アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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25話 三強激突・チューリップ賞

 

三月上旬。

 

長く厳しい冬が終わり、空気の中に春の匂いが混じり始める季節。六甲の山並みはまだ薄い霞に覆われている。日差しだけが、確実に強くなっていた。

 

阪神レース場。GⅡの枠を超えた熱気が、敷地全体を包んでいた。

 

桜花賞トライアル、チューリップ賞。

 

クラシック開幕の号砲。本番のGⅠを超える注目を集めている理由は一つ。この世代の頂点を争う三強が、ここで初めて直接ぶつかる。

 

阪神ジュベナイルフィリーズの覇者、ウオッカ。

血統の呪縛に抗い、マイルの壁に爪を立てる反逆者、カレンモエ。

そして、異例の路線でGⅠを制し、王道へ帰還した絶対的女王——ダイワスカーレット。

 

役者は揃った。

 

 

 

 

 

 

――The Red Ace: Daiwa Scarlet

 

 

 

(……ぬるいわね)

 

パドックを周回しながら、アタシは内心で毒づいた。

 

降り注ぐ大歓声。無数のカメラのフラッシュ。観客の期待と興奮が渦巻く空気。GⅡとは思えない熱狂。

 

それでも、生ぬるく感じた。

 

無理もない。アタシはすでに、これ以上の舞台を経験して、制している。

 

昨年末、阪神JFを回避した。代わりに選んだのが、中距離2000メートルのホープフルステークス。クラシック三冠路線への登竜門。屈強な相手がひしめく、パワーとスタミナの戦場。

 

結果は圧勝だった。並み居る強豪を完膚なきまでに叩き潰して、頂点に立った。

 

あの勝利が、アタシに「王者」としての風格を与えた。

 

中距離は制した。アタシの強さに疑いを挟む余地は、もうない。

 

栗毛のツインテールが揺れる。コンディションは完璧。本来の戦場であるティアラ路線へ、今日、帰還する。

 

目的は一つ。全てのライバルを蹴散らして、文句なしの「1番」になること。

 

視線を巡らせた。

 

ウオッカ。仏頂面だが、闘志は隠しきれていない。JFの覇者としてのプライドがあるのだろう。叩き潰し甲斐があるというもの。アタシがいない間にタイトルを取ったらしいけど、どっちが強いか、ここでハッキリさせてやる。

 

そして——。

 

視線が、一人の子に止まった。黒一色の挑戦的な勝負服。色素の薄い芦毛の髪。

 

カレンモエ。

 

数ヶ月前、同じこの場所で見たあの子は、もっと脆く、危うかった。自分の才能と理想のギャップに苦しんで、悲壮感を漂わせていた。

 

今は違う。

 

瞳に、静かな闘志がある。迷いが消えて、何かを腹に決めた顔。

 

——そうでなきゃ張り合いがない。

 

アタシにとって、カレンモエは特別な存在だ。友達であり、超えるべき壁。

 

アンタが涙を呑んだ距離は、アタシが制した。今度は、アンタが命を懸けてるこの距離でも、勝つ。完璧に勝って、「私が一番」だって、教えてあげる。

 

それが、アタシなりの礼儀だった。

 

 

 

 

 

 

地下バ道を抜けて、ターフへ。地鳴りのような歓声が、全身を震わせる。

 

ゲート裏の待機所。各々が集中を高める時間。

 

アタシは、意図的にモエに近づいた。決着をつける前に、言っておくことがある。

 

「……ようやく、()()で会えたわね」

 

「スカーレット……」

 

モエがこちらを向いた。瞳を見て、確信した。あの子は、まだ折れていない。

 

「ホープフルステークス、見てたでしょ?」

 

挑発的な口調で問いかけた。

 

「アンタが涙を呑んだあの中距離で、アタシが頂点に立つところ」

 

モエの表情が、わずかに強張った。プライドを刺激する言葉。距離の壁という現実を突きつけている。

 

それでも、モエは表情を引き締めて、真っ直ぐに見返してきた。

 

「うん。嫌というほど見せつけられた」

 

そして言った。

 

「……強かった。本当に」

 

予想外の素直な言葉。反発してくると思っていた。でも、アタシの強さを認めて、受け入れた。その上で、挑んでくると言う。

 

——面白いじゃない。

 

口角が上がるのを感じた。これだ。これこそが、アタシが求めていたライバル。

 

「……ふふっ。ならいいわ」

 

栗毛の髪をかき上げて、宣言した。

 

「中距離は制した。次はトリプルティアラ。前哨戦でアタシが勝って、文句なしの1番を証明する。アンタもウオッカも、まとめてねじ伏せて。アタシこそが女王だってこと、思い知らせてあげる」

 

完全勝利宣言。それがアタシのプライド。

 

「……やってみなよ」

 

モエが、不敵な笑みで返した。

 

「私だって、あの時とは違う。簡単に勝てると思わないで」

 

「上等よ」

 

火花が散る。

 

その横を、ウオッカが通り過ぎていった。

 

「おい。俺を忘れてもらっちゃ困るぜ」

 

ニカっと笑って、親指で自分を指す。

 

主役(1番人気)を無視して盛り上がってんじゃねーよ。最後に真ん中に立ってんのは、このオレだ。覚えとけ」

 

「……フン。言ったわね」

 

全員、まとめて相手になってあげる。

 

アタシはゲートへ向かった。

 

 

 

 

 

 

――Live: Announcer

 

 

 

『春の阪神、桜花賞トライアル・チューリップ賞! いよいよ発走の時を迎えます。世代をリードする三強が激突する注目の一戦。1番人気は阪神JF覇者ウオッカ、2番人気にホープフルS覇者ダイワスカーレット。そして3番人気にカレンモエ。さあ、ゲートが開きます!』

 

『——スタートしました!! おっと、少しばらついたか? ウオッカは五分。先手を取ったのはこの二人です! 内からカレンモエ、外からダイワスカーレット! 揃って好ダッシュ!』

 

『ダイワスカーレット、迷わず行きます! ハナを主張、強気の逃げ宣言! そしてその直後——おっ、カレンモエだ! カレンモエがスカーレットの直後、インの2番手につけました! ピッタリとマークする形!』

 

 

 

 

 

 

――Hero: Vodka

 

 

 

(チッ。相変わらず、目立ちたがり屋な奴らだぜ)

 

ゲートが開いた瞬間、地面を強く蹴った。悪くないスタート。前走のような出遅れはない。これなら勝負になる。

 

それ以上に速い影が二つ。スカーレットと、モエ。相変わらず、ロケットみてえなスタートだ。特にモエの出足は、何度見てもバケモンじみている。

 

(モエが逃げるか?)

 

前方の展開を見て、少し驚いた。モエがハナを譲った。スカーレットが先頭に立って、モエがその直後、2番手につけた。ただの後ろじゃない。

 

スカーレットの真後ろ。風除け(スリップストリーム)の位置に、影のように張り付いている。

 

「……正気か?」

 

思わず声が出た。スカーレットの直後。レースで最もプレッシャーがかかる位置。完璧なペースで走る相手の後ろにつくのは、並大抵のことじゃねえ。ペースの上げ下げに付き合わされて、精神的にも肉体的にも消耗する。一瞬の判断ミスが、追突や立ち遅れにつながる、地獄の特等席。

 

JFの時のモエは違った。あの時は、自分のスピードを抑え込んで、我慢して脚を溜める走り。スタミナに不安があるからこその、消極的な戦術だった。

 

今日は違う。あれは「我慢」している目じゃねえ。

 

獲物を狙う、狩人の目だ。

 

(あいつ、本気でスカーレットを食うつもりか)

 

スカーレットが作るペースを利用し、体力を温存して、最後の一瞬で仕留める。攻撃的な意志が、走りから伝わってくる。

 

(マジかよ。あいつ、変わったな)

 

スタミナの不安を克服したのか。それとも、承知の上で、危険な賭けに出たのか。どちらにせよ、覚悟は本物だ。

 

(面白えじゃねえか)

 

口角が上がった。モエの覚悟が、俺の闘争心に火をつける。このヒリつく空気、最高だ。

 

レースは、スカーレットが支配していた。淀みのない、完璧なミドルペース。他の連中は、ペースについていくのがやっとで、少しずつ脱落していく。

 

俺は中団やや前、5番手の位置をキープした。前の二人を射程圏内に入れつつ、自分のリズムを崩さない。

 

(スカーレットはバケモンだ。ペースが全く乱れねえ)

 

そして、それに食らいつくモエもまた異様だった。あれだけのハイペースを追走しながら、フォームが崩れていない。呼吸も乱れていないように見える。

 

(あの冬で、化けたのか……?)

 

第3コーナー。先頭はスカーレット、その背中にピタリと張り付くモエ。

 

(さあ、どっちが先に動く)

 

第4コーナー。カーブを曲がりながら、スカーレットが動いた。

 

「ハァッ!」

 

短い呼気とともに、ピッチが上がる。早めのスパート。あいつの得意な、力でねじ伏せるパターン。

 

(来た!)

 

俺も同時にスパートをかける。ここで離されたら終わり。

 

そして、モエも動いた。スカーレットに遅れることなく、同時に加速する。

 

最後の直線。

 

(最高にカッコいいレースじゃねえか)

 

「オラァァァァ!!」

 

雄叫びを上げて、大地を蹴った。三人の意地が、真正面から激突する。

 

 

 

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

第4コーナーを回って、最後の直線。

 

風の音が変わった。スカーレットが仕掛けた。

 

分かっていた。彼女は自分の強さを信じているから、早めに動いてくる。後ろのことなんて気にしていない。自分が一番速いと信じている走り。

 

(今だ)

 

私も同時にスパートをかける。トレーナーとの作戦通り。

 

『彼女が動く時が、仕掛けの合図だ』

 

(苦しい)

 

肺が焼けるように熱い。心臓が破裂しそうに高鳴る。スカーレットの走りは、完璧で、強すぎる。少しでも気を抜けば、背中が遠ざかる。彼女が巻き起こす暴風に、体が持っていかれそう。

 

「させるかよ!!」

 

外から、ウオッカの雄叫び。彼女も来た。彼女がこのまま黙っているはずがない。豪快な足音が、地響きのように迫ってくる。

 

三強がほぼ横一線に並ぶ。観客のボルテージが最高潮。割れんばかりの歓声が、ターフに降り注ぐ。

 

(負けない)

 

スカーレットの背中だけを見つめて走った。彼女を倒すことだけを考えて。彼女の影を踏み、彼女の風を喰らい、彼女を超える。

 

残り200メートル。視界の先に、あの「壁」が見えた。

 

阪神の急坂。

 

「……っ」

 

心臓が嫌な音を立てた。

 

前回の阪神JF。私が力尽きた場所。私の夢を打ち砕いた場所。

 

『カレンモエ、伸びない! 伸びない!』

 

あの時の声が、頭の中で響く。体が、本能的にその記憶を拒絶する。脚が重くなる。肺が酸素を拒否して、悲鳴を上げる。

 

(また、届かない)

 

恐怖が心を蝕もうとする。過去の記憶が脚に絡みつく。泥沼に脚を取られたように、前に進まない。

 

(怖い。負けるのが)

 

一瞬、視界が揺らいだ。ゴール板が遠ざかっていくような錯覚。

 

——その時。

 

脳裏に蘇った光景があった。

 

夜のトレーナー室。私に向かって、必死に言葉を伝える、トレーナーの姿。

 

『俺はもう、カレンチャンのファンじゃない。俺は、カレンモエのファンだ』

 

あの時の、絢原さんの目。私自身よりも、私を信じている目。

 

視界の端に、観客席で身を乗り出している絢原さんの姿が見えた。叫んでいる。何かを叫んでいる。声は聞こえない。

 

でも、目が、私を見ていた。

 

私だけを。

 

(——私は、一人じゃない)

 

ママの幻影なんかじゃない。私自身を、見てくれている。

 

その確信が、恐怖を消した。

 

(私は、私のために走る)

 

全身の細胞が、再び熱を帯びる。

 

(息を、深く)

 

タキオンさんと組み立てた呼吸法。浅くなった呼吸を、意志の力で深く修正する。肺の奥まで酸素を取り込んで、エネルギーに変える。冬の地獄のトレーニングが、ここで実を結ぶ。

 

スカーレットが、外のウオッカを意識して、わずかにコースを外に持ち出した。

 

その瞬間。

 

彼女の内側に、ウマ娘一人が通れるだけの、わずかなスペースが生まれた。

 

(そこだ)

 

迷わず飛び込んだ。インからの強襲。誰も通らない、荒れた内ラチ沿い。最短距離。

 

「はあああっ!」

 

「なっ……!?」

 

スカーレットが、驚愕の表情でこちらを見た。彼女の完璧な計算にはなかった動き。

 

スカーレットが意地で脚を伸ばす。女王のプライドが、敗北を許さない。

 

私も負けない。

 

「行けぇぇぇ!!」

「負けるかぁああ!!」

 

さらに一段、ギアを上げる。限界の先へ。

 

体が並ぶ。競り合う。火花が散るような、極限のデッドヒート。

 

残り100メートル。

 

 

 

 

 

 

――Live: Announcer

 

 

 

『残り200を切った! 坂を駆け上がる! 先頭はダイワスカーレット! 外からウオッカ! 並びかける! 内からカレンモエ! カレンモエが突っ込んでくる!』

 

『三人が並んだ! 激しい叩き合い! 意地と意地のぶつかり合いです! ダイワスカーレット粘る! ウオッカ差すか!? 内からカレンモエも伸びる! 凄い脚だ! 阪神JFの再現か、それとも雪辱か!』

 

『残り100! カレンモエが出た! カレンモエ、わずかに先頭! ダイワスカーレットも食い下がる! ウオッカも来ている! 大接戦だ!』

 

 

 

 

 

 

――Trainer: Ayahara

 

 

 

「行けっ! モエ!!」

 

俺はスタンドから身を乗り出して叫んでいた。喉が張り裂けるのも構わず、ただモエの名前を呼び続けた。

 

残り200メートル。阪神の坂。一瞬、モエの動きが鈍ったように見えた。あの時の悪夢が蘇る。

 

(頼む。耐えてくれ)

 

その時。フォームが変わった。沈み込むように低く、鋭く。再び加速した。

 

(二の脚。あの坂で、まだそんな力が)

 

それは計算外の、最高の誤算だった。スカーレットの内側を強襲した。迷いのない、大胆なコース取り。

 

「差せっ! 差せぇぇ!!」

 

モエがスカーレットに並びかける。外からウオッカも追ってくる。今のモエは、誰にも止められない。

 

残り100メートル。スカーレットの動きが、わずかに鈍った。完璧だった彼女の走りに、初めて綻びが見えた。

 

その瞬間を、モエは見逃さなかった。

 

前に出た。鼻差。クビ差。半身。

 

(勝てる)

 

そしてモエは、先頭でゴール板を駆け抜けた。

 

『ゴール前! カレンモエだ! カレンモエだ! 内から鋭く伸びて、先頭でゴールイン!! カレンモエ、勝ちました!!』

 

息が止まった。全身の力が抜けて、フェンスに倒れ込みそうになる。

 

勝った。あのダイワスカーレットに。この阪神のマイルで。

 

『勝ったのはカレンモエ! 三強対決を制したのはカレンモエ! 阪神JFの雪辱を果たしました!』

 

電光掲示板の着差は、ハナ差。紙一重の勝利。ターフの上で、モエが肩で息をしながら、誇らしげに顔を上げていた。

 

 

 

 

 

 

ウイニングランを終えたモエが、戻ってきた。途中、スカーレットとウオッカが声をかけているのが見えた。

 

「……やるじゃない。正直、見直したわ」

 

スカーレットは悔しそうに顔を歪めながらも、頷いていた。

 

「でも、本番(桜花賞)は、こうはいかないわよ」

 

再戦を誓う声。

 

「くっそー! 負けたー! モエ、お前、すげーじゃねえか! 最後のイン突き、最高にカッコよかったぜ!」

 

ウオッカも悔しがりながら、勝利を称えていた。

 

「……トレーナー」

 

モエが、俺の前に立った。汗でぐしゃぐしゃの顔。瞳が、勝利の喜びに輝いている。

 

「……ああ」

 

言葉は、それ以上必要なかった。

 

俺は拳を突き出した。モエも拳を突き出して、コツンと合わせた。

 

「……勝てたな」

 

「うん、勝てた」

 

少しはにかむように笑った。

 

「……見ててくれた?」

 

「当たり前だ。世界一のファンだからな」

 

「……ふふっ。気持ち悪い」

 

笑顔だった。心からの信頼に満ちた笑顔。

 

マイルの壁を、こいつは越えた。最強のライバルにも勝った。

 

(桜花賞も、このまま行ける)

 

俺は確信した。栄光への道が続いている。このまま頂点まで駆け上がるだけだ。

 

——そう、信じていた。

 

運命の歯車は、回る。




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