4月上旬。
兵庫県宝塚市、阪神レース場。六甲山系から吹き下ろす風は、冬の冷気を完全に振り払って、春の温もりと湿り気を帯びていた。
空は、突き抜けるような快晴。太陽の光が、丁寧に整備された緑のターフを鮮やかに照らし出している。
レース場内の七百五十本もの桜は、満開の時を迎えていた。穏やかな風に乗って、薄紅色の花弁がチラチラと舞い落ち、緑のターフに儚い彩りを添えている。
美しく、そして残酷な舞台装置。
GⅠ・桜花賞。クラシック・ティアラ路線の第一戦にして、最も華やかで、最も過酷なスピード勝負の聖地。三強が集い、ティアラの第一冠を奪い合うこのレースに、今年は歴史的な注目が集まっていた。
地下の待機場。地上の喧騒から隔絶された、静謐な準備の場。厚いコンクリートの天井に遮られて、本来なら静寂が支配するはずの空間。
今日は違った。
得体の知れない重低音が響き続けている。ズズズズズ、という地鳴りのような振動。数万人の観衆の熱気と興奮した足踏みが作り出す、物理的なノイズ。
張り詰めた空気の中、十八人の出走ウマ娘が最後の点検を行っている。蹄鉄のチェック、勝負服の微調整、靴紐の締め直し。スタッフの声も、どこか硬い。誰もが押し黙り、自分の世界に入り込んでいる。
——その空気は、例年のGⅠとは決定的に異質だった。
本来あるべき「誰が勝つか分からない」というヒリヒリした緊張感。アスリートが火花を散らす、殺伐とした空気。それが、ここにはない。
代わりにあるのは、一種異様な祝祭感だ。「ある少女が伝説を継承する儀式」を見に来た、信者たちの集会場のような、盲目的で陶酔的な期待。
スタッフ、警備員、メディア。その場にいる関係者全員が、どこか浮き足立っていた。「歴史的瞬間に立ち会えるかもしれない」という興奮に酔っている。視線の先にあるのは、たった一人。
その歪な空気を、一人の少女が冷徹に観察していた。
――Recorder: Aston Machan
カシャッ。
心のシャッターを切る音が、マーちゃんの脳内で静かに響きました。
地下の待機場。湿った春の空気と、人々の熱気。そこに混じる、微かな何かの匂い。
——ふふ。これは「狂気」の匂いですね。
マーちゃんは、自分の靴紐を丁寧に結び直しながら、周囲のすべてを
今日の被写体は、極上です。
スポーツとしての勝敗に、緊張感が薄い。ここにいる多くの人は、これから始まるレースを「競争」だと思っていません。結果が決まっている映画を見に来た観客のように、主役が勝つことを信じて疑わない目をしています。
「どう勝つか」「どんなドラマを見せてくれるか」だけを楽しみにしている、無垢で残酷な観客たち。
ふふ。
予定調和を信じる眼差しというのは、こんなにも酷いものなのですね。
マーちゃんの視線の先。待機場の隅に、その「主役」が立っていました。
漆黒の勝負服。壁に向かって立ち、大きなヘッドホンで耳を塞いだ、カレンモエさん。
視線は床の一点に固定され、微動だにしません。外界からの情報を、物理的に遮断している。
周囲のスタッフでさえ、声をかけられずにいます。触れたら壊れる硝子細工に近づくような遠慮。隠しきれない好奇の眼差し。「あの子がカレンチャンの娘です」「今日、伝説が生まれる」というひそひそ話が、聞こえないはずの背中に降り注いでいます。
(……綺麗ですね)
マーちゃんは思いました。
光のない部屋に、たった一輪の花が立っている。誰の声も届かない硝子の繭の中で、息を殺して、燃え尽きないように内側の小さな火を守っている——そんな絵。
肩が、呼吸に合わせて小さく上下しています。あまりにも規則的すぎて、生き物の揺らぎが感じられません。精巧に作られた機械仕掛けの人形のよう。
ふふ。
世界中が貴女を愛しているのに、貴女は世界を拒絶しなければ立っていられない。何万もの「愛」と「期待」を、たった一人で背負って。
それは、絵になりますね。
走ることが「自分を表現すること」だと思っているマーちゃんには、自分の本能を鎖で縛り上げて、血を流しながら耐えるその姿は、不思議で、悲しくて、それでいて、とても美しい。
(これほど残酷な「主役」が、かつていたでしょうか)
マーちゃんは
この歪な舞台装置の中で、貴女がどう舞い、どう散るのか。あるいは、すべてをねじ伏せて「個」を証明するのか。
しっかりと、見届けさせていただきます。
それが、記録者の——いえ、友達の務めですから。
~
――The Red Ace: Daiwa Scarlet
パドックへの入場。地下から地上へ続くスロープを上りきり、ゲートをくぐった瞬間。
視界が、真っ白に染まった。
バシャシャシャシャッ!
一斉に焚かれる無数のフラッシュ。光量は、真夏の太陽を直視した時のように強烈だ。鼓膜を物理的に叩く、地鳴りのような大歓声。スタンドを埋め尽くす人の波。
(……よし)
アタシは、胸を張ってターフを踏みしめた。
ダイワスカーレット。昨年末のホープフルステークスを制し、中距離の頂点に立った最強のウマ娘。一分の隙もない、究極の仕上がり。
(見なさい。アタシが「一番」よ)
自信満々に、観客席を見渡した。栗毛のツインテールが風に揺れ、頭上のティアラが太陽光を反射して輝く。さあ、アタシを称えなさい。アタシに熱狂しなさい。今日、ここで一番強いのは誰なのか、その目で確かめなさい。
——けれど。
(……やっぱりね)
内心で舌打ちした。期待はしていなかったけど、現実は予想以上に不愉快だった。
観客の反応が鈍い。アタシを見ている目はある。視線の八割、カメラのレンズの九割が、アタシを通り越して、その背後——カレンモエに注がれている。
「モエちゃーん!」
「カワイイー!」
「本当にそっくり!」
「頑張ってー! 勝ってー!」
黄色い声援。野太い声援。すべてが、彼女に向けられている。
予想はしていた。先日の記者会見でもそうだった。世間はいつだって、分かりやすい
「天才の娘が、母の悲願を達成する」
そんな手垢のついたストーリーに、彼らは熱狂している。
アタシの実績が評価されていないわけじゃない。専門誌や予想家の評価は高い。今の観客にとってアタシは、「モエの引き立て役」というポジションでしかない。モエが伝説を作るための、豪華で、倒しがいのある踏み台。「ダイワスカーレットを倒したカレンモエ」という見出しを作るための、舞台装置。
(……気持ち悪い)
吐き気がした。嫉妬じゃない。断じて、人気がないことへの嫉妬なんかじゃない。
目の前にいる「カレンモエ」というアスリートに対する、敬意の欠如への苛立ちだ。
スプリントを捨てた覚悟。身を削って、マイルに対応する肉体を作ってきた努力。その「個」を、誰も見ようとしていない。「カレンチャンの娘だから凄い」「血統だから速い」と、思考停止して消費しているだけ。
ライバルであるアタシにとっても、同じ競技者として侮辱に等しい。真剣勝負の場を、アイドルコンサートか何かと勘違いしているんじゃないの?
アタシは、あえて観客席の近くを歩いた。フェンス際ぎりぎりまで寄る。驚いた観客が、一瞬だけこちらを見る。その目を、強烈な眼光で射抜いてやる。
(アタシを見なさい。そして、あの子を見なさい)
心の中で叫ぶ。
(アンタたちが追ってる亡霊なんて、ここにはいない。ここにいるのは、アタシと、カレンモエだけ)
このふざけた茶番。浮ついた空気。全部、アタシの実力でぶっ壊してやる。
レースが終わった後、アンタたちが誰の名前を叫んでいるか、楽しみにしていなさい。
その能天気な笑顔を、驚愕と絶望で塗り替えてやる。
~
――Hero: Vodka
(へっ、完全アウェイだな。上等じゃねえか)
オレは、スカーレットのピリついた空気と、会場の異様なモエ推しムードを肌で感じていた。阪神JF覇者である自分が、ここでは完全に脇役扱い。ポスターでもPVでも、主役はいつだってカレンモエだ。
逆境は燃料だ。人気がないなら、ひっくり返した時の快感が大きくなるだけ。全員の予想を裏切って、一番高いところに立つ。それが一番カッコいい勝ち方だ。
(お前ら全員、後で掌返させてやるよ)
ニヤリと笑い、前を見る。漆黒の勝負服を着たカレンモエが歩いていた。
(……ん?)
違和感を覚えた。モエの様子がおかしい。
チューリップ賞の時は、鋭いナイフのようだった。触れれば切れるような殺気を放ち、ギラギラとした目で周りを威圧していた。「勝ってやる」「証明してやる」という、熱いエゴが全身から溢れていた。
今は。
(……張り詰めすぎて、切れそうな糸みたいだ)
観客の声援に一切反応しない。視線を一点に固定して、機械的に歩き続けている。瞬きすら少ない。集中しているというより、現実感を喪失しているように見える。自分の殻に閉じこもって、外の世界を拒絶しているような。
(おい、モエ。魂、どっか行ってんぞ?)
オレは、モエの背中に向かって心の中で呼びかける。
(大丈夫か、アイツ。これから始まるのは、オレたちが待ち望んだ最高の喧嘩だっつーのに)
楽しんでいない。熱くなっていない。ただ「耐えている」だけの親友の姿に、得体の知れない不安を覚えた。
この大観衆、この熱気。本来なら、アスリートとして武者震いする最高のシチュエーションだ。なのに、あいつだけは、たった一人で夜道を歩くように、青ざめた顔で歩いている。
(頼むから、レースが終わるまで持ってくれよ)
その背中は、あまりにも小さく、危うげに見えた。触れたら崩れ落ちてしまいそうな、砂の城のように。
~
――Anti-Hero: Curren Moe
パドックから地下バ道へ。暗いトンネルの中を歩く。隣にはトレーナーがいる。
「……大丈夫か?」
絢原さんが心配そうに声をかけてくる。声が、水の中を通したようにこもって聞こえる。
「うん。タキオンさんの調整は完璧。体は軽い。すごく、軽い」
言葉は強気だけど、声に実体がない。自分の声が、どこか遠くから聞こえてくるような感覚。手足の感覚も希薄。自分という乗り物を、遠隔操作しているみたいだ。心臓の音だけが、耳元でうるさいほど鳴り響いている。
「じゃあ、レースの後でね」
絢原さんと別れる。
光が見える。ターフへの出口。
眩しい光の中に踏み出した瞬間。
『一番人気、桜の女王へ! 伝説の継承者、カレンモエ!!』
実況のアナウンスとともに、世界が揺れるほどの大歓声が降ってきた。
「モエちゃーん!」
「がんばれー!」
「夢を見せてー!」
「カレンチャーン!!」
声援の一つ一つが、物理的な質量を持って私を叩く。岩石のように降り注ぐ「期待」。
以前なら怒っていた。「私は私だ!」「ママの名前を呼ぶな!」と反発できていた。怒りをエネルギーに変えることができた。
今は、怒りすら湧かない。
感情を持つことすら、今の私にはリスクになる。少しでも心が揺れれば、タキオンさんと作り上げた呼吸のリズムが崩れてしまう。
(聞こえない。私は、私だ。私は、走る機能だ)
心の中で呪文を唱える。タキオンさんの教え。自我を殻に閉じ込め、ノイズをシャットアウトする。そうしなければ、この巨大な重圧に押しつぶされてしまうから。
私は今、一人のウマ娘であることを辞めなければならない。
それは
フラッシュが焚かれる。眩しい。何も見えない。
私が見ているのは、自分の内側にある、小さな炎だけ。それを消さないように、必死で守っている。
早く。早く、走らせて。
走っている間だけは、私は私でいられるから。
思考を止めて、ただ前へ進むだけの弾丸になりたい。
~
――Trainer: Ayahara
俺はスタンドに戻って、双眼鏡でモエを追っていた。手汗で双眼鏡が滑りそうだ。
レンズ越しに見る表情。能面のように硬い。以前の「意志の強い顔」じゃない。「何も感じないようにしている顔」だ。感情のスイッチを切り、ただのシステムとして振る舞おうとしている。
(……入り込みすぎている)
背筋に冷たいものが走る。タキオンの警告が、脳裏でリフレインする。
『厄介なことに、起爆スイッチは、彼女の外側にある』
完璧な集中状態に見えるが、それは「想定内の事態」にしか対応できない脆さを孕んでいる。今のモエは、外部からの干渉を一切受け付けない設定になっている。
もし、想定外の何かが起きたら? もし、彼女の心の殻を直接叩くような言葉が、防御壁をすり抜けて届いてしまったら?
精神は、風船のように破裂するかもしれない。
「頼む、無事に。自分の走りを」
俺は、祈るように手を組んだ。勝利を願うよりも先に、彼女の心が壊れないことを祈ってしまう。そんな弱気なトレーナーでどうする、と自分を叱咤する。それでも、不安は消えない。
この異様な熱気が、モエを追い詰めている元凶だと分かっているからだ。
ゲートに向かう十八人の少女たち。桜の花びらが風に舞い、一瞬、視界を覆う。
その美しさが、これから始まる悲劇の幕開けを告げるかのように、不吉に舞っていた。
~
――Anti-Hero: Curren Moe
ゲートの中。狭い鉄の箱。ここだけは、誰の声も届かない聖域だ。ようやく、息ができる気がする。
隣の枠にはウオッカがいるはずだけど、今は気配すら感じない。自分の心臓の音だけが、ドラムのように響いている。
ドクン、ドクン、ドクン。
「私は、カレンモエだ」
呪文のように唱える。自分自身を繋ぎ止めるために。
勝てば、すべてが変わる。このノイズも、比較も、すべてねじ伏せられる。「カレンモエ」という名前を、世界に認めさせることができる。
あと1600メートル。たったの九十秒強。それだけで、私の人生は私のものになる。
ママの影を振り払うには、今日、ここで勝つしかない。
スターターが台に上がる気配がした。一瞬の静寂。世界が止まる。
そして。
ガシャン!!
ゲートが開く金属音が、静寂を切り裂く。
運命のスタート。
桜花賞が、はじまる。
桜花賞、出走。
誤字報告、評価や、感想、ここすきなど、よろしくお願いいたします。