アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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17話 猫を被る怪物たち

——Live: Announcer

 

 

ゲートが開いた。

 

『スタートしました、阪神ジュベナイルフィリーズ! 大外18番、カレンモエがいいスタート!』

 

18人の勝負服が一斉に広がる。その外から、漆黒の勝負服が伸びた。内側の走者たちが位置を取り合う間に、先頭をうかがう勢いで前へ出る。

 

『カレンモエ、このまま行くか——ここは控えました! 先行勢を行かせて、後ろへ下げていきます!』

 

黒い袖の振りが小さくなった。カレンモエの内側を、ほかのウマ娘たちが次々に抜けていく。

 

内から出たウマ娘が先頭に立ち、その後ろへもう1人が続いた。競り合いは長引かず、横に広がっていた集団が前から順に収まっていく。

 

『アストンマーチャンは3番手! 先頭を見る好位置です。カレンモエは中団の外、10番手あたりまで控えました。その斜め後ろにウオッカ!』

 

後方のウマ娘たちも離れずに続く。先頭が落ち着くと、後続との間が詰まり、勝負服が重なった。

 

『先頭争いは落ち着きました。隊列はひとかたまり。まずはゆったりとした流れになっています』

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

遅い。

 

前の子の靴底が見える。蹴られた芝が頬をかすめた。近すぎる気がして足を緩めると、今度は背後の足音が詰まってくる。

 

スタートで抑えた足が、まだ前へ出たがっていた。腕を小さく振り直すたびに、腿の付け根が突っ張る。先へ行かせた子たちの背中を、追わないでいる方がずっと難しい。

 

外は空いている。抜けようと思えば、抜けられる。大外から出た時と同じで、誰も私の前へ蓋をしているわけじゃない。

 

今日は1600mだ。

 

飛び出して、途中で潰れて、それで終わりにはしない。

 

ファンタジーSでは、1400mを走って勝った。あのあとに、もう200mある。ゴールの先へ足しただけの数字を、練習では何度も頭に入れてきた。それなのに、目の前にこれだけ背中があると、今すぐ全部を追い抜く方が簡単に思えてくる。

 

東京で、それをやった。

 

あの直線の続きを、ここで繰り返すつもりはない。

 

前の子との間を詰めすぎず、後ろから追いつかれすぎず。その間にいろ、と言われている。

 

誰に言われたわけでもない。この場所を選んだのは私だ。

 

それが、余計に腹立たしかった。

 

前が少し空くたび、そこへ足を入れたくなる。追いついたらまた抑えなければならないのに、隙間を見ると体が先に伸びる。速く走るのを我慢しているだけで、こんなに疲れるなんて聞いてない。

 

……聞いたかもしれない。

 

聞いたところで、できるようにはならなかっただけだ。

 

奥歯を離し、息を長く吐いた。胸の辺りだけで浅く繰り返していた呼吸が、少し戻る。肩も下げた。足まで楽になったわけではないけれど、前の靴底ばかり睨むのはやめられた。

 

視線を上げる。

 

前の方に、マーちゃんがいた。

 

3番手。先頭のすぐ後ろで、誰かに急かされる様子もなく走っている。いつでも外へ出られそうな場所だった。

 

練習が終われば、同じ部屋へ帰る子だ。靴の紐の長さを気にして、机の上へ人形を座らせて、私が寝る前にも何かを記録している。

 

今は、随分遠い。

 

出走前に目が合った時の笑顔が浮かんだ。あの時も落ち着いていた。私がどう走るのか、楽しみにしているみたいに。

 

先に行かなかったのを見て、安心してる?

 

だったら、そのまま待ってて。

 

眉間に力が入っているのが、自分でも分かる。頬を緩めようとして、余計に息が詰まった。カメラの前なら、考えなくてもできるのに。

 

息を整えて、足を合わせる。

 

追い抜きたい背中を目の前に置いたまま、追い抜かない。

 

今のところ、それが勝つための走り方だった。

 

 

 

——Recorder: Aston Machan

 

 

 

前の子の腕振りが、小さくなりました。

 

マーちゃんの前には2人。先頭争いはもう終わったのに、ここからさらに遅くするようです。

 

マーちゃんはその背中へ詰まりかけ、外へ半歩ずれました。まだ抜きません。前へ出れば、今度はマーちゃんが後ろの子たちを連れて走ることになります。

 

それは、もう少し先でいいのです。

 

外側を確かめた時、後方の黒が目に入りました。モエちゃんは中団にいます。出走前と同じように顎を引いているのに、腕にはずっと力が入っている。

 

あの顔は、寮でも見たことがありました。

 

何でもない、と言って、ウマホを伏せる時の顔です。何でもないなら、そんなに強く机へ置かなくてもいいのに、といつも思うのですが。

 

今も、そういう顔をしています。

 

我慢しているのですね。

 

何をどれくらい我慢できるかまでは、マーちゃんには分かりません。ただ、あの子はファンタジーSで、最後まで追ってきました。今日も、苦しそうだから来ないだろうとは思わないことにします。

 

そして、黒い勝負服の後ろにはウオッカさん。

 

こちらも、まだ動いていません。

 

2人を見たのは、それだけでした。前へ目を戻すと、先頭の子が内へ寄り、その外にいた子も続きます。空いた場所を、別の子が取りに来る気配がありました。

 

マーちゃんは少しだけ歩幅を伸ばしました。

 

外の場所を譲らず、前との間も開けない。相手は並びかけるのをやめ、斜め後ろへ収まりました。

 

これで、直線へ向く時に行き先を選べます。

 

パドックには、たくさんのカメラがありました。

 

マーちゃんが顔を向けても、レンズがその向こうを追っていたこともあります。ウオッカさん。カレンモエさん。カレンチャンさんの名前も、客席から聞こえてきました。

 

今日、そこにいないウマ娘の名前です。

 

モエちゃんは聞こえないふりをしていました。マーちゃんも、自分へ向いているカメラに笑っていました。

 

映らなかった分は、これから取り返します。

 

勝った子は、最後に名前を呼んでもらえます。大きな画面にも映ります。今日のレースを話す時、誰もその名前を抜かせなくなる。

 

アストンマーチャン。

 

その名前を、覚えて帰ってもらうのです。

 

第3コーナーへ入ると、前の子の背中が少し近づきました。カーブで足を緩めたようです。マーちゃんは外側に残り、相手の肩が見えるところまで進みました。

 

相手も気づいて、速度を上げます。

 

ついていきました。まだ、余計には踏みません。

 

このまま並んで、直線へ向く前に抜く。

 

モエちゃんが来た時には、もう先頭にいるつもりです。追いついてから考える時間を、あの子にあげる必要はありません。

 

一瞬、口元が緩みました。

 

いつもの笑顔のつもりでしたが、息がかかって、うまく形にならない。

 

それで構いません。今はカメラへ顔を向けなくても、前へ出れば見てもらえるのですから。

 

前の肩が、少しずつ後ろへずれていきます。

 

その向こうに、もう1人。

 

マーちゃんは、次の背中へ目を移しました。

 

 

 

——Live: Announcer

 

 

 

『第3コーナー、アストンマーチャンが外から進出! 2番手へ上がって、先頭に近づいていきます!』

 

前の並びが変わると、後続も間を詰め始めた。まとまっていた集団が、前から少しずつ縦へ伸びていく。

 

『カレンモエはまだ中団の外。ウオッカもその後ろを離れません。前はアストンマーチャンが動きましたが、この2人はまだ仕掛けない!』

 

 

 

——Maverick: Vodka

 

 

 

ようやく動いたかよ。

 

前の方でマーチャンが上がるのを見て、オレも足を伸ばしたくなった。さっきから、余って仕方ねえ。

 

けど、まだ踏み込まない。前が速くなった分だけ、こっちも間を詰める。

 

モエは斜め前にいた。中団の外。背中を丸めず、前のやつにぶつからないだけの間を残して走っている。

 

あのスタートから、よくそこまで引いたもんだ。

 

オレなら、あれだけ前が空いたら行きたくなる。行ってからどうにかしてやるって、絶対に思う。

 

モエも思ったはずだ。

 

けど、行かなかった。

 

何度か、あいつと前の間が詰まった。抜くのかと思うくらい近づいて、そのたびに黒い袖が引き戻される。止まりたいわけじゃねえ。前のやつと同じ速さを続けるのが、妙に難しそうだった。

 

……そこで使い切るなよ。

 

言ったところで、届く距離じゃない。

 

オレは黒い背中から目を外し、もっと前を見た。

 

このままではマーチャンに持っていかれる。あいつはもう、自分の好きな場所で勝負を始めている。モエがいつ動くか眺めてるだけじゃ、2人まとめて置いていかれるだけだ。

 

内から肩が近づいた。

 

前へ行きたいらしい。オレが少し引けば、モエの後ろへ入れる場所ができる。

 

譲らなかった。

 

足を伸ばし、肩を並べさせない。ここを取られると、直線で外へ出す時に、もう1人ぶん迂回することになる。

 

前にはモエ。

 

外には、まだ走れる場所がある。

 

オレが使うのは、そのさらに外だ。

 

黒が伸びたら、その背中について上がる。直線へ出たら、横へ並べる。

 

ついていくだけで終わる気はねえ。

 

あの加速を間近で受けて、それでも前へ出る。

 

それができたら、最高にカッコいいだろ。

 

スタンドの方で声が膨らんだ。誰を呼んだのかは分からない。名前を聞き分けようとするより先に、胸の奥がせり上がった。

 

今日、最初にゴールするのはオレだ。

 

レースが終わったあとで、どこから仕掛けたとか、誰の後ろにいたとか、いくらでも喋ってやる。その時に勝ってなきゃ、どんなに格好つけたって言い訳だ。

 

スカーレットの顔が浮かんだ。

 

あいつは別のレースを選んだ。向こうで1番になる気でいる。こっちで負けて、帰ってきたあいつに何か言われるのを待つつもりはない。

 

阪神に出ときゃよかったって思わせるくらい、派手に勝つ。

 

そのために、今は待つ。

 

モエの足音が、一瞬だけ強くなった。

 

オレも体を前へ倒しかける。

 

まだだった。

 

黒い背中は前を追っただけで、それ以上には上がらない。

 

思わず笑いそうになった。

 

じらすじゃねえか。

 

あいつは後ろを見なかった。オレに合わせているわけでも、合図を送っているわけでもない。ただ、自分の足を使う場所まで待っている。

 

上等だ。

 

お前の隣に出る場所は、もう取ってある。

 

第4コーナーへ近づく。前の集団が横に広がり始めた。

 

モエが少し外へ寄る。

 

今度はオレも、同じだけ外へ出した。

 

さあ、来いよ。

 

合図はお前が出せ。

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

マーちゃんが、前へ行く。

 

さっきまであの子の前にいた背中が、ひとつ減った。もうひとつも、並ばれている。

 

待って。

 

そう思った自分に、腹が立った。

 

待つわけないでしょ。勝ちに来てるんだから。

 

前の子が速度を上げ、私との間が開いた。その隙間へ、内から別の子が入ろうとする。

 

取らせない。

 

足を伸ばして、前へついた。

 

腿の裏が重かった。

 

踏み出した足は動く。追いつけた。けれど、さっきまでのように、押さえていないと勝手に前へ出る感じではない。追うと決めて力を入れなければ、間が開く。

 

まだ、全力で走っていないのに。

 

喉の奥が乾いていた。唾を飲もうとして、うまくいかなかった。呼吸は続けている。止めていない。それでも、腕の重さまでは取れない。

 

芝が、また顔へ飛んできた。

 

頬に当たったものを拭わず、前を見たまま走る。

 

ここで置いていかれたら、直線へ出た時に何人抜けばいい?

 

先頭まで、どれくらいある?

 

考えながら、つい強く踏む。前の背中が近づく。近づきすぎて、また緩める。

 

何をやってるの、私。

 

焦っている。

 

自分で分かっても、足は一度では落ち着かなかった。

 

残りの距離を知りたくて、前方の標識を探す。見つけた途端、まだこんなにあると思ってしまった。

 

1200mなら、もうゴールが近い。

 

今日は違う。その先まで走るために、今まで抑えてきた。

 

なのに、今ここで苦しくなったら、何のために待ったのか分からない。

 

……違う。苦しくならないために待っていたわけじゃない。

 

勝つためだ。

 

最後まで使えるように、取っておいた。

 

タキオンさんのところで走ったあと、何度も同じ話をした。早く行きたがる私に、絢原さんは直線へ入るところの映像を戻して見せた。あそこから使う。そこまでは、前が空いても追わない。

 

その時は、分かったと言った。

 

画面の中では、どの背中もこんなに遠くなかった。

 

外側へ目を向ける。

 

空いている。

 

今なら抜けられる。前の子をかわして、マーちゃんのところまで行ける。

 

足がそちらへ向きかけた時、背後で別の足音がした。

 

私が外へ寄った分だけ、ついてくる。

 

ウオッカ。

 

振り返らなかった。見なくても、さっきから近くにいるのは分かっていた。私が動けば、あの子も来る。

 

外へ出た先まで、私だけの場所にはならない。

 

それが悔しくて、少しだけ、頭が冷えた。

 

ここで全部使ったら、あいつに抜かれる。

 

マーちゃんにも届かないまま、後ろから抜かれて終わる。

 

それだけは、嫌だった。

 

腕を引き、前の子と同じ速さへ戻した。奥歯を噛んだまま、息を吐く。顔を取り繕う余裕なんて、もうなかった。

 

見られていたっていい。

 

苦しい顔でも、不機嫌な顔でも。笑って走るために来たんじゃない。

 

カーブの先が、明るく開け始めた。

 

マーちゃんが前へ出る。ほかの子たちも、その後ろを追っていた。私の前にいた子が内へ寄り、黒い袖の先に、誰もいない芝が見えた。

 

今度こそ、行ける。

 

胸が強く鳴った。

 

もし、足が止まったら。

 

東京の直線が浮かびかけて、私は顎を上げた。

 

ここで負けたら、また同じことを言われる。

 

母親と同じ距離なら。無理をしなければ。カレンチャンの娘なんだから。

 

ママは、そんな言い方をしない。

 

勝ったよ、と電話をしたら、きっと私の話が終わる前から喜ぶ。パパまで呼んできて、2人で喋り始める。ちゃんと聞いてよ、と文句を言う自分まで想像できた。

 

勝ったあとくらい、そんな話だけしていたい。

 

なのに、どうして先に、あの記者の顔を思い出さなきゃいけないの。

 

他人が勝手に使うママの名前に、私の行き先まで決められてたまるか。

 

前を見る。

 

先頭は、まだ私じゃない。

 

まずは、あそこだ。

 

短く息を吐いた。もう一度吸い込み、外へ踏み出す。さっきまで邪魔だった腕の重さを、そのまま後ろへ振り切った。

 

体が前へ倒れる。

 

押さえるのをやめた足が、芝を深く掴んだ。

 

「——行けぇッ!!」

 

コーナーがほどけ、直線が開いた。

 

私は、取っておいた一歩を叩きつけた。

 




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