アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

34 / 121
桜花賞が近づく。


26話 桜の重力

 

 

三月下旬。

 

チューリップ賞での激闘から数週間が経過し、季節は本格的な春に移行していた。トレセン学園の桜並木は、硬い蕾を綻ばせ、淡いピンク色を覗かせ始めている。

 

穏やかな春の陽気。どこか浮き足立った、甘く緩やかな空気。

 

しかしメディアと世間の温度は、それとは裏腹に沸騰していた。

 

 

 

――Trainer: Ayahara

 

 

 

俺はトレーナー室で、デスクに積み上げられたスポーツ新聞や雑誌の山を眺めていた。ため息が出る。

 

『仁川に走る、懐かしき衝撃。遺伝子が描くマイルの軌跡』

『「閃光」の系譜、ここに極まる。桜の舞台で見る夢の続き』

『抗えぬ血の宿命。天才少女が魅せた、必然の加速』

 

ほんの数週間前まで「無謀な挑戦」「スプリンターの迷走」と書き立てていた同じメディアが、今は手のひらを返して絶賛の嵐を巻き起こしている。

 

チューリップ賞での勝利。ウオッカとダイワスカーレットをねじ伏せた事実は、それほど衝撃的だった。1600メートルの壁を、モエは技術と執念でねじ伏せた。

 

カレンモエというアスリートが勝ち取った勲章。

 

それなのに、記事の行間から滲み出ているのは、彼女への純粋な敬意ではない。

 

「……結局、そこに戻るのか」

 

俺は呟いた。どの記事も、結びの言葉は判で押したように同じだ。

 

『やはり、血は争えない』

『あの日の伝説が、娘の姿を借りて蘇る』

 

モエが泥まみれで掴み取った勝利も、彼女自身の葛藤も、すべて「偉大な血統の物語」という美しい包装紙で包まれて消費されている。

 

この熱狂は、応援ではない。「自分たちの見たい物語」をモエに押し付けているだけの圧力だ。

 

(本人は、どう思っているんだろうな)

 

コーヒーを啜り、窓の外を見た。

 

春の嵐の予感が、空気を重く湿らせている。

 

 

 

 

 

 

――The Red Ace: Daiwa Scarlet

 

 

 

4月上旬。桜花賞を目前に控えた都内のホテル。大広間で行われているのは、有力出走ウマ娘たちの共同記者会見だった。

 

無数のフラッシュ。焚かれるライトの熱気。詰めかけた報道陣は、昨年の有記念に匹敵する数だという。シャッター音が、絶え間ない雨音のように会場を満たしている。

 

長テーブルを囲むように、6人のウマ娘が座っている。阪神JFを制したウオッカ。マイル路線で不気味な存在感を放つアストンマーチャン。トライアルを勝ち上がってきた他の有力勢。

 

そしてアタシ、ダイワスカーレット。

 

最後に、カレンモエ。

 

アタシは苛立ちを隠さずに脚を組んでいた。コツ、コツ、コツ。テーブルの下で、ヒールの爪先が床を叩く音が、自分の心拍とリンクしている。

 

(……不愉快ね)

 

会場の空気を見渡した。

 

おかしいでしょう?

 

確かにアタシにはマイルGⅠのタイトルはない。阪神JFは回避したから。その点では、隣でふてぶてしい顔をしているウオッカが、実績としては最上位にいるはずだ。あるいは、ホープフルSという中距離のGⅠを制し、最強を証明して帰ってきたアタシが注目されるのも道理。

 

それなのに。

 

記者の視線とマイクは、ウオッカでもアタシでもなく、モエに集中している。

 

「カレンモエ選手、チューリップ賞での勝利、鮮烈でした。あのゴール前の爆発的な加速、オールドファンからすれば、かつて短距離界を席巻した『閃光』の再来を見たような——そんな懐かしさすら覚えましたが、ご自身の感覚としてはいかがでしたか?」

 

「これまでのマイル挑戦を『確認作業』と仰っていましたが、手応えは掴めましたか? 偉大なるご家族にとっても悲願となるクラシック制覇、多くのファンが、貴女の走りに『夢の続き』を重ねているようですが」

 

「お母様は圧倒的な愛嬌でファンを魅了されましたが、貴女の走りは非常にクールで、鋭い。その底知れぬカリスマ性は、やはり血のなせる(わざ)というか、逃れられない『系譜』を感じてしまいますね」

 

質問のすべてが、丁寧な言葉でオブラートに包まれている。

 

「お母さんに似ていますね」とは言わない。「ファンが夢を重ねている」「系譜を感じる」。そうやって、外堀を埋めるように「カレンチャンの物語」の中にモエを閉じ込めようとしている。

 

連中が聞きたいのは、モエの戦術でもコンディションでもない。「偉大な母の血が騒ぎました」という、見出しに使いやすい肯定の言葉だけ。

 

(……薄っぺらいのよ、アンタたち)

 

アタシはマイクスタンドを握りしめた。

 

苛立っているのは、自分が無視されているからじゃない。それも少しはあるけど、もっと根本的な部分だ。

 

目の前にいる「カレンモエ」というアスリートに対する、敬意の欠如。

 

スプリントを捨て、苦痛を飲み込んでマイルに対応した覚悟。「個」としての努力を見ようともせず、安易な「二世物語」に落とし込もうとする空気。

 

それが、同じ時代を走るライバルとして、許せなかった。

 

アタシが倒したいのは、過去の亡霊の操り人形じゃない。今ここで息をしている、最強の敵だ。

 

記者が、ついでとばかりにアタシに話を振った。

 

「えー、ダイワスカーレット選手。貴女はホープフルSの覇者として、そんなドラマチックな才能と戦うわけですが——やはり、特別な意識などはありますか?」

 

カチン、と。脳内で何かが弾ける音がした。

 

アタシはマイクを乱暴に引き寄せた。スピーカーがキィンと不快なハウリングを起こし、会場が静まり返る。

 

氷のような視線で記者を射抜いた。

 

「……訂正しなさい」

 

「え?」

 

「アタシが戦うのは、カレンモエよ。過去の亡霊なんか、眼中にないわ」

 

記者がたじろぐ。アタシは止まらなかった。

 

「ドラマチック? 笑わせないでよ。あの子の走りを見たことがあるなら分かるはずでしょ。あの子の武器は、母親とは全く違う。泥臭くて強引な執念よ。それを『再来』だの『ドラマ』だの一言で片付けるなんて、貴方たちの目は節穴かしら」

 

会場を見渡した。凛とした声で告げる。

 

「アタシが見ているのは、彼女の実力だけ。外野が勝手に物語を作らないでくれる? 目障りよ」

 

マイクを置いた。力の加減が上手くいかず、ドン、という鈍い音が会場の空気を凍らせる。

 

隣のモエが、わずかに目を見開いてこちらを見たのが分かった。

 

(感謝なんていらないわよ。これはアタシのプライドの問題だから)

 

アタシは腕を組み、ふんぞり返った。ざわつく会場。もう、誰の顔も見ていなかった。

 

 

 

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

共同記者会見の会場。スカーレットの発言で、空気が一変していた。記者たちはバツが悪そうに顔を見合わせ、咳払いをしている。

 

私は、隣に座る赤いリボンの子を横目で見た。怒っている。私のためじゃない。彼女自身が、真剣勝負の場を汚されたと感じたから。

 

その不器用な潔癖さが、今の私には眩しかった。

 

(ありがと、スカーレット)

 

心の中で呟いた。彼女が空気を壊してくれたおかげで、少しだけ呼吸が楽になった気がした。

 

「では、改めてカレンモエ選手」

 

気を取り直した記者が、質問を投げてくる。今度は少しだけ慎重な口調で。

 

「ライバルのダイワスカーレット選手からは、このような発言がありましたが——貴女自身は、今回の桜花賞、どういったお気持ちで臨まれますか?」

 

マイクを握る。冷たい金属の感触。無数のレンズが、私の一挙手一投足を見逃すまいと狙っている。一つ一つが、銃口のように見えた。

 

以前の私なら、ここで怒っていた。「ママの話ばっかりするな」と噛み付いていたかもしれない。あるいは、プレッシャーに押しつぶされて言葉を詰まらせていたかもしれない。

 

今は違う。タキオンさんの調整と、トレーナーとの再契約。それらが、私の中に一本の芯を通している。

 

表情筋を動かさず、淡々と答えた。

 

「……何度も申し上げていますが、母は関係ありません」

 

声が会場に響く。透き通った、感情の乗らない声。自分でも驚くほど、心が凪いでいた。

 

「私は、私の走りで勝つだけです。誰かのためでも、何かの証明のためでもなく。ただ、一番速くゴール板を駆け抜ける。それだけを考えています」

 

嘘ではない。今の私は、余計な感情を削ぎ落として、走る機能だけに特化しようとしている。そうしなければ、1600メートルという距離は走り切れない。

 

怒りも、喜びも、焦りも、全部「スタミナを浪費するノイズ」でしかない。

 

「……なるほど。クールですね」

「さすが大物だ。母とは違うカリスマ性を感じる」

 

記者たちが、感心したようにメモを取る。シャッター音が激しくなる。

 

(——ああ、やっぱり)

 

内心で舌打ちをした。通じていない。

 

私が「母は関係ない」と言えば言うほど、連中はそれを「偉大な母を持った娘の、クールな自立心」という新しい物語に変換して消費する。「母とは違うカリスマ」という言葉自体が、結局は母との比較でしかないことに、気づいていない。

 

(——無駄だ)

 

言葉は届かない。

 

どれだけ叫んでも、この「カレンチャン」という巨大なフィルターは、私の実像を歪めて世界に伝える。透明な箱の中に閉じ込められているみたいだ。

 

徒労感が、胸の奥に沈殿していく。マイクを置いて、視線を落とした。

 

もう、何も話すことはない。私の言葉は、ターフの上でしか証明できない。

 

 

 

会見終了後。舞台袖の薄暗い廊下で、私はスカーレットと並んで歩いていた。

 

「……やりにくいわね、アンタの周りは」

 

スカーレットが前を向いたまま言った。

 

「ごめん。なんか、変な空気にさせちゃって」

 

「別に謝らなくていいわよ。アタシは言いたいことを言っただけだし」

 

フン、と鼻を鳴らした。それから、少しだけ声を和らげた。

 

「アンタも、あんな連中の言うことなんて、いちいち気にすることないわよ。アンタが一番嫌がってるってことくらい、アタシたちは分かってるから」

 

「……スカーレット」

 

不器用なフォロー。今の私には何よりも温かかった。

 

「ありがと。あとさ」

 

「ん?」

 

「アンタがあいつらを黙らせた時、ちょっとスカッとした」

 

「でしょ?」

 

スカーレットが、ニカっと笑った。パドックで見せる「女王」の顔ではなく、ただの同級生の顔。

 

すぐに表情は引き締まる。

 

「でも、レースになれば関係ないから」

 

「うん。分かってる」

 

「その雑音ごと、アタシが吹き飛ばしてあげる。覚悟しなさいよ」

 

「返り討ちにしてあげる」

 

私たちは拳を軽く合わせ、それぞれの控室へ分かれた。

 

彼女の足音は、力強く、迷いがなかった。

 

私も、そうありたいと思った。

 

 

 

 

 

 

――Trainer: Ayahara

 

 

 

翌日。学園内のコンビニで買ったスポーツ新聞を、トレーナー室で広げていた。

 

一面の見出し。

 

『仁川に蘇る閃光! 伝説の継承者、戴冠へ死角なし!』

『ライバル・スカーレットも警戒!「彼女は本物」』

『母が見た夢の続きを。運命のゲートが開く』

 

「……ひどいな、こりゃ」

 

俺は頭を抱えた。

 

昨日の会見でのモエの否定も、スカーレットの激辣なコメントも、すべて都合よく編集されている。「ライバル対決を盛り上げるためのマイクパフォーマンス」として処理され、結局は「カレンチャンの娘すごい」という文脈に回収されている。

 

メディアにとって真実なんてどうでもいい。「売れる物語」があればいい。

 

ネットニュースのコメント欄も期待一色だ。「絶対勝てる」「魂を賭ける」「カレンチャンの夢が叶う瞬間が見たい」。スタミナ問題や精神的な脆さへの懸念は、ほとんどない。

 

「勝って当たり前」という空気が、既成事実のように醸成されている。

 

学園内も同様だった。今朝、モエが登校してきた時、廊下の空気が変わったのを俺は見た。

 

「モエちゃん、頑張って!」

「応援してるよ!」

「日曜日、見に行くからね!」

 

クラスメイトや、他クラスのウマ娘たちが、無邪気に声をかける。あの頃のような好奇心ではない。純粋な期待と善意だ。本気で応援しているし、勝つと信じている。

 

俺は気づいてしまった。

 

その善意のほとんどが、「あの『閃光』が勝つところを見たい」という、無自覚な願望に基づいている。

 

モエは声援に笑顔で応じていた。「ありがとう」「頑張るね」と。一見すれば、プレッシャーを力に変えているように見えるかもしれない。

 

俺には分かる。

 

あの笑顔は仮面だ。口角の角度も、目の細め方も、完璧に計算された「笑顔」。内心では、吐き気を催すほどの息苦しさを感じているはずだ。

 

この空気は危険だ。

 

会場全体、いや、日本中が「カレンモエ=カレンチャン」というフィルターでモエを見る準備を整えている。それは、レース中に「私は私だ」と自我を保つための労力を、著しく増大させる重力となる。

 

もしレース中に何かが起きたら。期待が裏切られた時、あるいは「期待通り」の幻影を見せつけられた時。あいつの心は、耐えられるのか。

 

張り詰めた糸は、切れる時は一瞬だ。

 

俺は新聞をゴミ箱に放り込んだ。

 

嫌な予感が、背中にへばりついて離れない。

 

 

 

 

 

 

――The Alchemist: Agnes Tachyon

 

 

 

放課後。理科準備室の薄暗い照明の下で、モニターの数値が規則的に明滅している。ビーカーの中で煮える薬液の音が、時計の針のように響く。

 

ランニングマシンで調整を行うカレンモエ君。走りは機械のように精緻で、乱れがない。着地音、呼吸のリズム、筋肉の収縮。すべてが、完璧なシンフォニーを奏でている。

 

「……ふむ」

 

私は手元のタブレットで、リアルタイムの生体データを確認した。

 

心拍数、安定。血中乳酸濃度、理想的な推移。フォームの軸、ブレなし。

 

すべての数値が、我々が設定した理論値に到達している。チューリップ賞の時よりも、さらに研ぎ澄まされている。生物学的な限界ギリギリで、彼女はバランスを保っている。

 

「……完璧だ」

 

独りごちた。

 

「肉体に関しては、これ以上の調整は必要ない。1600mを走り切るための最適解に到達している。生物学的にはね」

 

モエ君がマシンを止め、タオルで汗を拭いながら降りてくる。息はほとんど上がっていない。表情も、涼しいまま。

 

「どう? タキオンさん」

 

「申し分ないよ。君の肉体は、現時点で完成された芸術品だ」

 

「そっか。なら、勝てるね」

 

短くそう言うと、シャワーを浴びに奥の部屋へ消えていった。背中は、自信に満ちているように見える。迷いも、恐怖も削ぎ落としたような背中。

 

——ふむ。

 

「……トレーナーくん」

 

部屋の隅でデータを見ていた彼に声をかけた。

 

「はい?」

 

「君にはどう見える? 彼女の状態は」

 

「絶好調に見えます。過去最高に仕上がっていると」

 

「そうだね。肉体はね」

 

私は試験管を手に取り、中の液体を光にかざした。透明な液体に、一滴の黒いインクを垂らす。インクはゆらりと広がり、透明だった世界を、ゆっくりと、しかし確実に濁らせていく。

 

「完璧な機械ほど、一粒の砂で壊れるものだよ」

 

「……え?」

 

「彼女の今の集中力は、異常だ」

 

タブレットの画面を切り替え、脳波のデータをトレーナー君に見せた。

 

「見てみたまえ。感情の起伏を示す波形が、極端に平坦だ。リラックスしている時の波形とも違う。これは——『無』だ。彼女は今、外部からのノイズを『無視』(シャットアウト)することで対処している」

 

「シャットアウト……?」

 

「精神の防御壁を極限まで高くして、内側に籠もることで、あの異常な集中力(ゾーン)を維持している。怒りも、喜びも、恐怖も。すべてを『不要なデータ』として処理し、廃棄している」

 

「それは……悪いことなんですか? レースに集中できているなら……」

 

「平時ならね。これは『脆さ』と表裏一体だ」

 

私はトレーナー君の目を真っ直ぐ見た。彼も薄々感づいているはずだ。彼女の笑顔の不自然さに。

 

「彼女は今、外界との接続を絶っている。言わば、潜水艦のハッチを閉じて、深海に潜っている状態だ。もしそのハッチを、外側から無理やりこじ開けられたらどうなると思う?」

 

「……っ」

 

「深海の水圧が一気に流れ込み、船体は一瞬で圧壊する」

 

言葉を重ねる。

 

「あるいは、限界を超えてフル回転している超高速の精密機械に、外部から不用意に『メンテナンスのための強制停止コード』が入力されたら? コードそのものはよくあるものさ、害はない。だが、安全に停止なんてしないよ。行き場を失った運動エネルギーが内部で暴走し、内側から破裂(バースト)する」

 

トレーナー君の顔色が青ざめる。想像力は、正しい。

 

「彼女は今、爆弾を抱えて走っているようなものさ。厄介なことに、起爆スイッチは、彼女の外側にある」

 

「そ、そんな……」

 

「気をつけ給え」

 

私は、黒く濁った試験管をホルダーに戻した。

 

「システムは一瞬で暴走、あるいは停止するだろうね。スイッチが押されさえすれば」

 

科学者としてできることは、肉体を仕上げることまで。心という不確定要素までは、数式で守れない。特に、彼女のように繊細で、歪な形をした心は。

 

あとは、祈るしかない。

 

そのスイッチが、押されないことを。

 

 

 

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

 

 

夜。学園の寮。消灯時間を過ぎた部屋は、深い静寂に包まれていた。

 

私はベッドに横たわり、天井のシミを見つめていた。眠れないわけじゃない。明日のレースのイメージトレーニングを繰り返しているだけ。スタートからゴールまで、1分33秒のシミュレーション。何十回、何百回と繰り返す。

 

体は軽い。不安はない。

 

バレンタインの夜、絢原さんと誓い合った言葉が、私を支えている。「俺が見ているのは、君だ」。あの言葉があれば、私はどこまでも走れる。あの温かい、ビターチョコレートの味を思い出す。

 

「……起きてますか?」

 

不意に、隣のベッドから声がした。同室のアストンマーチャン。

 

「うん。起きてる」

 

「明日は、いよいよ本番ですね」

 

「そうだね」

 

少しの間、沈黙が流れた。マーチャンは、普段は飄々としていて何を考えているか分からないけど、時々、心臓を直接掴むような鋭いことを言う。

 

「モエちゃん」

 

珍しく真面目な声色で言った。

 

「明日のレース、貴女は『誰』として走りますか?」

 

「……は?」

 

私は寝返りを打って、彼女の方を見た。暗がりで表情はよく見えないけど、目は真っ直ぐに私を見ていた。レンズのように、感情のない瞳。

 

「何それ。私として走るに決まってるでしょ。カレンモエとして」

 

「そうですか。なら、いいんです」

 

マーチャンは、ふっと力を抜いたように呟いた。

 

「ただ、気をつけてください。世界は、貴女をそう見ていないかもしれません」

 

「え?」

 

「カメラのレンズは、見たいものしか映しませんから」

 

詩的で、難解な言葉。でも、どこか警告めいて聞こえた。背筋が、少しだけ寒くなる。

 

「どういう意味?」

 

「いいえ。ただの独り言です。おやすみなさい、モエちゃん。いい夢を」

 

マーちゃんは布団を被り、背を向けた。

 

私はしばらくその背中を見つめていたけど、やがて考えるのをやめた。今は、余計なことを考えたくない。明日のレースに集中しなきゃ。雑音は、すべてシャットアウトする。

 

「私は、カレンモエだ」

 

お守りのように、言葉を繰り返す。

 

私は強い。スカーレットにも勝った。ウオッカも抑えた。絢原さんも信じてくれている。大丈夫。何も怖くない。

 

目を閉じ、意識を深い場所へと沈めた。

 

明日、私が立つ場所が、祝福のステージではなく、断頭台になるとも知らずに。

 

 

 

 

 

 

――Trainer: Ayahara

 

 

 

桜花賞当日。朝から、雲ひとつない快晴だった。青空が広がり、満開の桜が風に揺れている。最高のレース日和。

 

控室で、最後のミーティングを終える。輸送バスへの集合時間はもうすぐだ。

 

「行くよ、トレーナー」

 

ジャージ姿のモエが、俺に向かって微笑んだ。研ぎ澄まされた刃物のように整った表情。迷いも、恐怖も見えない。最高のコンディション。トレーナーとして、これ以上ない仕事をしたという自負がある。

 

だが。

 

「……ああ、行こう」

 

俺が返した笑顔は、少し引きつっていたかもしれない。

 

モエの笑顔が、少しだけ「作られた完璧さ」に見えた気がした。昨夜のタキオンの言葉が、脳裏をよぎる。

 

『厄介なことに、起爆スイッチは、彼女の外側にある』

 

「……トレーナー?」

 

モエが不思議そうに首を傾げる。

 

「いや、なんでもない。信じてるぞ」

 

「うん。見てて」

 

軽く手を振り、部屋を出ていった。足取りは軽やかで、どこにも不安がないように見える。

 

その背中を見送りながら、俺は心の中で祈った。

 

(頼む)

 

(勝たなくていい。いや、勝ってほしいが、それ以上に)

 

(あいつの心が、壊れませんように)

 

その祈りが、どれほど無力なものかを知る由もなく。

 

 

 

場面は変わり、阪神レース場の大歓声。ゲートに向かう18人の少女たち。

 

圧倒的1番人気。誰もが彼女の勝利を疑わない空気。「伝説の継承」を信じて疑わない、無邪気な熱狂。

 

その熱狂が、彼女を支える土台なのか、それとも彼女を押し潰す巨大な墓標なのか。

 

運命のファンファーレが、高らかに鳴り響こうとしていた。




誤字報告、評価や、感想、ここすきなど、よろしくお願いいたします。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。