22話
新年、あけましておめでとうございます。
そんな決まり文句が、そこかしこで飛び交う一月一日の朝。
トレセン学園からほど近い、由緒ある大きな神社は、早朝から初詣に訪れた大勢の人々でごった返していた。柏手の乾いた音、本殿の大きな鈴の音が絶え間なく響いている。
参道の屋台からは、甘酒の麹の香りと、焼きそばソースの焦げる匂いが漂い、厳かな空気に俗っぽい彩りを添えていた。
絢原さんとの待ち合わせは午前十時、境内の端にある大きな鳥居の前。
五分前に着いたら、もういた。
壁際に立って、腕時計を見ている。コートの襟を立てて、白い息を吐いて。
「……おはよ、トレーナー」
「ああ」
振り返った絢原さんが、一瞬だけ足を止めた。
視線が、上から下に一往復する。それだけ。
今日の私は、いつもと違う。
深い漆黒の振袖。銀糸の幾何学模様。帯はプラチナシルバーで、帯揚げと帯締めだけが真紅。
黒と銀と赤。ママが山ほど送りつけてきたピンクやフリフリの振袖は全部、クローゼットの奥に封印してきた。
「似合ってるぞ」
三秒くらい黙ってから、それだけ。
でも、この人の「似合ってる」には嘘がない。それは分かっている。
「でしょ? 今年は勝負の年だからね。誰かの色じゃなくて、私の色で始めたかったの」
「そうか」
それだけ。何かを思い出すように、ほんの少し目を伏せた。何を考えているのかは分からない。この人はいつもそうだ。言葉が少ない。でも、今はそれがちょうどいい。
~~
参拝を済ませた。
賽銭を投げて、二礼二拍手。
何をお願いしたかは秘密。お願いっていうか、宣戦布告に近いけど。「今年は見てなさい」と。
絢原さんは何を祈っていたんだろう。この人が目を閉じている間は、邪魔しない方がいいと分かっているから、聞かなかった。
おみくじを引いた。絢原さんが小吉、私が吉。
「……微妙」
「悪くはないだろう。『願望:焦らず時を待てば叶う』とある」
「私のは、『勝負:油断大敵。全力を尽くせ』だって。……当たり前じゃん。神様に言われなくても全力以外で走ったことないし」
それは嘘だ。全力で走ったことなんて、まだ一度もない。
でも、今年はその嘘を本当にする。
微妙な運勢を木の枝に結びつけた後、絢原さんが言った。
「温かいものでも飲もうか。甘酒買ってくる」
「賛成。……じゃあ私、あっちの静かな方で待ってるね。ちょっと人混みに疲れた」
境内の裏手、鎮守の森へ続く小道を指差した。
「分かった。すぐ戻る。体を冷やすなよ」
絢原さんが人混みの方へ消えていく。
私は一人、静かな裏手の方へ歩いた。
~~
境内の裏手。
表参道の賑わいが嘘みたいに静まり返っている。
常緑樹が日の光を遮って、空気はひんやりと冷たい。木漏れ日が、落ち葉の上に斑模様を作っている。
冬の風が、振袖の裾をかすかに揺らした。人いきれで火照った頬が冷えていくのが心地いい。
そこで、足が止まった。
しめ縄が張られた御神木の前に、一人のウマ娘が佇んでいた。
小柄。私よりさらに頭一つ分は低い。
けれど、その背中から放たれるものが、尋常ではなかった。存在感、というよりも密度。空気がその子の周りだけ、重く凝縮されている。
黒髪。眼鏡。和服姿。
朝日杯フューチュリティステークスを制した、ジュニア級の頂点の一角。「小さな暴君」。
ドリームジャーニー。
御神木を見上げている。祈りを捧げているようにも見えるし、神様を値踏みしているようにも見える。
——関わらない方がいい。
直感がそう告げた。この子の纏うオーラは、ウオッカやスカーレットの分かりやすい強さとは質が違う。もっと静かで、もっと得体が知れない。
音を立てずに踵を返そうとした。
「勿体ないですね」
背後から、声がかけられた。
鈴を転がすような、柔らかい声。ただし、芯が通っている。
「……!」
振り返る。
ドリームジャーニーはこちらを見ていなかった。御神木を見上げたまま。
「阪神JF、拝見しましたよ。カレンモエさん」
私の名前を、正確に呼んだ。
「貴女のスプリントの資質は超一級品です。あの距離であの加速。脚の回転、初速の立ち上がり、1200メートルの中で見せた判断力。どれも天賦のものと言っていい」
褒められている。はずだ。
なのに、胸の奥がざわつく。この声のトーンには、続きがある。
「だからこそ」
ようやく、ジャーニーがこちらを向いた。
眼鏡の奥の瞳。値踏みするような、それでいて純粋な好奇心を湛えた目。
「なぜ、その翼を自分でもいでまで、マイルや中距離を走ろうとするのですか?」
胃がきゅっと縮んだ。
「……なんで私のこと、知ってるの」
「情報を集めるのは、旅の基本ですから」
それだけ。にこりと笑って、それ以上は説明しない。
「お母様はカレンチャン。スプリントの女王。その娘である貴女が、母君と同じ距離を避けて、わざわざ苦手な距離に挑んでいる。……不思議だとは思いませんか?」
「不思議じゃない。私の選択だから」
「ええ。ですから、その理由をお聞きしているのです」
穏やかな口調。でも、逃げ場を塞がれている。
この子は、質問をしているんじゃない。答えを持った上で、私の口から聞きたがっている。
「……レールの上を走りたくないの」
声が出た。自分でも驚くくらい、はっきりと。
「短距離を走れば、勝てるかもしれない。でもそれは、勝手に敷かれたレールの上を、もらった体で走るだけ。そんなの、私の人生じゃない」
振袖の下で、心臓が早鐘を打っている。
「私は、『ママのコピー』になりたいんじゃない。『カレンモエ』になりたいの。私だけの力で、私だけの強さを証明したいの」
ジャーニーは、黙って聞いていた。
口を挟まなかった。遮らなかった。
ただ、眼鏡の奥の瞳が、私の言葉の一つ一つを受け止めて、分解して、組み立て直しているのが、空気越しに伝わってきた。
数秒の沈黙。
「……なるほど」
ジャーニーが、息を吐いた。短く。
「それは——」
一拍。ちゃんと言葉を選んでいる。
「ただの『
……は?
「ち、違う! 私は——」
「『ママと同じはイヤ』『敷かれたレールは走りたくない』。理由を煎じ詰めれば、それだけでしょう? 才能の適不適も、レースの勝算も度外視して、ただ『イヤだからイヤ』と」
穏やかな口調のまま、容赦がない。
「それを駄々っ子と呼ばずして、何と言うのですか」
顔が熱い。耳まで。
自分の信念だと思っていたものが、この子の目には「子供の癇癪」として映っている。その事実に、全身が灼けるように熱くなる。
「やってみなきゃ分からないでしょ!」
「……ええ。それは否定しません」
意外な返答だった。てっきり「分かりますよ」と返されると思った。
「私にも、覚えがありますから」
ジャーニーが、初めて目を伏せた。
御神木の幹に、視線を落として。
「私の場合は、逆でした。追いたい背中があった。その人の走りに焼かれて、同じ景色を見たくて、走り始めた。……貴女とは正反対ですね」
「…………」
「貴女は、母君から逃げるために走っている。私は、憧れた人を追いかけるために走っている。動機の向きが、真逆です」
ジャーニーが、こちらを見上げた。
144センチ。小さい。なのに、大きい。
「けれど一つだけ、同じことがあります」
「……何」
「どちらも、理屈ではないということです」
ジャーニーが、ふっと笑った。
嘲笑じゃない。自嘲に近い。自分の中の非合理さを認めるような笑い方。
「追いかけたいから追いかける。逃げたいから逃げる。どちらも論理で説明しようとすれば、ただの執着か、ただの反抗で片付けられてしまう」
「…………」
「でも、それでいいのだと私は思っていますよ。走る理由が幼かろうと、非合理だろうと、脚が本物ならば、いずれ辿り着く場所がある」
風が吹いた。鎮守の森の奥から、冷たい風が。
ジャーニーの和服の袖と、私の振袖の裾が、同じ風に揺れた。
「……でも、さっき駄々っ子って言ったじゃん」
「ええ。駄々っ子ですよ、紛れもなく」
あっさり肯定された。
「けれど」
ジャーニーが、一歩、近づいた。
小さな手が、私の振袖の袖口にそっと触れた。
「その駄々っ子の脚が、本物の天才の脚であるという事実は、とても面白い」
眼鏡の奥の瞳が、今度は冷たくなかった。
熱い。鋭さではなく、純粋な期待。あるいは、好奇心。
「幼い原動力と、一級品の才能。そのアンバランスが、どんな走りを生むのか。……楽しみにしていますよ」
踵を返した。
「……待って。話はまだ——」
「反抗期がいつまで続くかは、見ものですね」
振り返らない。ひらひらと片手を振って。
「せいぜい、気が済むまで暴れてみてください。ごきげんよう、カレンモエさん」
小さな背中が、鎮守の森の方へ歩いていく。
和服の裾が、落ち葉を踏む音だけが、しばらく聞こえていた。
やがて、静寂だけが残った。
~~
「……なんなのよ、あいつ……」
呟いた。声が掠れていた。
完全に子供扱いされた。信念を鼻で笑われた。
なのに、最後の最後に「才能は本物だ」と、真っ直ぐな目で言われた。
あの温度差。あの緩急。
何なの。何がしたかったの。
「……駄々っ子、か」
口に出したら、不思議と、すとんと腑に落ちた。
格好つけて「挑戦」だとか「証明」だとか言ってたけど、結局のところ、私の原動力はもっと単純で、もっと幼くて、もっと——駄々っ子。
ママの色はイヤ。敷かれたレールはイヤ。誰かの付属品はイヤ。
イヤだからイヤ。それだけ。
……それだけだ。
なのに、それでいいと思えた。
あのジャーニーって子の言葉の中に、一つだけ、嘘がなかった部分がある。
「脚が本物ならば、辿り着く場所がある」。
あの目は、本気だった。あの子自身が、同じことを信じて走っている目だった。
振袖が皺になるのも構わず、拳を握った。
上等。
だったら、とことん駄々をこねてやる。
あのドリームジャーニーが引くくらい、めちゃくちゃに暴れ回ってやる。
~~
「モエ! 待たせたな、甘酒買ってきたぞ」
湯気の立つ紙コップを二つ持った絢原さんが、小走りで戻ってきた。
「……トレーナー」
「遅くなって悪かった。屋台が混んでてな。……ん? どうした?」
私の顔を覗き込む。何かが変わったことに気づいたんだろう。この人は、いつも気づく。
「ううん、平気。……ちょっと、変な人に会っただけ」
「変な人?」
「うん。目が覚めるような、最高にムカつく、すごい人」
甘酒のカップを受け取って、一口。熱い。甘い。冷えた体に染みる。
「ねえ、トレーナー」
「ん」
「今年、めちゃくちゃに暴れるから。覚悟しといて」
「……いつもだろう」
「今年のは、いつもの比じゃないよ」
振袖の袖をまくった。行儀が悪い。ママが見たら卒倒する。
「行くよ。帰ったら着替えて、走る」
「今日は正月だぞ」
「関係ない。今すぐ走りたいの」
絢原さんが、呆れた顔をした。でも、口元が緩んでいる。
この人はいつもそうだ。呆れたふりをして、結局ついてくる。
手を引っ張って、参道を歩き出した。
正月の澄んだ空が、頭の上で青く広がっている。
駄々っ子で上等。
反抗期で上等。
この駄々が、どこまで通用するか。
やってみなきゃ分かんないでしょ。
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