンスから離れた。
最初に彼女へ目を向けた理由は、カレンチャンだった。資料室で似ていると思い、出走表に名前を見つけて今日も見に来た。
そこは、どう取り繕っても変わらない。
けれど、ゴールを過ぎた時、母親のレースを思い出していただろうか。
時計を見るのも忘れ、膝に手をついた彼女を見ていた。抜かれても、もう一度前へ出ようとする姿が、まだ目に残っていた。
このまま帰れば、次もスタンドから見るだけになる。
俺は彼女の前で足を止めた。
「カレンモエさん。少し、話をしてもいいだろうか」
彼女が顔を上げた。
「……資料室の」
「ああ。あの時は名乗らなかったな。絢原という。ここのトレーナーだ」
視線がバッジへ下がり、また戻る。
「スカウト?」
「そのつもりで来た。今日のレースを見て、君の担当になりたいと思った」
口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「だったら、さっき一緒に来ればよかったのに。まだ名刺、入ると思うよ」
鞄を軽く持ち上げてみせる。
俺は名刺を出しかけた手を止めた。
「君の話を聞きたかった。さっきは、その時間がなさそうだったから」
「私の何を?」
「次に、どこで勝ちたいと思っているのか」
彼女はすぐには答えなかった。
こちらの顔を見たまま、鞄の持ち手を握り直す。
「……あのレースを見て、それ聞くんだ」
「ああ」
「途中でバテて、抜かれたのも見てたよね」
「見ていた。抜かれてから、追い返そうとしたところも」
「あの先輩と同じこと言うんだね」
「俺も、そこが気になった」
壁にもたれていた彼女が、わずかに顎を上げた。
「頑張ってて偉いって? 勝てなかったけど?」
棘のある声だった。
「勝てなかった。あのまま同じ走りをしても、今日の相手には勝てないだろう」
彼女の口元から笑みが消える。
「だから、勝てるようにしたい。苦しくなっても、あそこまで前を追える君の担当として」
「……1200なら勝てるって、みんな言ってたよ」
「君は、それでは嫌なんだろう」
彼女は黙った。
遠くから次の出走者を呼ぶ声が届く。通路を行くトレーナーの何人かが俺たちを見たが、足を止める者はいなかった。
「……私が嫌って言ったら、聞いてくれるわけ?」
「話を聞くために声をかけたんだ。言ってほしい」
「口では何とでも言えるよね」
「そうだな」
否定できなかった。彼女が俺について知っていることは、名前と、トレーナーであることだけだ。
しばらくして、カレンモエが壁から背を離した。
「じゃあ、トリプルティアラ」
聞き返しかけ、口を閉じた。
「私の担当になりたいなら、トリプルティアラを目指して」
桜花賞、オークス、秋華賞。
1600、2400、2000。
今日の脚色が脳裏に戻った。1600を走り終え、膝に手をついていた身体。その先に、さらに800mがある。
「……冗談で言っているんじゃないんだな」
「だったら、今日1200に出てる」
即座に返された。
「最初から短距離へ戻すつもりなら、いらない。さっきの人たちと話してれば済むから」
鞄の口から、名刺の角が覗いていた。
「1200で勝ったって、ママの娘だからで終わるじゃん。何回勝っても、きっと同じだよ」
彼女は俺を見ていた。
「だったら、ママが走らなかったところで勝つ。オークスでも、秋華賞でも。そこまでやれば、私の名前で呼ぶでしょ」
最後の言葉だけ、声が硬くなった。
母と違う距離を選び、違う勝ち方をしなければ、自分が勝ったことにならない。
彼女が自分へ課した条件は、今日の1600よりもずっと重かった。
「……ほら。無理なんでしょ」
俺が黙っていると、カレンモエは先に言った。
鞄を肩に掛け、半歩、横へ動く。
「2400を走る方法を考えていた」
足が止まった。
「あるの?」
「今はない。今日のレースだけで、そこまで言えない」
「じゃあ、何なの」
「調べたい。今日の走りでどこまで脚を使ったのか、何を変えられるのか。それを確かめずに、無理だと決めたくない」
彼女は振り向いたまま、俺を見ていた。
「その結果、無理でしたって言うかもしれないじゃん」
「言うかもしれない」
目が冷えた。
分かっていても、そこは変えられなかった。勝てると言って引き止めてから考えるのでは、何も任せてもらえない。
「だが、今引き受けるのは、その路線で勝つための仕事だ。短距離へ戻すために君を預かるつもりはない」
カレンモエは、しばらく動かなかった。
俺も、返事を待った。
「……新人なんでしょ」
「ああ。担当を持ったことはない」
「最初が私でいいの。もっと勝てそうな子、ほかにいると思うけど」
「いい。俺がやりたいんだ」
彼女の眉が少し寄った。
笑いはしなかった。こちらを見て、何か言いかけ、やめた。
やがて、空いている方の手を差し出した。
「名刺、もらっておく」
俺は鞄から1枚取り出し、渡した。
彼女は名前と連絡先を確かめ、名刺をジャージのポケットへ入れた。それから鞄の中を探り、書類とペンを取り出す。
契約書だった。
「そこまで言うなら、やってみて。……これにサインして」
自分の名前を書き込むと、こちらへ差し出した。
俺は記載された内容を読み、署名欄に絢原朔也と書いた。返した書類を、彼女は黙って確かめた。
「……それと、お願いがあるんだけど」
「何だろう」
「契約はこれでいいんだけど、パパには一度会ってほしいの。元トレーナーでさ。顔を見せに来いってうるさいから」
「知っている。ご挨拶に伺いたい」
カレンチャンの隣に立っていた男。
進路を決めるきっかけになった相手へ、初めて担当したいと思ったウマ娘の話をしに行く。その顔を思い浮かべると、今までとは別の緊張があった。
「同じこと、パパにも言える?」
「言える。お父さんにも、今話したとおりに伝える」
「……ママもいると思うけど」
名刺入れを閉じる指が、一瞬だけ止まった。
「分かった」
それだけ返した。
カレンモエはスマホを出し、短く何かを打ち込んだ。画面を見たまま、俺へ尋ねる。
「明日の放課後、空いてる?」
「空いている」
「じゃあ、そう聞く。返事が来たら連絡するから」
契約書をしまい、彼女は鞄を掛け直した。
「あとで、そんなつもりじゃなかったとか言わないでね」
「分かっている」
カレンモエは一度だけ頷き、校舎へ向かった。
振り返らなかった。
俺はその背中を見送ってから、ノートを開いた。
出走表から写した名前の下には、前半の通過タイムと、失速し始めた位置が書いてある。最後の直線については、まだ何も書いていなかった。
フェンスを机代わりにして、覚えているうちに書き足す。
抜かれた時に、どちらの脚で踏み直したか。肩が届きかけたのはどこか。その後、何が続かなかったのか。
見落としたところは、映像で確かめるしかない。
明日、ご両親に会う。
その前に、もう一度このレースを見たかった。
誤字報告、評価や、感想、ここすきなど、よろしくお願いいたします。
バクシンオーエミュがムズい。