――
阪神レース場のスタンドの片隅。一般客の熱狂から離れた、関係者席のさらに奥まった場所。ここが本日の私の特等席だ。
「……ククッ。相変わらず、GⅠの空気というのは独特だねぇ」
私は白衣のポケットに手を突っ込み、眼下に広がる緑のターフを見下ろした。
数万人の観衆が発する熱気。どよめき。期待と不安が入り混じった空気。それら全てが、これから始まる実験を盛り上げてくれる。
手元のタブレット端末には、リアルタイムでカレンモエくんのバイタルデータが表示されている。心拍数、体温、呼吸のリズム。レースウェアの下に仕込ませた極小センサーが、彼女の肉体の「今」を克明に伝えてくる。
不正な装置ではない。生体データの収集のみを目的とし、走りに一切の物理的干渉を行わないという条件で、事前申告を行い、特別に装着を許可された代物だ。許可をもぎ取るためにどれだけの書類を書かされたかは思い出したくもないがね。
「さあ、見せてくれたまえ。モルモット君」
ファンファーレが鳴り響く。ゲートに収まる18の魂。
『スタートしました!』
ゲートが開く。同時、端末のグラフが跳ね上がる。
「……おや」
私は眉を上げた。スタート直後の加速G。想定値を軽く超えている。
いや、加速Gだけではない。一歩あたりの地面への荷重データが妙だ。あの華奢な体格から出ていい数値ではない。速筋の瞬発力だけでは説明がつかない。
「……フム」
一つのデータにマーカーを打って、思考を切り上げた。今はレースの観察が優先だ。
そのまま行けば、楽に先頭に立てただろう。だが、彼女は引いた。
「……いい判断だ」
心拍数が危険域からスッと正常値に戻る。呼吸のリズムが整う。あの極限状態の中で、叩き込んだ呼吸法を実践している。
彼女は本能という名の猛獣に首輪をつけて走っている。
だが、端末が映し出す数値は、もう一つ厄介な事実を告げていた。彼女の出力カーブに中間域がない。全力から一気に抑制へ。そしてまた全力へ戻ろうとする。その振幅を精神力だけで押さえ込んでいる。
出力を「調整する」のではなく、「全力を封じ込める」ことで走っている。燃料を消費し続けながらアクセルを踏まないという、恐ろしく非効率な走り方だ。
1000メートル通過、60秒フラット。スローペース。物理的な消耗は最小限に抑えられている。だが、精神的な摩耗を示す数値はレッドゾーンに張り付いたままだ。
「ハハッ……。苦しいだろうねぇ」
走りたいのに走れない。行きたいのに行けない。そのジレンマが彼女の精神を研ぎ澄ませていく。
「だが、気をつけたまえ。君の周りには厄介な検体がうろついているよ」
モニターの中で、アストンマーチャンが不気味に位置を上げている。ウオッカが虎視眈々と外を窺っている。
第四コーナー。直線の入り口。
「……さあ、ここだ」
私が呟いた瞬間、カレンモエくんの数値が跳ね上がった。心拍数、筋電位、血中酸素濃度。全てのグラフが天井を突き破る。
速い。美しいほどに速い。私の理論値を置き去りにして、彼女は先頭へと躍り出た。
「アハハハハッ! いいぞ、いいぞ!」
私は手すりを叩いて笑った。データが暴れている。こんな数値は見たことがない。
だが。科学は嘘をつかない。
残り200メートル。阪神の急坂の手前。
端末のアラートが静かに点滅を始めた。グリコーゲン枯渇。乳酸値、限界突破。
「……あァ」
溜息交じりに呟いた。
「時間切れだ」
プツン。糸が切れるように、彼女の足が止まった。推進力が失われ、重力が彼女を地面に縛り付ける。
その横を、ウオッカが豪快に抜き去っていく。アストンマーチャンが涼しい顔ですり抜けていく。
彼女は1400メートルまでは完璧だった。いや、1500メートル付近までトップスピードを維持していた。私の理論と彼女の努力が、限界を300メートル押し広げた。
これは敗北だ。だが、無駄なデータではない。
ただ、一つだけ気になることがある。
端末のログを遡る。スタート直後にマーカーを打った、あの荷重データ。そして今、失速した瞬間のストライドデータ。
崩壊のパターンが、純粋なガス欠とは微妙に異なっている。エネルギー枯渇なら出力が均等に落ちるはずだが、彼女の場合、一歩ごとの着地衝撃が不規則に跳ねている。足元の反発と噛み合っていない。
「……フム」
私はその数値にもマーカーを打った。何かが引っかかる。だが、それが何を意味するのか、まだ分からない。データが足りない。
端末を閉じた。
ゴール板を通過するカレンモエ。三着。
彼女は芝の上で膝をつき、やがてふらふらと立ち上がって外ラチの方へ歩いていく。そこには身を乗り出して彼女を迎えるトレーナーくんの姿があった。
柵越しに言葉を交わし、彼が彼女の頭に手を置く。その瞬間、彼女の感情が決壊したのが遠目にも分かった。
「……泣くことはないさ、モルモット君」
私は端末の録画ボタンを停止した。
彼女はただの検体ではない。私の理論を信じて、その体で未知の領域に踏み込んでくれたのだ。
「……よくやったよ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
もう一度、端末を開いた。さっきマーカーを打った二つのデータが並んでいる。
スタート時の異常な荷重。失速時の不規則な着地衝撃。
引っかかる。この二つのデータが引っかかる。でも今は、これ以上のことは言えない。
端末を閉じた。今度こそ。
私は白衣の襟を正して、喧騒のスタンドを後にした。
次のレースがどこになるかは知らない。だが、あの娘はやめないだろう。あの涙は諦めの涙ではない。
「楽しみだよ、モルモット君」
口笛を吹きながら、階段を降りた。
誤字報告、評価や、感想、ここすきなど、よろしくお願いいたします。