アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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キャラエミュむずかしくない??????
2話が今の所1番納得いっていないので、多分そのうちまるっと書き直します。
今はこれで勘弁してください。


2話 最恐の家族訪問

放課後の校門で、俺は鞄の中を確かめていた。

 

昨夜まとめた育成方針と、模擬レースの記録。名刺入れ。途中で買った手土産。

 

全部ある。さっきもあった。

 

留め具を閉じると、校舎の方からカレンモエが歩いてきた。制服の袖から出た指でスマホを操作している。俺の前で止まり、スマホを鞄へしまった。

 

「パパ、もう家にいるって」

 

「そうか。待たせないようにしよう」

 

「……顔、硬いよ」

 

言われて、顎に力が入っていたことに気づいた。

 

「緊張はしている」

 

「今さら嫌になった?」

 

「いや。説明することを考えていた」

 

モエは俺の鞄を見て、それから顔へ視線を戻した。

 

「昨日の話、そのまましてくれればいいから」

 

「分かっている」

 

念を押すような目は、それでもしばらく動かなかった。

 

昨日の夜、訪問の時間と住所だけが送られてきた。こちらから育成方針の案も送り、目標の欄を確かめてほしいと頼んだ。返事は『それでいい』の4文字だった。

 

「では、行こうか」

 

門へ向き直ったところで、背後から大きな声がした。

 

「カレンモエさぁん!」

 

隣で、モエの肩がわずかに上がった。

 

振り返ると、ジャージ姿のサクラバクシンオーが駆けてくる。額のハチマキも、結い上げた髪も、走る勢いで後ろへなびいていた。

 

「お出かけですか! そちらは、昨日の!」

 

「絢原と申します。昨日、彼女の担当になりました」

 

「おお! それはおめでとうございます!」

 

声が、さらに大きくなった。門を出ようとしていた生徒たちまでこちらを見る。

 

「……まだ仮だけどね」

 

モエが、横から俺を見た。

 

「ああ。分かっている」

 

彼女は鞄の持ち手を握り直した。

 

「……短距離には行きませんから」

 

「はい! 昨日、伺いました!」

 

「だったら――」

 

「ですから、まずはあなたの目指すレースです! トレーナーさんとよく相談して、頑張ってください!」

 

言いかけた口が、そのまま止まった。

 

バクシンオーは両手を腰に当て、胸を張っている。

 

「あの直線で諦めなかったあなたが、これからどんな走りをするのか。楽しみにしていますよ!」

 

「……まだ、何も決まってないですけど」

 

「では、決まったら教えてください! 応援に行きます!」

 

返事を待つ間も惜しいように、今度は俺へ向き直る。

 

「トレーナーさんも、よろしくお願いします!」

 

「はい」

 

深く頷いてから、こちらまで声を張っていたことに気づいた。

 

「それでは! 門限には遅れないように!」

 

大きく手を振り、バクシンオーは校舎へ駆けていった。昨日と同じように、途中ですれ違った生徒へも元気よく声をかけている。

 

モエは、その姿が見えなくなるまで黙っていた。

 

「……声、大きいんだよね」

 

「そうだな」

 

「トレーナーも、つられてた」

 

「あれは、つられる」

 

彼女は何も返さず、門の外へ歩き出した。

 

俺も、鞄を持ち直して後を追った。

 

~~

 

電車を降り、住宅街をしばらく歩いた。

 

道沿いの家々から、夕飯の支度をする匂いが流れてくる。その中で、モエが足を止めた家は、一際広い庭を持っていた。低い塀の向こうに手入れされた植え込みがあり、玄関までは石敷きの道が続いている。

 

「ここ」

 

「……大きいな」

 

「……そう? 入って」

 

モエは門を開け、慣れた足取りで玄関へ向かった。インターホンを押す指に、ためらいはない。

 

『はぁい♪』

 

声がした。

 

それだけで、背筋が伸びた。

 

「モエ。トレーナーも一緒」

 

『待ってたよ。今、開けるね♪』

 

足音が近づく。

 

テレビ越しなら、数え切れないほど聞いた声だった。イベントの会場で遠くから見たこともある。だが、扉1枚を隔てた向こうにいるのは、初めてだった。

 

取っ手が動いた。

 

「おかえり、モエちゃん。トレーナーさんも、いらっしゃい♪」

 

カレンチャンが立っていた。

 

淡い色のブラウスに、落ち着いた丈のスカート。外へ跳ねた明るい髪が、首を傾ける動きに合わせて揺れる。画面で見慣れた顔が、俺を見上げて笑っていた。

 

頭を下げるのが、遅れた。

 

「初めまして。昨日からモエさんを担当しております、絢原朔也と申します。本日は、お時間をいただきありがとうございます」

 

用意していた挨拶は、どうにか最後まで出た。

 

「そんなに硬くならないで。さ、入って♪」

 

差し出した手土産を受け取り、カレンチャンが身体を横へずらす。

 

俺は玄関へ入り、靴を脱いだ。先に上がったモエは、廊下の奥に向かって「ただいま」と声をかけていた。

 

ここは、彼女の家だ。

 

靴を揃えながら、もう一度そう思った。

 

通された居間は明るかった。窓際に観葉植物があり、棚には写真が並んでいる。レース場の写真ばかりではない。小さなモエが大きなケーキを前に頬を膨らませているものもあった。

 

ソファから、男が立ち上がった。

 

「やあ。来てくれてありがとう」

 

襟の開いたシャツに、細身の眼鏡。柔らかな物腰の、整った顔立ちの男性だった。だが、こちらを迎える目は、俺が名乗る前から、まっすぐ顔を捉えていた。

 

カレンチャンのトレーナーだった男。

 

ウイニングライブへ向かう彼女を送り出し、その帰りを待っていた姿を覚えている。かつて、あそこに立ちたいと思った。その本人が、今は目の前で娘の鞄を受け取っていた。

 

「絢原と申します」

 

改めて頭を下げ、名刺を渡す。

 

「モエの父です。どうぞ、座って」

 

勧められたソファに腰を下ろした。モエが隣へ座る。背もたれに身体を預けず、膝の上に両手を置いていた。

 

「急に決まったから、驚いたよ。昨日まで、誰とも組む気がないようなことを言っていたから」

 

「言ってない。組みたい人がいないって言ったの」

 

「そうだったね」

 

父親は娘へ頷いてから、俺へ目を戻した。

 

「モエから、目標は聞いています。今日は、君の考えも聞かせてもらいたい」

 

「はい。そのために伺いました」

 

「その前に、紅茶をどうぞ♪」

 

カレンチャンが盆を運んできた。カップが順に置かれる。紅茶の香りの後から、妙に甘く、鼻の奥に残る匂いがした。

 

一口飲んだ。

 

紅茶は美味い。だが、飲み込んだ後に、別の味が追いかけてくる。甘いと思っていたら、喉の手前で急に辛い。

 

カップを戻す俺の横で、モエが小さく言った。

 

「……無理して飲まなくていいから」

 

「今日は生姜を少し入れてみたの。身体が温まるでしょ♪」

 

「少しじゃないと思う」

 

「そう?」

 

父親は何も言わず、ゆっくりカップを置いた。

 

俺も、鞄から書類を出すことにした。

 

~~

 

育成方針の案を、テーブルの上に開いた。

 

先頭には、モエと確かめた目標がある。

 

トリプルティアラ。桜花賞、オークス、秋華賞。

 

父親はそこへ目を落とし、それから次の頁をめくった。模擬レースの通過タイムと、昨夜映像を見返して書き足した所見だった。

 

紙をめくる音が止まった。

 

「昨日のレースは、僕も映像で見ました」

 

「はい」

 

「あの1600で、最後は脚が上がっていた。君も、そう書いているね」

 

「第3コーナーから歩幅が詰まっています。直線では、抜き返そうとしても続きませんでした」

 

「それで、オークスか」

 

俺は頷いた。

 

父親は、目標の欄を指で押さえた。

 

「僕は、小さい頃からこの子が走るところを見ている。短い距離で一気に速さを出すのは、昔から得意だった。その分、長く走らせると続かない。今のモエなら、まず1200で力を出させるべきだと考えている」

 

「パパ、それはもう――」

 

「モエ。君の希望は聞いたよ」

 

静かな声だった。

 

「今は、絢原君に聞いている」

 

モエが口を閉じた。膝の上の指が、制服の布を掴む。

 

父親は俺を見ていた。

 

「2400を走らせたいというのは、この子の希望でしょう。それを引き受けた君には、どんな見通しがあるのかな」

 

「まだ、2400を走り切れるという根拠はありません」

 

答えた瞬間、相手の表情が変わった。

 

怒鳴られるより、堪えた。

 

「それで引き受けたのか」

 

「はい」

 

「本人が望めば、無理な距離でも走らせる。そういう話なら、僕は賛成できない」

 

「望んだから、走らせて終わりにするつもりはありません」

 

声が硬くなった。言い直す余裕はなかった。

 

「昨日は、前半から飛ばしすぎています。あの失速が、距離だけの問題なのか、前半の走り方を変えてどこまで持つのか。まず、それを確かめます」

 

「抑えて走ればいい。それは、僕も教えたよ」

 

父親の目が細くなる。

 

「頭で分かっていても、この子は上手くできない。君ならできる、と言うのかな」

 

言葉が詰まった。

 

映像を何度見直しても、そこまでは分からなかった。飛ばしすぎたのか。抑えようとしても、そうなったのか。

 

隣を見た。

 

モエは俯いていた。耳が後ろへ伏せられ、膝の上で握った手だけが見える。

 

「……昨日、抑えようとはしていたのか」

 

少し間があった。

 

「してたよ」

 

顔を上げないまま、返ってきた。

 

「最初だけ前に出て、あとは落とそうと思ってた。でも、落としたら追いつかれるし、どこまで落とせばいいか分かんなくなって」

 

「そうか」

 

俺は、開いていた記録へ目を落とした。

 

前半の欄に、ペース配分の改善、と書いてある。その1行で、できることにしていた。

 

ペンを取り、今聞いた話を余白へ書き込んだ。

 

父親は、何も言わずに待っていた。

 

「すみません。ここは、私の確認が足りませんでした」

 

書類を戻し、顔を上げた。

 

「まず練習で、本人が抑えているつもりの時に、実際にはどれくらいの速さになっているのかを確かめます。私が時計を取り、本人の感覚と照らし合わせながら、続けて走れるペースを探します」

 

「それで、2400まで伸ばせると?」

 

「そこまでは、まだ言えません。ただ、抑えろと指示するだけで済ませずに、どこで上手くいかなくなるのかを、一緒に確かめたいと思っています」

 

父親は背もたれへ身体を預けた。

 

「正直なのはいい。だが、君の話は、これから確かめることばかりだ」

 

「はい」

 

「その間、モエは期待して待つ。頑張れば届くと思って、走る。その重さは、分かっているかい」

 

喉が乾いていた。

 

カップへ手を伸ばしたくなったが、やめた。

 

「昨日、モエさんにも話しました。調べた結果、無理だと言うことになるかもしれないと」

 

隣で、モエが顔を上げた。

 

「それでも、トリプルティアラを目指すと決めました。今から短距離へ戻すことを前提に、担当になったわけではありません」

 

「……君まで、意地を張る必要はないんだよ」

 

「意地だけではありません」

 

自分でも、少し強く言いすぎたと思った。

 

だが、ここで言い換えれば、昨日の彼女への返事まで変わってしまう気がした。

 

「あの直線で、抜かれてからもう一度前へ出ようとした。私は、それを見て担当になりたいと思いました。あの走りを、勝ちに繋げたいんです。本人が勝ちたいと望んでいる場所で」

 

父親は動かなかった。

 

「引き受けた以上、方法を探します。見通しが立たなければ、その時は私から本人に話します。結果が出ないまま、頑張れとだけ言い続けるつもりはありません」

 

返事はなかった。

 

膝の上で、指を開いた。いつから握っていたのか、自分でも分からなかった。

 

「ねえ、パパ」

 

カレンチャンが口を開いた。

 

いつの間にか、父親の隣へ座っていた。カップを受け皿へ戻し、俺とモエを順に見る。

 

「カレンも、少し聞いていい?」

 

父親が、黙って頷いた。

 

「トレーナーさん。モエちゃんとは、昨日から?」

 

「担当になったのは昨日です。その前に一度、学園の資料室で話をしました」

 

「そう。じゃあ、まだ知らないことばっかりだね」

 

「……はい」

 

「モエちゃんが笑う時、左の口角から上がるの、知ってた?」

 

俺は、返事に迷った。

 

資料室での笑顔。昨日、トレーナーたちへ向けていた顔。

 

思い返しても、左右のどちらが先だったかまでは分からない。

 

「いえ。そこまでは見ていませんでした」

 

「怒ってる時に、耳が動くのは?」

 

「今、伏せていたのは見えました」

 

「ちょっと、ママ」

 

モエが顔をしかめた。

 

その耳が、ぴくりと動く。

 

「ほら♪」

 

カレンチャンは微笑んだ。モエは横を向いたまま、黙った。

 

「じゃあ、嘘をついてる時は?」

 

「……まだ、分かりません」

 

答えてから、昨日の顔が浮かんだ。

 

「ただ、昨日のレースの後、スカウトを受けていた時は、笑っていました。礼を言って、名刺を受け取って」

 

カレンチャンが、続きを待っていた。

 

「でも、皆が帰った途端に、顔から表情が消えました。壁にもたれて、ずっと息を吐いていた。あの時、笑っているから嬉しいんだとは、思えませんでした」

 

隣のモエは、何も言わなかった。

 

「……そう」

 

カレンチャンの声が、少し低くなった。

 

「あの子ね。嫌なことを言われても、笑って済ませちゃうことがあるの。それで平気なんだと思われると、次も言われるでしょ。でも、また笑うの」

 

「もういいって」

 

モエの声が割って入った。

 

「そういう話、しなくていいから」

 

母親は娘を見た。

 

それから、ゆっくり頷いた。

 

「うん。ごめんね」

 

口元の笑みは、その時には消えていた。

 

俺へ戻った目を、正面から受けた。

 

「トレーナーさん。これから、この子と一緒にいる時間は長くなると思うの。『大丈夫』って言われた時も、それだけで安心しないでね」

 

「……はい」

 

「お願いね」

 

俺は頷いた。

 

父親が、テーブルの上の書類へ目を落とした。余白に、さっき足した文字がある。

 

しばらく、それを見ていた。

 

「モエ」

 

呼ばれた彼女が、顔を向ける。

 

「絢原君と、やっていくんだね」

 

「まずは、やってみる。続けるかどうかは、それから決める」

 

父親は娘の顔を見つめた。

 

「僕が紹介したトレーナーには、会おうともしなかったのに」

 

「最初から短距離の話しかしない人ばっかりだったじゃん」

 

「それは、君が勝てるところを――」

 

「分かってるよ」

 

モエは遮った。

 

「勝てるかもしれないのは、分かってる。でも、私はそれが嫌だって言った。昨日も言ったし、入学する前にも言ったよ」

 

父親の手が、紙から離れた。

 

「この人は、聞いたから」

 

モエは俺を見なかった。

 

「できるかどうかなんて、まだ分かんない。でも、やってみるって言ったから。だから連れてきたの」

 

居間が静かになった。

 

窓の外で、車が通り過ぎる音がした。

 

父親は、一度目を閉じた。

 

「……そうか」

 

それから俺へ向き直り、開いていた書類を揃えて返してきた。

 

「賛成できない部分はある。2400は、今も無謀だと思っている」

 

「はい」

 

「ただ、モエが君とやってみると決めたことに、僕が止めさせるにはいかないとも思う」

 

書類を受け取った。

 

「この先のことは、また聞かせてください。僕に分かることなら、相談にも乗る」

 

「ありがとうございます」

 

頭を下げた。

 

顔を上げると、父親はまだ俺を見ていた。

 

「それと、絢原君」

 

「はい」

 

「モエを泣かせるな」

 

声は、さっきより静かだった。

 

「レースで負けて泣くのは仕方がない。でも、君を信じたせいで泣くようなことには、しないでほしい。その時は、僕が出る」

 

返事が、すぐには出なかった。

 

昨日、あの白い髪を目で追った理由が、胸の奥をよぎった。

 

父親の隣には、カレンチャンが座っている。

 

「……肝に銘じます」

 

俺は、もう一度頭を下げた。

 

「頼んだよ。僕たちの、大事な娘なんだ」

 

~~

 

「じゃあ、お茶を淹れ直すね♪」

 

カレンチャンが立ち上がった。

 

「ケーキもあるの。モエちゃん、手伝ってくれる?」

 

「……普通の?」

 

「買ってきたものだよ?」

 

モエは少し黙り、それから席を立った。

 

居間に、父親と2人で残された。

 

書類を鞄へ戻す。父親は、先ほどよりもゆったりとソファへ座り直していた。

 

「寝ていないのかな」

 

顔を上げた。

 

「いえ。少しは」

 

「昨夜、これを作ったんだろう」

 

鞄へ目を向けられた。

 

「何度か、書き直しました」

 

「だろうね。僕に見せると思って、随分考えてきた顔をしていた」

 

笑われた。

 

俺は返事に困り、膝の上へ手を戻した。

 

「今日は帰ったら寝なさい。明日は、モエの走りを確かめるんだろう。君の方が先に参ってしまっては困る」

 

「……はい」

 

「それと、連絡先を交換しておこう。名刺はもらったけれど、直接話せる方がいい」

 

スマホを取り出した時、台所から声がした。

 

「ママ。それ、何」

 

「ソース。ケーキに合うかなって♪」

 

「何もかけなくていいってば」

 

父親の目が、台所へ向いた。

 

俺も、そちらを見た。

 

運ばれてきた皿には、綺麗に切られたチーズケーキが載っていた。上には、琥珀色のソースがかかっている。

 

「どうぞ♪」

 

カレンチャンが、隣の夫へも皿を渡す。

 

父親は礼を言い、少し小さめに切って口へ運んだ。俺もそれに倣った。

 

初めは、蜂蜜の甘さだった。

 

次に、柑橘の苦味が来た。その奥に、説明のつかない塩気がある。

 

ケーキは美味い。

 

どうして、ケーキだけではいけなかったのだろう。

 

「どうかな?」

 

期待に満ちた顔で尋ねられ、俺はフォークを持ったまま固まった。

 

「……初めて食べる味です」

 

「そうでしょ♪」

 

隣で、モエが小さく息を吐いた。

 

笑ったのかと思って見ると、彼女は自分の皿の端へ、ソースを丁寧に避けていた。

 

父親は、紅茶を飲んでいる。

 

今度の紅茶には、何も入っていなかった。

 

帰る頃には、窓の外が夕暮れの色に変わっていた。

 

玄関で靴を履き、見送ってくれた両親へ礼を述べる。モエは一足先に外へ出ていた。

 

「また来てください。今日の話の続きも聞きたいから」

 

「はい。ご報告に伺います」

 

父親へ頭を下げた後、カレンチャンに呼び止められた。

 

「トレーナーさん」

 

顔を上げる。

 

近いところに、あの目があった。

 

今日、初めて会った。それなのに、俺の方は何年も前からこの顔を知っている。

 

カレンチャンは、ほんの少しだけ首を傾けた。

 

何かを見透かされたようで、息を止めた。

 

「あの子のこと、よろしくね」

 

飾りのない声だった。

 

「はい」

 

今度は、遅れずに頭を下げた。

 

~~

 

門を出ると、モエが塀のそばで待っていた。

 

「長かったね」

 

「お礼を言っていた」

 

彼女は俺の顔を一度見て、駅の方へ歩き出した。

 

家から少し離れたところで、ようやく息を吐けた。鞄の持ち手を握り直すと、手のひらが湿っている。

 

「……緊張した」

 

「知ってる。見れば分かるよ」

 

モエは前を向いたまま言った。

 

「パパ、しつこかったでしょ」

 

「聞かれて当然のことだった。俺が確かめていなかったこともあったしな」

 

「それは、私も言ってなかったから」

 

足元の石を避け、彼女が少し横へ寄った。

 

「抑えろって、前から言われてた。でも、できないって言うと、また短距離にしろって話になるし」

 

「明日、その辺りも聞かせてほしい。どこで速くなってしまうのか、走りながら確かめたい」

 

「……いいけど」

 

少し歩いてから、俺は言った。

 

「今日聞いたことを整理して、明日のメニューを組み直しておく。夜に送るから、見てくれ」

 

「寝ろって言われたばっかりじゃん」

 

「ああ。それが済んだら寝る」

 

返事はなかった。

 

横断歩道の手前で、赤信号に止められた。車が何台か、目の前を通り過ぎる。

 

「トレーナー」

 

呼ばれて、顔を向けた。

 

モエは、向こう側の信号を見ていた。

 

「さっき、パパに言い直すかと思った」

 

「何を?」

 

「やっぱり短距離からにします、って」

 

言ってから、彼女はこちらを見た。

 

「……言わなかったね」

 

「昨日、君にそう言ったからな」

 

モエはしばらく俺を見ていた。それから視線を外し、鞄の肩紐を引き上げた。

 

「じゃあ、明日。授業が終わったら行くから」

 

「ああ。コースで待っている」

 

信号が青に変わった。

 

彼女が先に歩き出し、俺はその隣へ続いた。

 

鞄の中には、余白の埋まった育成方針がある。

 

明日、最初に確かめることは決まっていた。

 




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