二月。吹き抜ける風はまだ凍るように冷たく、空は硬質な冬の色をしていた。だが、街のショーウィンドウは赤やピンクのハートで飾り立てられ、空気はそれとは裏腹に、どこか浮き足立った甘い熱を帯びている。
バレンタインデー。
勝負の世界に生きるトレセン学園のウマ娘たちにとっても、年に一度の特別なイベントらしかった。
購買部には色とりどりのラッピング用品が山積みになり、カフェテリアでは限定のチョコレートスイーツが行列を作っている。普段は勝利とタイムのことしか頭にないようなストイックな生徒たちも、この時期ばかりは年頃の少女らしい表情で、誰に、何を渡すかという話題で持ちきりだった。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
……バカみたい。
私は、そんな学園の喧騒を、冷ややかに一瞥した。
アスリートが、たかがチョコレート一つで浮かれているなんて、軟弱にも程がある。今はクラシック級の春、桜花賞とオークスに向けて、一分一秒も無駄にはできない重要な時期。恋愛だとか、そんな不確定なものに現を抜かすなんて、プロ意識が足りない。
そう、思っていた。
だが、私のスクールバッグの奥底には、今朝、寮を出る直前まで入れるかどうか悩み抜いた、一つの小さな紙袋が隠されている。
……勘違いしないでよね。これは、あくまで日頃の感謝。そう、義理。完全に義理だから。
心の中で、誰にともなく言い訳を繰り返す。
オークスなんて無謀な挑戦に付き合ってくれてるんだから、パートナーとしての最低限の礼儀というか……。
そう自分に言い聞かせるけど、このチョコレートを選ぶために、私がどれだけの時間と労力を費やしたかは、私自身が一番よく知っている。
昨日の放課後。都心のデパートの地下催事場。熱気と甘い匂いが充満するその空間で、私はレースプランを練る時と同じくらい真剣な眼差しで商品を吟味した。
トレーナー、絢原さん。あの、真面目で、ストイックで、少しだけ融通の利かないトレーナーに渡すもの。
あの人は甘いものが得意じゃない。普段はプロテインバーか、ブラックコーヒーばかり口にしている。だからこそ、可愛すぎるデザインは論外。かといって、コンビニの安っぽいチョコでは誠意が伝わらない。
悩み抜いた末に選んだのは、黒を基調としたシックな箱に、まるで宇宙を閉じ込めたような深い青と銀箔で彩られた、惑星のような球体のチョコレートだった。カカオ含有率が高く、ビターな味わい。ラッピングは、派手な色を避け、落ち着いたネイビーのリボンを選んだ。
私の勝負服を彷彿とさせる、黒と紺の、落ち着いた色合い。
……これなら、まあ、義理として渡しても不自然じゃないよね。
JFでの敗北。大晦日の夜、そして初詣。アグネスタキオンさん監修の地獄のような冬期トレーニングを共に乗り越える中で、絢原さんとの信頼関係は、少しずつ、でも確かに、強くなってきている。
絢原さんは、他の誰とも違った。
世間が、メディアが、そして時には家族さえもが、「カレンチャンの娘」というフィルターを通して私を見るとき、あの人だけは違った。「カレンモエ」という一人のウマ娘として、正面から向き合ってくれる人。
記事なんて、他人の勝手な解釈だ。俺は見ていた。君だけの「真実」がある——。
あの時のあの人の言葉が、どれだけ私の心を救ってくれたか。
最初は「筋肉とプロテイン好きの変人」だと誤解していた。けれど、その実直さ、不器用なまでの誠実さを、今は、少し、信頼している。
……だからこそ、このチョコレートも、適当なものでは済ませたくなかったのだ。
早く渡しちゃおう。この落ち着かない気分から解放されたい。
私は足早に、トレーナー室へ向かった。足取りは、自分でも気づかないうちに、少しだけ弾んでいる。
~
「あれ……いない?」
放課後、トレーナー室のドアを開けると、中はもぬけの殻だった。
絢原さんのジャケットは椅子の背もたれにかかっているけど、本人の姿はない。
デスクの上には、走り書きのメモが置かれている。『緊急のトレーナー会議のため、十七時まで不在。自習メニューはホワイトボード参照』。
「なんだ、会議か……」
少しだけ肩透かしを食らった気分。渡すタイミングを計っていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
私はバッグをソファに置き、ホワイトボードのメニューを確認する。ストレッチと、軽めの体幹トレーニング。いつも通り。
部屋の中は静かで、暖房の音と、壁掛け時計の秒針の音だけが響いている。この静けさが心地よかった。あの人と共有するこの空間が、私にとっては何よりも安心できる場所。
手持ち無沙汰になって、ソファから立ち上がり、室内を何気なく見回した。
整然と並べられたトレーニング機材。本棚には専門書がびっしりと並んでいる。どこを見ても、あの人の真面目さと、仕事への情熱が伝わってくる。
……本当に、真面目なんだから。
そのストイックさに、少しだけ息苦しさを感じつつも、同時に、尊敬している。
ふと、あの人のデスクに目が行く。いつも通り整理整頓されているけど、今日は少しだけ書類が山積みになっている。忙しいのだろう。
その時だった。
デスクの足元に視線を落として、ある異変に気づいた。
一番下の、普段は鍵がかかっているはずの大きな引き出しが、ほんの数センチだけ、開いている。鍵は刺さったままだ。
「……?」
不用心。あの人らしくないミス。きっと、急いで会議に向かったんだろう。
私は、特に深い考えもなく、その引き出しを閉めようと屈み込んだ。
でも、その瞬間。引き出しの隙間から覗いた「色」に、手が止まった。
鮮やかな、ピンク色。そして、見覚えのある、特徴的なロゴマーク。
……これって。
心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。
このストイックな部屋の中で、最も不釣り合いな色。違和感が、急速に膨れ上がる。
まさか。そんなはずはない。
でも、一度芽生えた疑念は、もう止められない。私は、まるでパンドラの箱を開けるかのように、ゆっくりと引き出しに手をかけた。
ギィ、と古い金属が擦れる音が、静かな部屋に響く。
そして、その中身を見た瞬間。
私は、文字通り、凍りついた。
「……え」
息が止まる。心臓が、冷たい手で鷲掴みにされる感覚。
引き出しの中は、想像していたような重要書類じゃなかった。
一番上に鎮座していたのは、見覚えのある、一冊の分厚いフォトブックだった。
『カレンチャン(ママ)のすーぱーかわいい未公開フォトブック♡(門外不出!)』
「……!」
忘れもしない。それは、数ヶ月前、実家のママが「トレーナーさんにも資料として役立つかも☆」なんて言って、無理やり送りつけてきた、あの忌まわしい代物。
あの時、私はひどく恥ずかしい思いをして、「こんなの捨ててよ!」とあの人に詰め寄ったはず。あの人も、「ああ、分かった。必要なければ処分しておく」と、あくまで事務的に、興味なさそうに答えたはず。
なんで、これがここに……? 捨ててなかったの?
疑問と、僅かな不快感。でも、それはまだ序章に過ぎなかった。
フォトブックを手に取った。角もページも、ほとんど新品同然。なのに、埃一つなく、丁寧に引き出しの中にしまわれていた。「捨てる」と言ったはずだった。捨てると言って、捨てずに、大切に保管してある。それは、読み込まれた形跡よりも、もっと、静かに、重い。
そして、その下には、さらに膨大な量の「何か」が隠されていた。
「……なに、これ」
そこは、まるで祭壇のようだった。
色褪せたレースのパンフレット。高松宮記念、スプリンターズステークス……。全部、ママが現役で走っていた頃のもの。
ビニール袋に入れられた、大量の缶バッジやアクリルキーホルダー。現役時代のライブツアーの記念タオル、未開封。今ではプレミアがついているであろう、初期のブロマイド。
そして、丁寧にファイリングされた、雑誌の切り抜き。インタビュー記事、特集記事……。端々に、マーカーで線が引かれ、付箋が貼られている。
「……なにこれ、なにこれ、なにこれ……!」
手が震え始める。
これらは、実家から送られてきたものじゃない。明らかに、誰かが長年かけて、熱心に収集し、大切に保管してきた私物だ。
絢原さんが? あの、筋肉とプロテインのことしか興味がないと思っていた人が?
物量が、あの人のファン歴の長さと、情熱の深さを物語っていた。にわかファンにできる量じゃない。人生を捧げた者にしかできない、狂気じみたコレクション。
混乱する頭で、引き出しの奥に手を伸ばした。一冊の古びたノートを見つけた。
表紙には、学生らしい、少し角張った文字で『閃光研究ノート』と書かれている。
恐る恐る、ページを捲る。
そこには、ママの過去のレースデータが、異常なまでの熱量で分析されていた。ラップタイム、ピッチ、ストライド。そして、ママの強さの秘訣について、びっしりと考察が書き連ねられている。
『カレンチャンの強さの本質は、完璧な自己プロデュース能力と、鋼のメンタルにある』
『「カワイイ」は彼女にとって、世界と戦うための鎧であり、武器だ』
トレーナーとしての分析というよりは、信者の信仰告白に近い、狂気じみた情熱。
そして、ノートの最後のページ。そこに挟まっていたのは、数枚のレポート用紙だった。
ファンレターの、下書き。
『カレンチャンへ。
高松宮記念、見ました。あなたの走りに、僕は人生を救われました。灰色だった僕の世界が、あなたの笑顔で色づきました』
『あなたは僕の光です。僕の全てです』
『いつか必ず、あなたのような素晴らしいウマ娘を育てられるトレーナーになります。そして、あなたの隣に立てるような人間に——』
何度も書き直され、消しゴムで擦られ、結局、出すことのなかった、青臭い恋文。
その筆跡は、見間違えるはずがなかった。ホワイトボードに書かれる、あの人の文字そのものだった。
~
パリン、と。
私の中で、何かが決定的に砕け散る音がした。
……ああ、そうだったんだ。
全てが、腑に落ちてしまった。最悪の形で。
あの人が私を選んだ理由。あの人が私に執着する理由。あの人が時折、私に向ける、熱を帯びた眼差しの理由。
裏切られた。
その一言が、頭の中を支配した。
あの人がこれまで私にかけてくれた言葉の全てが、汚泥のように塗り潰されていく。
俺は、「カレンチャンの娘」として君を見ているわけじゃない——。
君は君だ。カレンモエだ——。
全部、嘘だった。
あの人は、私を見てなんかいなかった。私の姿を通して、あの人がずっと追い求めていた「ママ」の幻影を見ていただけだったんだ。
私が苦しんでいる時、励ましてくれたのは。私が勝った時、頭を撫でてくれたのは。
あの時、あの人は何を思っていたんだろう。私の中に、ママの面影を見出して、一人で悦に入っていたんじゃないか?
「……ッ」
強烈な吐き気がこみ上げてくる。気持ち悪い。
結局、あの人も他の人間と同じだった。
いや、それ以上にタチが悪い。理解者のふりをして近づき、私の心の柔らかい部分に入り込んでおきながら、その実、私を「ママの代用品」としてしか見ていなかった。
床に散らばったグッズの一つ、ママのアクリルスタンドが、こちらに向かって無邪気に笑いかけている。
その笑顔が、今は何よりも憎らしかった。
そして、そんなあの人を信じ、心を開きかけていた自分が、何よりも惨めで、滑稽だった。
スクールバッグの中のチョコレートの重みが、急に何倍にも感じられる。あんなものを買うために、浮かれていた数時間前の自分がバカみたい。
あの人が「筋肉とプロテイン好きの変人」を演じていた(ように見えた)のも、全部、この秘密を隠すためのカモフラージュだったのかもしれない。そう思えるほど、あの人の準備は周到で、そして、本性は、あまりにもグロテスクだった。
~
ガチャリ。
その時、トレーナー室のドアが開いた。
「ふぅ……。待たせたな、モエ。会議が長引いてしまって——」
戻ってきた絢原さんが、疲れた様子でネクタイを緩めながら言った。
そして、室内の異様な光景に気づき、言葉を失った。
床に散乱する、自分が長年隠し続けてきた「秘密」の証拠。開け放たれた引き出し。
そして、その中心に立ち尽くす、私。
手には、あの『閃光研究ノート』と、ファンレターの下書きが握りしめられている。
「……モエ?」
絢原さんの声が、かすかに震えた。顔から、サッと血の気が引いていくのが分かる。最も恐れていた事態が、現実になった顔。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
瞳に宿っていたのは、怒りでも、悲しみでもない。
凍てつくような、絶対零度の軽蔑だった。
「……これ、なに?」
感情の乗らない、平坦な声で問い詰める。
「あ……いや、これは……その……違うんだ」
絢原さんは、狼狽したように視線を彷徨わせた。何か言い訳を探しているようだけど、その狼狽えようこそが、罪悪感を物語っていた。
「何が違うのよ」
一歩、近づいた。手に持っていたノートとレポート用紙を、あの人の胸に突きつける。
「私のこと、『君自身を見てる』って言ったよね!? あれ、全部嘘だったの!?」
「違う! 違うんだ、モエ! 落ち着いて聞いてくれ! 確かに、俺はカレンチャンのファンだった。それは認める。だが、君に対しては——!」
「うるさい!」
私は叫んだ。抑え込んでいた感情が、一気に溢れ出す。
「結局、アンタも同じだったんだね! 私を通して、ママを見てただけだったんだ! 私のことなんか、本当はどうでもよかったんだ!」
「待ってくれ、それは誤解だ!」
絢原さんが手を伸ばすけど、私はそれを汚らわしいものでも見るかのように、ピシャリと振り払った。
「触らないで! ……気持ち悪い」
「ッ……!」
絢原さんは、息を呑んだ。その言葉は、どんな罵声よりも鋭く、あの人の心を抉ったはずだ。
「信じてたのに。アンタだけは、違うと思ってたのに……!」
瞳から、ついに一筋の涙が零れ落ちた。裏切られた痛みと、どうしようもない絶望の涙。
私は、スクールバッグから、あのチョコレートの入った紙袋を取り出した。ネイビーのリボンがかけられた、小さな袋。
それを、絢原さんの足元に、力任せに叩きつけた。ガシャ、と乾いた音がして、箱が床に転がる。
「……最低」
最後にもう一度、絢原さんを睨みつけた。
そして、静かに、だけどはっきりと告げた。
「……嘘つき」
その一言に、私の全ての感情が込められていた。
踵を返して、トレーナー室を飛び出す。
バタンッ! と、ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
~
——Trainer: Ayahara
静寂が戻ったトレーナー室。
残された俺は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。
床には、俺の過去の情熱の残骸と、彼女が投げ捨てたチョコレートが散らばっている。フォトブックから覗くカレンチャンの笑顔が、今の俺を嘲笑っているかのようだ。
「……やってしまった」
隠し通さなければならない秘密だった。墓場まで持っていくべき、俺だけの感傷だった。
それを、よりによって、彼女自身に見つけられた。最悪の形で。
あの、絶望と軽蔑に満ちた瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。
『嘘つき』
その言葉が、何度も頭の中で反響する。
違う、と叫びたかった。だが、あれだけの証拠を前にして、どうすれば信じてもらえるというのか。
俺たちは、長い時間をかけて、少しずつ信頼関係を築き上げてきたはずだった。それが今、音を立てて崩れ去った。俺自身の、愚かな過去の感傷のせいで。
俺は、力なく床に膝をついた。
床に転がったチョコレートの箱を、手に取る。ネイビーのリボンが、少しだけ解けかかっていた。
こんなものを、彼女はわざわざ選んでくれていたのか。
箱の角がひしゃげて、中身も半分は割れているだろう。けれど、中を開けて確かめる気にはならなかった。開けたら、彼女の一日分の悩みが、具体的な形で目の前に現れてしまう。それを俺は、見る資格がない。
窓の外では、バレンタインのイルミネーションが、虚しく輝いている。
俺たちの春は、まだ始まったばかりだというのに。甘いはずのイベントは、最も苦い記憶として刻まれることになった。
誤字報告、評価や、感想、ここすきなど、よろしくお願いいたします。