三月下旬。
チューリップ賞での激闘から数週間が経過し、季節は本格的な春に移行していた。トレセン学園の桜並木は、硬い蕾を綻ばせ、淡いピンク色を覗かせ始めている。
穏やかな春の陽気。どこか浮き足立った、甘く緩やかな空気。
しかしメディアと世間の温度は、それとは裏腹に沸騰していた。
――Trainer: Ayahara
俺はトレーナー室で、デスクに積み上げられたスポーツ新聞や雑誌の山を眺めていた。ため息が出る。
『仁川に走る、懐かしき衝撃。遺伝子が描くマイルの軌跡』
『「閃光」の系譜、ここに極まる。桜の舞台で見る夢の続き』
『抗えぬ血の宿命。天才少女が魅せた、必然の加速』
ほんの数週間前まで「無謀な挑戦」「スプリンターの迷走」と書き立てていた同じメディアが、今は手のひらを返して絶賛の嵐を巻き起こしている。
チューリップ賞での勝利。ウオッカとダイワスカーレットをねじ伏せた事実は、それほど衝撃的だった。1600メートルの壁を、モエは技術と執念でねじ伏せた。
カレンモエというアスリートが勝ち取った勲章。
それなのに、記事の行間から滲み出ているのは、彼女への純粋な敬意ではない。
「……結局、そこに戻るのか」
俺は呟いた。どの記事も、結びの言葉は判で押したように同じだ。
『やはり、血は争えない』
『あの日の伝説が、娘の姿を借りて蘇る』
モエが泥まみれで掴み取った勝利も、彼女自身の葛藤も、すべて「偉大な血統の物語」という美しい包装紙で包まれて消費されている。
この熱狂は、応援ではない。「自分たちの見たい物語」をモエに押し付けているだけの圧力だ。
(本人は、どう思っているんだろうな)
コーヒーを啜り、窓の外を見た。
春の嵐の予感が、空気を重く湿らせている。
~
――The Red Ace: Daiwa Scarlet
4月上旬。桜花賞を目前に控えた都内のホテル。大広間で行われているのは、有力出走ウマ娘たちの共同記者会見だった。
無数のフラッシュ。焚かれるライトの熱気。詰めかけた報道陣は、昨年の有馬記念に匹敵する数だという。シャッター音が、絶え間ない雨音のように会場を満たしている。
長テーブルを囲むように、6人のウマ娘が座っている。阪神JFを制したウオッカ。マイル路線で不気味な存在感を放つアストンマーチャン。トライアルを勝ち上がってきた他の有力勢。
そしてアタシ、ダイワスカーレット。
最後に、カレンモエ。
アタシは苛立ちを隠さずに脚を組んでいた。コツ、コツ、コツ。テーブルの下で、ヒールの爪先が床を叩く音が、自分の心拍とリンクしている。
(……不愉快ね)
会場の空気を見渡した。
おかしいでしょう?
確かにアタシにはマイルGⅠのタイトルはない。阪神JFは回避したから。その点では、隣でふてぶてしい顔をしているウオッカが、実績としては最上位にいるはずだ。あるいは、ホープフルSという中距離のGⅠを制し、最強を証明して帰ってきたアタシが注目されるのも道理。
それなのに。
記者の視線とマイクは、ウオッカでもアタシでもなく、モエに集中している。
「カレンモエ選手、チューリップ賞での勝利、鮮烈でした。あのゴール前の爆発的な加速、オールドファンからすれば、かつて短距離界を席巻した『閃光』の再来を見たような——そんな懐かしさすら覚えましたが、ご自身の感覚としてはいかがでしたか?」
「これまでのマイル挑戦を『確認作業』と仰っていましたが、手応えは掴めましたか? 偉大なるご家族にとっても悲願となるクラシック制覇、多くのファンが、貴女の走りに『夢の続き』を重ねているようですが」
「お母様は圧倒的な愛嬌でファンを魅了されましたが、貴女の走りは非常にクールで、鋭い。その底知れぬカリスマ性は、やはり血のなせる
質問のすべてが、丁寧な言葉でオブラートに包まれている。
「お母さんに似ていますね」とは言わない。「ファンが夢を重ねている」「系譜を感じる」。そうやって、外堀を埋めるように「カレンチャンの物語」の中にモエを閉じ込めようとしている。
連中が聞きたいのは、モエの戦術でもコンディションでもない。「偉大な母の血が騒ぎました」という、見出しに使いやすい肯定の言葉だけ。
(……薄っぺらいのよ、アンタたち)
アタシはマイクスタンドを握りしめた。
苛立っているのは、自分が無視されているからじゃない。それも少しはあるけど、もっと根本的な部分だ。
目の前にいる「カレンモエ」というアスリートに対する、敬意の欠如。
スプリントを捨て、苦痛を飲み込んでマイルに対応した覚悟。「個」としての努力を見ようともせず、安易な「二世物語」に落とし込もうとする空気。
それが、同じ時代を走るライバルとして、許せなかった。
アタシが倒したいのは、過去の亡霊の操り人形じゃない。今ここで息をしている、最強の敵だ。
記者が、ついでとばかりにアタシに話を振った。
「えー、ダイワスカーレット選手。貴女はホープフルSの覇者として、そんなドラマチックな才能と戦うわけですが——やはり、特別な意識などはありますか?」
カチン、と。脳内で何かが弾ける音がした。
アタシはマイクを乱暴に引き寄せた。スピーカーがキィンと不快なハウリングを起こし、会場が静まり返る。
氷のような視線で記者を射抜いた。
「……訂正しなさい」
「え?」
「アタシが戦うのは、カレンモエよ。過去の亡霊なんか、眼中にないわ」
記者がたじろぐ。アタシは止まらなかった。
「ドラマチック? 笑わせないでよ。あの子の走りを見たことがあるなら分かるはずでしょ。あの子の武器は、母親とは全く違う。泥臭くて強引な執念よ。それを『再来』だの『ドラマ』だの一言で片付けるなんて、貴方たちの目は節穴かしら」
会場を見渡した。凛とした声で告げる。
「アタシが見ているのは、彼女の実力だけ。外野が勝手に物語を作らないでくれる? 目障りよ」
マイクを置いた。力の加減が上手くいかず、ドン、という鈍い音が会場の空気を凍らせる。
隣のモエが、わずかに目を見開いてこちらを見たのが分かった。
(感謝なんていらないわよ。これはアタシのプライドの問題だから)
アタシは腕を組み、ふんぞり返った。ざわつく会場。もう、誰の顔も見ていなかった。
~
――Anti-Hero: Curren Moe
共同記者会見の会場。スカーレットの発言で、空気が一変していた。記者たちはバツが悪そうに顔を見合わせ、咳払いをしている。
私は、隣に座る赤いリボンの子を横目で見た。怒っている。私のためじゃない。彼女自身が、真剣勝負の場を汚されたと感じたから。
その不器用な潔癖さが、今の私には眩しかった。
(ありがと、スカーレット)
心の中で呟いた。彼女が空気を壊してくれたおかげで、少しだけ呼吸が楽になった気がした。
「では、改めてカレンモエ選手」
気を取り直した記者が、質問を投げてくる。今度は少しだけ慎重な口調で。
「ライバルのダイワスカーレット選手からは、このような発言がありましたが——貴女自身は、今回の桜花賞、どういったお気持ちで臨まれますか?」
マイクを握る。冷たい金属の感触。無数のレンズが、私の一挙手一投足を見逃すまいと狙っている。一つ一つが、銃口のように見えた。
以前の私なら、ここで怒っていた。「ママの話ばっかりするな」と噛み付いていたかもしれない。あるいは、プレッシャーに押しつぶされて言葉を詰まらせていたかもしれない。
今は違う。タキオンさんの調整と、トレーナーとの再契約。それらが、私の中に一本の芯を通している。
表情筋を動かさず、淡々と答えた。
「……何度も申し上げていますが、母は関係ありません」
声が会場に響く。透き通った、感情の乗らない声。自分でも驚くほど、心が凪いでいた。
「私は、私の走りで勝つだけです。誰かのためでも、何かの証明のためでもなく。ただ、一番速くゴール板を駆け抜ける。それだけを考えています」
嘘ではない。今の私は、余計な感情を削ぎ落として、走る機能だけに特化しようとしている。そうしなければ、1600メートルという距離は走り切れない。
怒りも、喜びも、焦りも、全部「スタミナを浪費するノイズ」でしかない。
「……なるほど。クールですね」
「さすが大物だ。母とは違うカリスマ性を感じる」
記者たちが、感心したようにメモを取る。シャッター音が激しくなる。
(——ああ、やっぱり)
内心で舌打ちをした。通じていない。
私が「母は関係ない」と言えば言うほど、連中はそれを「偉大な母を持った娘の、クールな自立心」という新しい物語に変換して消費する。「母とは違うカリスマ」という言葉自体が、結局は母との比較でしかないことに、気づいていない。
(——無駄だ)
言葉は届かない。
どれだけ叫んでも、この「カレンチャン」という巨大なフィルターは、私の実像を歪めて世界に伝える。透明な箱の中に閉じ込められているみたいだ。
徒労感が、胸の奥に沈殿していく。マイクを置いて、視線を落とした。
もう、何も話すことはない。私の言葉は、ターフの上でしか証明できない。
会見終了後。舞台袖の薄暗い廊下で、私はスカーレットと並んで歩いていた。
「……やりにくいわね、アンタの周りは」
スカーレットが前を向いたまま言った。
「ごめん。なんか、変な空気にさせちゃって」
「別に謝らなくていいわよ。アタシは言いたいことを言っただけだし」
フン、と鼻を鳴らした。それから、少しだけ声を和らげた。
「アンタも、あんな連中の言うことなんて、いちいち気にすることないわよ。アンタが一番嫌がってるってことくらい、アタシたちは分かってるから」
「……スカーレット」
不器用なフォロー。今の私には何よりも温かかった。
「ありがと。あとさ」
「ん?」
「アンタがあいつらを黙らせた時、ちょっとスカッとした」
「でしょ?」
スカーレットが、ニカっと笑った。パドックで見せる「女王」の顔ではなく、ただの同級生の顔。
すぐに表情は引き締まる。
「でも、レースになれば関係ないから」
「うん。分かってる」
「その雑音ごと、アタシが吹き飛ばしてあげる。覚悟しなさいよ」
「返り討ちにしてあげる」
私たちは拳を軽く合わせ、それぞれの控室へ分かれた。
彼女の足音は、力強く、迷いがなかった。
私も、そうありたいと思った。
~
――Trainer: Ayahara
翌日。学園内のコンビニで買ったスポーツ新聞を、トレーナー室で広げていた。
一面の見出し。
『仁川に蘇る閃光! 伝説の継承者、戴冠へ死角なし!』
『ライバル・スカーレットも警戒!「彼女は本物」』
『母が見た夢の続きを。運命のゲートが開く』
「……ひどいな、こりゃ」
俺は頭を抱えた。
昨日の会見でのモエの否定も、スカーレットの激辣なコメントも、すべて都合よく編集されている。「ライバル対決を盛り上げるためのマイクパフォーマンス」として処理され、結局は「カレンチャンの娘すごい」という文脈に回収されている。
メディアにとって真実なんてどうでもいい。「売れる物語」があればいい。
ネットニュースのコメント欄も期待一色だ。「絶対勝てる」「魂を賭ける」「カレンチャンの夢が叶う瞬間が見たい」。スタミナ問題や精神的な脆さへの懸念は、ほとんどない。
「勝って当たり前」という空気が、既成事実のように醸成されている。
学園内も同様だった。今朝、モエが登校してきた時、廊下の空気が変わったのを俺は見た。
「モエちゃん、頑張って!」
「応援してるよ!」
「日曜日、見に行くからね!」
クラスメイトや、他クラスのウマ娘たちが、無邪気に声をかける。あの頃のような好奇心ではない。純粋な期待と善意だ。本気で応援しているし、勝つと信じている。
俺は気づいてしまった。
その善意のほとんどが、「あの『閃光』が勝つところを見たい」という、無自覚な願望に基づいている。
モエは声援に笑顔で応じていた。「ありがとう」「頑張るね」と。一見すれば、プレッシャーを力に変えているように見えるかもしれない。
俺には分かる。
あの笑顔は仮面だ。口角の角度も、目の細め方も、完璧に計算された「笑顔」。内心では、吐き気を催すほどの息苦しさを感じているはずだ。
この空気は危険だ。
会場全体、いや、日本中が「カレンモエ=カレンチャン」というフィルターでモエを見る準備を整えている。それは、レース中に「私は私だ」と自我を保つための労力を、著しく増大させる重力となる。
もしレース中に何かが起きたら。期待が裏切られた時、あるいは「期待通り」の幻影を見せつけられた時。あいつの心は、耐えられるのか。
張り詰めた糸は、切れる時は一瞬だ。
俺は新聞をゴミ箱に放り込んだ。
嫌な予感が、背中にへばりついて離れない。
~
――The Alchemist: Agnes Tachyon
放課後。理科準備室の薄暗い照明の下で、モニターの数値が規則的に明滅している。ビーカーの中で煮える薬液の音が、時計の針のように響く。
ランニングマシンで調整を行うカレンモエ君。走りは機械のように精緻で、乱れがない。着地音、呼吸のリズム、筋肉の収縮。すべてが、完璧なシンフォニーを奏でている。
「……ふむ」
私は手元のタブレットで、リアルタイムの生体データを確認した。
心拍数、安定。血中乳酸濃度、理想的な推移。フォームの軸、ブレなし。
すべての数値が、我々が設定した理論値に到達している。チューリップ賞の時よりも、さらに研ぎ澄まされている。生物学的な限界ギリギリで、彼女はバランスを保っている。
「……完璧だ」
独りごちた。
「肉体に関しては、これ以上の調整は必要ない。1600mを走り切るための最適解に到達している。生物学的にはね」
モエ君がマシンを止め、タオルで汗を拭いながら降りてくる。息はほとんど上がっていない。表情も、涼しいまま。
「どう? タキオンさん」
「申し分ないよ。君の肉体は、現時点で完成された芸術品だ」
「そっか。なら、勝てるね」
短くそう言うと、シャワーを浴びに奥の部屋へ消えていった。背中は、自信に満ちているように見える。迷いも、恐怖も削ぎ落としたような背中。
——ふむ。
「……トレーナーくん」
部屋の隅でデータを見ていた彼に声をかけた。
「はい?」
「君にはどう見える? 彼女の状態は」
「絶好調に見えます。過去最高に仕上がっていると」
「そうだね。肉体はね」
私は試験管を手に取り、中の液体を光にかざした。透明な液体に、一滴の黒いインクを垂らす。インクはゆらりと広がり、透明だった世界を、ゆっくりと、しかし確実に濁らせていく。
「完璧な機械ほど、一粒の砂で壊れるものだよ」
「……え?」
「彼女の今の集中力は、異常だ」
タブレットの画面を切り替え、脳波のデータをトレーナー君に見せた。
「見てみたまえ。感情の起伏を示す波形が、極端に平坦だ。リラックスしている時の波形とも違う。これは——『無』だ。彼女は今、外部からのノイズを
「シャットアウト……?」
「精神の防御壁を極限まで高くして、内側に籠もることで、あの異常な
「それは……悪いことなんですか? レースに集中できているなら……」
「平時ならね。これは『脆さ』と表裏一体だ」
私はトレーナー君の目を真っ直ぐ見た。彼も薄々感づいているはずだ。彼女の笑顔の不自然さに。
「彼女は今、外界との接続を絶っている。言わば、潜水艦のハッチを閉じて、深海に潜っている状態だ。もしそのハッチを、外側から無理やりこじ開けられたらどうなると思う?」
「……っ」
「深海の水圧が一気に流れ込み、船体は一瞬で圧壊する」
言葉を重ねる。
「あるいは、限界を超えてフル回転している超高速の精密機械に、外部から不用意に『メンテナンスのための強制停止コード』が入力されたら? コードそのものはよくあるものさ、害はない。だが、安全に停止なんてしないよ。行き場を失った運動エネルギーが内部で暴走し、内側から
トレーナー君の顔色が青ざめる。想像力は、正しい。
「彼女は今、爆弾を抱えて走っているようなものさ。厄介なことに、起爆スイッチは、彼女の外側にある」
「そ、そんな……」
「気をつけ給え」
私は、黒く濁った試験管をホルダーに戻した。
「システムは一瞬で暴走、あるいは停止するだろうね。スイッチが押されさえすれば」
科学者としてできることは、肉体を仕上げることまで。心という不確定要素までは、数式で守れない。特に、彼女のように繊細で、歪な形をした心は。
あとは、祈るしかない。
そのスイッチが、押されないことを。
~
――Anti-Hero: Curren Moe
夜。学園の寮。消灯時間を過ぎた部屋は、深い静寂に包まれていた。
私はベッドに横たわり、天井のシミを見つめていた。眠れないわけじゃない。明日のレースのイメージトレーニングを繰り返しているだけ。スタートからゴールまで、1分33秒のシミュレーション。何十回、何百回と繰り返す。
体は軽い。不安はない。
バレンタインの夜、絢原さんと誓い合った言葉が、私を支えている。「俺が見ているのは、君だ」。あの言葉があれば、私はどこまでも走れる。あの温かい、ビターチョコレートの味を思い出す。
「……起きてますか?」
不意に、隣のベッドから声がした。同室のアストンマーチャン。
「うん。起きてる」
「明日は、いよいよ本番ですね」
「そうだね」
少しの間、沈黙が流れた。マーチャンは、普段は飄々としていて何を考えているか分からないけど、時々、心臓を直接掴むような鋭いことを言う。
「モエちゃん」
珍しく真面目な声色で言った。
「明日のレース、貴女は『誰』として走りますか?」
「……は?」
私は寝返りを打って、彼女の方を見た。暗がりで表情はよく見えないけど、目は真っ直ぐに私を見ていた。レンズのように、感情のない瞳。
「何それ。私として走るに決まってるでしょ。カレンモエとして」
「そうですか。なら、いいんです」
マーチャンは、ふっと力を抜いたように呟いた。
「ただ、気をつけてください。世界は、貴女をそう見ていないかもしれません」
「え?」
「カメラのレンズは、見たいものしか映しませんから」
詩的で、難解な言葉。でも、どこか警告めいて聞こえた。背筋が、少しだけ寒くなる。
「どういう意味?」
「いいえ。ただの独り言です。おやすみなさい、モエちゃん。いい夢を」
マーちゃんは布団を被り、背を向けた。
私はしばらくその背中を見つめていたけど、やがて考えるのをやめた。今は、余計なことを考えたくない。明日のレースに集中しなきゃ。雑音は、すべてシャットアウトする。
「私は、カレンモエだ」
お守りのように、言葉を繰り返す。
私は強い。スカーレットにも勝った。ウオッカも抑えた。絢原さんも信じてくれている。大丈夫。何も怖くない。
目を閉じ、意識を深い場所へと沈めた。
明日、私が立つ場所が、祝福のステージではなく、断頭台になるとも知らずに。
~
――Trainer: Ayahara
桜花賞当日。朝から、雲ひとつない快晴だった。青空が広がり、満開の桜が風に揺れている。最高のレース日和。
控室で、最後のミーティングを終える。輸送バスへの集合時間はもうすぐだ。
「行くよ、トレーナー」
ジャージ姿のモエが、俺に向かって微笑んだ。研ぎ澄まされた刃物のように整った表情。迷いも、恐怖も見えない。最高のコンディション。トレーナーとして、これ以上ない仕事をしたという自負がある。
だが。
「……ああ、行こう」
俺が返した笑顔は、少し引きつっていたかもしれない。
モエの笑顔が、少しだけ「作られた完璧さ」に見えた気がした。昨夜のタキオンの言葉が、脳裏をよぎる。
『厄介なことに、起爆スイッチは、彼女の外側にある』
「……トレーナー?」
モエが不思議そうに首を傾げる。
「いや、なんでもない。信じてるぞ」
「うん。見てて」
軽く手を振り、部屋を出ていった。足取りは軽やかで、どこにも不安がないように見える。
その背中を見送りながら、俺は心の中で祈った。
(頼む)
(勝たなくていい。いや、勝ってほしいが、それ以上に)
(あいつの心が、壊れませんように)
その祈りが、どれほど無力なものかを知る由もなく。
場面は変わり、阪神レース場の大歓声。ゲートに向かう18人の少女たち。
圧倒的1番人気。誰もが彼女の勝利を疑わない空気。「伝説の継承」を信じて疑わない、無邪気な熱狂。
その熱狂が、彼女を支える土台なのか、それとも彼女を押し潰す巨大な墓標なのか。
運命のファンファーレが、高らかに鳴り響こうとしていた。
誤字報告、評価や、感想、ここすきなど、よろしくお願いいたします。