「——行けぇッ!!」
第4コーナーを回りきった瞬間、咆哮した。
抑え込んでいたブレーキを全部壊して、アクセルを底まで踏み込む。
ドォンッ!!
背中から爆風を受けたような加速。
これだ。これが私の領域。溜めに溜めたエネルギーが、筋肉の収縮に合わせて爆発的な推進力に変わる。
風の音が変わった。歓声が遠のく。視界の端で、先行していたウマ娘たちがスローモーションみたいに置き去りにされていく。
……速い。
自分でも戦慄するほどのスピード。タキオンさんの理論は正しかった。呼吸法で温存された酸素が、全身に行き渡って、今まで以上の出力を叩き出している。
――Live: Announcer
カレンモエ、来ました! 外からカレンモエ!
黒い影が一気に伸びる! 先頭を伺う勢いです!
――Anti-Hero: Curren Moe
マーチャンの背中を視界に捉えた。
あの小さな背中が、レース中はずっと巨大な壁に見えていた。
でも、今の私なら。
どいて。そこは、私の場所。
さらに脚を回す。残りは400メートル。未知の領域。死の荒野。
でも、今の私には翼がある。このままゴールまで飛んでいける——そう錯覚するほどの高揚感が、体を突き動かしている。
――Maverick: Vodka
「へっ……やっぱり来やがったな」
前を行く黒い背中を見て、口角が上がった。
モエが動いた瞬間、レースの空気が変わった。空気を切り裂く、真空の刃みたいな鋭さ。
あの細い体のどこに、あんなパワーが隠されてるんだ。
一歩一歩が重い。回転数じゃない。地面を叩き壊しているみたいな、力ずくの加速。あれは才能だ。努力じゃ手に入らない、神様からの贈り物。
あいつが「アンチ」なんて言って否定しても、その血は確かにあいつの中で燃えてやがる。そして今、あいつはその血を武器にして戦っている。
……最高じゃねえか。ゾクゾクする。
だが。
「ここはマイルだぜ、モエ」
渾身の力で地面を蹴った。
オレのストライドは、あいつとは違う。あいつの加速は一歩が重い。地面を殴りつけるような力ずくの走りだ。オレはもっと軽く、もっと大きく開いて、距離で稼ぐ。東京コースほど長くはないが、阪神の外回りなら十分に加速できる。
「うおおおおおおっ!!」
外に持ち出す。視界が開ける。
前にいるのは、マーチャンと、モエ。二人の背中が、獲物に見えた。
逃げ切れると思うなよ。
残り300メートル。ここからが、オレの時間だ。
――Recorder: Aston Machan
来ましたね。
マーちゃんの横を、黒い疾風が駆け抜けていきました。
カレンモエさん。その顔は鬼気迫るものがあります。瞳孔が開いて、視線は一点だけを凝視している。「勝ちたい」が、全身から火花みたいに散っている。
……いい表情です。
心の中でシャッターを切りました。これこそ、マーちゃんが待ち望んでいた被写体。運命に抗って、己を焼き尽くして走る、美しい姿。
でも、ここは阪神の坂下。ここからが本当の地獄なのです。
「……逃がしませんよ」
ピッチを上げました。モエちゃんとは違う、精密なリズムで。一歩、また一歩。影を踏むように、追い詰めていく。
貴女の物語の結末を、一番近くで記録するのはマーちゃんです。それが栄光でも絶望でも。全部目撃して、受け止めて、そして——追い越します。
――Anti-Hero: Curren Moe
並んだ。マーチャンを捉えた。
横に並んだ瞬間、マーチャンと目が合った気がした。苦しそうに、でもどこか嬉しそうな表情。「来ましたね」と、その瞳が語っている。
かわした。先頭に躍り出た。
勝てる。
ゴール板が見える。あそこまで、あと少し。
このまま押し切れば、証明できる。私が「カレンモエ」であることを。
ママの影も、世間の声も、全部置き去りにして——
だが。
残り200メートル。阪神の急坂に差し掛かった瞬間だった。
フッ、と。
体の中で、火が消えた。
「……え?」
景色が、重い。
さっきまで背中にあった翼が、泥みたいに重い枷に変わる。地面が粘りつく。脚が離れない。
肺が喘ぐ。吸っても吸っても、酸素が入ってこない。
視界が明滅する。色が失われていく。
ガス欠。
恐れていた「1200メートルの壁」が、遅れてやってきた。タキオンさんの理論で引き伸ばした限界。呼吸法で騙し続けた脳のリミッター。坂の負荷で、全部が一気に崩壊した。
故障じゃない。ただ、エネルギーが一滴も残っていない。
動け。動け。
あと少し。目の前にゴールがあるのに。
あそこに行けば、私は私になれるのに。
背後から、轟音。
「どきなァッ!!」
横を、巨大な影が通り過ぎていく。
ウオッカ。
あいつは、私が減速した坂を、平地みたいに駆け上がっていく。力強いストライド。太陽みたいに輝く瞳。あまりにも大きく、あまりにも残酷なほどにカッコいい背中。
これが、マイルを主戦場にする者の底力。
……待って。
手を伸ばす。届かない。みるみる差が開いていく。
内側からも影が伸びた。マーチャン。
苦しそうに顔を歪めている。でも、あの子の脚は止まっていない。執念深く、粘り強く、私の内側をすり抜けていく。
「……ぁ……」
視界が滲む。二人の背中が遠ざかる。
走っているんじゃない。倒れないように、もがいているだけ。
歓声が変わる。「ウオッカだ!」「ウオッカ抜けた!」「強い!」
私の名前を呼ぶ声は、もう聞こえない。
――Live: Announcer
ウオッカ先頭! 残り100メートル、ウオッカが力強く抜け出しました!
内からアストンマーチャンが食い下がる! 二人の叩き合い!
そしてカレンモエは——失速! 坂で脚が止まってしまいました!
先頭との差が開いていく!
ゴールイン!!
一着ウオッカ! 二着アストンマーチャン!
そして三着にカレンモエ! 3馬身差!
ウオッカ、阪神ジュベナイルフィリーズを制しました!!
~~
――Anti-Hero: Curren Moe
レース後の芝コース。
膝から崩れ落ちていた。
肺が痛い。喉が血の味。全身の筋肉が鉛みたいに重い。
でも、一番痛いのは、胸の奥だった。
……負けた。
完敗。言い訳のしようもない。
作戦は完璧だった。体調も万全だった。タキオンさんの理論も、トレーナーの指示も、全部正しかった。持てる力の全部を出し切って、限界を超えて走った。
それでも、届かなかった。
顔を上げる。少し先で、ウオッカがガッツポーズをして観客に応えている。その横で、マーチャンが静かに、でも満足げにカメラに向かって微笑んでいる。
あの二人は「マイルの住人」だ。選ばれた強者たち。
私は、そこへの侵入者に過ぎなかった。
……悔しい。
涙が溢れてくる。止まらない。
ただ純粋に、勝ちたかった。あいつらに勝ちたかった。私の脚で、私の意志で、一番になりたかった。
「……モエ」
ラチ越しに、トレーナーの声が聞こえた。
見ると、あの人は泣きそうな顔で私を見ていた。失望じゃない。憐れみでもない。私の痛みを、自分のことみたいに噛み締めている顔。
ふらつく脚で立ち上がって、あの人の方へ歩いた。脚がもつれる。それでも止まらなかった。
「……ごめん」
ラチにすがりついて、言った。涙で声が震える。
「……勝てなかった」
「……ああ」
トレーナーがラチ越しに手を伸ばして、私の頭にそっと手を置いた。
その温かさが、涙腺をさらに壊す。
「でも、見たか。直線の入り口。お前が先頭に立った瞬間」
震える声で言った。
「お前は夢を見せたんだ。マイルでも戦えるって、証明したんだ」
「……でも、3着だよ。負けだよ」
「3着だ。あのウオッカとマーチャン相手に、適性外の距離で、3着をもぎ取ったんだ」
トレーナーが私の目を見て、力強く頷いた。
「誇っていい。お前はカレンチャンの娘じゃない。カレンモエとして、堂々と戦った。俺には、一番輝いて見えたぞ」
「う、あ゛……ッ」
堰が切れた。
我慢していた全部が決壊した。喉の奥から熱い塊がせり上がってくる。息がうまく吸えない。嗚咽が止まらない。
「ぅ゛ぐ……! ひっぐ……! うわああああああああん!!!」
子供みたいに、顔をくしゃくしゃにして、なりふり構わず声を上げて泣いた。
悔しい。死ぬほど悔しい。胸が張り裂けそう。
でも、この悔しさは、私が「私」として戦った証だ。
ママの影に怯えていた頃には味わえなかった、本物の敗北の味。
苦くて、泥臭くて、焼けるほど熱くて——でも、私がずっと欲しかったもの。
涙で霞む視界の先。ウイニングランをするウオッカの背中を見据える。太陽みたいに輝く背中。不気味に完成されたマーチャンの背中。そして、まだ見ぬ怪物、ダイワスカーレットの影。
次は、絶対に。
涙を袖で乱暴に拭った。
距離の壁だろうが、血の運命だろうが、全部ねじ伏せてやる。
絶対に、負けない。
冬の空に、慟哭と、新たな決意が吸い込まれていった。
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