アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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18話 戴冠の行方 (阪神JF・決着)

「——行けぇッ!!」

 

第4コーナーを回りきった瞬間、咆哮した。

抑え込んでいたブレーキを全部壊して、アクセルを底まで踏み込む。

 

ドォンッ!!

 

背中から爆風を受けたような加速。

これだ。これが私の領域。溜めに溜めたエネルギーが、筋肉の収縮に合わせて爆発的な推進力に変わる。

 

風の音が変わった。歓声が遠のく。視界の端で、先行していたウマ娘たちがスローモーションみたいに置き去りにされていく。

 

……速い。

 

自分でも戦慄するほどのスピード。タキオンさんの理論は正しかった。呼吸法で温存された酸素が、全身に行き渡って、今まで以上の出力を叩き出している。

 

 

 

――Live: Announcer

 

 

 

カレンモエ、来ました! 外からカレンモエ!

黒い影が一気に伸びる! 先頭を伺う勢いです!

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

マーチャンの背中を視界に捉えた。

あの小さな背中が、レース中はずっと巨大な壁に見えていた。

 

でも、今の私なら。

 

どいて。そこは、私の場所。

 

さらに脚を回す。残りは400メートル。未知の領域。死の荒野。

 

でも、今の私には翼がある。このままゴールまで飛んでいける——そう錯覚するほどの高揚感が、体を突き動かしている。

 

 

 

――Maverick: Vodka

 

 

 

「へっ……やっぱり来やがったな」

 

前を行く黒い背中を見て、口角が上がった。

 

モエが動いた瞬間、レースの空気が変わった。空気を切り裂く、真空の刃みたいな鋭さ。

 

あの細い体のどこに、あんなパワーが隠されてるんだ。

 

一歩一歩が重い。回転数じゃない。地面を叩き壊しているみたいな、力ずくの加速。あれは才能だ。努力じゃ手に入らない、神様からの贈り物。

 

あいつが「アンチ」なんて言って否定しても、その血は確かにあいつの中で燃えてやがる。そして今、あいつはその血を武器にして戦っている。

 

……最高じゃねえか。ゾクゾクする。

 

だが。

 

「ここはマイルだぜ、モエ」

 

渾身の力で地面を蹴った。

 

オレのストライドは、あいつとは違う。あいつの加速は一歩が重い。地面を殴りつけるような力ずくの走りだ。オレはもっと軽く、もっと大きく開いて、距離で稼ぐ。東京コースほど長くはないが、阪神の外回りなら十分に加速できる。

 

「うおおおおおおっ!!」

 

外に持ち出す。視界が開ける。

前にいるのは、マーチャンと、モエ。二人の背中が、獲物に見えた。

 

逃げ切れると思うなよ。

 

残り300メートル。ここからが、オレの時間だ。

 

 

 

――Recorder: Aston Machan

 

 

 

来ましたね。

 

マーちゃんの横を、黒い疾風が駆け抜けていきました。

カレンモエさん。その顔は鬼気迫るものがあります。瞳孔が開いて、視線は一点だけを凝視している。「勝ちたい」が、全身から火花みたいに散っている。

 

……いい表情です。

 

心の中でシャッターを切りました。これこそ、マーちゃんが待ち望んでいた被写体。運命に抗って、己を焼き尽くして走る、美しい姿。

 

でも、ここは阪神の坂下。ここからが本当の地獄なのです。

 

「……逃がしませんよ」

 

ピッチを上げました。モエちゃんとは違う、精密なリズムで。一歩、また一歩。影を踏むように、追い詰めていく。

 

貴女の物語の結末を、一番近くで記録するのはマーちゃんです。それが栄光でも絶望でも。全部目撃して、受け止めて、そして——追い越します。

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

並んだ。マーチャンを捉えた。

 

横に並んだ瞬間、マーチャンと目が合った気がした。苦しそうに、でもどこか嬉しそうな表情。「来ましたね」と、その瞳が語っている。

 

かわした。先頭に躍り出た。

 

勝てる。

 

ゴール板が見える。あそこまで、あと少し。

このまま押し切れば、証明できる。私が「カレンモエ」であることを。

 

ママの影も、世間の声も、全部置き去りにして——

 

 

 

だが。

 

残り200メートル。阪神の急坂に差し掛かった瞬間だった。

 

 

フッ、と。

 

体の中で、火が消えた。

 

 

「……え?」

 

 

景色が、重い。

さっきまで背中にあった翼が、泥みたいに重い枷に変わる。地面が粘りつく。脚が離れない。

 

肺が喘ぐ。吸っても吸っても、酸素が入ってこない。

視界が明滅する。色が失われていく。

 

ガス欠。

恐れていた「1200メートルの壁」が、遅れてやってきた。タキオンさんの理論で引き伸ばした限界。呼吸法で騙し続けた脳のリミッター。坂の負荷で、全部が一気に崩壊した。

 

故障じゃない。ただ、エネルギーが一滴も残っていない。

 

動け。動け。

あと少し。目の前にゴールがあるのに。

あそこに行けば、私は私になれるのに。

 

背後から、轟音。

 

「どきなァッ!!」

 

横を、巨大な影が通り過ぎていく。

 

ウオッカ。

 

あいつは、私が減速した坂を、平地みたいに駆け上がっていく。力強いストライド。太陽みたいに輝く瞳。あまりにも大きく、あまりにも残酷なほどにカッコいい背中。

 

これが、マイルを主戦場にする者の底力。

 

……待って。

 

手を伸ばす。届かない。みるみる差が開いていく。

 

内側からも影が伸びた。マーチャン。

苦しそうに顔を歪めている。でも、あの子の脚は止まっていない。執念深く、粘り強く、私の内側をすり抜けていく。

 

「……ぁ……」

 

視界が滲む。二人の背中が遠ざかる。

 

走っているんじゃない。倒れないように、もがいているだけ。

 

歓声が変わる。「ウオッカだ!」「ウオッカ抜けた!」「強い!」

 

私の名前を呼ぶ声は、もう聞こえない。

 

 

 

――Live: Announcer

 

 

 

ウオッカ先頭! 残り100メートル、ウオッカが力強く抜け出しました!

内からアストンマーチャンが食い下がる! 二人の叩き合い!

 

そしてカレンモエは——失速! 坂で脚が止まってしまいました!

先頭との差が開いていく!

 

ゴールイン!!

 

一着ウオッカ! 二着アストンマーチャン!

そして三着にカレンモエ! 3身差!

 

ウオッカ、阪神ジュベナイルフィリーズを制しました!!

 

 

 

~~

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

レース後の芝コース。

 

膝から崩れ落ちていた。

 

肺が痛い。喉が血の味。全身の筋肉が鉛みたいに重い。

でも、一番痛いのは、胸の奥だった。

 

……負けた。

 

完敗。言い訳のしようもない。

作戦は完璧だった。体調も万全だった。タキオンさんの理論も、トレーナーの指示も、全部正しかった。持てる力の全部を出し切って、限界を超えて走った。

 

それでも、届かなかった。

 

顔を上げる。少し先で、ウオッカがガッツポーズをして観客に応えている。その横で、マーチャンが静かに、でも満足げにカメラに向かって微笑んでいる。

 

あの二人は「マイルの住人」だ。選ばれた強者たち。

私は、そこへの侵入者に過ぎなかった。

 

……悔しい。

 

涙が溢れてくる。止まらない。

 

ただ純粋に、勝ちたかった。あいつらに勝ちたかった。私の脚で、私の意志で、一番になりたかった。

 

「……モエ」

 

ラチ越しに、トレーナーの声が聞こえた。

見ると、あの人は泣きそうな顔で私を見ていた。失望じゃない。憐れみでもない。私の痛みを、自分のことみたいに噛み締めている顔。

 

ふらつく脚で立ち上がって、あの人の方へ歩いた。脚がもつれる。それでも止まらなかった。

 

「……ごめん」

 

ラチにすがりついて、言った。涙で声が震える。

 

「……勝てなかった」

 

「……ああ」

 

トレーナーがラチ越しに手を伸ばして、私の頭にそっと手を置いた。

その温かさが、涙腺をさらに壊す。

 

「でも、見たか。直線の入り口。お前が先頭に立った瞬間」

 

震える声で言った。

 

「お前は夢を見せたんだ。マイルでも戦えるって、証明したんだ」

 

「……でも、3着だよ。負けだよ」

 

「3着だ。あのウオッカとマーチャン相手に、適性外の距離で、3着をもぎ取ったんだ」

 

トレーナーが私の目を見て、力強く頷いた。

 

「誇っていい。お前はカレンチャンの娘じゃない。カレンモエとして、堂々と戦った。俺には、一番輝いて見えたぞ」

 

「う、あ゛……ッ」

 

堰が切れた。

 

我慢していた全部が決壊した。喉の奥から熱い塊がせり上がってくる。息がうまく吸えない。嗚咽が止まらない。

 

「ぅ゛ぐ……! ひっぐ……! うわああああああああん!!!」

 

子供みたいに、顔をくしゃくしゃにして、なりふり構わず声を上げて泣いた。

 

悔しい。死ぬほど悔しい。胸が張り裂けそう。

 

でも、この悔しさは、私が「私」として戦った証だ。

ママの影に怯えていた頃には味わえなかった、本物の敗北の味。

苦くて、泥臭くて、焼けるほど熱くて——でも、私がずっと欲しかったもの。

 

涙で霞む視界の先。ウイニングランをするウオッカの背中を見据える。太陽みたいに輝く背中。不気味に完成されたマーチャンの背中。そして、まだ見ぬ怪物、ダイワスカーレットの影。

 

次は、絶対に。

 

涙を袖で乱暴に拭った。

 

距離の壁だろうが、血の運命だろうが、全部ねじ伏せてやる。

 

絶対に、負けない。

 

冬の空に、慟哭と、新たな決意が吸い込まれていった。




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