Q:今後悔していることはなんですか?
A.モエの史実年度に合わせて、モエにグランラブズクロノで話を作ればよかった……!
でも、ちょっと慣れてきたから言えることなのかも。
とりあえず、このストーリーを完結させてから考えましょうかね。
一夜明けて。十二月の朝は、容赦なく冷え込んでいた。
トレセン学園の敷地内には、昨日の激闘の余韻と、祭りの後の静寂が同居している。
枯れ葉が舞う並木道を、ジャージ姿の生徒たちが白い息を吐きながらランニングしている。いつもと変わらない朝の光景。だが、俺の足取りはひどく重かった。
早朝のコンビニエンスストア。暖房の効いた店内に逃げ込み、雑誌コーナーへと向かう。
トレーナーとして、メディアが昨日のGⅠ——阪神ジュベナイルフィリーズをどう報じたか確認するのは義務だ。分析、世間の評価、次走への影響。それらを把握しておかなければならない。
だが、その義務感は、棚に並んだスポーツ新聞の束を見た瞬間、別の感情に取って代わられた。
「……予想はしていたが、これは」
俺は呟き、各紙を束ねてレジへ持っていった。店員の眠そうな声が、やけに遠く聞こえた。
トレーナー室。
買ってきた新聞をデスクの上に広げる。インクの匂いが鼻をつく。
スポーツ紙は五紙。そのうちの三紙——実に六割が、勝者ではなく、三着に敗れたカレンモエを一面で扱っていた。
『カレンモエ、悲劇の三着 母の夢、仁川に散る』
『敗れてなお光る、カレンの血』
『涙の完敗——少女は本物になった』
見出しと共に掲載されているのは、ゴール直後、芝の上で泣き崩れるモエの大写しだ。顔をくしゃくしゃにして慟哭する姿。それがデカデカと切り取られ、全国にばら撒かれている。
残りの二紙は勝者のウオッカを一面にしていた。だが、その紙面構成も歪だった。ガッツポーズのウオッカの下、中段に、やはり泣きじゃくるモエの写真がほぼ同じサイズで掲載されている。勝利と悲劇の対比で、ドラマを煽る構成。
勝ったのはウオッカ。二着はアストンマーチャン。モエは三着だ。
なのに、紙面は「カレンチャンの娘が負けて泣いた」という事実を、勝利以上に価値のあるコンテンツとして消費している。
あの涙は、見世物じゃない。
彼女が初めて、自分の意志で走って、自分の足で掴み取った悔しさだ。それを「可哀想な二世タレント」の小道具にされていいはずがない。
新聞を閉じた。一番傷つくのは誰か。それは考えるまでもない。
バンッ。
その時、トレーナー室のドアが乱暴に開いた。冷たい廊下の空気と共に、当の本人が飛び込んでくる。
「……おはよう、モエ」
ジャージ姿。目は少し腫れている。昨日の今日で体中の筋肉が悲鳴を上げているはずなのに、肩で息をしながら俺のデスクに詰め寄ってきた。その手には、俺が今閉じたのと同じ新聞が握りしめられている。
「……トレーナー。見た?」
声が、怒りで震えていた。
「ああ。見た」
「ふざけてる」
モエは新聞を床に叩きつけた。バサリと紙面が広がり、泣き顔の彼女が天井を仰ぐ形になる。
「朝、SNS開いたらトレンドに私の名前が上がってた」
ポケットからスマホを出して、画面を俺に向けた。
「『#カレンチャンの娘』『#涙の三着』。一晩で何万件。全部、泣いてる私の写真」
指が荒くスクロールしていく。同情のコメント。憐れみのコメント。親の名前を引き合いに出して語るコメント。中には「この子はやっぱり短距離でキラキラしてた方がいい」みたいな、走りを否定する論調もある。
「寮の廊下で、同期の子たちが私の顔見て黙った。『大丈夫?』って聞こうとしたんだと思う」
モエがスマホを握りしめた。
「……ママからも、メッセージ来てた」
「……」
「『お疲れさま』って」
それ以上は言わなかった。
俺も聞かなかった。
「勝ったのはウオッカでしょ。GⅠだよ。なんで私が一面なの」
叫んでいるというより、吐き出していた。自分の恥ずかしい写真を晒された羞恥心よりも先に、勝者への敬意を欠く報道への怒りが出ている。それが、このウマ娘のアスリートとしての矜持だった。
「ウオッカは速かった。マーチャンも強かった。あいつらは、私より速かった。なのに、私が主役扱い」
拳が震えている。
「……これじゃ、私がお飾りみたいじゃない」
「モエ」
「負けたことより、こっちの方が悔しい」
彼女は記事の見出しを指で叩いた。
「『母譲りの負けん気』『カレンチャンの再来を予感させる涙』。……あの涙は私のものなのに。悔しくて、情けなくて、流した涙なのに。なんで、『ママの物語の一ページ』にされなきゃいけないの」
記事の文面は、彼女個人の感情すら血統というフィルターを通して解釈していた。その傲慢さが、何より彼女のプライドを傷つけている。
昨日のレース。彼女は確かに「カレンモエ」として走った。自分の限界に挑み、散った。
その事実は、誰よりも彼女自身が知っている。
だが、世間はそれを許さない。「カレンチャン」という巨大な幻影を重ね、彼女の個性を塗りつぶそうとする。
「……世間は、分かりやすい話を求めている」
俺は静かに言った。肯定ではない。ただ、事実として。
「『無名の新人が勝つ』より『天才の娘が挫折して涙を流す』方が、新聞は売れる。……奴らにとって、君は都合のいい主人公なんだ」
「……まっぴらごめん」
モエは睨みつけるように言った。その瞳には、涙ではなく、冷たい炎が宿っていた。
「私はヒロインなんかじゃない」
床の新聞を蹴り飛ばした。クシャクシャの紙面が部屋の隅に転がっていく。
「あんなに必死に走ったのに。……結局、私はまだ、ママの付属品なんだ」
その言葉には、深い諦めが滲んでいた。
1200mで勝っても「血統のおかげ」。1600mで負けても「血統のドラマ」。勝っても負けても、自分自身を見てもらえない。この世界は、どこまで行っても彼女を「カレンチャン」という枠の中に閉じ込めようとする。
俺は立ち上がり、蹴飛ばされた新聞を拾い上げた。そして、それを折りたたんで、ゴミ箱に放り込んだ。
「……記事なんて、他人の勝手な解釈だ」
彼女の目を見た。
「昨日のレースで君が感じたこと。ウオッカの背中の遠さ。マーチャンの息遣い。そして、君が絞り出した最後の加速。……それは全部、誰にも汚せない、君だけのものだ」
「……トレーナー」
「世間が何を書こうと、俺は見ていた。ウオッカもマーチャンも分かっている。あの芝で戦った者だけが知っている」
俺は一拍、置いた。
「悔しいか」
「……当たり前でしょ」
モエは鼻をすすって、顔を上げた。目はまだ赤い。でも、そこには昨日のレース前と同じ、いや、それ以上の強さが戻っていた。
「なら、書かせればいい」
俺はホワイトボードを指差した。
「『カレンチャンの娘』なんて肩書きが入る余地がないくらい、圧倒的な結果を出す。マスコミのペンをへし折る。……それしかない」
「……へし折る」
「次は負けるな。誰にも文句を言わせないくらい、完膚なきまでに勝て。同情も、懐古趣味も、全部置き去りにするような走りで。……そうすれば、見出しは勝手に変わる」
『カレンモエ、最強』『新時代の女王、誕生』
親の名前が入る余地のない、彼女だけの見出し。それを奪い取る。マスコミが用意した「悲劇のヒロイン」という台本を、実力で破り捨てる。
モエは、しばらく黙ってゴミ箱を見つめていた。
やがて、ふぅ、と長く息を吐き、ジャージの袖で乱暴に目元を拭った。
「……分かってるよ」
声に力が戻っていた。
「やってやる。次は、絶対に私の名前だけを書かせてやる」
シューズバッグを握りしめた。その手はもう震えていない。
「その意気だ。……で、どうする? 今日は休むか? 昨日の今日だ、体はボロボロだろ」
「休まない」
即答だった。
「ウオッカも、マーチャンも、きっと休んでない。あいつらに追いつくには、一日だって無駄にできない」
「そう言うと思った」
俺は苦笑した。この強情さが、彼女の最大の武器であり、同時に脆さでもある。だが、今はその炎を消すべきじゃない。
「トレーナー。……次の目標、確認させて」
「ああ」
俺はホワイトボードの文字をなぞった。
「来年の春。桜花賞、オークス、そして秋華賞」
「……ティアラ路線」
モエがゴクリと喉を鳴らす。それは、彼女が挑むと決めた場所だ。
「スカーレットはホープフルSで世代最強を証明した後、来年はティアラ路線へ戻ってくるだろう。……次は、彼女も含めた真っ向勝負になる」
「うん」
「まずは、今回取り逃がしたマイルの頂点、桜花賞を獲る。ウオッカ、マーチャンへのリベンジ、そしてスカーレットとの四つ巴」
「うん」
「そして……オークスで、2400mに挑む」
「……2400m」
途方もない数字だ。1600mですら息が続かなかった彼女にとって、さらに800mの延長。常識で考えれば、自殺行為だ。
タキオンですら「興味深いが、見込みはない」と言うかもしれない。マスコミは「無謀」「血の迷走」と書き立てるだろう。
だが、モエは笑った。不敵に。昨日のレースで限界の底を覗いた者の顔だった。
「……いいね。ゾクゾクする」
自分の腕を抱いた。
「やってやろうじゃん。『スプリンターが距離の壁を超えて二冠を獲る』。新聞記者が腰を抜かすようなニュースを作ってやる」
「ああ。世界を驚かせよう」
俺たちは笑った。窓の外は冷たい冬の風。でも、部屋の中には、春に向けた熱が渦巻いていた。
「あ、そうだトレーナー」
モエが思い出したように言った。声のトーンが、少しだけ変わる。
「……昨日、ありがと」
「ん?」
「レースの後。……言葉、かけてくれて。少し、救われた」
彼女は少しだけ顔を赤らめて、そっぽを向いた。普段は強気な彼女の、等身大の一面。
「……次は、嬉し泣きさせてよね」
それは、彼女なりの精一杯の甘え方——いや、パートナーへの信頼の表明だろう。俺にだけ見せる、弱さと強さの混ざり方。
「ああ。任せろ」
「ふふっ、何それ。……じゃあ、トレーニング行ってくる」
「軽めの調整だぞ。無理はするな」
「分かってるって」
モエは軽やかな足取りで部屋を出て行った。
その背中には、もう迷いはなかった。昨日の敗北は、重荷ではなく、彼女を前に進める推進力に変わっている。
ドアが閉まる音。
部屋に、一人になった。
俺はゴミ箱に歩み寄って、放り込んだ新聞を一枚、拾い上げた。
広げる。
モエの泣き顔のアップ。その下に、小さく記事本文が並んでいる。ざっと目を通していく。読めば読むほど、不快な構成だった。
記事は、モエの走りそのものについてはほとんど触れていなかった。1600メートルで息が続かなかった技術的な分析も、直線で最後まで粘った脚の描写も、ほとんどない。代わりに書かれているのは、母カレンチャンの現役時代の回顧録と、娘の「悲劇的な挫折」を重ね合わせる情緒的な文章だった。
『母の無念を晴らすはずが、同じ阪神の1600mで敗れた。血が泣いたのか』
一行を読んで、俺は紙面を閉じた。
血が泣く、か。
昨日のあのレースで、彼女の血が何を感じていたかを、この記者は知らない。知ろうともしていない。ただ「カレンチャンの娘」という枠に彼女の涙を嵌め込んで、そこから出てくる感動物語を書いているだけだ。
彼女はカレンチャンじゃない。カレンモエだ。
その当たり前の事実を、世間は認めようとしない。
新聞を折りたたんだ。捨てる前に、机の引き出しに入れた。
記念品じゃない。記録だ。
次のレースの後、この記事を書いたのと同じ記者が、違う見出しを書く日が来る。その日、俺はこの記事を取り出して、並べて見る。
俺はゴミ箱の中の残りの新聞を一瞥し、カレンダーに目を移した。戦いは終わったばかりだが、もう次の戦いは始まっている。
アンチ・スプリンターの逆襲は、ここからが本番だ。
俺はPCを開いて、タキオンから送られてきた昨日のレースデータを開き直した。
『観測された限界点』。その先にある可能性を、俺たちが証明する。
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