——Live: Announcer
ゲートが開いた。
『スタートしました、阪神ジュベナイルフィリーズ! 大外18番、カレンモエがいいスタート!』
18人の勝負服が一斉に広がる。その外から、漆黒の勝負服が伸びた。内側の走者たちが位置を取り合う間に、先頭をうかがう勢いで前へ出る。
『カレンモエ、このまま行くか——ここは控えました! 先行勢を行かせて、後ろへ下げていきます!』
黒い袖の振りが小さくなった。カレンモエの内側を、ほかのウマ娘たちが次々に抜けていく。
内から出たウマ娘が先頭に立ち、その後ろへもう1人が続いた。競り合いは長引かず、横に広がっていた集団が前から順に収まっていく。
『アストンマーチャンは3番手! 先頭を見る好位置です。カレンモエは中団の外、10番手あたりまで控えました。その斜め後ろにウオッカ!』
後方のウマ娘たちも離れずに続く。先頭が落ち着くと、後続との間が詰まり、勝負服が重なった。
『先頭争いは落ち着きました。隊列はひとかたまり。まずはゆったりとした流れになっています』
——Anti-Hero: Curren Moe
遅い。
前の子の靴底が見える。蹴られた芝が頬をかすめた。近すぎる気がして足を緩めると、今度は背後の足音が詰まってくる。
スタートで抑えた足が、まだ前へ出たがっていた。腕を小さく振り直すたびに、腿の付け根が突っ張る。先へ行かせた子たちの背中を、追わないでいる方がずっと難しい。
外は空いている。抜けようと思えば、抜けられる。大外から出た時と同じで、誰も私の前へ蓋をしているわけじゃない。
今日は1600mだ。
飛び出して、途中で潰れて、それで終わりにはしない。
ファンタジーSでは、1400mを走って勝った。あのあとに、もう200mある。ゴールの先へ足しただけの数字を、練習では何度も頭に入れてきた。それなのに、目の前にこれだけ背中があると、今すぐ全部を追い抜く方が簡単に思えてくる。
東京で、それをやった。
あの直線の続きを、ここで繰り返すつもりはない。
前の子との間を詰めすぎず、後ろから追いつかれすぎず。その間にいろ、と言われている。
誰に言われたわけでもない。この場所を選んだのは私だ。
それが、余計に腹立たしかった。
前が少し空くたび、そこへ足を入れたくなる。追いついたらまた抑えなければならないのに、隙間を見ると体が先に伸びる。速く走るのを我慢しているだけで、こんなに疲れるなんて聞いてない。
……聞いたかもしれない。
聞いたところで、できるようにはならなかっただけだ。
奥歯を離し、息を長く吐いた。胸の辺りだけで浅く繰り返していた呼吸が、少し戻る。肩も下げた。足まで楽になったわけではないけれど、前の靴底ばかり睨むのはやめられた。
視線を上げる。
前の方に、マーちゃんがいた。
3番手。先頭のすぐ後ろで、誰かに急かされる様子もなく走っている。いつでも外へ出られそうな場所だった。
練習が終われば、同じ部屋へ帰る子だ。靴の紐の長さを気にして、机の上へ人形を座らせて、私が寝る前にも何かを記録している。
今は、随分遠い。
出走前に目が合った時の笑顔が浮かんだ。あの時も落ち着いていた。私がどう走るのか、楽しみにしているみたいに。
先に行かなかったのを見て、安心してる?
だったら、そのまま待ってて。
眉間に力が入っているのが、自分でも分かる。頬を緩めようとして、余計に息が詰まった。カメラの前なら、考えなくてもできるのに。
息を整えて、足を合わせる。
追い抜きたい背中を目の前に置いたまま、追い抜かない。
今のところ、それが勝つための走り方だった。
——Recorder: Aston Machan
前の子の腕振りが、小さくなりました。
マーちゃんの前には2人。先頭争いはもう終わったのに、ここからさらに遅くするようです。
マーちゃんはその背中へ詰まりかけ、外へ半歩ずれました。まだ抜きません。前へ出れば、今度はマーちゃんが後ろの子たちを連れて走ることになります。
それは、もう少し先でいいのです。
外側を確かめた時、後方の黒が目に入りました。モエちゃんは中団にいます。出走前と同じように顎を引いているのに、腕にはずっと力が入っている。
あの顔は、寮でも見たことがありました。
何でもない、と言って、ウマホを伏せる時の顔です。何でもないなら、そんなに強く机へ置かなくてもいいのに、といつも思うのですが。
今も、そういう顔をしています。
我慢しているのですね。
何をどれくらい我慢できるかまでは、マーちゃんには分かりません。ただ、あの子はファンタジーSで、最後まで追ってきました。今日も、苦しそうだから来ないだろうとは思わないことにします。
そして、黒い勝負服の後ろにはウオッカさん。
こちらも、まだ動いていません。
2人を見たのは、それだけでした。前へ目を戻すと、先頭の子が内へ寄り、その外にいた子も続きます。空いた場所を、別の子が取りに来る気配がありました。
マーちゃんは少しだけ歩幅を伸ばしました。
外の場所を譲らず、前との間も開けない。相手は並びかけるのをやめ、斜め後ろへ収まりました。
これで、直線へ向く時に行き先を選べます。
パドックには、たくさんのカメラがありました。
マーちゃんが顔を向けても、レンズがその向こうを追っていたこともあります。ウオッカさん。カレンモエさん。カレンチャンさんの名前も、客席から聞こえてきました。
今日、そこにいないウマ娘の名前です。
モエちゃんは聞こえないふりをしていました。マーちゃんも、自分へ向いているカメラに笑っていました。
映らなかった分は、これから取り返します。
勝った子は、最後に名前を呼んでもらえます。大きな画面にも映ります。今日のレースを話す時、誰もその名前を抜かせなくなる。
アストンマーチャン。
その名前を、覚えて帰ってもらうのです。
第3コーナーへ入ると、前の子の背中が少し近づきました。カーブで足を緩めたようです。マーちゃんは外側に残り、相手の肩が見えるところまで進みました。
相手も気づいて、速度を上げます。
ついていきました。まだ、余計には踏みません。
このまま並んで、直線へ向く前に抜く。
モエちゃんが来た時には、もう先頭にいるつもりです。追いついてから考える時間を、あの子にあげる必要はありません。
一瞬、口元が緩みました。
いつもの笑顔のつもりでしたが、息がかかって、うまく形にならない。
それで構いません。今はカメラへ顔を向けなくても、前へ出れば見てもらえるのですから。
前の肩が、少しずつ後ろへずれていきます。
その向こうに、もう1人。
マーちゃんは、次の背中へ目を移しました。
——Live: Announcer
『第3コーナー、アストンマーチャンが外から進出! 2番手へ上がって、先頭に近づいていきます!』
前の並びが変わると、後続も間を詰め始めた。まとまっていた集団が、前から少しずつ縦へ伸びていく。
『カレンモエはまだ中団の外。ウオッカもその後ろを離れません。前はアストンマーチャンが動きましたが、この2人はまだ仕掛けない!』
——Maverick: Vodka
ようやく動いたかよ。
前の方でマーチャンが上がるのを見て、オレも足を伸ばしたくなった。さっきから、余って仕方ねえ。
けど、まだ踏み込まない。前が速くなった分だけ、こっちも間を詰める。
モエは斜め前にいた。中団の外。背中を丸めず、前のやつにぶつからないだけの間を残して走っている。
あのスタートから、よくそこまで引いたもんだ。
オレなら、あれだけ前が空いたら行きたくなる。行ってからどうにかしてやるって、絶対に思う。
モエも思ったはずだ。
けど、行かなかった。
何度か、あいつと前の間が詰まった。抜くのかと思うくらい近づいて、そのたびに黒い袖が引き戻される。止まりたいわけじゃねえ。前のやつと同じ速さを続けるのが、妙に難しそうだった。
……そこで使い切るなよ。
言ったところで、届く距離じゃない。
オレは黒い背中から目を外し、もっと前を見た。
このままではマーチャンに持っていかれる。あいつはもう、自分の好きな場所で勝負を始めている。モエがいつ動くか眺めてるだけじゃ、2人まとめて置いていかれるだけだ。
内から肩が近づいた。
前へ行きたいらしい。オレが少し引けば、モエの後ろへ入れる場所ができる。
譲らなかった。
足を伸ばし、肩を並べさせない。ここを取られると、直線で外へ出す時に、もう1人ぶん迂回することになる。
前にはモエ。
外には、まだ走れる場所がある。
オレが使うのは、そのさらに外だ。
黒が伸びたら、その背中について上がる。直線へ出たら、横へ並べる。
ついていくだけで終わる気はねえ。
あの加速を間近で受けて、それでも前へ出る。
それができたら、最高にカッコいいだろ。
スタンドの方で声が膨らんだ。誰を呼んだのかは分からない。名前を聞き分けようとするより先に、胸の奥がせり上がった。
今日、最初にゴールするのはオレだ。
レースが終わったあとで、どこから仕掛けたとか、誰の後ろにいたとか、いくらでも喋ってやる。その時に勝ってなきゃ、どんなに格好つけたって言い訳だ。
スカーレットの顔が浮かんだ。
あいつは別のレースを選んだ。向こうで1番になる気でいる。こっちで負けて、帰ってきたあいつに何か言われるのを待つつもりはない。
阪神に出ときゃよかったって思わせるくらい、派手に勝つ。
そのために、今は待つ。
モエの足音が、一瞬だけ強くなった。
オレも体を前へ倒しかける。
まだだった。
黒い背中は前を追っただけで、それ以上には上がらない。
思わず笑いそうになった。
じらすじゃねえか。
あいつは後ろを見なかった。オレに合わせているわけでも、合図を送っているわけでもない。ただ、自分の足を使う場所まで待っている。
上等だ。
お前の隣に出る場所は、もう取ってある。
第4コーナーへ近づく。前の集団が横に広がり始めた。
モエが少し外へ寄る。
今度はオレも、同じだけ外へ出した。
さあ、来いよ。
合図はお前が出せ。
——Anti-Hero: Curren Moe
マーちゃんが、前へ行く。
さっきまであの子の前にいた背中が、ひとつ減った。もうひとつも、並ばれている。
待って。
そう思った自分に、腹が立った。
待つわけないでしょ。勝ちに来てるんだから。
前の子が速度を上げ、私との間が開いた。その隙間へ、内から別の子が入ろうとする。
取らせない。
足を伸ばして、前へついた。
腿の裏が重かった。
踏み出した足は動く。追いつけた。けれど、さっきまでのように、押さえていないと勝手に前へ出る感じではない。追うと決めて力を入れなければ、間が開く。
まだ、全力で走っていないのに。
喉の奥が乾いていた。唾を飲もうとして、うまくいかなかった。呼吸は続けている。止めていない。それでも、腕の重さまでは取れない。
芝が、また顔へ飛んできた。
頬に当たったものを拭わず、前を見たまま走る。
ここで置いていかれたら、直線へ出た時に何人抜けばいい?
先頭まで、どれくらいある?
考えながら、つい強く踏む。前の背中が近づく。近づきすぎて、また緩める。
何をやってるの、私。
焦っている。
自分で分かっても、足は一度では落ち着かなかった。
残りの距離を知りたくて、前方の標識を探す。見つけた途端、まだこんなにあると思ってしまった。
1200mなら、もうゴールが近い。
今日は違う。その先まで走るために、今まで抑えてきた。
なのに、今ここで苦しくなったら、何のために待ったのか分からない。
……違う。苦しくならないために待っていたわけじゃない。
勝つためだ。
最後まで使えるように、取っておいた。
タキオンさんのところで走ったあと、何度も同じ話をした。早く行きたがる私に、絢原さんは直線へ入るところの映像を戻して見せた。あそこから使う。そこまでは、前が空いても追わない。
その時は、分かったと言った。
画面の中では、どの背中もこんなに遠くなかった。
外側へ目を向ける。
空いている。
今なら抜けられる。前の子をかわして、マーちゃんのところまで行ける。
足がそちらへ向きかけた時、背後で別の足音がした。
私が外へ寄った分だけ、ついてくる。
ウオッカ。
振り返らなかった。見なくても、さっきから近くにいるのは分かっていた。私が動けば、あの子も来る。
外へ出た先まで、私だけの場所にはならない。
それが悔しくて、少しだけ、頭が冷えた。
ここで全部使ったら、あいつに抜かれる。
マーちゃんにも届かないまま、後ろから抜かれて終わる。
それだけは、嫌だった。
腕を引き、前の子と同じ速さへ戻した。奥歯を噛んだまま、息を吐く。顔を取り繕う余裕なんて、もうなかった。
見られていたっていい。
苦しい顔でも、不機嫌な顔でも。笑って走るために来たんじゃない。
カーブの先が、明るく開け始めた。
マーちゃんが前へ出る。ほかの子たちも、その後ろを追っていた。私の前にいた子が内へ寄り、黒い袖の先に、誰もいない芝が見えた。
今度こそ、行ける。
胸が強く鳴った。
もし、足が止まったら。
東京の直線が浮かびかけて、私は顎を上げた。
ここで負けたら、また同じことを言われる。
母親と同じ距離なら。無理をしなければ。カレンチャンの娘なんだから。
ママは、そんな言い方をしない。
勝ったよ、と電話をしたら、きっと私の話が終わる前から喜ぶ。パパまで呼んできて、2人で喋り始める。ちゃんと聞いてよ、と文句を言う自分まで想像できた。
勝ったあとくらい、そんな話だけしていたい。
なのに、どうして先に、あの記者の顔を思い出さなきゃいけないの。
他人が勝手に使うママの名前に、私の行き先まで決められてたまるか。
前を見る。
先頭は、まだ私じゃない。
まずは、あそこだ。
短く息を吐いた。もう一度吸い込み、外へ踏み出す。さっきまで邪魔だった腕の重さを、そのまま後ろへ振り切った。
体が前へ倒れる。
押さえるのをやめた足が、芝を深く掴んだ。
「——行けぇッ!!」
コーナーがほどけ、直線が開いた。
私は、取っておいた一歩を叩きつけた。
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