アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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面白かったら感想とか評価いただけると嬉しいなって。
今後の内容の参考になったり、指針になったりするので。


15話 紅生姜という考え方

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

「モエちゃん。電気、消してもいいですか」

 

顔を上げると、マーちゃんがベッドの脇で待っていた。片手はもう、掛け布団の端にかかっている。

 

「あ、ごめん。いいよ」

 

「それと、シューズの紐は同じ長さでした」

 

「……何の話?」

 

「さっき、左が長いって言っていたので」

 

机の下に、明日履くシューズが揃えてあった。さっきまでマーちゃんが紐を結び直していたのは覚えている。何か聞かれた気もする。でも、自分が何を答えたかまでは思い出せなかった。

 

「ごめん。ちゃんと見てなかった」

 

「そうでしたか。じゃあ、明日また見てください。マーちゃんはもう寝ます」

 

明かりが消えた。おやすみ、と返した声が、急に広くなった部屋に残る。

 

ウマホには、阪神の週末の天気が出ていた。雨のマークはない。さっき見た時もなかった。その前も。

 

画面を伏せ、私も布団へ入った。

 

昼間、口を開きかけたところへ録音機が近づいてきた。目を閉じると、その距離をやけにはっきり思い出す。勝ちたいです、と言った時の自分の声も聞こえた。ちゃんと笑えていたはずだ。最後まで笑っていれば、何が違ったんだろう。

 

いや、もういい。あの場で考えきれなかったことが、布団の中で急に分かるわけがない。

 

枕を裏返した。

 

隣では、布団の擦れる音が一度したきりだった。マーちゃんも阪神を走る。同じ距離を、同じ日に。なのに私は、天気予報さえ閉じられずにいる。

 

もう一度、ウマホへ手を伸ばした。

 

検索欄を開くつもりだった指で、絢原さんとのやり取りを選んだ。

 

『まだ学園?』

 

返事はすぐに来た。

 

『いる。どうした』

 

『眠れない』

 

送ったあとで、用件になっていない気がした。眠れないから何なのか。昼間の話を最初から聞いてほしいわけでも、今から練習したいわけでもない。

 

次の文字を打てずにいると、画面が動いた。

 

『寮の近くを少し歩くか。出られるかは俺から聞く。上着を着てこい』

 

時計を見た。まだ十二時にはなっていなかった。

 

私は布団をめくった。着替える時、床のシューズへ膝が当たりそうになって、避ける。左右の紐は、きちんと同じ長さに結ばれていた。

 

 

 

~

 

 

 

寮母さんに戻る時刻を念押しされて外へ出ると、絢原さんは門のそばにいた。

 

コートの襟から、緩めたネクタイが覗いている。ウマホをしまう手の甲が赤かった。

 

「待った?」

 

「さっき来た。寒くないか」

 

「今出てきたばっかりだよ。トレーナーの方こそ、帰らなくていいの」

 

「帰ろうとはしたんだけどな」

 

古い芝コースの方へ歩きながら、絢原さんが鼻を擦った。

 

「映像を閉じて、帰る支度をして、それから一つだけ確認しようと思って。また座ってた」

 

「私の映像、そんなに見ても速くならないよ」

 

「分かってる。さっきは、同じところを見てるって気づくまでに随分かかった」

 

「……何やってんの」

 

笑いかけて、やめた。天気予報を何度も開いていた私には、あまり言う資格がない。

 

コースの外柵に沿って歩いた。昼間なら必ず見える、誰かの背中がない。倉庫の灯りが届くところだけ芝が白っぽく浮いて、その先は暗がりに続いていた。

 

「初めてだからさ」

 

絢原さんが言った。

 

「担当をGⅠに出すの。やれることはやったつもりなんだけど、もう一つくらい、何かあるんじゃないかと思って」

 

「私に聞かれても困るよ。私も初めてだし」

 

「だよな」

 

二人分の白い息が、風にちぎれた。

 

いつもなら練習の記録を広げている人が、今は両手をポケットに入れて、私と同じくらい遅く歩いている。私に付き合ってくれているだけでは、なさそうだった。

 

「ねえ。私が阪神で勝ったら、あの人たち、私の話をするかな」

 

言ってから、足元を見た。

 

絢原さんの返事が少し遅れた。その間に、聞かなければよかったと思った。

 

「今日来た連中は、勝っても同じことを聞くかもしれない」

 

「……最悪」

 

「ああ」

 

勝てば何かが変わると思いたかった。けれど、私が重賞を勝ったあとの記事で、もう何度もママの名前を見ている。絢原さんの返事に文句をつける材料がなかった。

 

「明日の朝、またあんな顔で撮られるのかな。寝てないって、一発で分かるよね」

 

「明日はコースで靴を試す。今日の件は学園にも伝えてある」

 

「……そっか」

 

短く息を吐いたら、そこで初めて、別の匂いがした。

 

ソースだ。

 

鼻先をかすめたそれを確かめようとして、顔を上げる。隣の絢原さんも、倉庫の方を見ていた。

 

「何か焼いてない?」

 

「焼いてるな」

 

鉄板の上で何かが弾ける音がした。こんな時間に、お祭りの屋台みたいな匂いがする。

 

倉庫の角を曲がったところで、銀色の長い髪と、『焼きそば』の文字が目に入った。

 

法被を着たゴルシさんが、両手のコテで麺をひっくり返していた。

 

「おう。いいところに来たな、腹ペコども」

 

「……何してるんですか」

 

「今度の屋台で出すやつの試作。昼間やると、匂いだけで客が来んだよ。売り物になる前になくなっちまう」

 

「夜でも来てるけどな」

 

絢原さんが言うと、ゴルシさんは私たちを見比べた。

 

「じゃあ次は朝四時だな。お前ら来れっか?」

 

「寝かせてください」

 

即答したら、コテを持ったまま笑われた。

 

「寝たいヤツがこんなとこ歩いてんなよ。ほれ、そこ座れ。味見くらいなら残ってるぞ」

 

台の下から折り畳みの椅子が出てきた。絢原さんが一つ受け取って広げている間に、私の手へ割り箸が載る。

 

「私たち、食べるって言ってませんけど」

 

「食わねえの?」

 

ゴルシさんが鉄板を傾けた。麺の隙間から、薄く焦げたキャベツが覗く。

 

晩御飯は食べた。それなのに、つい目で追ってしまった。まずかったら断ろうという逃げ道まで、匂いに塞がれている。

 

「……少しなら」

 

「じゃあ俺も」

 

「トレーナー、止めるところじゃないの」

 

「大盛りはやめとこう。俺も食べたいし」

 

もう自分の皿を持っている人に言っても、無駄だった。

 

麺を受け取り、箸の先で少しだけ持ち上げる。湯気の向こうにあったコースも倉庫も、ひと口食べている間は見なくて済んだ。

 

ソースが濃い。焦げたところを噛むと、ぱりっとした。キャベツは思ったより甘かった。

 

「……美味しい」

 

「だろ。で、こっからが本番だ」

 

ゴルシさんが容器の蓋を開けた。

 

赤いものが、私の皿へ落ちてきた。

 

「ちょっ、多い。多いです」

 

紅生姜だった。真ん中にどっさりと積まれ、さっきまで見えていた麺が隠れている。

 

「どうよ。ゴルシちゃん焼きそば、大噴火」

 

「焼きそば、見えなくなっちゃったじゃないですか」

 

「麺は地下で寝てんだよ。起こして食え」

 

隣を見た。絢原さんは自分の皿を体の陰へ引っ込めていた。

 

「トレーナーにも半分あげる」

 

「いや、俺は普通ので」

 

「味見するんでしょ。逃げないでよ」

 

私が皿を寄せると、ゴルシさんがいい笑顔で容器を差し出した。絢原さんは自分の皿と容器を見比べ、諦めたように腕を戻す。

 

隣にも赤い山ができた。

 

少しだけ気が済んで、私は麺を掘り出した。絡んだ紅生姜も一緒に口へ入れる。

 

酸っぱい。

 

噛んでも噛んでも紅生姜がある。どこまでが麺なのか、よく分からない。

 

「……普通の方がいいです」

 

「即答かよ。見た目で負けてんじゃねえぞ、よく食ってから言え」

 

「食べました。さっきの方が美味しかった」

 

隣で絢原さんが頷いた。口を開かないところを見ると、同じようなことになっている。

 

ゴルシさんは不満そうに自分の皿へ紅生姜を載せた。私たちの分より、さらに多い。ひと口食べると、今度は満足そうに頷く。

 

「うめえじゃん」

 

「……本当に、それが好きなんだ」

 

思わず声が漏れた。私たちを困らせたいだけかと思っていた。

 

ゴルシさんは麺を飲み込んで、もう一度容器へ手を伸ばした。

 

「お前ら、紅生姜嫌いだった?」

 

「好きですけど、こんなにはいらないです。麺の味がしなくなるから」

 

「面倒くせえ客だな。好きなもん好きなだけ食うのがいいんじゃねーか」

 

「ゴルシさんの好きなだけでしょ、それ」

 

私は箸を立て、山の横から紅生姜を寄せた。

 

「あ、崩すなって。噴火前に工事すんなよ」

 

「私が食べるんだから、私の好きにさせてください」

 

言いながら、赤い山を皿の端へ押しやった。

 

絢原さんがこちらを見た。ゴルシさんは一瞬だけ私の皿を眺め、それから空の紙皿を台に置いた。

 

「じゃあ、いらねえ分はこっちな。捨てんなよ、好物なんだから」

 

「……いいんですか」

 

「どうせ後でアタシの腹に入るんだ。どこから来ようが一緒だろ」

 

私はまだ麺に触れていない紅生姜を少し移した。絢原さんも自分の皿を寄せてくる。

 

「なんだよ、二人とも。山のなくなった大噴火なんて売れねーぞ」

 

「普通の焼きそばを売ってください」

 

「それなら買う」

 

「お前らが普通でいいって言うから、アタシの皿だけ高くなんだろうが」

 

本当に、向こうの皿だけおかしな高さになっていた。しかも、今そう言った人が箸で頂上を整えている。

 

笑ったら、口の中に残っていた酸っぱさが鼻へ抜けた。むせそうになって顔を伏せる。隣でも、絢原さんが肩を揺らしていた。

 

「あれ、売る時どうやって蓋するんですか」

 

「……蓋?」

 

ゴルシさんが皿を持ち上げ、横から見た。

 

私と絢原さんは、しばらく顔を上げられなかった。

 

ようやく落ち着いて食べ直すと、ソースの味がした。キャベツもまだ残っている。赤く染まってしまった麺を、箸に巻きつけた。

 

『母のためではない、と?』

 

あの時も、これくらい言えたらよかったのに。

 

私が食べるんだから、私に決めさせて。焼きそばのことなら、こんなに簡単に出てきた。

 

ママが嫌いなわけじゃない。喜んでほしくないわけでもない。だからって、私が阪神で何をしたいのかまで、あの人たちに決めてほしいわけじゃなかった。

 

ゴルシさんの箸が、皿の上からこちらへ伸びてきた。

 

「それもいらねえの?」

 

「これは食べます」

 

残しておいた紅生姜を、麺と一緒に口へ入れた。少し多い。でも、さっきみたいに、何を噛んでいるのか分からなくはならない。

 

「次は、最初から別にしてください」

 

「注文つけんの早えな。まだ次の試作、考えてんのに」

 

「これでいいです。あとは自分で乗せるから」

 

ゴルシさんは鼻を鳴らした。何か言い返すかと思ったら、コテを置いて、空になった鉄板へ蓋をかぶせる。

 

「じゃあ次は金持ってこい。お前らの注文聞いてたら、商売になるか確かめたくなってきたわ」

 

絢原さんが時計を見た。私もつられて見る。戻ると言った時刻まで、もうあまりない。

 

皿を片づけ、椅子を畳んだ。ゴルシさんは火を消して、使った道具を手際よく台車に収めている。

 

「ごちそうさまでした」

 

「おう。次も腹空かせて来いよ。紅生姜だけで腹いっぱいにしてやる」

 

「話、聞いてました?」

 

ゴルシさんは答えず、こちらへ手を振った。その手に、まだ半分ほど残った赤い山の皿が載っていた。

 

 

 

~

 

 

 

寮へ戻る道で、自分の袖を嗅いだ。

 

「……匂い、ついた」

 

「分かる。俺もする」

 

コートを脱いでから部屋に入ろう。マーちゃんまで起こして、明日の朝、二人とも眠そうな顔をしていたら嫌だ。

 

そんなことを考えているうちに、欠伸が出た。

 

口元を押さえたまま横を見ると、絢原さんも同じ顔をしていた。

 

「移ったじゃん」

 

「お前が先だろ」

 

言い返すより先に、もう一度出た。

 

胃の辺りには、まだ嫌な感じが残っている。阪神の坂を思い浮かべると、今も足が重くなる。紅生姜を避けるのと同じ調子で、カメラの前に立てる気はしなかった。

 

それでも、今すぐ記事を探して、何と書かれるか確かめたいとは思わない。まず歯を磨きたかった。たぶん、奥歯にキャベツが挟まっている。

 

「トレーナー。明日の新聞、持ってくる?」

 

「読むか?」

 

「……靴を試してからにする」

 

昼間は、あんなに早く履いて走りたかった。左足が楽になったか、右と同じように踏めるか。走ってみてどうだったかは、明日、私が伝えることになっている。

 

「走ってから、自分で電話する。だから、先に言わないでね」

 

「分かった。俺も横で見るけど、まずお前から話してくれ」

 

門のところまで来ると、寮の明かりが目に眩しかった。

 

「寝られたかは、朝に聞く。それから練習を決めよう」

 

「トレーナーも帰ってよ。映像の続きはなし」

 

「帰るよ。俺も眠くなってきた」

 

それなら、と頷いて、私は玄関へ向かった。

 

マーちゃんは同じ向きで眠っていた。上着を離れた場所に掛け、歯を磨いて戻る。ベッドへ入る前に、床のシューズを少し奥へ寄せた。夜中にどちらかが引っかけたら、せっかく結び直したのに気の毒だ。

 

『戻った。おやすみ』

 

絢原さんへ送ったあと、開いたままだった天気予報も閉じた。

 

目覚ましの時刻を確かめて、画面を伏せる。返事は、朝になったら読めばいい。

 

布団の冷たいところへ足を伸ばし、枕に頬を押しつけた。瞼の裏に、紙皿を横から見ているゴルシさんの顔が浮かぶ。

 

……蓋のことくらい、先に考えといてよ。

 

声が漏れそうになって、布団を少し引き上げた。

 




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