今後の内容の参考になったり、指針になったりするので。
十二月。阪神ジュベナイルフィリーズまで、あと数日。
冬の夜は早く、そして深い。トレセン学園の寮は、重たい静寂に包まれていた。多くのウマ娘が明日のトレーニングに備えて眠りについている時間。窓の外では、木枯らしがガラスを叩く乾いた音が、時折響くだけだ。
時計の針は、深夜二時を回ろうとしていた。
私はベッドの中で天井を見つめていた。部屋の空気は冷たいはずなのに、布団の中の体だけが、嫌な熱を帯びている。
……眠れない。
目を閉じると、瞼の裏に昼間の光景が次々に蘇ってくる。マスコミのフラッシュ。記者たちの無遠慮な視線とトゲのある質問。
『偉大な母を持つと、プレッシャーもひとしおですか?』
あの言葉が、呪いみたいに私を縛っている。ネットの掲示板なんて見ない。そこに何が書かれているかは、見なくても分かる。期待、失望、勝手な分析、そして「カレンチャン」という名前の連呼。
……怖い。
弱音が、布団の中で漏れた。体を丸める。胎児みたいに。
GⅠ。選ばれた者しか立てない舞台。未勝利戦やファンタジーSとは訳が違う。失敗は許されない。負ければ、また「やっぱりダメだった」と言われる。私が私であるための戦いが、「親の七光りの道楽」にされてしまう。
……こんな精神状態で、あの阪神の坂を越えられるわけがない。
ブブッ。
枕元のスマホが震えた。
こんな時間に誰だろう。通知を切り忘れたニュースアプリか何かだろうと無視しようとして、画面を見た。
『トレーナー』の文字が表示されていた。
「……?」
画面をタップした。メッセージが一件。
『起きてるか?』
簡潔すぎる問いかけ。時候の挨拶も、用件もない。少し迷ってから、返信を打った。
『起きてる。……どうかしたの?』
すぐに既読がついた。返信もすぐ来た。スマホを握って待っていたみたいな速さ。
『今すぐジャージに着替えて、裏門に来い』
「……は?」
思わず声が出た。今は深夜二時だ。常識的にありえない。
『馬鹿じゃないの?』と打とうとして、指が止まった。このままベッドにいても、どうせ眠れない。鬱々とした思考のループに囚われて、天井の染みを数え続けるだけの夜になる。
それよりは、馬鹿なトレーナーの顔を見て、文句の一つでも言ってやる方がマシかもしれない。
深くため息をついて、ベッドから這い出した。隣で寝ているマーちゃんを起こさないように、音を立てずに着替える。冷え切ったジャージの袖に腕を通した。ひやりとした感触に、少しだけ目が覚めた気がした。
~
学園の裏門。
古びた外灯が、頼りないオレンジ色の光を投げている。その下に、絢原さんが立っていた。
厚手のコートを着込んで、ポケットに手を突っ込んで、白い息を吐いている。鼻の頭が赤い。
「……なんの用?」
近づくと、絢原さんが振り返った。少しだけ、安堵したような顔をしていた。
「遅い」
「呼び出したのそっちでしょ」
「そうだな」
否定しなかった。
「で? こんな時間に何のつもり?」
腕を組んで、ジト目で睨んだ。下らない用事だったら、脛を蹴り飛ばして部屋に戻るつもりだった。美容と睡眠は、ウマ娘の命なのだから。
絢原さんは、私の顔をしばらく見ていた。
「……顔色が悪いな」
「大きなお世話」
「眠れてないんだろ。クマができてる」
図星。ファンデで隠したつもりはないけど、やっぱり隠しきれてなかったらしい。
「……GⅠ前だもん。緊張くらいするよ。トレーナーだって、目の下にクマあるじゃん」
「俺はいい。走るのは俺じゃないからな」
そう言って、絢原さんはポケットから手を出した。
「……連れ出しに来たんだ」
「どこに?」
「いい場所がある。ついて来い」
「だから、どこよ」
「いいから」
強引な背中。
いつもなら「説明してよ」と反発するところだった。でも、今の私には、その強引さが少しだけ心地よかった。何も考えずに、ただついて行けばいい。誰かが道を示してくれる。思考の迷路に迷い込んでいた頭に、それは救いの糸みたいだった。
人気のない夜道を歩いた。深夜の空気は張り詰めていて、冷たい風が、熱を持った頭を冷やしてくれた。靴底がアスファルトを叩く音だけが、二つ、リズミカルに響く。
辿り着いたのは、学園の敷地内にある、古い芝コースだった。
メインの練習場ではない。今はあまり使われていない、サブの、少し荒れたコースだ。雑草が混じっていて、整備も完璧じゃない。
「……ここ?」
「ああ。夜のターフだ」
絢原さんはフェンスを軽々と乗り越えて、コースの中へ入った。私も続いた。
足元から伝わる、土と芝の感触。夜露に濡れた草の匂い。昼間の人工的なトラックとは違う、野性味のある匂い。
頭上には、満天の星。街明かりが遠くて、ここだけ世界から切り離されたみたいな静寂があった。
「……綺麗」
思わず、呟いた。
昼間の喧騒が嘘みたいだ。カメラのフラッシュも、記者の怒号も、ファンの視線もない。ただ、走るための場所が、静かにそこにあるだけ。
世界は、こんなに静かだったのか。
「深呼吸してみろ」
絢原さんに言われて、大きく息を吸い込んだ。冷たくて、澄んだ空気が肺を満たす。体の中の澱んだものが、少しずつ浄化されていくような感覚。
「……落ち着く」
「だろうな」
絢原さんが空を見上げた。
「昼間は色んなものが纏わりついてくるからな。たまには、こういう空気を吸うのも大事だ」
いつもの「トレーナー」の顔じゃなかった。ただの、少し疲れた青年の顔に見えた。
「……トレーナーも、眠れてないの?」
聞いてみた。絢原さんのクマを見ながら。
「……ああ」
否定しないんだ。意外だった。
「GⅠは、俺にとっても初めてだからな」
声のトーンが、いつもより少し低かった。
「……そっか」
それ以上は、言わなかった。絢原さんも、特に続けなかった。普段、弱音を吐かない人だ。このくらいの認めが、この人にとっては精一杯なんだと思った。
でも、それだけで十分だった。
この人も、緊張している。初めてのGⅠ。初めての場所。同じ船に乗っている。私だけが戦っているわけじゃない。
「悩んでも仕方ないんだよな、こういう時は」
絢原さんが、足元の芝を靴先で軽く小突いた。
「結局、やることはシンプルだ。走る。それだけだ」
「……シンプル」
「ああ。余計なものを全部剥ぎ取った先にあるのは、ただ『誰よりも速くゴールしたい』っていう、それだけだ」
私は、自分の胸に手を当てた。
そこには、確かに熱いものが脈打っていた。恐怖や不安の下に隠れていた、走りたいという気持ち。走りたい、勝ちたい、証明したい——その単純な欲求。
「……お前は、走るのが好きか」
絢原さんが聞いた。真正面からの、シンプルな問い。
「好きだよ」
即答していた。
「好きじゃなきゃ、こんな苦しいこと、やってられない」
「なら、大丈夫だ」
絢原さんが、ちょっとだけ笑った。暗闇の中でも分かる笑み。
「その気持ちがあれば、お前はどこまでも走れる。……カレンモエとしてな」
冷え切った心に、温かいものが染み込んだ。
誰かの娘としてではなく。ただ、カレンモエという一人のランナーとして。この人は私を見てくれている。「ママの娘」という看板を剥ぎ取った中身を、信じてくれている。
「……ありがと、トレーナー」
素直な言葉が出た。
ここに来てよかった。少しだけ、肩の荷が下りた気がする。
「……ん?」
その時。
風に乗って、奇妙な匂いが漂ってきた。
香ばしい、焦げたソースの香り。そして、ジューッという、何かが焼ける音。
静寂な夜のターフには、あまりにも不釣り合いな生活音。
「……なにこれ?」
私は鼻をクンクンさせた。こんな真夜中の、無人のコースで。屋台の焼きそばみたいな匂いがする。幻覚? それとも幽霊?
「……まさかな」
絢原さんの顔が引きつった。
二人で匂いの元を辿って、コースの奥、用具倉庫の裏に回った。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
「おう! そこのお二人さん。マヨネーズ持ってない?」
七輪の上で鉄板を熱して、大量のキャベツと麺を豪快に炒めているウマ娘がいた。
芦毛の長髪。耳には奇妙なメンコ。そして、なぜか「焼きそば」と書かれた法被。
「……ゴ、ゴルシさん?」
「あーらご機嫌麗しゅう。夜食のお時間ですかァ?」
ゴルシさんは、コテを器用に回しながら振り向いた。その表情は、昼下がりのカフェでお茶でもしているみたいに自然だった。
「ちょうど特製『ゴルシちゃん焼きそば』が完成したところだ。……食うか?」
「……いや、なんで!?」
思わずツッコんだ。状況がおかしすぎる。
「なんでって、腹が減ったからに決まってんだろ。変なやつだなオメー」
ゴルシさんは心底不思議そうな顔で言い放って、紙皿に焼きそばを盛り付けた。
「ほらよ。悩み多き若人たちへの、ゴルシちゃんからの施しだ。ありがたーく啜ること☆」
差し出された焼きそば。湯気が立ち上っていて、ソースの濃い香りが食欲を刺激する。深夜二時の焼きそば。アスリートとしては完全にNGな、カロリーと塩分の塊。
「……いただきます」
絢原さんが先に受け取った。毒を食らわば皿までみたいな顔で、躊躇なく一口食べた。
「……うまい」
「だろ? なにせ、このターフで育った新鮮な麺をふんだんに使ってるからな」
「ターフで麺!?」
思わず声が裏返った。芝生で中華麺が育つわけがない。でも、ゴルシさんの真顔を見ていると、もしかしたらこの学園のターフには中華麺が自生しているのかもしれないという気になってくるから怖い。
私も恐る恐る受け取った。一口、口に運ぶ。
「……ん」
美味しい。
ジャンクで、濃くて、でもどこか懐かしい味。空っぽだった胃袋に、エネルギーが満ちていく。
「……悩みなんてのァな」
ゴルシさんが、鉄板に残った焦げをこそげ落としながら言った。
唐突に、核心を突くような言葉。
「ソースで誤魔化しちまえばいいんだよ」
「……え」
「甘いも辛いも、全部ソースで真っ黒に塗りつぶして、飲み込んじまえってことだ。……腹に入れば、全部エネルギーに変わる」
ゴルシさんがニッと笑った。ふざけているようでいて、どこか達観した賢者みたいな笑み。
「世間の声? 親の七光り? ……そんなもん、ただのトッピングだ。紅生姜みたいなもんだよ。……主役は麺、オメーだろ?」
「……」
「麺がしっかりしてりゃ、何乗っけたって焼きそばは焼きそばだ。……オメーがしっかり走れば、周りが何言おうが、オメーはオメーだ」
理不尽で、意味不明な理論。
でも、不思議と腑に落ちた。
トッピング。
そうか。あの「カレンチャン」という巨大な看板も、ただのトッピングだと思えばいいのか。麺がコシを持って、しっかり味を主張していれば、それは私の焼きそば——私のレースになる。
「……ぶっ、ふふふ」
吹き出した。
あまりにバカバカしくて、でも、あまりに的確で。悩んでいた自分が馬鹿らしくなるくらい、豪快な答え。
「……そうだね。紅生姜だね」
「おう。嫌なら避けりゃいいし、好きなら混ぜて食えばいい。……自由だ」
ゴルシさんは片付けを始めた。手際が良い。慣れている。
「食ったら寝ろよ。……寝不足は美容の敵だし、スタート出遅れの元だぞ」
隣で、絢原さんが一瞬固まった。
スタート出遅れの代名詞。伝説の「ゲート難」を持つこの先輩が、真顔でそれを言う。
……いや、どの口が言うんだ。
私と絢原さんの心が、完全に一致した瞬間だった。でも、お互い何も言わなかった。ゴルシさん相手にツッコむのは、たぶん無駄だ。
「じゃあな。お代は……今度のレースで、面白いもん見せてくれりゃそれでいい」
ゴルシさんは七輪と鉄板を軽々と担ぎ上げた。ジュウジュウとまだ音を立てている鉄板を、素手で持っている。
……いや熱くないのかよ。
私が心の中でツッコむ間もなく、ゴルシさんはひらひらと手を振って、夜の闇へと消えていった。
嵐のような先輩だった。
「……なんだったんだ、今の」
絢原さんが呆然と呟いた。
「……さあね」
私は笑った。久しぶりに、心の底から笑った気がした。
「でも、なんか、スッキリした」
肩の力が抜けていた。あんなに重かったプレッシャーが、今はただの「紅生姜」くらいに思える。私は、私らしく走ればいい。誰が何と言おうと、私が主役なのだから。
「……美味しかったね、焼きそば」
「ああ。……でも、栄養管理的には最悪だぞ。明日体重測るの怖いな」
「今日だけは特別。明日から、倍走るから」
「……お手柔らかに」
顔を見合わせて、笑った。
夜風が吹く。もう、寒くはなかった。お腹の底から、温かい力が湧いてくる。焼きそばの熱か、それとも蘇った闘志の熱か。
「……トレーナー」
「ん」
「私、勝つよ」
空を見上げた。冬の星座が、ダイヤモンドみたいに輝いている。あの星みたいに、自分も輝けるだろうか。
……輝くのだ。
「勝って、証明する。私が、私だってこと」
「ああ。信じてる」
二人で、並んで寮への道を歩き出した。足取りは、来る時よりずっと力強かった。
紅生姜でも、青のりでも、何でもかかってくればいい。
全部飲み込んで、エネルギーに変えてやる。
アンチ・スプリンターの意地を、見せてやる。
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