アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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17話 猫を被る怪物たち

ガチャリ。

 

ゲートの音が、十八人の鼓膜を同時に叩いた。

 

『スタートしました! 阪神ジュベナイルフィリーズ、十八人がターフへ飛び出します!』

 

地鳴りのような足音。巻き上がる芝。数万の歓声が、物理的な風圧となってコースに押し寄せる。

 

その中で、ひと際鋭い反応を見せた影があった。

 

大外、18番枠。漆黒の勝負服。カレンモエ。

 

彼女のスタートは天性のものだ。思考するよりも速く、筋肉が号砲に反応し、弾かれたように加速する。爆発的な初速で先頭集団を飲み込み、ハナに立つ――かに見えた。

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

風が鳴る。視界が流れる。体が軽い。あまりにも軽すぎる。

 

……行ける。

 

本能が叫んでいる。脳を置き去りにして、脊髄が勝利への最短ルートを弾き出す。

 

このままアクセルを踏み込めば、誰にも邪魔されずに先頭に立てる。内側のウマ娘たちが位置取りに苦労している間に、大外から突き抜けてしまえばいい。風になって、誰の背中も見ずに走れる。

 

一番得意で、一番楽で、一番気持ちいい勝ちパターン。

 

「……ッ、ダメ!」

 

唇を噛んだ。全力で、ブレーキをかける。

 

行っちゃダメ。ここで行ったら、終わる。

 

私の体は、1200メートルを全力で走ることに特化している。ここで気持ちよく飛ばせば、残りの400メートルは地獄になる。デビュー戦の二の舞。無様に失速して、泥を啜って、嘲笑されるだけ。

 

それだけは絶対に避ける。負けるにしても、前のめりでなきゃ意味がない。

 

上体を起こす。意識的にスピードを殺す。

呼吸を切り替えた。タキオンさんに叩き込まれた、深く長いリズムへ。

 

肺を動かす。酸素を全身に送り込む。高ぶる心拍数を、無理やり抑え込む。

 

すると、私の横を、他のウマ娘たちが次々に駆け抜けていった。

色とりどりの勝負服が前を塞ぐ。風が遮られる。視界が狭くなる。

 

群の中。

前後左右を囲まれる、窮屈で、息苦しい場所。自分の足音すら他のウマ娘の足音にかき消される。

 

スプリンターである私が、最も嫌う場所。

 

……怖い。

 

足が絡まるかもしれない恐怖。自分のペースで走れないストレス。

そして何より、「前に出たい」という猛烈な渇望。

 

体の中の黒い猫が、狭い箱に閉じ込められて暴れている。

 

出せ。走らせろ。前が空いてるのに。

あいつら遅い。邪魔。どいて。

 

爪を立てて、私の内側を引っ掻き回す。胃の裏側を蹴り上げるような不快感。

 

痛い。苦しい。

走りたいのに、走れない。全力か停止か、それしか知らない体に、「ゆっくり走れ」と命じている。そんな回転数、私のエンジンには存在しない。レースじゃない。自分自身との殺し合いだ。

 

……静かにして。

 

暴れる猫の首根っこを掴んで、なだめる。

 

まだだよ。……まだ、その時じゃない。

 

10番手付近、中団の外目にポジションを落ち着けた。

目の前には、無数の背中。

 

その背中の隙間から、マーチャンの姿が見えた。

3番手あたり。いつでも抜け出せる好位。不気味に安定している。

時折、チラリとこちらを見る。

 

私のことなんて気にしていないふりをして、全部監視しているような視線。

「分かっていましたよ」とでも言うように。

 

……ムカつく。

 

その余裕を、後で恐怖に変えてやる。

沸々と湧き上がる怒りを飲み込んで、じっと時を待った。

 

今はまだ、爪を隠す時間だ。

 

 

 

――Recorder: Aston Machan

 

 

 

ふふっ。予想通りですね。

 

マーちゃんは隊列の3番手から、背後の気配を感じ取っていました。

 

カレンモエさんは、来ませんでした。あのロケットみたいなスタートを決めながら、自ら速度を緩めて、群の中へ潜っていった。

 

我慢を選びましたか。賢明です。マイルを走り切るには、それしかありませんから。

 

でも、それは自分の翼をもぐ行為でもあるのです。

スプリンターの最大の武器を捨てて、不慣れな持久戦の土俵に上がるということ。息を止めて水の中を泳ぐような、緩慢な苦しさが続く。

 

マーちゃんなら、耐えられませんね。走ることは、自分を表現すること。自分を押し殺して走るなんて、死んでいるのと同じですから。

 

一瞬だけ首を巡らせて、背後を確認しました。

群の隙間から覗く、モエちゃんの顔。

 

一見すると、無表情。でも、マーちゃんの目は誤魔化せません。

 

能面の裏側で、眉間に深い皺が寄って、鬼みたいな形相で叫んでいるのが透けて見えます。必死に隠そうとしても、内圧が高すぎて、表情の端々から苦悶が漏れ出している。

 

美しい。

 

自分の本能を鎖で縛り上げて、血を流しながら耐えているその姿。悲劇的で、とても絵になります。運命に抗って、歯を食い縛る顔の方が、ずっと強く「生」を感じさせるのです。

 

さて、レースの流れはどうでしょうか。

 

強力な逃げウマ娘が不在。ペースは落ち着いている。GⅠにしてはスロー。

 

前につけたマーちゃんには有利な展開です。自分のリズムで走れますし、直線の瞬発力勝負になれば、ピッチ走法が活きる。

 

そして後ろで我慢しているモエちゃんにとっては、地獄の時間が長引くことを意味します。

 

遅いペースに付き合わされるストレス。行きたがる体を抑え続ける消耗。

貴女の体内時計は、もう「半分過ぎた」と告げているはずです。でも、実際はまだ。そのズレが、精神をヤスリのように削っていく。

 

聞こえてきますよ。貴女の中の獣が、檻を叩く音が。

 

「……いいですよ、モエちゃん」

 

風を切る音に紛れて、囁きました。

 

「その必死な顔も、しっかり記憶してあげますからね」

 

視線を前に戻す。マーちゃんのやることは変わりません。

 

このまま好位で進み、直線で抜け出し、誰にも追いつかせずにゴールする。世界中の瞳に、「アストンマーチャン」がここにいたことを焼きつけるだけです。

 

マーちゃんは、誰にも忘れられたくない。ただそれだけのために、走っていますから。

 

「……さあ、第3コーナーです」

 

阪神の外回りコース。広大で、緩やかなカーブ。

 

ここからが、本当の勝負なのです。

 

 

 

――Maverick: Vodka

 

 

 

「……チッ、おっそいな」

 

オレは中団の後ろ、モエを斜め前に見るような位置で走っていた。

 

ペースが遅い。前の連中が牽制し合って、誰も飛ばそうとしない。まるで遠足の行列だ。こんなペースじゃ、体が腐っちまう。

 

もっと暴れたい。有り余るパワーが、地面を蹴り壊したくてウズウズしている。

 

だが、ここで動いたら負けだ。

このレースの鍵を握っているのは、オレでも、前のマーチャンでもない。

 

斜め前を走る、あの黒い勝負服。カレンモエだ。

 

あいつが動く時が、レースが動く時。あいつが導火線だ。

 

……すげぇ顔してやがる。

 

走る最中、ちらちらと見えるモエの顔は凄まじかった。

一瞬、苦しそうに歪んだかと思えば、次の瞬間には鉄仮面みたいに表情を消す。瞳の奥でどす黒い炎を燃やしながら、それを表に出すまいと必死に堪えている。

 

手綱なんてないのに、見えない手綱で自分を縛り上げているような走り。その手綱が、今にも千切れそうに張り詰めている。

 

……へっ、やせ我慢しやがって。

 

普通なら、とっくに心が折れて暴走してるか、走る気をなくしてズルズル下がる場面だ。スプリンターがマイルのスローペースに付き合うなんて、ストレスで胃に穴が開いてもおかしくねえ。

 

だが、あいつは耐えている。

苦しい顔を見せるのが癪だからって、涼しい顔を貼りつけようとしてる。一歩も引かずに、ポジションを守っている。

 

……カッコいいじゃねえか。

 

苦しい時に苦しい顔をするのは普通だ。だが、苦しい時ほどポーカーフェイスを貫こうとする意地っ張り。才能も適性も全部ねじ伏せて、「勝ちたい」っていう執念だけで立っている。

 

それは、オレが目指す「カッコよさ」の一つだ。泥臭くて、不器用で、でも誰よりも強い意志。

 

スカーレットのやつは今回はいねえが……まあ、あいつも別の場所で戦ってるんだろ。「アタシがいなくて寂しいでしょ?」なんて高笑いが聞こえてきそうだ。うるせえよ。お前がいなくても、ここにはこんなに熱い奴がいるんだよ。

 

「……おい、モエ」

 

心の中で呼びかける。

 

「まだだろ? まだ行かねえよな?」

 

第3コーナー。阪神の外回り。勝負所はまだ先だ。

 

ここで動いたらマーチャンの思う壺。あいつは前で、余裕しゃくしゃくで待ち構えてやがる。「どうぞ自滅してください」って顔してな。

 

気に食わねえ。あのすました顔を、オレたちのスピードで歪ませてやりたい。

 

……溜めろ。溜めて溜めて……全部吐き出せ。

 

オレも我慢する。お前が動くその瞬間まで、温存しておく。お前がその猫を解き放った瞬間、オレも全開で行く。

 

そして、お前が飛び出したその外から、豪快に差し切ってやる。それがオレなりの敬意ってもんだ。半端な勝ち方はしねえ。

 

お前の全力を、オレの全力でねじ伏せる。それが一番カッコいいだろ?

 

 

 

さあ、来いよ。

 

 

 

合図はお前が出せ。

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

第3コーナーから、第4コーナーへ。コースが緩やかにカーブしていく。

 

限界が近い。

 

呼吸法で誤魔化しているけど、体は正直だ。「もう十分走ったでしょ。終わろうよ」と、細胞の一つ一つが訴えかけてくる。

 

乳酸が、足元から這い上がる。重力が増したみたいに、体が地面に引きつけられる。

 

……うるさい、うるさい!

 

首を振って、弱音を振り払った。汗が目に入る。痛い。心臓が肋骨を叩いている。口の中が鉄の味。

 

周りのウマ娘たちが動き始めた。直線に向けて、位置取りを上げている。ペースが変わる。空気がピリつく。

 

「……来る」

 

背後からのプレッシャー。ウオッカだ。

 

あいつの闘気が、背中を焼いている。太陽を背負っているような熱量。

振り返らなくても分かる。あいつは私を狙っている。私の動き出しを待っている。

 

前にはマーチャン。不気味なほど冷静な背中。遠ざかろうとしている。

 

……置いていかないで。

 

焦りが生まれる。

 

1200メートル地点。

 

体が、反応した。

 

脚の筋肉が、一斉にブレーキをかけようとする。

違う。故障じゃない。疲労でもない。もっと根本的な、本能のレベル。

 

体が、「ここがゴール」だと思っている。

 

1200メートル。私が生まれ持った距離。練習で何千回と走った距離。レースで何度も駆け抜けた距離。

この体の筋肉も、骨も、内臓も、全部がこの距離で完結するように設計されている。

 

だから、1200メートルを通過した瞬間、体が勝手に終わろうとする。

走り終えたと勘違いして、筋肉が弛緩し始める。脚のバネが抜ける。呼吸が浅くなる。

 

……違う。まだ終わってない。まだ400メートルある。

 

脳で命令する。「走れ」と。

体が拒否する。「もう走った」と。

 

噛み合わない。

頭では分かっているのに、体が言うことを聞かない。

 

ふくらはぎが攣りかけた。太ももの裏側に、鉛を流し込まれたような重さが広がる。

肺が焼ける。酸素が足りない。吸っても吸っても、体の隅々まで届かない。

口の中に鉄の味が滲む。舌の奥に、吐き気に似た不快感。

 

デビュー戦のフラッシュバックが、一瞬だけ視界をよぎった。

東京の長い直線。脚が止まって、景色が歪んで、背中が一つ、また一つと前に行って——

 

……違う。あの時とは違う。

 

あの時の私は、何も知らなかった。1200メートルの壁を知らなかった。

今の私は知っている。ここが地獄の入り口だと分かっている。分かった上で、走っている。

 

残り400メートル。

筋肉が悲鳴を上げている。細胞の一つ一つが「やめろ」と叫んでいる。

 

やめない。

 

ここで止まったら、今度こそ全部終わる。「やっぱりスプリンターには無理だった」で片付けられて、私の覇道はここで潰える。

ママのコピーとして消費されて、誰にも「カレンモエ」を見てもらえないまま。

 

嫌だ。

死んでも嫌だ。

 

脚を動かす。意志の力で。

筋肉が拒否しても、骨が軋んでも、内臓が裏返りそうでも。

一歩。もう一歩。もう一歩。

 

……トレーナー。

 

ふと、あの人の顔が浮かんだ。

 

今頃、スタンドで胃を痛くして見ているだろうか。それとも、私を信じて堂々と構えているだろうか。

 

きっと、後者だ。あの人は、私以上に私を信じている変な人だから。

 

「君のスピードは武器だ。最後の直線まで取っておけ」

 

あの言葉を信じる。昨日の夜、交わした約束を信じる。「勝って証明する」と言った、自分の言葉を信じる。

 

この苦しみは、無駄じゃない。この我慢は、臆病なんかじゃない。

 

勝つために、剣を研いでいる時間なんだ。研いで、研いで、研ぎ澄まして——一撃で仕留めるための。

 

第4コーナー。直線の入り口が見えてくる。

 

「……ふぅ」

 

短く息を吐いた。肺の中の汚れた空気を全部吐き出して、新しい酸素を取り込む。視界がクリアになる。

 

体の中の黒い猫が、檻を蹴破る準備を整えた。もう、抑える必要はない。ここからは、解き放つ時間。

 

……行くよ、私の中の黒い猫。

 

全部、喰らい尽くしてやる。

 

さあ、行こう。ここからは、私の時間だ。

 

「——行けぇッ!!」

 

体を沈め、大地を蹴った。弾けるような感触。抑圧からの解放。

 

世界が、私の色に染まっていく。




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