アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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24話 さよなら、憧れだった人

 

あれから、季節は静かに、けれど確実に移り変わろうとしていた。

 

二月後半。バレンタインデーの浮ついた空気はとうに消え失せ、学園は来たるべき春のGⅠシーズンに向けた緊張感を取り戻しつつある。

 

だけど、私と絢原さんの間だけは、まるで真冬の凍土のように、冷たく、硬く閉ざされたままだった。

 

あの日。あの人の長年の秘密——ママへの狂信的なまでの憧憬——を知ってしまったあの日から、私たちの間には、目に見えない分厚い氷の壁ができていた。

 

 

 

 

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

トレーニングの時間。私は、時間通りにグラウンドに現れた。

 

それは、私なりの最低限のプライドであり、アスリートとしての矜持だった。

 

オークスへの挑戦を諦めたわけじゃない。私情でトレーニングを疎かにするなんて、それこそあの人の思う壺だ。

 

「……今日のメニューは」

 

私は、絢原さんに視線を合わせることなく、短く尋ねた。声には、以前のような信頼も、親しみも、欠片も含まれていない。自動音声と会話しているみたいに、平坦な声。

 

「ああ。今日は坂路でのインターバル走だ。心肺機能の向上と、終盤の粘りを意識して——」

 

あの人が説明を始めるけど、私は最後まで聞くことなく、もう坂路へ向かっていた。

 

「……分かった」

 

指示されたメニューを、私は淡々と、しかし完璧にこなしていく。タイムは以前よりも向上し、タキオンさん監修の過酷なトレーニングの成果は着実に現れていた。肉体は強くなり、技術も洗練されている。

 

でも、そこに「熱」はなかった。

 

あるのは、義務感と、あの人への反発心だけ。

 

……なんで、私がこんな奴のために。

 

走るたびに、そんな思いが頭をよぎる。

 

あの人がストップウォッチを見つめる視線。視線の先にいるのは、本当に私なんだろうか。それとも、私を通して見える、「完璧な閃光」の幻影なんだろうか。

 

『君は君だ』

 

かつてかけてくれた言葉が、今は鋭い棘になって胸に刺さる。どの口が言うのか。

 

一度芽生えた不信感は、まるで猛毒のように全身に回り、あの人の言動全てを疑わしく思わせていた。

 

私の体調を気遣う言葉も、レース戦略を熱心に語る姿も、全てが「理想のカレンチャン(の娘)をプロデュースする」ための、気持ち悪い自己満足にしか見えない。

 

トレーニングが終わると、最低限のクールダウンだけ済ませて、すぐにトレーナー室を後にした。以前みたいに、ソファで他愛もない話をしたり、次のレースについて語り合ったりすることは、もうない。

 

「お疲れ。明日は——」

 

「分かってる」

 

あの人が何かを言いかけるのを遮り、背中を向ける。

 

共有する空気さえ、息苦しかった。裏切られた痛みは、時間が経つにつれて怒りに変わり、やがて深い失望へと沈んでいった。

 

寮に戻ると、ルームメイトのマーちゃんが心配そうに声をかけてくる。

 

「モエちゃん、最近、元気ないですね。トレーナーさんと、何かあったのですか」

 

「……別に。なんでもないよ」

 

曖昧に笑ってごまかすけど、マーちゃんの観察眼をごまかせているとは思えない。

 

……いっそ、担当を変えてもらおうか。

 

そんな考えが、何度も頭をよぎった。

 

でも、そのたびに、別の私がそれを否定する。

 

無理だ。オークスへの挑戦なんていう無謀な計画に乗ってくれるトレーナーは、あのバカ以外にいない。

 

それに、あの人以外の人間に、今更自分の弱さやコンプレックスを晒け出す気にはなれなかった。

 

皮肉な話。最も信頼していた人間に裏切られ、最も軽蔑しているのに、それでもなお、あの人以外に頼れる人間がいないという現実。

 

その矛盾が、私をさらに苛立たせた。

 

 

 

 

 

 

——Trainer: Ayahara

 

 

 

……どうすればいい。

 

俺もまた、出口の見えないトンネルの中を彷徨っていた。

 

彼女の態度は、当然の報いだ。俺の愚かさが招いた事態だ。隠し通すべきだった秘密を暴かれ、彼女の信頼を裏切った。その事実は、弁解の余地がない。

 

トレーニング中、何度も話しかけようとした。

 

「あの件は、誤解なんだ」

「君への気持ちは、本物だ」

 

だが、その言葉を口にしかけるたびに、虚しさがこみ上げた。

 

誤解? 本物? あれだけの物証を前にして、そんな陳腐な言葉で、彼女が納得するはずがない。中途半端な言い訳は、彼女をさらに傷つけるだけだ。

 

だから、沈黙を守った。刺すような視線と、氷のような態度を、ただ受け止めるしかなかった。

 

周囲も異変に気づき始めていた。タキオンからは「モルモット君のストレス値が異常だ。早急に対処したまえ」と警告され、ウオッカからは「お前ら、最近おかしくねぇか?」と訝しげな視線を向けられる。

 

このままではいけない。桜花賞まで、あと二ヶ月を切っている。この状態で、あの強大なライバルたちに勝てるはずがない。何より、彼女自身が壊れてしまう。

 

俺は、行動を起こすことにした。

 

あの日以来、トレーナー室の風景は少し変わった。

 

あの忌まわしい引き出しの中身は、全て空になっていた。カレンチャンのグッズ、フォトブック、過去の雑誌の切り抜き……。それらは全て、段ボール箱に詰められ、学園の倉庫の奥深くに封印された。

 

それは、彼女へのポーズじゃない。俺自身の、過去との決別だった。

 

グッズを一つ一つ箱に詰める作業は、まるで自分の半生を否定するかのようだった。手に取るたびに、あの日の感動や、青春時代の情熱が蘇る。だが、それ以上に、今の俺にとっては、モエの軽蔑に満ちた瞳の方が、何倍も重かった。

 

「……さようなら、俺の青春」

 

最後に、あの『閃光研究ノート』を箱に入れ、呟いた。感傷はない。あるのは、決意だけだ。

 

そして、俺は「準備」を始めた。

 

彼女に、自分の本当の気持ちを伝えるための準備。言葉だけでは足りない。証拠が要る。俺が「カレンチャンのファン」ではなく、「カレンモエのトレーナー」であることを証明する、圧倒的な証拠が。

 

連日、トレーナー室に泊まり込んで作業に没頭した。過去のトレーニングデータを全て見返し、彼女との会話の記録を遡り、これからの育成計画を再構築する。睡眠時間を削り、狂ったようにペンを走らせた。

 

その姿は、かつてカレンチャンに熱中していた頃と同じ、いや、それ以上の熱量だった。

 

 

 

 

 

 

そして、二月末。事件から二週間が経った、ある日の放課後。

 

トレーニングを終え、無言で帰ろうとするモエの背中に、俺は声をかけた。

 

「モエ。少し時間はあるか」

 

モエは、億劫そうに立ち止まり、肩越しに俺を睨みつけた。

 

「……なに? 追加のトレーニングなら、メニューだけ教えて」

 

「いや、トレーニングの話じゃない」

 

俺は、真っ直ぐに彼女の目を見て言った。

 

「これからの、俺たちの契約についての話だ」

 

「……!」

 

「契約」。その言葉に、モエの表情が強張った。ついに、この時が来たか——そんな顔。

 

「……分かった」

 

彼女は、覚悟を決めたように頷いた。

 

 

 

 

 

 

夜のトレーナー室。

 

窓の外はすっかり暗くなり、遠くで他のウマ娘たちの練習の声が微かに聞こえるだけだ。部屋の中には、張り詰めた空気が漂っていた。

 

モエはソファに浅く腰掛け、腕を組んで俺を待っていた。その態度は、完全に防御的で、敵対的だった。

 

「それで? 話ってなに」

 

彼女は、先手を打つように言った。

 

「契約解除の話? それとも、担当変更の希望? ……どっちでもいいよ。アンタがその気なら、私は構わない」

 

その声は、彼女が思っている以上に震えていた。強がってはいるが、心の底では傷つき、怯えている。もし、俺から別れを告げられたら——その怯えを、俺は見逃さなかった。

 

俺は、彼女の前に立った。そして、深く頭を下げた。

 

「……まずは、謝らせてくれ。お前を裏切るような真似をして、本当にすまなかった」

 

「……今更、謝罪なんていらない」

 

モエは、冷たく言い放った。

 

「謝って済むなら、警察はいらないって言うでしょ。……用件だけ言って」

 

だが、俺は頭を上げ、予想外の言葉を口にした。

 

「謝罪はするが、弁解はしない」

 

「……え?」

 

「あの日、お前が見た通りだ。俺は、お前の母親……カレンチャンの熱狂的なファンだった」

 

俺は、包み隠さず、事実を認め始めた。

 

「小学生の頃、たまたま見た高松宮記念。あのレースで、俺は彼女に心を奪われた。強さ、美しさ、プロ意識の高さに、雷に打たれたような衝撃を受けたんだ。彼女に憧れて、彼女のようなウマ娘を育てたくて、俺はこの世界に入った。青春の全てを、彼女に捧げてきた。……それが、俺の原点だ。それは否定しない」

 

「……」

 

モエは、黙って聞いていた。俺の口から語られる、自分への熱い想いじゃなく、母親への熱狂的な賛美。最も聞きたくない話のはずだった。

 

やっぱりね。結局、そういうことなんだ——そう書いてある顔。

 

「……分かったよ。アンタがどれだけママのファンかは、よく分かった。それで満足でしょ? じゃあ、私は帰るから」

 

モエは立ち上がろうとした。

 

俺は、それを制した。

 

「だが、それは過去の話だ」

 

「……!」

 

声のトーンを落とした。懺悔じゃない。宣言だ。

 

「お前は、俺がお前の中に『カレンチャンの幻影』を見ていると思っているんだろう。だが、それは違う」

 

「何が違うって言うのよ! あれだけの証拠を見て、まだそんな白々しい——!」

 

モエが声を荒げたが、俺は怯まなかった。論理を差し出す。それしかない。

 

「考えてみてくれ、モエ。もし俺が、今でも『カレンチャンの幻影』を追っているだけのファンだったら——」

 

一呼吸置いて、言葉を続けた。

 

「俺は、お前のオークス挑戦を、全力で止めていたはずだ」

 

「……え?」

 

予想外の反論に、モエは虚を突かれた顔をした。

 

「……どういうこと?」

 

「カレンチャンのファンが、お前に何を求めていると思う?」

 

俺は、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。

 

「彼らが見たいのは、母親の血を受け継いだお前が、得意なスプリントで圧倒的な強さを見せつけ、無双する姿だ。『やっぱりカレンチャンの娘はすごい』と、安心して過去の栄光に浸りたいんだ」

 

「……」

 

「彼らにとって、お前が中長距離に挑むことは、『解釈違い』でしかない。無謀な挑戦で泥まみれになり、ボロボロになって負けるお前の姿なんて、誰も見たくない。彼らが愛した『完璧なカレンチャン』の物語を、汚す行為だと受け取る」

 

あまりに的確に、世間の本質を突いた言葉。モエの肩が、微かに動いた。

 

「もし俺が、ただのファンだったら。お前がJFで苦戦した時点で、すぐにスプリント路線に戻していた。それが一番安全で、一番『カレンチャンらしい』キャリアだからだ」

 

「……!」

 

「だが、俺はそうしなかった」

 

声に熱が乗る。抑えてきたものが、少しだけ顔を出す。

 

「俺は、お前にオークスを走らせたい。お前が望むなら、たとえ可能性が一パーセントしかなくても、その道を選びたいと思った。タキオンと組んで、危険なトレーニングをしてでも。お前の肉体を根本から作り変えてでも。俺は、お前の可能性を信じたかった」

 

「どうして……?」

 

モエの声が、かすかに震えた。

 

「どうして、そこまでするの? ママのファンなら、そんなこと……」

 

俺は、声を荒げなかった。むしろ、落として、確かに、言った。

 

「今の俺が見たいのは、完成された『閃光』じゃない。かつてのカレンチャンでも、ない」

 

「……!」

 

「未完成で、傷だらけで、自分の才能に絶望しながら、それでも運命に逆らって、世界に牙を剥いている——『カレンモエ』だ」

 

言葉を選んで、続けた。叫ぶ必要はなかった。事実として、そうだったから。

 

「お前と出会って、俺は変わった。お前の走りに、魅せられた。デビュー戦で惨敗しても諦めなかった姿に。短距離で勝っても満足せずに虚しさを抱えていた葛藤に。そして、JFで、限界を超えて足掻き続けた、あの執念に」

 

「……」

 

「カレンチャンは完璧だった。だが、お前は違う。お前は不完全で、矛盾だらけだ。だからこそ、俺は、お前を勝たせる方に全部を賭けたくなった。——トレーナーとしてだ」

 

そして、俺は、静かに、告げた。

 

「俺はもう、カレンチャンのファンじゃない。今の俺が賭けているのは、ファン心じゃなくて、トレーナーとしての責任の方だ。……お前という、たった一人のウマ娘に対しての」

 

「……ッ!」

 

モエは、息を呑んだ。

 

俺の言葉は、演技で言えるようなものじゃなかったと思う。俺自身、初めて、自分の中のこの感情を言葉にした。

 

部屋の中に、沈黙が訪れた。

 

モエは、俺の目をじっと見つめた。瞳の中に、嘘偽りがないか、必死に探している目。

 

だが、それだけでは足りない。まだ、完全には信じてくれていない。あれだけの熱量を見せられたのだ。疑念は、そう簡単には拭えない。

 

「……証拠は?」

 

モエが、震える声で言った。

 

「アンタが、本当に私のトレーナーだって言うなら、証拠を見せてよ」

 

「ああ。そのために、準備してきた」

 

俺は、デスクに向かい、二冊のノートを取り出した。

 

一冊は、古びた、見覚えのあるノート。あの日、彼女が見つけた『閃光研究ノート』。倉庫から回収してきたものだ。

 

そして、もう一冊。真新しい、黒い表紙のノート。

 

その二冊を、モエの前のテーブルに並べて置いた。

 

「左が、俺の過去だ。カレンチャンに捧げた、俺の青春の全部だ」

 

そして、右側の新しいノートを指差した。

 

「これが、俺の現在だ。お前に捧げている、俺の全部だ」

 

表紙には、『カレンモエ育成計画』と書かれている。

 

モエは、恐る恐る、そのノートを手に取った。

 

『閃光研究ノート』よりも、遥かに分厚い。まだ使い始めて数ヶ月しか経っていないはずなのに、もうページの端が擦り切れ、使い込まれた形跡がある。

 

彼女は、ページを捲った。

 

「……!」

 

内容に、彼女は言葉を失った。

 

そこには、彼女に関するデータが、狂気的なまでの密度で書き込まれていた。

 

日々のトレーニングのタイム、心拍数、体重の変化はもちろん。走りの癖、フォームの微細な変化、精神状態の波。

 

『一月十五日:プールトレーニング後、僅かに右足を引きずる傾向あり。タキオンに報告し、ケアメニューの見直しを提案』

『一月二十八日:阪神JFの映像を見返している際、呼吸のリズムに乱れあり。トラウマの可能性を考慮し、メンタルケアを強化』

 

それだけじゃなかった。

 

『二月三日:好物はプリン(固め)とのこと。差し入れの参考に。ただし、糖質の摂りすぎには注意』

『二月十日:ウオッカとの会話後、機嫌が良くなる傾向あり。ストレス解消には友人との交流が有効か』

 

トレーニングとは関係のない、些細な会話のメモや、日常の観察記録まで、びっしりと書き連ねられている。

 

それは、もはやトレーナーとしての分析を超えた、執着だった。

 

だが、その一つ一つの文字から伝わってくるのは、彼女への深い関心と、彼女を勝利に導くための、凄まじいまでの情熱だった。

 

俺が、どれだけの時間を費やし、どれだけ真剣に、自分と向き合ってきたのか。それが、痛いほど伝わったはずだ。

 

俺が見ていたのは、ママの幻影なんかじゃない。紛れもなく、カレンモエ自身だった。

 

そして、ノートの最後のページ。

 

あの日見たファンレターの下書きのような、感傷的な言葉はなかった。

 

代わりに、力強い、殴り書きのような文字で、たった一言だけ、こう書かれていた。

 

『絶対に勝たせる。俺の人生の全てを賭けて』

 

それは、誰かに宛てたメッセージじゃない。俺自身の魂に刻み込んだ、誓いだ。

 

「……」

 

モエは、ノートを閉じた。視界が滲んで、文字が読めなくなっているようだった。

 

……なんなのよ、これ。

 

彼女の唇が、そんな言葉を形だけ作ったのが見えた。

 

胸の中で、色んな感情が渦巻いているのが伝わってくる。俺の異常なまでの執着への呆れ。ここまで詳細に観察されていたことへの羞恥。そして、自分がどれだけ大切に思われているかを思い知らされたことへの、安堵と喜び。

 

「……バカじゃないの」

 

長い沈黙の後、彼女が最初に口にしたのは、そんな言葉だった。

 

「こんなに細かく書いて……。私のこと、そんなに見てたの……?」

 

顔を上げた。潤んだ瞳で、俺を睨みつけた。耳まで真っ赤だった。

 

「……気持ち悪い」

 

それは、彼女なりの、精一杯の愛情表現だった。

 

最高の褒め言葉だった。

 

俺は、そんな彼女を見て、ようやく、張り詰めていた表情を緩めた。

 

「……ああ。お前のことしか、見ていない」

 

「……分かった」

 

モエは、乱暴に目元を拭った。

 

「信じてあげる。アンタが、私のトレーナーだってこと」

 

そして、少しだけ口元を綻ばせ、続けた。

 

「……その代わり」

 

スクールバッグのポケットから、一つの小さな箱を取り出した。

 

あの日、彼女が俺の足元に投げつけた、あのチョコレート。ネイビーのリボンは解けかかり、箱の角は少しだけ凹んでいる。

 

俺がどうすればいいか分からなくて、机の上に戻していたもの。彼女が何度も捨てようとしたのに、結局捨てられずに、バッグの中にしまっていたのだろう。

 

彼女は、その箱を、俺の胸に押し付けた。

 

「これ、食べて」

 

「……いいのか?」

 

「いいから。……責任、取ってよね」

 

そして、悪戯っぽく笑った。いつもの、生意気で、不敵な笑顔。

 

「……苦いよ。今の私の気持ちくらい、めちゃくちゃ苦いからね」

 

俺は、箱を受け取り、ゆっくりと蓋を開けた。

 

中には、惑星のような球体のチョコレートが、少し割れながらも並んでいる。

 

その一つを手に取り、口の中に放り込んだ。

 

カカオの芳醇な香りと、ビターな苦味が口の中に広がる。甘さ控えめの、大人向けの味。

 

「……苦いな」

 

「言ったでしょ。苦いって」

 

「ああ。——でも、悪くない」

 

モエは一瞬、きょとんとした顔をしたけど、すぐに「ふん」と鼻で笑った。

 

「……そ。なら、もう一個食べなよ」

 

「いただく」

 

二つ目のチョコを口に入れた。一つ目より、少しだけ苦く感じた。モエは、それを見ないふりをして、窓の外を見ている。

 

数週間ぶりに、会話らしい会話になった。

 

一度は砕けた信頼関係。元通りに戻った、とは言わない。戻ることはたぶん、もう、ない。砕けた破片を、二人でゆっくり拾い直した——今日のことは、それくらいのことだと思う。

 

でも、拾い直しさえしてくれたこと。それは、小さくない。

 

俺は、トレーナーとしての職務に戻る。モエは、オークスに向けて走る。春のGⅠシーズンが、もうすぐ始まる。

 

窓の外では、まだ風が冷たい。けれど、その冷たさの中に、僅かに、春の匂いが混じり始めていた。




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