アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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阪神JF、開幕。


16話 三強の肖像(ポートレート)(阪神JF・開幕)

十二月。阪神レース場。

 

冬の低い陽光が、ターフの上に長い影を落としている。

空気は澄み切って、吐く息が白い。なのにスタンドを埋め尽くす数万の観衆が発する熱気が、十二月の寒さを帳消しにしている。

 

阪神ジュベナイルフィリーズ。

ジュニア級の女王を決める、最初の一戦。

来年のティアラ路線の覇権を占う試金石。ゲートが開くまでのわずかな時間、世界はこの場所を中心に回っている。

 

十八人のウマ娘が、パドックへと姿を現した。

 

 

 

~~

 

 

 

――Recorder: Aston Machan

 

 

 

カシャッ。

 

心のシャッターを切る音が、マーちゃんの脳内で静かに響きました。

 

パドックの白い柵。手入れされた緑の芝。西日が作り出す強いコントラストが、勝負服を纏ったウマ娘たちの輪郭をドラマチックに際立たせている。

今日の阪神は、最高の撮影日和ですね。空気は澄んでいて、光の加減も申し分ない。何より、今日の被写体は極上です。どの子も皆、人生を賭けた真剣な表情をしていますから。

 

マーちゃんは列の先頭を歩きながら、少しだけ歩調を緩めて、背後の気配を探りました。

世界が注目する二人のライバル。このレースの「主役」になり得る器を持つ彼女たちを、意識のレンズが捉えます。

 

一人目。ウオッカ。

 

この子は真夏の日差しみたいなウマ娘です。パドックを歩くだけで空気の温度が上がる。鍛え上げられた引き締まった体。溢れ出す闘争心。隠そうともしない野心。

彼女がそこにいるだけで、パドックの温度が一度上がったような気さえします。

 

まさに、少年漫画の主人公。誰もが応援したくなる、分かりやすくて眩しい「光」。

この子が勝てば、それはきっと、誰もが納得する英雄譚の始まりになるでしょう。観客の視線も、熱を帯びて彼女を追っています。

 

そして、もう一人。マーちゃんのすぐ後ろを歩く、芦毛の子。

 

カレンモエ。

 

この子は……そうですね。例えるなら、「月」でしょうか。

それも、凍てつく冬の夜空に、鋭利な刃物のように浮かぶ三日月。

 

今日の彼女は、漆黒の勝負服に身を包んでいます。お母様のカレンチャンの象徴である「白と赤」とは対極にある、混じり気のない深い黒。燕尾服のようなジャケットの裾が、歩くたびに鋭く翻り、彼女の周囲に結界を張っているようです。銀色の装飾が、冷たい光を反射している。

 

美しい。ゾクゾクするほどに、美しいです。

 

観客席からは、無数のレンズと視線が降り注いでいます。

「カレンチャンの娘」「血統の証明」「悲劇のヒロイン」。あるいは、「身の程知らずの挑戦者」。

勝手な物語を押しつけられ、レッテルを貼られ、過去の幻影と比較され。

 

それでもなお、この子は顎を上げて歩いている。

以前のような迷いはありません。かといって、希望に満ちているわけでもない。

あるのは、自分自身を焼き尽くしてでも前に進もうとする、静かで冷たい狂気。

 

「……いい顔です」

 

マーちゃんは小さく呟きました。マスコットとして最高の笑顔を浮かべたまま、瞳の奥だけで彼女を記録します。

 

1200メートルのスピードを持ちながら、1600メートルという死地に挑む矛盾。完成された肉体を持ちながら、それを否定しようとする精神。その歪みこそが、この子をパドックで最も美しく、最も儚い存在に仕立て上げているのです。

 

勝てば革命。負ければ悲劇。どちらに転んでも、世界の記憶に残る。

 

……羨ましいですねぇ。でも、負けませんよ?

 

マーちゃんは、マーちゃんだけのために走ります。誰かの物語の脇役になるつもりはありません。ウオッカの英雄譚の引き立て役にも、モエちゃんの悲劇の観測者にもなりません。

 

この最高の舞台で、誰よりも鮮烈に、誰よりも不可解に。「アストンマーチャン」というウマ娘がいたことを、世界に焼きつけてみせます。そうすれば、マーちゃんは忘れられない。永遠に、誰かの記憶の中で生き続けることができる。

 

このレースは、誰が一番速いかを決める競争ではありません。

誰が一番強く、世界の網膜に焼きつくことができるか。その存在証明の戦いなのです。

 

さあ、準備はいいですか?

マーちゃんたちの戦争が、始まります。

 

 

 

~~

 

 

 

―― Maverick: Vodka

 

 

 

地下バ道から、光の溢れるターフへ。

暗がりから一歩踏み出した瞬間、視界が一気に開ける。

 

「うおおおおおおおっ!!」

 

鼓膜を震わせる大歓声が、全身を叩いた。地鳴りのような音。数万の視線。

 

「……へっ、たまんねえな!」

 

思わずニカっと笑っちまった。これだ。この瞬間だ。この熱狂の中に身を投じるために、オレはここまで走ってきたんだ。

鳥肌が立つ。武者震いが止まらない。恐怖なんて欠片もない。あるのは、「早く走らせろ」と暴れる体と、高揚感だけだ。

 

芝の感触を踏みしめる。冬の阪神の芝はタフだと言われるが、オレのパワーなら関係ねえ。荒れれば荒れるほど燃えてくる。綺麗なだけのレースなんてつまらねえだろ? 泥臭く、力強く、誰よりも前へ。それがオレの目指す「カッコいいウマ娘」だ。

 

『3番人気、ウオッカ!』

 

実況がオレの名前を呼ぶ。スタンドに向かって、拳を突き上げる。さらに大きくなる歓声。最高だ。もっとオレを見ろ。もっと熱くなれ。

 

ふと、視線を感じて横を見た。少し離れたところで、黒い勝負服のあいつ――カレンモエが、静かにスタンドを見上げていた。

 

「……おいおい」

 

苦笑する。あいつ、またあんな顔してる。

悲壮感たっぷりで、今にも折れそうな細い体で。なのに、絶対に引かないっていう頑固な目。

 

学食で話した時のことを思い出す。

「私が私であるためには、ママより強い証明をしなきゃいけない」

あの時のモエは、正直、今まで見たどのウマ娘よりカッコよかった。自分の弱さを知った上で、それでも高い壁に挑もうとする姿勢。だからオレは、あいつと走るのが楽しみで仕方ねえ。

 

親の七光りなんかじゃない。自分の足で、自分の道を切り開こうとしている奴だって知ってるから。

 

「……モエ」

 

聞こえるはずもない距離で、呟いた。

 

「辛気臭い顔してんじゃねえよ。……今から、ジュニア級の女王を決めるんだぜ?」

 

ここは、オレたちが一番輝くためのステージだ。誰かの影に怯えたり、血統なんていう見えない鎖に縛られたりする場所じゃねえ。ただ速い奴が偉くて、ただ強い奴がカッコいい。それだけの、シンプルな戦場だ。

 

見せてみろよ、お前の覇道を。

 

マイルは長いか? スタミナが持たないか? 知ったことかよ。そんな理屈、お前のあのとんでもないスピードでねじ伏せちまえ。タキオンさんとかいうマッドサイエンティストに入れ知恵されたらしいが、小細工なんていらねえ。お前はお前のままで、十分に強えんだよ。

 

オレは知ってるぜ。お前がただの「親の七光り」じゃないってことくらい。あの未勝利戦で見せた、理不尽なまでの速さ。あれは、間違いなく「本物」だった。

 

「……来いよ。力づくでねじ伏せてやるから」

 

シューズの紐を締め直す。

スカーレットのやつはホープフルSに行っちまったが、ここにも倒しがいのある相手がいる。マーチャンも不気味だが、一番怖いのは、やっぱりモエだ。何をしてくるか分からない危うい爆弾。

 

ゲートに向かう足取りが軽くなる。エンジンが温まってきた。

 

さあ行こうぜ。一番カッコいいウマ娘を決める、パーティーの始まりだ。

 

 

 

~~

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

ゲートの裏。待機所で、軽く屈伸しながら、何度も深呼吸を繰り返す。

 

吸って、吐く。吸って、吐く。

 

冷たい空気が肺を満たし、熱くなった血液を冷やしていく。タキオンさんに教わった呼吸法。これを守っていれば、心拍数は安定する。体は言うことを聞く。頭では分かっている。

 

でも、指先の震えだけは止まらなかった。

 

怖い。認めよう。猛烈に怖い。

 

スタンドを埋め尽くす視線。その全部が、「カレンチャン」というフィルター越しに私を品定めしている。

 

「ほら、やっぱりマイルは無理だ」「所詮はスプリンター」「母親の真似事」

 

幻聴が耳にこびりつく。

前走のファンタジーSは勝てた。でも今日は1600メートル。たった200メートル長いだけ。されど、私にとっては底なしのクレバスのように思える。

 

デビュー戦の記憶が蘇る。東京の長い直線で、脚が鉛のように重くなり、景色が歪んでいったあの感覚。体の中の時限爆弾がカウントダウンを刻むような焦燥。肺が焼け、脚が止まり、無数の背中に追い抜かれていった屈辱。

 

……帰りたい。

 

ふと、弱音が漏れそうになる。ここから逃げ出して、寮の布団に潜り込みたい。1200メートルのレースなら、こんな思いをしなくて済むのに。あっちに行けば、私は女王でいられるのに。楽な道があることは知っている。私の体は、そっちに行きたがっている。

 

不意に、あのバカなトレーナーのリプライを思い出した。

 

「お父様の愛、大事に飲みましょう」

 

何の気休めにもならない。デリカシーのかけらもない。

なのに、あの文字を思い出すだけで、冷え切った胃の腑に温かいものが広がる。

 

今朝も、あの人は私の顔を見て、何も言わずに背中を叩いてくれた。「行ってこい」と。

その手は震えていなかった。私よりもずっと緊張しているくせに、私の前では堂々としていてくれた。

 

私のことを「カレンモエ」として見てくれる、数少ない共犯者。あの人が信じてくれている私を、私が信じなくてどうする。

 

パチン。

自分の頬を叩いた。乾いた音が、ゲート裏に響く。

 

……シャキッとしなさいよ、私。

 

逃げてどうする。ここで逃げたら、世間が勝手に重ねる「ママの幻影」に一生飲み込まれる。「カレンモエ」という私を見てもらえないまま、ただのコピーとして消費されて終わる。

 

そんなの、真っ平ごめんだ。

 

漆黒の勝負服の袖を握りしめた。

ママのような白も赤もない。フリルもリボンもない。機能性だけを追求した、私のための戦闘服。これを纏っている限り、私は誰のコピーでもない。

 

「各ウマ娘、ゲートへ誘導されます」

 

係員の声。18番ゲート。大外枠。

不利だと言われる枠だけど、今の私には好都合だ。包まれる心配がない。自分のタイミングで、自分のリズムで走れる。

 

ゲートへと歩みを進める。

 

ゲート裏の通路。十八人が一列に並んで、それぞれの枠に向かう。

足音がコンクリートに反響する。誰も喋らない。GⅠのゲート裏は、いつだって静かだ。

さっきまでのパドックの喧騒が嘘みたいに、ここには張り詰めた沈黙しかない。

 

その沈黙の中を歩いている時だった。

 

視線を感じた。

 

横を見る。

通路の反対側を歩いているウオッカと、目が合った。

 

一瞬。

 

ウオッカの目は、熱かった。

闘志とか野心とか、そういう名前のつくものが全部剥き出しになっている、真っ直ぐな目。

あの子はいつもこうだ。裏表がない。隠し事ができない。全部顔に出る。

 

その目が、私を見ている。

「カレンチャンの娘」としてじゃない。「カレンモエ」として。

倒すべき相手として、まっすぐに。

 

口元が、ほんの少し動いた。

何か言いかけて、やめた。声にはしなかった。

 

でも、分かった。

 

——来いよ。

 

そう言っている。目だけで。

 

私は、ウオッカの視線を真正面から受け止めた。

逸らさなかった。逸らしたら、負けだ。ゲートに入る前から負けるなんて、ごめんだ。

 

ウオッカが、にやりと笑った。

獰猛で、楽しそうで、眩しい笑み。

あの子にとって、レースは祭りだ。一番強い奴を決めるパーティー。

怖がっている私とは、根本から違う。

 

……でも。

 

私も、口の端がほんの少しだけ上がったのを、自分で感じた。

笑えた、わけじゃない。

でも、あの目に真正面から見つめ返せた。それだけで、今は十分。

 

目線が外れた。

それぞれのゲートに向かう。たった数秒の交錯。

 

言葉はなかった。

でも、あの数秒で交わしたものは、どんな言葉より重かった。

 

隣の枠の方角から、ウオッカの熱気が伝わってくる。楽しそうに尻尾を揺らしている。視界の端では、マーチャンが不気味に微笑んでいる。あの子は、私をじっと観察している。

 

強敵。

あの二人は、私を「カレンチャン」としてではなく、「カレンモエ」として倒しに来ている。

それが嬉しくて、そして誇らしい。

 

……見ててよ、ママ。

 

ふとスタンドの上層、関係者席の方角を見上げた。来るなんて聞いてない。でも、あの人のことだ。神出鬼没に現れて、ニコニコしながら見ている気がする。

 

……ふん。

 

もし見ているなら、目に焼きつければいい。ママが走らなかった距離で、ママの娘が何をするのかを。

 

……そして、見てて。トレーナー。

 

ゲートの中に体を滑り込ませた。狭い空間。一瞬の静寂。

心臓の鼓動が、呼吸のリズムと重なる。

 

「……私は、私だ」

 

小さく呟いたその言葉は、誰にも聞かれることなく、歓声の中に溶けていった。

 

ガチャリ。

 

ゲートの音が鳴る。決戦の扉が、今、開かれた。

 




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