ガチャリ。
ゲートの音が、十八人の鼓膜を同時に叩いた。
『スタートしました! 阪神ジュベナイルフィリーズ、十八人がターフへ飛び出します!』
地鳴りのような足音。巻き上がる芝。数万の歓声が、物理的な風圧となってコースに押し寄せる。
その中で、ひと際鋭い反応を見せた影があった。
大外、18番枠。漆黒の勝負服。カレンモエ。
彼女のスタートは天性のものだ。思考するよりも速く、筋肉が号砲に反応し、弾かれたように加速する。爆発的な初速で先頭集団を飲み込み、ハナに立つ――かに見えた。
――Anti-Hero: Curren Moe
風が鳴る。視界が流れる。体が軽い。あまりにも軽すぎる。
……行ける。
本能が叫んでいる。脳を置き去りにして、脊髄が勝利への最短ルートを弾き出す。
このままアクセルを踏み込めば、誰にも邪魔されずに先頭に立てる。内側のウマ娘たちが位置取りに苦労している間に、大外から突き抜けてしまえばいい。風になって、誰の背中も見ずに走れる。
一番得意で、一番楽で、一番気持ちいい勝ちパターン。
「……ッ、ダメ!」
唇を噛んだ。全力で、ブレーキをかける。
行っちゃダメ。ここで行ったら、終わる。
私の体は、1200メートルを全力で走ることに特化している。ここで気持ちよく飛ばせば、残りの400メートルは地獄になる。デビュー戦の二の舞。無様に失速して、泥を啜って、嘲笑されるだけ。
それだけは絶対に避ける。負けるにしても、前のめりでなきゃ意味がない。
上体を起こす。意識的にスピードを殺す。
呼吸を切り替えた。タキオンさんに叩き込まれた、深く長いリズムへ。
肺を動かす。酸素を全身に送り込む。高ぶる心拍数を、無理やり抑え込む。
すると、私の横を、他のウマ娘たちが次々に駆け抜けていった。
色とりどりの勝負服が前を塞ぐ。風が遮られる。視界が狭くなる。
馬群の中。
前後左右を囲まれる、窮屈で、息苦しい場所。自分の足音すら他のウマ娘の足音にかき消される。
スプリンターである私が、最も嫌う場所。
……怖い。
足が絡まるかもしれない恐怖。自分のペースで走れないストレス。
そして何より、「前に出たい」という猛烈な渇望。
体の中の黒い猫が、狭い箱に閉じ込められて暴れている。
出せ。走らせろ。前が空いてるのに。
あいつら遅い。邪魔。どいて。
爪を立てて、私の内側を引っ掻き回す。胃の裏側を蹴り上げるような不快感。
痛い。苦しい。
走りたいのに、走れない。全力か停止か、それしか知らない体に、「ゆっくり走れ」と命じている。そんな回転数、私のエンジンには存在しない。レースじゃない。自分自身との殺し合いだ。
……静かにして。
暴れる猫の首根っこを掴んで、なだめる。
まだだよ。……まだ、その時じゃない。
10番手付近、中団の外目にポジションを落ち着けた。
目の前には、無数の背中。
その背中の隙間から、マーチャンの姿が見えた。
3番手あたり。いつでも抜け出せる好位。不気味に安定している。
時折、チラリとこちらを見る。
私のことなんて気にしていないふりをして、全部監視しているような視線。
「分かっていましたよ」とでも言うように。
……ムカつく。
その余裕を、後で恐怖に変えてやる。
沸々と湧き上がる怒りを飲み込んで、じっと時を待った。
今はまだ、爪を隠す時間だ。
――Recorder: Aston Machan
ふふっ。予想通りですね。
マーちゃんは隊列の3番手から、背後の気配を感じ取っていました。
カレンモエさんは、来ませんでした。あのロケットみたいなスタートを決めながら、自ら速度を緩めて、馬群の中へ潜っていった。
我慢を選びましたか。賢明です。マイルを走り切るには、それしかありませんから。
でも、それは自分の翼をもぐ行為でもあるのです。
スプリンターの最大の武器を捨てて、不慣れな持久戦の土俵に上がるということ。息を止めて水の中を泳ぐような、緩慢な苦しさが続く。
マーちゃんなら、耐えられませんね。走ることは、自分を表現すること。自分を押し殺して走るなんて、死んでいるのと同じですから。
一瞬だけ首を巡らせて、背後を確認しました。
馬群の隙間から覗く、モエちゃんの顔。
一見すると、無表情。でも、マーちゃんの目は誤魔化せません。
能面の裏側で、眉間に深い皺が寄って、鬼みたいな形相で叫んでいるのが透けて見えます。必死に隠そうとしても、内圧が高すぎて、表情の端々から苦悶が漏れ出している。
美しい。
自分の本能を鎖で縛り上げて、血を流しながら耐えているその姿。悲劇的で、とても絵になります。運命に抗って、歯を食い縛る顔の方が、ずっと強く「生」を感じさせるのです。
さて、レースの流れはどうでしょうか。
強力な逃げウマ娘が不在。ペースは落ち着いている。GⅠにしてはスロー。
前につけたマーちゃんには有利な展開です。自分のリズムで走れますし、直線の瞬発力勝負になれば、ピッチ走法が活きる。
そして後ろで我慢しているモエちゃんにとっては、地獄の時間が長引くことを意味します。
遅いペースに付き合わされるストレス。行きたがる体を抑え続ける消耗。
貴女の体内時計は、もう「半分過ぎた」と告げているはずです。でも、実際はまだ。そのズレが、精神をヤスリのように削っていく。
聞こえてきますよ。貴女の中の獣が、檻を叩く音が。
「……いいですよ、モエちゃん」
風を切る音に紛れて、囁きました。
「その必死な顔も、しっかり記憶してあげますからね」
視線を前に戻す。マーちゃんのやることは変わりません。
このまま好位で進み、直線で抜け出し、誰にも追いつかせずにゴールする。世界中の瞳に、「アストンマーチャン」がここにいたことを焼きつけるだけです。
マーちゃんは、誰にも忘れられたくない。ただそれだけのために、走っていますから。
「……さあ、第3コーナーです」
阪神の外回りコース。広大で、緩やかなカーブ。
ここからが、本当の勝負なのです。
――Maverick: Vodka
「……チッ、おっそいな」
オレは中団の後ろ、モエを斜め前に見るような位置で走っていた。
ペースが遅い。前の連中が牽制し合って、誰も飛ばそうとしない。まるで遠足の行列だ。こんなペースじゃ、体が腐っちまう。
もっと暴れたい。有り余るパワーが、地面を蹴り壊したくてウズウズしている。
だが、ここで動いたら負けだ。
このレースの鍵を握っているのは、オレでも、前のマーチャンでもない。
斜め前を走る、あの黒い勝負服。カレンモエだ。
あいつが動く時が、レースが動く時。あいつが導火線だ。
……すげぇ顔してやがる。
走る最中、ちらちらと見えるモエの顔は凄まじかった。
一瞬、苦しそうに歪んだかと思えば、次の瞬間には鉄仮面みたいに表情を消す。瞳の奥でどす黒い炎を燃やしながら、それを表に出すまいと必死に堪えている。
手綱なんてないのに、見えない手綱で自分を縛り上げているような走り。その手綱が、今にも千切れそうに張り詰めている。
……へっ、やせ我慢しやがって。
普通なら、とっくに心が折れて暴走してるか、走る気をなくしてズルズル下がる場面だ。スプリンターがマイルのスローペースに付き合うなんて、ストレスで胃に穴が開いてもおかしくねえ。
だが、あいつは耐えている。
苦しい顔を見せるのが癪だからって、涼しい顔を貼りつけようとしてる。一歩も引かずに、ポジションを守っている。
……カッコいいじゃねえか。
苦しい時に苦しい顔をするのは普通だ。だが、苦しい時ほどポーカーフェイスを貫こうとする意地っ張り。才能も適性も全部ねじ伏せて、「勝ちたい」っていう執念だけで立っている。
それは、オレが目指す「カッコよさ」の一つだ。泥臭くて、不器用で、でも誰よりも強い意志。
スカーレットのやつは今回はいねえが……まあ、あいつも別の場所で戦ってるんだろ。「アタシがいなくて寂しいでしょ?」なんて高笑いが聞こえてきそうだ。うるせえよ。お前がいなくても、ここにはこんなに熱い奴がいるんだよ。
「……おい、モエ」
心の中で呼びかける。
「まだだろ? まだ行かねえよな?」
第3コーナー。阪神の外回り。勝負所はまだ先だ。
ここで動いたらマーチャンの思う壺。あいつは前で、余裕しゃくしゃくで待ち構えてやがる。「どうぞ自滅してください」って顔してな。
気に食わねえ。あのすました顔を、オレたちのスピードで歪ませてやりたい。
……溜めろ。溜めて溜めて……全部吐き出せ。
オレも我慢する。お前が動くその瞬間まで、温存しておく。お前がその猫を解き放った瞬間、オレも全開で行く。
そして、お前が飛び出したその外から、豪快に差し切ってやる。それがオレなりの敬意ってもんだ。半端な勝ち方はしねえ。
お前の全力を、オレの全力でねじ伏せる。それが一番カッコいいだろ?
さあ、来いよ。
合図はお前が出せ。
――Anti-Hero: Curren Moe
第3コーナーから、第4コーナーへ。コースが緩やかにカーブしていく。
限界が近い。
呼吸法で誤魔化しているけど、体は正直だ。「もう十分走ったでしょ。終わろうよ」と、細胞の一つ一つが訴えかけてくる。
乳酸が、足元から這い上がる。重力が増したみたいに、体が地面に引きつけられる。
……うるさい、うるさい!
首を振って、弱音を振り払った。汗が目に入る。痛い。心臓が肋骨を叩いている。口の中が鉄の味。
周りのウマ娘たちが動き始めた。直線に向けて、位置取りを上げている。ペースが変わる。空気がピリつく。
「……来る」
背後からのプレッシャー。ウオッカだ。
あいつの闘気が、背中を焼いている。太陽を背負っているような熱量。
振り返らなくても分かる。あいつは私を狙っている。私の動き出しを待っている。
前にはマーチャン。不気味なほど冷静な背中。遠ざかろうとしている。
……置いていかないで。
焦りが生まれる。
1200メートル地点。
体が、反応した。
脚の筋肉が、一斉にブレーキをかけようとする。
違う。故障じゃない。疲労でもない。もっと根本的な、本能のレベル。
体が、「ここがゴール」だと思っている。
1200メートル。私が生まれ持った距離。練習で何千回と走った距離。レースで何度も駆け抜けた距離。
この体の筋肉も、骨も、内臓も、全部がこの距離で完結するように設計されている。
だから、1200メートルを通過した瞬間、体が勝手に終わろうとする。
走り終えたと勘違いして、筋肉が弛緩し始める。脚のバネが抜ける。呼吸が浅くなる。
……違う。まだ終わってない。まだ400メートルある。
脳で命令する。「走れ」と。
体が拒否する。「もう走った」と。
噛み合わない。
頭では分かっているのに、体が言うことを聞かない。
ふくらはぎが攣りかけた。太ももの裏側に、鉛を流し込まれたような重さが広がる。
肺が焼ける。酸素が足りない。吸っても吸っても、体の隅々まで届かない。
口の中に鉄の味が滲む。舌の奥に、吐き気に似た不快感。
デビュー戦のフラッシュバックが、一瞬だけ視界をよぎった。
東京の長い直線。脚が止まって、景色が歪んで、背中が一つ、また一つと前に行って——
……違う。あの時とは違う。
あの時の私は、何も知らなかった。1200メートルの壁を知らなかった。
今の私は知っている。ここが地獄の入り口だと分かっている。分かった上で、走っている。
残り400メートル。
筋肉が悲鳴を上げている。細胞の一つ一つが「やめろ」と叫んでいる。
やめない。
ここで止まったら、今度こそ全部終わる。「やっぱりスプリンターには無理だった」で片付けられて、私の覇道はここで潰える。
ママのコピーとして消費されて、誰にも「カレンモエ」を見てもらえないまま。
嫌だ。
死んでも嫌だ。
脚を動かす。意志の力で。
筋肉が拒否しても、骨が軋んでも、内臓が裏返りそうでも。
一歩。もう一歩。もう一歩。
……トレーナー。
ふと、あの人の顔が浮かんだ。
今頃、スタンドで胃を痛くして見ているだろうか。それとも、私を信じて堂々と構えているだろうか。
きっと、後者だ。あの人は、私以上に私を信じている変な人だから。
「君のスピードは武器だ。最後の直線まで取っておけ」
あの言葉を信じる。昨日の夜、交わした約束を信じる。「勝って証明する」と言った、自分の言葉を信じる。
この苦しみは、無駄じゃない。この我慢は、臆病なんかじゃない。
勝つために、剣を研いでいる時間なんだ。研いで、研いで、研ぎ澄まして——一撃で仕留めるための。
第4コーナー。直線の入り口が見えてくる。
「……ふぅ」
短く息を吐いた。肺の中の汚れた空気を全部吐き出して、新しい酸素を取り込む。視界がクリアになる。
体の中の黒い猫が、檻を蹴破る準備を整えた。もう、抑える必要はない。ここからは、解き放つ時間。
……行くよ、私の中の黒い猫。
全部、喰らい尽くしてやる。
さあ、行こう。ここからは、私の時間だ。
「——行けぇッ!!」
体を沈め、大地を蹴った。弾けるような感触。抑圧からの解放。
世界が、私の色に染まっていく。
誤字報告、評価や、感想、ここすきなど、よろしくお願いいたします。