三月上旬。
長く厳しい冬が終わり、空気の中に春の匂いが混じり始める季節。六甲の山並みはまだ薄い霞に覆われている。日差しだけが、確実に強くなっていた。
阪神レース場。GⅡの枠を超えた熱気が、敷地全体を包んでいた。
桜花賞トライアル、チューリップ賞。
クラシック開幕の号砲。本番のGⅠを超える注目を集めている理由は一つ。この世代の頂点を争う三強が、ここで初めて直接ぶつかる。
阪神ジュベナイルフィリーズの覇者、ウオッカ。
血統の呪縛に抗い、マイルの壁に爪を立てる反逆者、カレンモエ。
そして、異例の路線でGⅠを制し、王道へ帰還した絶対的女王——ダイワスカーレット。
役者は揃った。
~
――The Red Ace: Daiwa Scarlet
(……ぬるいわね)
パドックを周回しながら、アタシは内心で毒づいた。
降り注ぐ大歓声。無数のカメラのフラッシュ。観客の期待と興奮が渦巻く空気。GⅡとは思えない熱狂。
それでも、生ぬるく感じた。
無理もない。アタシはすでに、これ以上の舞台を経験して、制している。
昨年末、阪神JFを回避した。代わりに選んだのが、中距離2000メートルのホープフルステークス。クラシック三冠路線への登竜門。屈強な相手がひしめく、パワーとスタミナの戦場。
結果は圧勝だった。並み居る強豪を完膚なきまでに叩き潰して、頂点に立った。
あの勝利が、アタシに「王者」としての風格を与えた。
中距離は制した。アタシの強さに疑いを挟む余地は、もうない。
栗毛のツインテールが揺れる。コンディションは完璧。本来の戦場であるティアラ路線へ、今日、帰還する。
目的は一つ。全てのライバルを蹴散らして、文句なしの「1番」になること。
視線を巡らせた。
ウオッカ。仏頂面だが、闘志は隠しきれていない。JFの覇者としてのプライドがあるのだろう。叩き潰し甲斐があるというもの。アタシがいない間にタイトルを取ったらしいけど、どっちが強いか、ここでハッキリさせてやる。
そして——。
視線が、一人の子に止まった。黒一色の挑戦的な勝負服。色素の薄い芦毛の髪。
カレンモエ。
数ヶ月前、同じこの場所で見たあの子は、もっと脆く、危うかった。自分の才能と理想のギャップに苦しんで、悲壮感を漂わせていた。
今は違う。
瞳に、静かな闘志がある。迷いが消えて、何かを腹に決めた顔。
——そうでなきゃ張り合いがない。
アタシにとって、カレンモエは特別な存在だ。友達であり、超えるべき壁。
アンタが涙を呑んだ距離は、アタシが制した。今度は、アンタが命を懸けてるこの距離でも、勝つ。完璧に勝って、「私が一番」だって、教えてあげる。
それが、アタシなりの礼儀だった。
~
地下バ道を抜けて、ターフへ。地鳴りのような歓声が、全身を震わせる。
ゲート裏の待機所。各々が集中を高める時間。
アタシは、意図的にモエに近づいた。決着をつける前に、言っておくことがある。
「……ようやく、
「スカーレット……」
モエがこちらを向いた。瞳を見て、確信した。あの子は、まだ折れていない。
「ホープフルステークス、見てたでしょ?」
挑発的な口調で問いかけた。
「アンタが涙を呑んだあの中距離で、アタシが頂点に立つところ」
モエの表情が、わずかに強張った。プライドを刺激する言葉。距離の壁という現実を突きつけている。
それでも、モエは表情を引き締めて、真っ直ぐに見返してきた。
「うん。嫌というほど見せつけられた」
そして言った。
「……強かった。本当に」
予想外の素直な言葉。反発してくると思っていた。でも、アタシの強さを認めて、受け入れた。その上で、挑んでくると言う。
——面白いじゃない。
口角が上がるのを感じた。これだ。これこそが、アタシが求めていたライバル。
「……ふふっ。ならいいわ」
栗毛の髪をかき上げて、宣言した。
「中距離は制した。次はトリプルティアラ。前哨戦でアタシが勝って、文句なしの1番を証明する。アンタもウオッカも、まとめてねじ伏せて。アタシこそが女王だってこと、思い知らせてあげる」
完全勝利宣言。それがアタシのプライド。
「……やってみなよ」
モエが、不敵な笑みで返した。
「私だって、あの時とは違う。簡単に勝てると思わないで」
「上等よ」
火花が散る。
その横を、ウオッカが通り過ぎていった。
「おい。俺を忘れてもらっちゃ困るぜ」
ニカっと笑って、親指で自分を指す。
「
「……フン。言ったわね」
全員、まとめて相手になってあげる。
アタシはゲートへ向かった。
~
――Live: Announcer
『春の阪神、桜花賞トライアル・チューリップ賞! いよいよ発走の時を迎えます。世代をリードする三強が激突する注目の一戦。1番人気は阪神JF覇者ウオッカ、2番人気にホープフルS覇者ダイワスカーレット。そして3番人気にカレンモエ。さあ、ゲートが開きます!』
『——スタートしました!! おっと、少しばらついたか? ウオッカは五分。先手を取ったのはこの二人です! 内からカレンモエ、外からダイワスカーレット! 揃って好ダッシュ!』
『ダイワスカーレット、迷わず行きます! ハナを主張、強気の逃げ宣言! そしてその直後——おっ、カレンモエだ! カレンモエがスカーレットの直後、インの2番手につけました! ピッタリとマークする形!』
~
――Hero: Vodka
(チッ。相変わらず、目立ちたがり屋な奴らだぜ)
ゲートが開いた瞬間、地面を強く蹴った。悪くないスタート。前走のような出遅れはない。これなら勝負になる。
それ以上に速い影が二つ。スカーレットと、モエ。相変わらず、ロケットみてえなスタートだ。特にモエの出足は、何度見てもバケモンじみている。
(モエが逃げるか?)
前方の展開を見て、少し驚いた。モエがハナを譲った。スカーレットが先頭に立って、モエがその直後、2番手につけた。ただの後ろじゃない。
スカーレットの真後ろ。
「……正気か?」
思わず声が出た。スカーレットの直後。レースで最もプレッシャーがかかる位置。完璧なペースで走る相手の後ろにつくのは、並大抵のことじゃねえ。ペースの上げ下げに付き合わされて、精神的にも肉体的にも消耗する。一瞬の判断ミスが、追突や立ち遅れにつながる、地獄の特等席。
JFの時のモエは違った。あの時は、自分のスピードを抑え込んで、我慢して脚を溜める走り。スタミナに不安があるからこその、消極的な戦術だった。
今日は違う。あれは「我慢」している目じゃねえ。
獲物を狙う、狩人の目だ。
(あいつ、本気でスカーレットを食うつもりか)
スカーレットが作るペースを利用し、体力を温存して、最後の一瞬で仕留める。攻撃的な意志が、走りから伝わってくる。
(マジかよ。あいつ、変わったな)
スタミナの不安を克服したのか。それとも、承知の上で、危険な賭けに出たのか。どちらにせよ、覚悟は本物だ。
(面白えじゃねえか)
口角が上がった。モエの覚悟が、俺の闘争心に火をつける。このヒリつく空気、最高だ。
レースは、スカーレットが支配していた。淀みのない、完璧なミドルペース。他の連中は、ペースについていくのがやっとで、少しずつ脱落していく。
俺は中団やや前、5番手の位置をキープした。前の二人を射程圏内に入れつつ、自分のリズムを崩さない。
(スカーレットはバケモンだ。ペースが全く乱れねえ)
そして、それに食らいつくモエもまた異様だった。あれだけのハイペースを追走しながら、フォームが崩れていない。呼吸も乱れていないように見える。
(あの冬で、化けたのか……?)
第3コーナー。先頭はスカーレット、その背中にピタリと張り付くモエ。
(さあ、どっちが先に動く)
第4コーナー。カーブを曲がりながら、スカーレットが動いた。
「ハァッ!」
短い呼気とともに、ピッチが上がる。早めのスパート。あいつの得意な、力でねじ伏せるパターン。
(来た!)
俺も同時にスパートをかける。ここで離されたら終わり。
そして、モエも動いた。スカーレットに遅れることなく、同時に加速する。
最後の直線。
(最高にカッコいいレースじゃねえか)
「オラァァァァ!!」
雄叫びを上げて、大地を蹴った。三人の意地が、真正面から激突する。
~
――Anti-Hero: Curren Moe
第4コーナーを回って、最後の直線。
風の音が変わった。スカーレットが仕掛けた。
分かっていた。彼女は自分の強さを信じているから、早めに動いてくる。後ろのことなんて気にしていない。自分が一番速いと信じている走り。
(今だ)
私も同時にスパートをかける。トレーナーとの作戦通り。
『彼女が動く時が、仕掛けの合図だ』
(苦しい)
肺が焼けるように熱い。心臓が破裂しそうに高鳴る。スカーレットの走りは、完璧で、強すぎる。少しでも気を抜けば、背中が遠ざかる。彼女が巻き起こす暴風に、体が持っていかれそう。
「させるかよ!!」
外から、ウオッカの雄叫び。彼女も来た。彼女がこのまま黙っているはずがない。豪快な足音が、地響きのように迫ってくる。
三強がほぼ横一線に並ぶ。観客のボルテージが最高潮。割れんばかりの歓声が、ターフに降り注ぐ。
(負けない)
スカーレットの背中だけを見つめて走った。彼女を倒すことだけを考えて。彼女の影を踏み、彼女の風を喰らい、彼女を超える。
残り200メートル。視界の先に、あの「壁」が見えた。
阪神の急坂。
「……っ」
心臓が嫌な音を立てた。
前回の阪神JF。私が力尽きた場所。私の夢を打ち砕いた場所。
『カレンモエ、伸びない! 伸びない!』
あの時の声が、頭の中で響く。体が、本能的にその記憶を拒絶する。脚が重くなる。肺が酸素を拒否して、悲鳴を上げる。
(また、届かない)
恐怖が心を蝕もうとする。過去の記憶が脚に絡みつく。泥沼に脚を取られたように、前に進まない。
(怖い。負けるのが)
一瞬、視界が揺らいだ。ゴール板が遠ざかっていくような錯覚。
——その時。
脳裏に蘇った光景があった。
夜のトレーナー室。私に向かって、必死に言葉を伝える、トレーナーの姿。
『俺はもう、カレンチャンのファンじゃない。俺は、カレンモエのファンだ』
あの時の、絢原さんの目。私自身よりも、私を信じている目。
視界の端に、観客席で身を乗り出している絢原さんの姿が見えた。叫んでいる。何かを叫んでいる。声は聞こえない。
でも、目が、私を見ていた。
私だけを。
(——私は、一人じゃない)
ママの幻影なんかじゃない。私自身を、見てくれている。
その確信が、恐怖を消した。
(私は、私のために走る)
全身の細胞が、再び熱を帯びる。
(息を、深く)
タキオンさんと組み立てた呼吸法。浅くなった呼吸を、意志の力で深く修正する。肺の奥まで酸素を取り込んで、エネルギーに変える。冬の地獄のトレーニングが、ここで実を結ぶ。
スカーレットが、外のウオッカを意識して、わずかにコースを外に持ち出した。
その瞬間。
彼女の内側に、ウマ娘一人が通れるだけの、わずかなスペースが生まれた。
(そこだ)
迷わず飛び込んだ。インからの強襲。誰も通らない、荒れた内ラチ沿い。最短距離。
「はあああっ!」
「なっ……!?」
スカーレットが、驚愕の表情でこちらを見た。彼女の完璧な計算にはなかった動き。
スカーレットが意地で脚を伸ばす。女王のプライドが、敗北を許さない。
私も負けない。
「行けぇぇぇ!!」
「負けるかぁああ!!」
さらに一段、ギアを上げる。限界の先へ。
体が並ぶ。競り合う。火花が散るような、極限のデッドヒート。
残り100メートル。
~
――Live: Announcer
『残り200を切った! 坂を駆け上がる! 先頭はダイワスカーレット! 外からウオッカ! 並びかける! 内からカレンモエ! カレンモエが突っ込んでくる!』
『三人が並んだ! 激しい叩き合い! 意地と意地のぶつかり合いです! ダイワスカーレット粘る! ウオッカ差すか!? 内からカレンモエも伸びる! 凄い脚だ! 阪神JFの再現か、それとも雪辱か!』
『残り100! カレンモエが出た! カレンモエ、わずかに先頭! ダイワスカーレットも食い下がる! ウオッカも来ている! 大接戦だ!』
~
――Trainer: Ayahara
「行けっ! モエ!!」
俺はスタンドから身を乗り出して叫んでいた。喉が張り裂けるのも構わず、ただモエの名前を呼び続けた。
残り200メートル。阪神の坂。一瞬、モエの動きが鈍ったように見えた。あの時の悪夢が蘇る。
(頼む。耐えてくれ)
その時。フォームが変わった。沈み込むように低く、鋭く。再び加速した。
(二の脚。あの坂で、まだそんな力が)
それは計算外の、最高の誤算だった。スカーレットの内側を強襲した。迷いのない、大胆なコース取り。
「差せっ! 差せぇぇ!!」
モエがスカーレットに並びかける。外からウオッカも追ってくる。今のモエは、誰にも止められない。
残り100メートル。スカーレットの動きが、わずかに鈍った。完璧だった彼女の走りに、初めて綻びが見えた。
その瞬間を、モエは見逃さなかった。
前に出た。鼻差。クビ差。半馬身。
(勝てる)
そしてモエは、先頭でゴール板を駆け抜けた。
『ゴール前! カレンモエだ! カレンモエだ! 内から鋭く伸びて、先頭でゴールイン!! カレンモエ、勝ちました!!』
息が止まった。全身の力が抜けて、フェンスに倒れ込みそうになる。
勝った。あのダイワスカーレットに。この阪神のマイルで。
『勝ったのはカレンモエ! 三強対決を制したのはカレンモエ! 阪神JFの雪辱を果たしました!』
電光掲示板の着差は、ハナ差。紙一重の勝利。ターフの上で、モエが肩で息をしながら、誇らしげに顔を上げていた。
~
ウイニングランを終えたモエが、戻ってきた。途中、スカーレットとウオッカが声をかけているのが見えた。
「……やるじゃない。正直、見直したわ」
スカーレットは悔しそうに顔を歪めながらも、頷いていた。
「でも、
再戦を誓う声。
「くっそー! 負けたー! モエ、お前、すげーじゃねえか! 最後のイン突き、最高にカッコよかったぜ!」
ウオッカも悔しがりながら、勝利を称えていた。
「……トレーナー」
モエが、俺の前に立った。汗でぐしゃぐしゃの顔。瞳が、勝利の喜びに輝いている。
「……ああ」
言葉は、それ以上必要なかった。
俺は拳を突き出した。モエも拳を突き出して、コツンと合わせた。
「……勝てたな」
「うん、勝てた」
少しはにかむように笑った。
「……見ててくれた?」
「当たり前だ。世界一のファンだからな」
「……ふふっ。気持ち悪い」
笑顔だった。心からの信頼に満ちた笑顔。
マイルの壁を、こいつは越えた。最強のライバルにも勝った。
(桜花賞も、このまま行ける)
俺は確信した。栄光への道が続いている。このまま頂点まで駆け上がるだけだ。
——そう、信じていた。
運命の歯車は、回る。
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