アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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27話 砂の城

 

4月上旬。

 

兵庫県宝塚市、阪神レース場。六甲山系から吹き下ろす風は、冬の冷気を完全に振り払って、春の温もりと湿り気を帯びていた。

 

空は、突き抜けるような快晴。太陽の光が、丁寧に整備された緑のターフを鮮やかに照らし出している。

 

レース場内の七百五十本もの桜は、満開の時を迎えていた。穏やかな風に乗って、薄紅色の花弁がチラチラと舞い落ち、緑のターフに儚い彩りを添えている。

 

美しく、そして残酷な舞台装置。

 

GⅠ・桜花賞。クラシック・ティアラ路線の第一戦にして、最も華やかで、最も過酷なスピード勝負の聖地。三強が集い、ティアラの第一冠を奪い合うこのレースに、今年は歴史的な注目が集まっていた。

 

地下の待機場。地上の喧騒から隔絶された、静謐な準備の場。厚いコンクリートの天井に遮られて、本来なら静寂が支配するはずの空間。

 

今日は違った。

 

得体の知れない重低音が響き続けている。ズズズズズ、という地鳴りのような振動。数万人の観衆の熱気と興奮した足踏みが作り出す、物理的なノイズ。

 

張り詰めた空気の中、十八人の出走ウマ娘が最後の点検を行っている。蹄鉄のチェック、勝負服の微調整、靴紐の締め直し。スタッフの声も、どこか硬い。誰もが押し黙り、自分の世界に入り込んでいる。

 

——その空気は、例年のGⅠとは決定的に異質だった。

 

本来あるべき「誰が勝つか分からない」というヒリヒリした緊張感。アスリートが火花を散らす、殺伐とした空気。それが、ここにはない。

 

代わりにあるのは、一種異様な祝祭感だ。「ある少女が伝説を継承する儀式」を見に来た、信者たちの集会場のような、盲目的で陶酔的な期待。

 

スタッフ、警備員、メディア。その場にいる関係者全員が、どこか浮き足立っていた。「歴史的瞬間に立ち会えるかもしれない」という興奮に酔っている。視線の先にあるのは、たった一人。

 

その歪な空気を、一人の少女が冷徹に観察していた。

 

――Recorder: Aston Machan

 

カシャッ。

 

心のシャッターを切る音が、マーちゃんの脳内で静かに響きました。

 

地下の待機場。湿った春の空気と、人々の熱気。そこに混じる、微かな何かの匂い。

 

——ふふ。これは「狂気」の匂いですね。

 

マーちゃんは、自分の靴紐を丁寧に結び直しながら、周囲のすべてを意識のフィルム(シャッター)に焼き付けていきます。

 

今日の被写体は、極上です。

 

スポーツとしての勝敗に、緊張感が薄い。ここにいる多くの人は、これから始まるレースを「競争」だと思っていません。結果が決まっている映画を見に来た観客のように、主役が勝つことを信じて疑わない目をしています。

 

「どう勝つか」「どんなドラマを見せてくれるか」だけを楽しみにしている、無垢で残酷な観客たち。

 

ふふ。

 

予定調和を信じる眼差しというのは、こんなにも酷いものなのですね。

 

マーちゃんの視線の先。待機場の隅に、その「主役」が立っていました。

 

漆黒の勝負服。壁に向かって立ち、大きなヘッドホンで耳を塞いだ、カレンモエさん。

 

視線は床の一点に固定され、微動だにしません。外界からの情報を、物理的に遮断している。

 

周囲のスタッフでさえ、声をかけられずにいます。触れたら壊れる硝子細工に近づくような遠慮。隠しきれない好奇の眼差し。「あの子がカレンチャンの娘です」「今日、伝説が生まれる」というひそひそ話が、聞こえないはずの背中に降り注いでいます。

 

(……綺麗ですね)

 

マーちゃんは思いました。

 

光のない部屋に、たった一輪の花が立っている。誰の声も届かない硝子の繭の中で、息を殺して、燃え尽きないように内側の小さな火を守っている——そんな絵。

 

肩が、呼吸に合わせて小さく上下しています。あまりにも規則的すぎて、生き物の揺らぎが感じられません。精巧に作られた機械仕掛けの人形のよう。

 

ふふ。

 

世界中が貴女を愛しているのに、貴女は世界を拒絶しなければ立っていられない。何万もの「愛」と「期待」を、たった一人で背負って。

 

それは、絵になりますね。

 

走ることが「自分を表現すること」だと思っているマーちゃんには、自分の本能を鎖で縛り上げて、血を流しながら耐えるその姿は、不思議で、悲しくて、それでいて、とても美しい。

 

(これほど残酷な「主役」が、かつていたでしょうか)

 

マーちゃんはファインダー(視界)にモエちゃんを収めました。

 

この歪な舞台装置の中で、貴女がどう舞い、どう散るのか。あるいは、すべてをねじ伏せて「個」を証明するのか。

 

しっかりと、見届けさせていただきます。

 

それが、記録者の——いえ、友達の務めですから。

 

 

――The Red Ace: Daiwa Scarlet

 

パドックへの入場。地下から地上へ続くスロープを上りきり、ゲートをくぐった瞬間。

 

視界が、真っ白に染まった。

 

バシャシャシャシャッ!

 

一斉に焚かれる無数のフラッシュ。光量は、真夏の太陽を直視した時のように強烈だ。鼓膜を物理的に叩く、地鳴りのような大歓声。スタンドを埋め尽くす人の波。

 

(……よし)

 

アタシは、胸を張ってターフを踏みしめた。

 

ダイワスカーレット。昨年末のホープフルステークスを制し、中距離の頂点に立った最強のウマ娘。一分の隙もない、究極の仕上がり。

 

(見なさい。アタシが「一番」よ)

 

自信満々に、観客席を見渡した。栗毛のツインテールが風に揺れ、頭上のティアラが太陽光を反射して輝く。さあ、アタシを称えなさい。アタシに熱狂しなさい。今日、ここで一番強いのは誰なのか、その目で確かめなさい。

 

——けれど。

 

(……やっぱりね)

 

内心で舌打ちした。期待はしていなかったけど、現実は予想以上に不愉快だった。

 

観客の反応が鈍い。アタシを見ている目はある。視線の八割、カメラのレンズの九割が、アタシを通り越して、その背後——カレンモエに注がれている。

 

「モエちゃーん!」

「カワイイー!」

「本当にそっくり!」

「頑張ってー! 勝ってー!」

 

黄色い声援。野太い声援。すべてが、彼女に向けられている。

 

予想はしていた。先日の記者会見でもそうだった。世間はいつだって、分かりやすい物語(ドラマ)に群がる。

 

「天才の娘が、母の悲願を達成する」

 

そんな手垢のついたストーリーに、彼らは熱狂している。

 

アタシの実績が評価されていないわけじゃない。専門誌や予想家の評価は高い。今の観客にとってアタシは、「モエの引き立て役」というポジションでしかない。モエが伝説を作るための、豪華で、倒しがいのある踏み台。「ダイワスカーレットを倒したカレンモエ」という見出しを作るための、舞台装置。

 

(……気持ち悪い)

 

吐き気がした。嫉妬じゃない。断じて、人気がないことへの嫉妬なんかじゃない。

 

目の前にいる「カレンモエ」というアスリートに対する、敬意の欠如への苛立ちだ。

 

スプリントを捨てた覚悟。身を削って、マイルに対応する肉体を作ってきた努力。その「個」を、誰も見ようとしていない。「カレンチャンの娘だから凄い」「血統だから速い」と、思考停止して消費しているだけ。

 

ライバルであるアタシにとっても、同じ競技者として侮辱に等しい。真剣勝負の場を、アイドルコンサートか何かと勘違いしているんじゃないの?

 

アタシは、あえて観客席の近くを歩いた。フェンス際ぎりぎりまで寄る。驚いた観客が、一瞬だけこちらを見る。その目を、強烈な眼光で射抜いてやる。

 

(アタシを見なさい。そして、あの子を見なさい)

 

心の中で叫ぶ。

 

(アンタたちが追ってる亡霊なんて、ここにはいない。ここにいるのは、アタシと、カレンモエだけ)

 

このふざけた茶番。浮ついた空気。全部、アタシの実力でぶっ壊してやる。

 

レースが終わった後、アンタたちが誰の名前を叫んでいるか、楽しみにしていなさい。

 

その能天気な笑顔を、驚愕と絶望で塗り替えてやる。

 

 

――Hero: Vodka

 

(へっ、完全アウェイだな。上等じゃねえか)

 

オレは、スカーレットのピリついた空気と、会場の異様なモエ推しムードを肌で感じていた。阪神JF覇者である自分が、ここでは完全に脇役扱い。ポスターでもPVでも、主役はいつだってカレンモエだ。

 

逆境は燃料だ。人気がないなら、ひっくり返した時の快感が大きくなるだけ。全員の予想を裏切って、一番高いところに立つ。それが一番カッコいい勝ち方だ。

 

(お前ら全員、後で掌返させてやるよ)

 

ニヤリと笑い、前を見る。漆黒の勝負服を着たカレンモエが歩いていた。

 

(……ん?)

 

違和感を覚えた。モエの様子がおかしい。

 

チューリップ賞の時は、鋭いナイフのようだった。触れれば切れるような殺気を放ち、ギラギラとした目で周りを威圧していた。「勝ってやる」「証明してやる」という、熱いエゴが全身から溢れていた。

 

今は。

 

(……張り詰めすぎて、切れそうな糸みたいだ)

 

観客の声援に一切反応しない。視線を一点に固定して、機械的に歩き続けている。瞬きすら少ない。集中しているというより、現実感を喪失しているように見える。自分の殻に閉じこもって、外の世界を拒絶しているような。

 

(おい、モエ。魂、どっか行ってんぞ?)

 

オレは、モエの背中に向かって心の中で呼びかける。

 

(大丈夫か、アイツ。これから始まるのは、オレたちが待ち望んだ最高の喧嘩だっつーのに)

 

楽しんでいない。熱くなっていない。ただ「耐えている」だけの親友の姿に、得体の知れない不安を覚えた。

 

この大観衆、この熱気。本来なら、アスリートとして武者震いする最高のシチュエーションだ。なのに、あいつだけは、たった一人で夜道を歩くように、青ざめた顔で歩いている。

 

(頼むから、レースが終わるまで持ってくれよ)

 

その背中は、あまりにも小さく、危うげに見えた。触れたら崩れ落ちてしまいそうな、砂の城のように。

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

パドックから地下バ道へ。暗いトンネルの中を歩く。隣にはトレーナーがいる。

 

「……大丈夫か?」

 

絢原さんが心配そうに声をかけてくる。声が、水の中を通したようにこもって聞こえる。

 

「うん。タキオンさんの調整は完璧。体は軽い。すごく、軽い」

 

言葉は強気だけど、声に実体がない。自分の声が、どこか遠くから聞こえてくるような感覚。手足の感覚も希薄。自分という乗り物を、遠隔操作しているみたいだ。心臓の音だけが、耳元でうるさいほど鳴り響いている。

 

「じゃあ、レースの後でね」

 

絢原さんと別れる。

 

光が見える。ターフへの出口。

 

眩しい光の中に踏み出した瞬間。

 

『一番人気、桜の女王へ! 伝説の継承者、カレンモエ!!』

 

実況のアナウンスとともに、世界が揺れるほどの大歓声が降ってきた。

 

「モエちゃーん!」

「がんばれー!」

「夢を見せてー!」

「カレンチャーン!!」

 

声援の一つ一つが、物理的な質量を持って私を叩く。岩石のように降り注ぐ「期待」。

 

以前なら怒っていた。「私は私だ!」「ママの名前を呼ぶな!」と反発できていた。怒りをエネルギーに変えることができた。

 

今は、怒りすら湧かない。

 

感情を持つことすら、今の私にはリスクになる。少しでも心が揺れれば、タキオンさんと作り上げた呼吸のリズムが崩れてしまう。

 

(聞こえない。私は、私だ。私は、走る機能だ)

 

心の中で呪文を唱える。タキオンさんの教え。自我を殻に閉じ込め、ノイズをシャットアウトする。そうしなければ、この巨大な重圧に押しつぶされてしまうから。

 

私は今、一人のウマ娘であることを辞めなければならない。

 

それは集中(ゾーン)というより、解離(現実逃避)に近い。世界が、遠いガラスの向こう側にあるように感じる。歓声も、風の音も、すべてがBGMのように現実感がない。

 

フラッシュが焚かれる。眩しい。何も見えない。

 

私が見ているのは、自分の内側にある、小さな炎だけ。それを消さないように、必死で守っている。

 

早く。早く、走らせて。

 

走っている間だけは、私は私でいられるから。

 

思考を止めて、ただ前へ進むだけの弾丸になりたい。

 

 

――Trainer: Ayahara

 

俺はスタンドに戻って、双眼鏡でモエを追っていた。手汗で双眼鏡が滑りそうだ。

 

レンズ越しに見る表情。能面のように硬い。以前の「意志の強い顔」じゃない。「何も感じないようにしている顔」だ。感情のスイッチを切り、ただのシステムとして振る舞おうとしている。

 

(……入り込みすぎている)

 

背筋に冷たいものが走る。タキオンの警告が、脳裏でリフレインする。

 

『厄介なことに、起爆スイッチは、彼女の外側にある』

 

完璧な集中状態に見えるが、それは「想定内の事態」にしか対応できない脆さを孕んでいる。今のモエは、外部からの干渉を一切受け付けない設定になっている。

 

もし、想定外の何かが起きたら? もし、彼女の心の殻を直接叩くような言葉が、防御壁をすり抜けて届いてしまったら?

 

精神は、風船のように破裂するかもしれない。

 

「頼む、無事に。自分の走りを」

 

俺は、祈るように手を組んだ。勝利を願うよりも先に、彼女の心が壊れないことを祈ってしまう。そんな弱気なトレーナーでどうする、と自分を叱咤する。それでも、不安は消えない。

 

この異様な熱気が、モエを追い詰めている元凶だと分かっているからだ。

 

ゲートに向かう十八人の少女たち。桜の花びらが風に舞い、一瞬、視界を覆う。

 

その美しさが、これから始まる悲劇の幕開けを告げるかのように、不吉に舞っていた。

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

ゲートの中。狭い鉄の箱。ここだけは、誰の声も届かない聖域だ。ようやく、息ができる気がする。

 

隣の枠にはウオッカがいるはずだけど、今は気配すら感じない。自分の心臓の音だけが、ドラムのように響いている。

 

ドクン、ドクン、ドクン。

 

「私は、カレンモエだ」

 

呪文のように唱える。自分自身を繋ぎ止めるために。

 

勝てば、すべてが変わる。このノイズも、比較も、すべてねじ伏せられる。「カレンモエ」という名前を、世界に認めさせることができる。

 

あと1600メートル。たったの九十秒強。それだけで、私の人生は私のものになる。

 

ママの影を振り払うには、今日、ここで勝つしかない。

 

スターターが台に上がる気配がした。一瞬の静寂。世界が止まる。

 

そして。

 

ガシャン!!

 

ゲートが開く金属音が、静寂を切り裂く。

 

運命のスタート。

 

桜花賞が、はじまる。




桜花賞、出走。

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