今後の内容の参考になったり、指針になったりするので。
——Anti-Hero: Curren Moe
「モエちゃん。電気、消してもいいですか」
顔を上げると、マーちゃんがベッドの脇で待っていた。片手はもう、掛け布団の端にかかっている。
「あ、ごめん。いいよ」
「それと、シューズの紐は同じ長さでした」
「……何の話?」
「さっき、左が長いって言っていたので」
机の下に、明日履くシューズが揃えてあった。さっきまでマーちゃんが紐を結び直していたのは覚えている。何か聞かれた気もする。でも、自分が何を答えたかまでは思い出せなかった。
「ごめん。ちゃんと見てなかった」
「そうでしたか。じゃあ、明日また見てください。マーちゃんはもう寝ます」
明かりが消えた。おやすみ、と返した声が、急に広くなった部屋に残る。
ウマホには、阪神の週末の天気が出ていた。雨のマークはない。さっき見た時もなかった。その前も。
画面を伏せ、私も布団へ入った。
昼間、口を開きかけたところへ録音機が近づいてきた。目を閉じると、その距離をやけにはっきり思い出す。勝ちたいです、と言った時の自分の声も聞こえた。ちゃんと笑えていたはずだ。最後まで笑っていれば、何が違ったんだろう。
いや、もういい。あの場で考えきれなかったことが、布団の中で急に分かるわけがない。
枕を裏返した。
隣では、布団の擦れる音が一度したきりだった。マーちゃんも阪神を走る。同じ距離を、同じ日に。なのに私は、天気予報さえ閉じられずにいる。
もう一度、ウマホへ手を伸ばした。
検索欄を開くつもりだった指で、絢原さんとのやり取りを選んだ。
『まだ学園?』
返事はすぐに来た。
『いる。どうした』
『眠れない』
送ったあとで、用件になっていない気がした。眠れないから何なのか。昼間の話を最初から聞いてほしいわけでも、今から練習したいわけでもない。
次の文字を打てずにいると、画面が動いた。
『寮の近くを少し歩くか。出られるかは俺から聞く。上着を着てこい』
時計を見た。まだ十二時にはなっていなかった。
私は布団をめくった。着替える時、床のシューズへ膝が当たりそうになって、避ける。左右の紐は、きちんと同じ長さに結ばれていた。
~
寮母さんに戻る時刻を念押しされて外へ出ると、絢原さんは門のそばにいた。
コートの襟から、緩めたネクタイが覗いている。ウマホをしまう手の甲が赤かった。
「待った?」
「さっき来た。寒くないか」
「今出てきたばっかりだよ。トレーナーの方こそ、帰らなくていいの」
「帰ろうとはしたんだけどな」
古い芝コースの方へ歩きながら、絢原さんが鼻を擦った。
「映像を閉じて、帰る支度をして、それから一つだけ確認しようと思って。また座ってた」
「私の映像、そんなに見ても速くならないよ」
「分かってる。さっきは、同じところを見てるって気づくまでに随分かかった」
「……何やってんの」
笑いかけて、やめた。天気予報を何度も開いていた私には、あまり言う資格がない。
コースの外柵に沿って歩いた。昼間なら必ず見える、誰かの背中がない。倉庫の灯りが届くところだけ芝が白っぽく浮いて、その先は暗がりに続いていた。
「初めてだからさ」
絢原さんが言った。
「担当をGⅠに出すの。やれることはやったつもりなんだけど、もう一つくらい、何かあるんじゃないかと思って」
「私に聞かれても困るよ。私も初めてだし」
「だよな」
二人分の白い息が、風にちぎれた。
いつもなら練習の記録を広げている人が、今は両手をポケットに入れて、私と同じくらい遅く歩いている。私に付き合ってくれているだけでは、なさそうだった。
「ねえ。私が阪神で勝ったら、あの人たち、私の話をするかな」
言ってから、足元を見た。
絢原さんの返事が少し遅れた。その間に、聞かなければよかったと思った。
「今日来た連中は、勝っても同じことを聞くかもしれない」
「……最悪」
「ああ」
勝てば何かが変わると思いたかった。けれど、私が重賞を勝ったあとの記事で、もう何度もママの名前を見ている。絢原さんの返事に文句をつける材料がなかった。
「明日の朝、またあんな顔で撮られるのかな。寝てないって、一発で分かるよね」
「明日はコースで靴を試す。今日の件は学園にも伝えてある」
「……そっか」
短く息を吐いたら、そこで初めて、別の匂いがした。
ソースだ。
鼻先をかすめたそれを確かめようとして、顔を上げる。隣の絢原さんも、倉庫の方を見ていた。
「何か焼いてない?」
「焼いてるな」
鉄板の上で何かが弾ける音がした。こんな時間に、お祭りの屋台みたいな匂いがする。
倉庫の角を曲がったところで、銀色の長い髪と、『焼きそば』の文字が目に入った。
法被を着たゴルシさんが、両手のコテで麺をひっくり返していた。
「おう。いいところに来たな、腹ペコども」
「……何してるんですか」
「今度の屋台で出すやつの試作。昼間やると、匂いだけで客が来んだよ。売り物になる前になくなっちまう」
「夜でも来てるけどな」
絢原さんが言うと、ゴルシさんは私たちを見比べた。
「じゃあ次は朝四時だな。お前ら来れっか?」
「寝かせてください」
即答したら、コテを持ったまま笑われた。
「寝たいヤツがこんなとこ歩いてんなよ。ほれ、そこ座れ。味見くらいなら残ってるぞ」
台の下から折り畳みの椅子が出てきた。絢原さんが一つ受け取って広げている間に、私の手へ割り箸が載る。
「私たち、食べるって言ってませんけど」
「食わねえの?」
ゴルシさんが鉄板を傾けた。麺の隙間から、薄く焦げたキャベツが覗く。
晩御飯は食べた。それなのに、つい目で追ってしまった。まずかったら断ろうという逃げ道まで、匂いに塞がれている。
「……少しなら」
「じゃあ俺も」
「トレーナー、止めるところじゃないの」
「大盛りはやめとこう。俺も食べたいし」
もう自分の皿を持っている人に言っても、無駄だった。
麺を受け取り、箸の先で少しだけ持ち上げる。湯気の向こうにあったコースも倉庫も、ひと口食べている間は見なくて済んだ。
ソースが濃い。焦げたところを噛むと、ぱりっとした。キャベツは思ったより甘かった。
「……美味しい」
「だろ。で、こっからが本番だ」
ゴルシさんが容器の蓋を開けた。
赤いものが、私の皿へ落ちてきた。
「ちょっ、多い。多いです」
紅生姜だった。真ん中にどっさりと積まれ、さっきまで見えていた麺が隠れている。
「どうよ。ゴルシちゃん焼きそば、大噴火」
「焼きそば、見えなくなっちゃったじゃないですか」
「麺は地下で寝てんだよ。起こして食え」
隣を見た。絢原さんは自分の皿を体の陰へ引っ込めていた。
「トレーナーにも半分あげる」
「いや、俺は普通ので」
「味見するんでしょ。逃げないでよ」
私が皿を寄せると、ゴルシさんがいい笑顔で容器を差し出した。絢原さんは自分の皿と容器を見比べ、諦めたように腕を戻す。
隣にも赤い山ができた。
少しだけ気が済んで、私は麺を掘り出した。絡んだ紅生姜も一緒に口へ入れる。
酸っぱい。
噛んでも噛んでも紅生姜がある。どこまでが麺なのか、よく分からない。
「……普通の方がいいです」
「即答かよ。見た目で負けてんじゃねえぞ、よく食ってから言え」
「食べました。さっきの方が美味しかった」
隣で絢原さんが頷いた。口を開かないところを見ると、同じようなことになっている。
ゴルシさんは不満そうに自分の皿へ紅生姜を載せた。私たちの分より、さらに多い。ひと口食べると、今度は満足そうに頷く。
「うめえじゃん」
「……本当に、それが好きなんだ」
思わず声が漏れた。私たちを困らせたいだけかと思っていた。
ゴルシさんは麺を飲み込んで、もう一度容器へ手を伸ばした。
「お前ら、紅生姜嫌いだった?」
「好きですけど、こんなにはいらないです。麺の味がしなくなるから」
「面倒くせえ客だな。好きなもん好きなだけ食うのがいいんじゃねーか」
「ゴルシさんの好きなだけでしょ、それ」
私は箸を立て、山の横から紅生姜を寄せた。
「あ、崩すなって。噴火前に工事すんなよ」
「私が食べるんだから、私の好きにさせてください」
言いながら、赤い山を皿の端へ押しやった。
絢原さんがこちらを見た。ゴルシさんは一瞬だけ私の皿を眺め、それから空の紙皿を台に置いた。
「じゃあ、いらねえ分はこっちな。捨てんなよ、好物なんだから」
「……いいんですか」
「どうせ後でアタシの腹に入るんだ。どこから来ようが一緒だろ」
私はまだ麺に触れていない紅生姜を少し移した。絢原さんも自分の皿を寄せてくる。
「なんだよ、二人とも。山のなくなった大噴火なんて売れねーぞ」
「普通の焼きそばを売ってください」
「それなら買う」
「お前らが普通でいいって言うから、アタシの皿だけ高くなんだろうが」
本当に、向こうの皿だけおかしな高さになっていた。しかも、今そう言った人が箸で頂上を整えている。
笑ったら、口の中に残っていた酸っぱさが鼻へ抜けた。むせそうになって顔を伏せる。隣でも、絢原さんが肩を揺らしていた。
「あれ、売る時どうやって蓋するんですか」
「……蓋?」
ゴルシさんが皿を持ち上げ、横から見た。
私と絢原さんは、しばらく顔を上げられなかった。
ようやく落ち着いて食べ直すと、ソースの味がした。キャベツもまだ残っている。赤く染まってしまった麺を、箸に巻きつけた。
『母のためではない、と?』
あの時も、これくらい言えたらよかったのに。
私が食べるんだから、私に決めさせて。焼きそばのことなら、こんなに簡単に出てきた。
ママが嫌いなわけじゃない。喜んでほしくないわけでもない。だからって、私が阪神で何をしたいのかまで、あの人たちに決めてほしいわけじゃなかった。
ゴルシさんの箸が、皿の上からこちらへ伸びてきた。
「それもいらねえの?」
「これは食べます」
残しておいた紅生姜を、麺と一緒に口へ入れた。少し多い。でも、さっきみたいに、何を噛んでいるのか分からなくはならない。
「次は、最初から別にしてください」
「注文つけんの早えな。まだ次の試作、考えてんのに」
「これでいいです。あとは自分で乗せるから」
ゴルシさんは鼻を鳴らした。何か言い返すかと思ったら、コテを置いて、空になった鉄板へ蓋をかぶせる。
「じゃあ次は金持ってこい。お前らの注文聞いてたら、商売になるか確かめたくなってきたわ」
絢原さんが時計を見た。私もつられて見る。戻ると言った時刻まで、もうあまりない。
皿を片づけ、椅子を畳んだ。ゴルシさんは火を消して、使った道具を手際よく台車に収めている。
「ごちそうさまでした」
「おう。次も腹空かせて来いよ。紅生姜だけで腹いっぱいにしてやる」
「話、聞いてました?」
ゴルシさんは答えず、こちらへ手を振った。その手に、まだ半分ほど残った赤い山の皿が載っていた。
~
寮へ戻る道で、自分の袖を嗅いだ。
「……匂い、ついた」
「分かる。俺もする」
コートを脱いでから部屋に入ろう。マーちゃんまで起こして、明日の朝、二人とも眠そうな顔をしていたら嫌だ。
そんなことを考えているうちに、欠伸が出た。
口元を押さえたまま横を見ると、絢原さんも同じ顔をしていた。
「移ったじゃん」
「お前が先だろ」
言い返すより先に、もう一度出た。
胃の辺りには、まだ嫌な感じが残っている。阪神の坂を思い浮かべると、今も足が重くなる。紅生姜を避けるのと同じ調子で、カメラの前に立てる気はしなかった。
それでも、今すぐ記事を探して、何と書かれるか確かめたいとは思わない。まず歯を磨きたかった。たぶん、奥歯にキャベツが挟まっている。
「トレーナー。明日の新聞、持ってくる?」
「読むか?」
「……靴を試してからにする」
昼間は、あんなに早く履いて走りたかった。左足が楽になったか、右と同じように踏めるか。走ってみてどうだったかは、明日、私が伝えることになっている。
「走ってから、自分で電話する。だから、先に言わないでね」
「分かった。俺も横で見るけど、まずお前から話してくれ」
門のところまで来ると、寮の明かりが目に眩しかった。
「寝られたかは、朝に聞く。それから練習を決めよう」
「トレーナーも帰ってよ。映像の続きはなし」
「帰るよ。俺も眠くなってきた」
それなら、と頷いて、私は玄関へ向かった。
マーちゃんは同じ向きで眠っていた。上着を離れた場所に掛け、歯を磨いて戻る。ベッドへ入る前に、床のシューズを少し奥へ寄せた。夜中にどちらかが引っかけたら、せっかく結び直したのに気の毒だ。
『戻った。おやすみ』
絢原さんへ送ったあと、開いたままだった天気予報も閉じた。
目覚ましの時刻を確かめて、画面を伏せる。返事は、朝になったら読めばいい。
布団の冷たいところへ足を伸ばし、枕に頬を押しつけた。瞼の裏に、紙皿を横から見ているゴルシさんの顔が浮かぶ。
……蓋のことくらい、先に考えといてよ。
声が漏れそうになって、布団を少し引き上げた。
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