アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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カレンモエのジュニア級が終了しました。
次の掲示板回を挟んで、トリプルティアラ路線へと歩みを進めていきます。


21話 抗いの温度

 

「——ぶはっ!」

 

十二月の凍てつくような空気の中、温水プールとはいえ、水面から顔を出した瞬間の温度差が肌を刺す。

 

カレンモエは盛大に水飛沫を上げると、重たい腕をどうにか持ち上げ、プールサイドに掴まった。激しく上下する肩。濡れそぼった芦毛のショートヘアが顔全体に張り付き、まるで溺れかけのような姿だ。

 

顎から滴り落ちる水滴が、再び水面に波紋を作る。その唇からは完全に血の気が失せ、薄い紫色に変わりかけていた。

 

「……はぁ、はぁ……死ぬ、本気で死ぬかと……」

 

荒い呼吸の合間に、彼女は呻き声を漏らした。水圧で締め付けられた肺が、酸素を求めて胸の奥で悲鳴を上げている。

 

「おや、情けない。まだ45秒も経っていないよ。データ上では、君の肺活量は先週より確実に向上しているはずだがね」

 

プールサイドのデッキチェアに腰掛け、まるで実験経過を観察するように冷ややかに告げるのは、白衣を乱雑に着崩したウマ娘——アグネスタキオン。彼女は片手にストップウォッチを持ち、もう片方の手には蛍光緑の液体が入った三角フラスコを弄んでいる。

 

「ふざ……っ、けないでよ……! こんな重りつけて、水の底を歩くなんて……息が、続かない……!」

 

モエが、途切れ途切れに抗議した。

 

腰と両足首に鉛入りの専用ウェイト。華奢な体格には不釣り合いな総重量。この状態で、水深三メートルのプールの底を「歩行」するのが、タキオンの課したメニューだった。水圧で肺が潰され、呼吸が制限され、体幹の深層筋が悲鳴を上げる。通常のウマ娘なら恐怖でパニックになる負荷。だが、彼女は自分の意志でこの地獄に身を沈めている。

 

「何を今更。君がオークスの2400メートルを、この脚で走りたいと言ったんだろう?」

 

タキオンが、心底楽しそうに口角を上げた。

 

「スプリンター仕様のスポーツカーで、エベレストに登ろうとしているようなものだ。エンジンも、足回りも、積んでいる燃料タンクも、設計された環境がまるで違う。君が2400を目指すということは、そういうことだよ。そりゃあ一筋縄では行かない」

 

彼女はフラスコを軽く揺らした。中の液体が、プールの照明を反射して不気味に煌めく。

 

「前回のマイル戦——阪神JFで、君は『意識的な呼吸』という小手先の技術で、かろうじて限界を引き伸ばした。興味深い足掻きだったよ。だがね、2400となると、そんなものは通用しない。意識して呼吸しているようでは遅い」

 

タキオンは立ち上がり、モエの顔の前に屈み込んだ。その瞳は、研究対象を眺める目そのものだった。

 

「必要なのは、根っこからの肉体の作り替えだ。無意識のうちに、細胞の一つ一つが酸素を求めて働くような、わずかな酸素供給でも最大限のエネルギーを絞り出せるような体。この低酸素・高負荷トレーニングは、そのための最短ルートだ」

 

「……だからって、これ? 水中で溺れさせる気?」

 

「効率的だろう。文句があるなら今すぐ上がっていいよ。楽にしてあげよう。その代わり——来年の春、君は府中の五百メートルを超える直線で、無様に酸欠になって、文字通り芝の上で溺れ死ぬ。それだけは保証する」

 

タキオンの言葉は、冷たくて、恐ろしいほど正確だった。

 

オークスが行われる東京レース場、芝2400メートル。一切のごまかしが許されない、スタミナがすべてを決める舞台。今のままの体では、間違いなくゴール板まで持たない。阪神JFの最後の坂で味わった窒息感を、何倍にもした苦しみが待っている。

 

モエは唇を噛み、揺れるプールの水面を睨みつけた。青い水が、彼女の覚悟を試すように波打っている。

 

「……誰が、あがるもんか。もう一本、行く」

 

彼女は再び、肺の空気を全部入れ替えるように深く息を吸い込み、ザブンと水の中へ潜った。

 

水面が大きく波打ち、姿が深い青の中へ消える。プールの底、青白いタイルを一歩ずつ踏みしめる影が、ゆらゆらと揺らめいた。

 

俺は、タキオンの隣でその一部始終を見守っていた。手に持ったストップウォッチの金属が、嫌な汗で滑る。

 

見ているだけで、こちらの心肺まで圧迫される感覚だ。胃がキリキリと痛み、今すぐにでも飛び込んで彼女を引き上げたい衝動に駆られる。だが、それを理性で抑え込む。

 

止めることはできない。これは、他ならぬ彼女自身が選び、望んだ道だ。

 

「……あまり無茶はさせないでくれ」

 

低い声で牽制すると、タキオンはフフンと鼻を鳴らした。

 

「トレーナーくん。無茶を望んだのは彼女の方だ。私はただ、その狂気じみた願望に『科学』という梯子をかけてやっているに過ぎないよ。登るか落ちるかは、彼女次第だ」

 

彼女はデッキチェアに戻り、フラスコの液体を一口含んだ。そして、盛大に顔をしかめる。味の調整には失敗したらしい。

 

「それにしても……実に興味深い検体(モルモット)だ」

 

タキオンが、恍惚とした表情で水底の影を見つめた。

 

「本来なら1200で燃え尽きるはずの肉体が、意志の力だけで1600を持たせ、今また2400という矛盾に適応しようと、必死に悲鳴を上げている。生物学的なエラーの塊。常識の破壊者。だが、だからこそ、私の探究心を刺激する。美しいとさえ思うよ」

 

タキオンの瞳が、怪しく輝いた。純粋な研究者としての底知れぬ好奇心と、かつて自らも限界に挑んだ者としての奇妙な共感とが、入り混じった目だった。

 

「……協力してくれて、感謝している。お前がいなければ、この挑戦は始まってすらいなかった」

 

「礼には及ばないよ。私も見たいんだ、この『矛盾』の先にある答えをね」

 

数分後。再び水面に顔を出したモエは、自力で体を支えることもできず、プールサイドに倒れ込んだ。唇の色は、危険な紫を通り越している。

 

それでも、ギラギラとした反抗の意思が、瞳の奥に宿っていた。

 

「……次は、絶対に、タイム、縮めるから……」

 

彼女は床を這うようにして、俺が差し出した大判のバスタオルをひったくった。冷え切っているはずのその体から、真冬のエンジンみたいに湯気が立ち上っている。限界を超えてなお燃え続ける、執念の熱。

 

「今日はここまでだ。呼吸が戻らないうちは、タイムの話はしない」

 

俺は市販のスポーツドリンクを渡した。無論、タキオン製ではない、安全な方だ。

 

モエはペットボトルごと奪うように受け取り、震える手で一気に飲み干した。そして、ジャージの袖で口元を拭う。

 

「……これくらい、どうってことないし」

 

明らかな強がりだった。足が、生まれたての小鹿のように小刻みに震えている。立っているのがやっと、という状態だ。

 

だが、その震えを止めるのは、俺の慰めの言葉じゃない。彼女自身の意志だ。俺にできるのは、本当に倒れそうになった時に、いつでも支えられる準備をしておくことだけ。

 

それと、タキオンの狂気を、トレーナーとして管理下に置いておくこと。今のモエは、自分の限界を把握せずに突っ走る。そこで手綱を握るのは、科学者じゃなく、俺の仕事だ。

 

 

夕刻。過酷なトレーニングを終えて、俺たちは静かなトレーナー室に戻っていた。

 

窓の外はすでに暗くなり始めている。暖房の効いた部屋の空気が、プールの底で冷え切った体をゆっくりと解きほぐす。

 

「……ふぅ。生き返った……。あったかいって、幸せ……」

 

モエはソファに深く沈み込み、まだ湿り気の残る髪をタオルでガシガシ拭いていた。厚手のジャージに包まれた彼女は、どこにでもいる年頃の少女にしか見えない。数時間前まで水底で窒息寸前のトレーニングをしていたとは信じられないほど、穏やかな表情。

 

「風邪を引くなよ。汗を冷やすのが一番まずい。——そうだ、これ、届いていた分は整理しておいたぞ」

 

俺はデスクの横に置いた大きな段ボール箱を指差した。学園の事務局を経由して届いた、ファンレターやプレゼントの山だ。

 

阪神JFでの、敗れはしたが記憶に残る激走以降、その数は目に見えて増えていた。

 

「……ふーん」

 

だが、モエの反応は鈍かった。箱を一瞥しただけで、すぐに視線を逸らす。

 

「どうせまた『カレンチャンにそっくりでカワイイ!』とか、『ママみたいに強いスプリンターになってね』とか、そんなのばっかりでしょ」

 

心底興味なさそうな声だった。隠しきれない諦めと、微かな苛立ちが滲んでいる。

 

無理もない。これまでの経験上、彼女に届くファンレターの七割は「母親の影」を追うものだった。カレンモエ自身の走りではなく、「カレンチャンの娘」という記号への称賛。残りの三割は、心ない批判や、勝手なアドバイス。彼女がレターを読む気をなくすのも、当然の成り行きだ。

 

「正直に言えば、大半はそうだ。でも、今回は少し毛色が違う」

 

俺は箱の中から、あらかじめ選り分けておいた束を取り出した。

 

「これだけは、お前が自分で目を通すべきだと思った」

 

その中の一通を、彼女に差し出した。飾り気のない白い封筒。差出人の名前は書かれていない。

 

「……なにこれ」

 

「読んでみろ」

 

モエは怪訝そうな顔で、しぶしぶ封筒を受け取った。少し乱暴に封を切り、中の便箋を取り出す。

 

そこには、少し不格好だが、一文字ずつに力が込められた丁寧な字が並んでいた。

 

『カレンモエ様

 

 阪神ジュベナイルフィリーズ、現地で見ました。

 僕は今まで、レースを見たことがありませんでした。たまたまテレビであなたのことを見て、親の七光り、と言われているのを知って、興味本位でレース場に行きました。正直、あなたが負ける姿を見たい、という意地悪な気持ちもありました。

 

 でも、間違っていました。僕が、間違っていました。

 

 最後の直線。あなたが誰よりも必死な顔で、それなのに誰よりも美しく、泥臭く走っている姿を見て、気がついたら涙が出ていました。

 

 僕は最近、仕事で大きな失敗をして、もう全部やめてしまおうと思っていました。周りからも見放されて、自分には価値がないと思っていました。

 でも、限界を超えてなお足掻き続けるあなたの姿を見て、もう少しだけ、もう少しだけ頑張ってみようと思えました。

 

 あなたは、カレンチャンじゃない。

 あなたは、カレンモエです。

 その証明を、これからも見せてください。

 ずっと応援しています。』

 

手紙を読み進めるうちに、モエの手が止まった。視線は、便箋の最後の行に釘付けになっている。

 

部屋には、空調の音と、壁掛け時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。

 

「……」

 

彼女は何も言わない。ただ、便箋を持つ指先が、微かに震えているのが見えた。

 

「他にもある」

 

俺は、選り分けた他の手紙と、小さなスケッチブックをテーブルに置いた。

 

『あの逃げ粘り、シビれました。感動しました。アンチ・ヒーロー最高!』

『黒い勝負服、最高にクールだった。誰よりも輝いて見えた』

『次は絶対に勝てる。信じてる。魂を賭けるよ』

 

スケッチブックには、クレヨンで一生懸命に描かれた、黒い勝負服のウマ娘の絵。『がんばれ、くろいおねえちゃん』と、拙い平仮名が添えられていた。

 

「……」

 

モエは吸い寄せられるようにそれらを手に取り、一枚ずつ、時間をかけて丁寧に読んだ。

 

どの手紙にも、母親の名前は、どこにも書かれていなかった。

 

書かれていたのは、「カレンモエ」という一人のアスリートへの、純粋で、熱を持った応援の言葉だけ。彼女がアンチ・ヒーローとして芝に刻み込んだ爪痕が、確かに、誰かの心に届いていた。その証拠が、今、彼女の手の中にある。

 

「……バカみたい」

 

長い沈黙の後、モエがぽつりと呟いた。声は少しだけ潤んで、掠れていた。

 

「たかがレースで三着になっただけのウマ娘に、人生救われたとか……重すぎるんだよ、バカ……」

 

そう言って、手紙から顔を背けた。悪態をついているけれど、その言葉には、どうしようもない喜びが滲んでいた。

 

「人は、勝者だけに心を動かすわけじゃない」

 

俺は、インスタントコーヒーを淹れながら静かに言った。湯気が立ち上り、香ばしい匂いが部屋に広がる。

 

「お前のあの、無様なまでの足掻きが、誰かの心に刺さった。お前が『お前自身』であろうとした姿勢が、誰かを動かした。勝利と同じくらい、価値のあることだ」

 

「……ふん」

 

モエは鼻をすすり、手紙を丁寧に折りたたみ、封筒に戻した。その手つきは、以前俺がプレゼントした新しいシューズを扱う時と同じくらい、慎重で、大切そうだった。

 

「……これ、捨てないで、ちゃんと取っといてよね。……一応、だから」

 

「ああ。専用のボックスを作っておく。他の手紙が届いた時のために、仕分けの基準も決めておこう。『カレンチャンの娘』宛てのものは、お前の目に触れないように別のところへ」

 

「……そこまでしなくていいよ。ちょっとくらいなら、もう、流せるから」

 

そっぽを向いたまま、ぶっきらぼうに返された。

 

窓ガラスに映ったその横顔は、どこまでも晴れやかだった。

 

世界は、敵ばかりじゃない。「カレンチャン」という幻影ではなく、「カレンモエ」という実像を見てくれている人たちが、確かに存在する。

 

その事実は、タキオンが調合するどんな劇薬よりも、彼女の心を強くしなやかにする成分だったのかもしれない。

 

 

12月31日、大晦日。

 

トレセン学園は、普段の喧騒が嘘のように静まり返っていた。寮はほとんど空っぽだ。多くのウマ娘が実家に帰省し、家族と新年を迎える準備をしている。

 

カレンチャンの実家からも、当然のように連絡があったようだ。「モエ、帰っておいで。ママと一緒に年越ししようね」と。モエはそれを断り、学園に残ることを選んだ。

 

「実家に帰ったら、トレーニングのペースが乱れる」というのが、表向きの理由。先日のクリスマスイブの乱入劇で懲りたというのも、本音のうちだろう。

 

午後11時。人気のない学園の中で、俺たちのトレーナー室だけが煌々と明かりを灯していた。

 

俺たちはソファに並んで座り、年越し蕎麦代わりのカップ麺を啜っていた。つけっぱなしのテレビからは、各地の寺院から中継される除夜の鐘の音が、静かに流れてくる。

 

「……結局、一年終わっちゃったね」

 

モエが、割り箸を割りながら、しみじみと言った。

 

窓の外では、いつの間にか雪が降り始めていた。音もなく降り積もる白が、街灯の光を受けて輝いている。暖房の効いた室内で、カップ麺から立ち上る湯気が、窓ガラスを白く曇らせた。

 

「ああ。……色々あった一年だったな」

 

俺も蕎麦を啜りながら答えた。

 

この一年で、俺たちは大きく変わった。新人トレーナーだった俺に、突然飛び込んできた「カレンチャンの娘」。予想もしなかった短距離の圧勝、その後の空虚、マイルでの挫折。一本道じゃなかった。何度も分岐して、何度も迷った。

 

「ほんとだよ。思い返すと、ロクなことなかったかも」

 

モエが遠い目をした。

 

「トレーナーと出会って、デビュー戦でボロ負けして。短距離で勝っても全然嬉しくなくて、むしろ虚しくなって。それで、やっと見つけた目標のマイルで、今度は負けて大泣きして」

 

指折り数え、そして自嘲気味に笑った。

 

「うん、やっぱり散々な一年だ」

 

「そうか?」

 

俺は残りの汁を飲み干した。

 

「少なくとも、お前は『自分の足で走る意味』を見つけた。そして、信頼できるライバルたちと出会えた。——それだけで、十分すぎるほどの収穫だと思うぞ。GⅠのトロフィーより価値がある」

 

「トレーナー、それちょっとクサい」

 

「……そうか?」

 

「うん。クサい。でも、ちょっと嬉しい」

 

モエは少しだけ口元を緩め、窓の外に視線を移した。

 

暗闇の中に、雪が静かに、けれど確実に降り積もっていく。古い世界が白く塗りつぶされ、新しい世界が始まろうとしている。

 

「ねぇ、トレーナー」

 

「ん」

 

「来年は、もっと大変だよね」

 

静かだが、覚悟の滲んだ声だった。

 

「ああ。クラシック級。そしてトリプルティアラへの挑戦だ。桜花賞、オークス、秋華賞。——正直に言って、今年以上に、苦しく、厳しい戦いになる」

 

世間からの「無謀だ」というバッシング。適性という名の、抗いがたい肉体の壁。そして、さらに強さを増すであろうライバルたち。スカーレット、ウオッカ、マーチャン。彼女たちは来年も容赦なく、俺たちの前に立ちはだかる。

 

特にオークスの2400は、モエにとって完全に未知の領域。常識で考えれば、死地に赴くようなものだ。それを承知で、あいつは向かうと決めた。

 

「……逃げないよ」

 

モエは窓から視線を戻し、俺の目を真っ直ぐに見据えた。その瞳に、迷いや恐れはない。あるのは、燃え盛るような闘志だけだ。

 

「どんなに苦しくても、どんなに無様でも、どんなに笑われても、私は走る。私のやり方で、私の足で、証明してみせる」

 

そして、彼女は少しだけ視線を和らげた。

 

「それに——トレーナーが隣にいてくれるなら、どこまでだって行ける気がするから」

 

その言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

出会った頃の、世界全部に牙を剥いて、孤独の中で震えていた彼女はもういない。今ここにいるのは、信頼できるパートナーと共に、茨の道を往く覚悟を決めた、一人の気高いランナーだ。

 

「……ああ。任せろ。連れて行く。誰も見たことのない景色まで」

 

俺は空になったカップ麺の容器を、まるでトロフィーのように掲げた。モエも、同じように掲げる。

 

「……来年の勝利に」

 

「乾杯」

 

コツン。

 

安っぽいプラスチックの容器が、軽くぶつかる音。それが、俺たちのささやかな、でも熱い年越しの合図だった。

 

ゴーン——

 

テレビの向こう側じゃなくて、遠くの街から、本物の除夜の鐘が聞こえてきた。人々の煩悩を払う、清らかな鐘の音。

 

だが、俺たちの煩悩——「勝ちたい」「証明したい」「限界を超えたい」という、どうしようもない執念は、払われるどころか、その音を薪にして、より強く燃え上がっていた。

 

「あ、そうだトレーナー」

 

モエが、ふと思い出したようにスマホを取り出した。

 

「今年の最後にさ、一枚撮ろうよ。記念写真」

 

「え、俺と? 今さらか?」

 

「いいからいいから。他に誰がいんのよ。ほら、もっとこっち寄って」

 

彼女は俺の隣に移動し、肩を寄せてきた。スマホのインカメラを向ける。画面の中に、少し窮屈そうに並んで座る俺たちが映る。カップ麺を前に、少し照れくさそうな俺と、満足げに悪戯っぽく笑うモエ。

 

「はい、チーズ!」

 

カシャッ。

 

軽快なシャッター音が響く。

 

保存された写真には、飾り気のないトレーナー室で、確かな信頼と絆で結ばれた二人の姿が写っていた。

 

「……ふふっ。いい写真。トレーナー、変な顔してる」

 

モエは満足げに頷くと、手慣れた様子で操作を始めた。

 

彼女の秘密の裏アカウント——『黒い猫』にその写真をアップロードする。もちろん、俺の顔は大きな猫のスタンプで雑に隠して。

 

手元で、彼女が文字を打ち込むのが見えた。

 

『色々あったけど、悪くない一年だった。来年はもっと速くなる。見てろ世界。——変な相棒と一緒に』

 

投稿ボタンを押す。

 

すぐに、俺のポケットの中のスマホが震えた。通知を開くと、たった今撮影された写真と共に、彼女の力強い決意表明が表示されていた。

 

俺は無言で、その投稿に「ウマいね」を押した。

 

時計の針が、頂点で重なる。

 

新しい年が、静かに、けれど確実に始まった。

 

俺たちの、本当の戦いが、今、幕を開ける。




誤字報告、評価や、感想、ここすきなど、よろしくお願いいたします。

第1章、完。
物語は、運命のクラシック級――第2章へと続く。
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