アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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28話 真空のランデブー (桜花賞・発走)

 

ファンファーレが鳴り止む。

その瞬間、地鳴りのようだった数万の歓声が、真空のような静寂へと吸い込まれていく。

 

春の仁川。

先ほどまで観客の目を奪っていた満開の桜並木も、舞い散る花弁も、今やただの背景ノイズに過ぎない。

 

18のゲート。

狭い鉄の檻の中に、極限まで研ぎ澄まされたエゴと才能が押し込められている。

彼女たちの視界にあるのは、美しい春の景色ではない。

ただ、目の前に伸びる緑の直線と、勝利という一点のみ。

 

呼吸を止める。  

 

筋肉が収縮する。  

 

世界が、停止する。

 

 

G1・桜花賞。

 

乙女たちの祭典は終わり、これより修羅によるスピードの殺し合いが幕を開ける。

 

スターターが台上でレバーに手をかけた。

 

一瞬の空白。

 

そして、運命の鍵が解き放たれる。

 

 

 

――Live: Announcer

 

『さあ、準備が整いました。 春の仁川、満開の桜の下。 18人の乙女たちが、一生に一度の晴れ舞台へと挑みます。 世代の頂点に立つのは、速さか、強さか、それとも執念か。

 

ゲートが開きます!

 

――スタートしました!! 18頭、一斉にきれいなスタート! 大きな出遅れはありません、まずは注目の先行争いです!』

 

『おっと! 大外18番枠から、黒い影が飛んできた! 1番人気、カレンモエだ! 凄まじいダッシュ力! 他のウマ娘が止まっているかのようなロケットスタート! 一気に内側へ切れ込んでいく! これは速い! 速すぎる!』

 

『これは逃げるか!? スプリンターの本能を解放し、ハナを奪いに行くのかカレンモエ! 場内がどよめく! 悲鳴にも似た歓声! しかし……おっと!?』

 

『行かない! 行きません! カレンモエ、抑えた! 内から主張するダイワスカーレットを行かせて、その直後! インコースの2番手にスッと収まりました! なんという判断、なんという制御! あの爆発的なスピードを、ただ「位置取り」のためだけに使いました!』

 

 

 

 

――Hero: Vodka

 

(……よし、出た!)

 

ゲートが開いた瞬間、オレは地面を強く蹴った。 タイミングは完璧。五分のスタート。 悪くない。これなら、自分のリズムでレースを運べる。 まずは周りを見て、位置取りを……。

 

そう思った矢先だった。 視界の右端、大外から黒い閃光が走った。

 

(……なッ!?)

 

反射的に目が追う。 大外、18番枠。 そこから飛び出した影が、常識外れの加速で内側へと切れ込んでくる。

 

カレンモエだ。

 

まるでフライングかのような反応速度。 地面を蹴るたびに、爆発音のような衝撃波が生まれているのではないかと錯覚するほどのパワー。 筋肉のバネが違う。一歩の回転数が違う。 同じウマ娘とは思えないほどの、圧倒的な初速。 空気が裂ける音が聞こえた気がした。

 

(速ぇ……!)

 

以前のあいつなら、このまま暴走気味にハナを奪いに行っていた。 スプリンター特有の抑えきれない本能が、彼女を前へ前へと突き動かしていたからだ。 そして、前半で使い果たし、最後には失速する。 それが、これまでのカレンモエの負けパターンであり、スプリンターがマイルに挑む際の限界だった。

 

だが。

 

今日のあいつは、違った。

 

内側の馬群を一瞬で置き去りにし、コースを鋭角に切り裂いていく。 誰も反応できないほどのスピードで、安全圏を確保したまま、インコースへと殺到する。

 

強引な斜行ではない。 他者がトップスピードに乗る前に、遥か前方を横切る、圧倒的な速度差が生んだ「安全な割り込み」。

 

そして。

 

先頭を主張するダイワスカーレットの直後。 インコースの2番手。 本来なら激しい争奪戦が繰り広げられるはずの特等席に、まるで吸い込まれるように収まったのだ。

 

トップスピードから、一瞬で急減速。 そして、何事もなかったかのように、スカーレットのリズムに同調する。 荒れ狂う暴れ馬を、指先一つで手懐けるような、神業的な制御技術。

 

(……マジかよ)

 

オレは、背筋が凍るような戦慄を覚えた。 あいつは、自分の最大の武器である速さを、ただ位置取りのためだけに使い捨てやがった。

 

スタミナを温存するためのスローな入りではない。 最初の1ハロンでレースの主導権を握り、他者を黙らせるための威嚇射撃としてのスタートダッシュ。

 

(制御できてやがる。……完全に、乗りこなしてやがる)

 

あいつの中で、何かが変わった。 迷いも、恐怖も、感情すらも削ぎ落としたような顔だ。

 

(……おい、モエ)

 

オレはニヤリと笑うことができなかった。 代わりに、冷や汗が背中を伝う。

 

(お前、今、どこを見てる?)

 

オレは先団から離れ、中団の外目にポジションを取った。 前の二人が作る激流に飲み込まれないように。 そして、その「異質な空気」に飲まれないように。

 

闘争の火蓋は、切って落された。

 

 

 

 

 

 

 

 

――Live: Announcer

 

『さあ、隊列が固まりつつあります。 第1コーナーから第2コーナーへ。 先頭に立ったのは、やはりこのウマ娘! ホープフルS覇者、ダイワスカーレットです! 自身のペースでレースを支配しようという構え! 迷いのない逃げ!』

 

『その直後、ピッタリとマークするのはカレンモエ! まるでスカーレットの影のように、半バ身差で追走します! さらに外からウオッカ! 好位の5番手あたり、いつでも動ける位置をキープ!』

 

『3番手には不気味な存在、アストンマーチャン! さらにカタリアフローラ、ピンクブーケと続いて…… おっと、馬群は縦長になりつつあります! 前半の600m通過……34秒後半! 速くもなければ遅くもない、絶妙なミドルペース! これは前の組には有利な展開か!?』

 

 

 

 

――The Red Ace: Daiwa Scarlet

 

向こう正面。 風を切る音と、蹄が芝を叩く音だけが響く。

 

先頭を行くのはアタシ、ダイワスカーレット。

 

(……いい眺めね)

 

誰もいない前方の景色。 これこそが、アタシにふさわしい特等席だ。 視界を遮るものは何もない。あるのはゴールへの道筋だけ。

 

今日のプランは「幻惑の逃げ」。 スタート直後からハイペースで飛ばすと見せかけて、第1コーナーから第2コーナーにかけて、巧みにペースを落とす。 後続の馬群を密集させ、接触や位置取りの混乱を誘発しつつ、アタシ自身は脚を溜める。 誰も気づかないほどの微細な減速。 それが、王者のレース運びというもの。

 

(ついて来れるものなら来なさい。……振り落としてあげるから)

 

アタシは、完璧なラップタイムを刻んでいた。 早すぎず、遅すぎず。 後続が追いつけそうだと錯覚し、しかし脚を使わされる絶妙なライン。 このままレースを支配し、直線を向いた瞬間に突き放して終わらせる。 そのはずだった。

 

だが。 違和感がある。

 

完璧なペース配分のはずなのに、背中にへばりつく気配が消えない。 普通の逃げなら、後続との間にわずかな空気の層ができる。 風圧が背中を押してくれる感覚があるはずなのだ。

 

だが、今の背後は真空状態だ。 誰かが、アタシの背中にピタリと張り付いている。 呼吸音すら聞こえないほどの密着。 まるで、自分の影を踏まれているような、生理的な不快感。

 

(……またその手?)

 

アタシは、視線を動かさずに確信した。

 

カレンモエだ。

 

チューリップ賞でも見せた、徹底的なマーク戦術。 アタシの作り出す風圧を利用し、体力を温存するスリップストリーム。 味を占めたわね。

 

(スタミナのないアンタが、アタシの直後? ……一番消耗する位置よ、そこは)

 

アタシの後ろは、楽な場所じゃない。 アタシがペースを上げれば、即座に反応しなければ置いていかれる。 落とせば、追突のリスクがある。 常に神経を張り詰めさせられる、地獄の特等席だ。

 

(いい度胸ね。……なら、試してあげる)

 

アタシは、ペースを意図的に乱し始めた。 ストライドをわずかに伸ばす。ピッチを変える。 加速、減速、コースの微調整。 リズムを崩し、後ろのモエを揺さぶりにかかる。

 

並のウマ娘なら、この乱気流に耐えきれず、リズムを崩して自滅するだろう。 あるいは、恐怖に駆られて距離を取るはずだ。

 

だが。

 

接着している。 磁石のように、あるいは呪いのように、モエは離れない。

 

アタシが右足を出せば、右足を出す。 アタシが息を吸えば、息を吸う。 アタシが風を切れば、その切り裂かれた空間に、流体のように滑り込んでくる。

 

(……なんなの、こいつ)

 

背筋に、冷たいものが走った。 これは「マーク」なんて生易しいものじゃない。

 

同調(シンクロ)」だ。

 

思考を介さず、反射だけで追従してくる。 まるで、アタシの影そのものが実体を持って襲いかかってくるような、生理的な嫌悪感。

 

(……気持ち悪い)

 

アタシは、あえてペースを緩めなかった。 むしろ、さらに精度の高い、ギリギリのラップタイムを刻み続ける。 モエを連れたまま、「我慢比べ」の領域へと引きずり込むために。

 

アンタのその細い脚が、いつまで持つかしらね。 アタシは絶対に垂れないわよ。 地獄の底まで、付き合ってもらうわ。

 

 

 

 

――Live: Announcer

 

『向こう正面から第3コーナーへ! 依然として先頭はダイワスカーレット! リードは1バ身! 一歩も引かないカレンモエ! 二人のマッチレースのような様相を呈してきました!』

 

『後続集団も黙っていません! 外からウオッカが上がっていく! さらに内からアストンマーチャン! 各バ、位置取りを上げていきます! レースが動くぞ! 800mを通過! ここからペースが上がります!』

 

『おっと、アストンマーチャンが動いた! 外からカレンモエに並びかける! プレッシャーをかけていく! さあ、カレンモエはどうする!? 反応するか!? それとも無視するか!?』

 

 

 

 

――Recorder: Aston Machan

 

800m通過。 レースは中盤戦へと差し掛かっていました。

 

私は隊列の3番手、カレンモエさんの斜め後ろという位置から、レース全体を俯瞰していました。

 

(……美しい隊列ですね)

 

先頭を行くスカーレットさん。 その直後に張り付くモエさん。 まるで、二人が示し合わせたかのようなランデブー。 スカーレットさんが作り出す完璧な潮流に、モエさんが完全に同調しています。 一つの生き物のように、滑らかに、そして高速で進んでいく。

 

ですが、美しすぎるものは、時に退屈です。 予定調和は、記憶に残りません。 このままでは、スカーレットさんとモエさんのマッチレースになってしまいます。 私の存在が、背景の一部になってしまう。 それは、私の美学に反します。 私は、私の物語の主人公でなければなりませんから。

 

(……そろそろ、石を投げましょうか)

 

私は、少しだけピッチを上げました。 あえて外から進出し、モエさんに並びかけます。 風圧をかけ、視界に入り込み、プレッシャーを与える。

 

(さあ、どうします? モエさん)

 

心の中で問いかけます。

 

(私のペースに乗せられて、リズムを崩しますか? それとも、私と張り合って消耗しますか?)

 

スプリンターの本能を持つ貴女なら、横に並ばれたら反応してしまうはずです。 「抜かせない」という闘争心が、理性を上書きしてしまうはずです。 そうなれば、貴女のスタミナは削られ、呼吸は乱れ、私の勝ち筋が見えてくる。 私は貴女の弱さを知っています。 その焦りを、フィルムに収めてあげましょう。

 

私は、モエさんの顔を覗き込みました。 その表情が、焦りで歪む瞬間を記録するために。

 

しかし。

 

(……ッ?)

 

モエさんは、ピクリとも動きませんでした。

 

私の存在を、完全に無視しています。 視線は1ミリも動かず、ただひたすらに、スカーレットさんの背中の一点だけを見つめ続けています。 その瞳は、焦点が合っているようで、合っていません。 虚空を見ているようでもあり、世界の全てを見透かしているようでもある。 そこには、焦りも、怒りも、恐怖もありません。 ただ、底のない深淵のような静けさがあるだけです。

 

まばたきすら、していません。 呼吸のリズムも、一切乱れていません。

 

(……おや。ノイズキャンセリングですか)

 

私は悟りました。 今の彼女は、深い集中状態――いわゆる「ゾーン」に入っているのだと。 レースに必要な情報以外を、すべて脳内から遮断している。

 

(いえ……違いますね)

 

もっと、歪な何かです。 これは集中というより、拒絶です。 世界を拒絶し、自分を拒絶し、ただ走る機能として存在しようとしている。

 

(なるほど。……今日の貴女は、カメラ()すら意識してくれませんか)

 

寂しさと、それを上回る興奮が、背筋を駆け上がりました。 彼女は今、誰のためでもなく、ただ勝利のためだけに、自分自身を殺して研ぎ澄ませている。

 

(いいでしょう。……ならば、私も記録者としての仕事を全うするまでです)

 

私は、モエさんへの干渉を諦め、自分のリズムに戻しました。 ここからは、邪魔立て無用。 最高の被写体が、完成しようとしています。 その結末を、一番近くで見届ける権利は、譲れませんから。

 

もちろん、この勝負に勝った上で、です。

 

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

第3コーナーから第4コーナーへ。 コースが緩やかにカーブしていく。

 

私の世界から、音が消えている。 数万人の歓声も、蹄が芝を叩く音も、風が耳を打つ音も。 すべてが遠い、別世界の出来事のようだ。

 

聞こえるのは、自分の内側の音だけ。 ドクン、ドクン、ドクン。 肋骨を内側から叩く、心臓の鼓動。 そして、一定のリズムを刻む、機械的な呼吸音。

 

『――スーッ、ハッ、ハッ。……スーッ、ハッ、ハッ』

 

タキオンさんと作り上げた、新しい呼吸のリズム。 深く吸い込み、鋭く吐く。 肺胞の一つ一つまで意識を巡らせ、酸素という燃料を全身に行き渡らせる。 それが、メトロノームのように私の思考を鎮め、時間を引き延ばしていく。

 

視界の端に、1200mの通過看板が見えた。

 

(……1200)

 

ここが、いつもの「ゴール」の距離。 スプリンターとしての私の肉体が、条件反射的に反応する。 「終わりだ! 解放しろ! 全力で駆け抜けろ!」 細胞の一つ一つが、そう叫び声を上げる。 筋肉が収縮し、爆発しようと震える。

 

体の中の『黒い猫』が、檻を激しく叩く。 『行かせろ! 前が空いてるぞ! 獲物は目の前だ!』 爪を立てて、私の内側を引っ掻き回す。 胃の裏側を蹴り上げられるような、強烈な衝動。 熱い。苦しい。 今すぐにでもアクセルを踏み込みたい。 目の前のスカーレットを抜き去り、風になりたい。 その誘惑は、甘く、抗いがたい。

 

だが。

 

(まだ。……まだだよ、猫ちゃん)

 

私は、暴れる猫の首根っこを掴んで、必死になだめた。 感情はいらない。 欲望もいらない。

 

(まだ、その時じゃない)

 

今、ここで動けば負ける。 あと400メートル。 未知の領域。死の荒野。 そこを駆け抜けるための燃料を、一滴たりとも無駄にはできない。 感情で走るな。 計算で走れ。

 

苦しい。 熱い。 肺が焼けるようだ。 足が鉛のように重くなっていく。 意識が飛びそうになるのを、必死に繋ぎ止める。

 

怖い。 もし、このまま失速したら? もし、届かなかったら? もし、また「やっぱりダメだった」と言われたら?

 

不安が、黒い霧となって足元から這い上がってくる。

 

だが、その時。 脳裏に、ある光景が浮かんだ。 初詣の神社。 そこで交わした、トレーナーとの約束。

 

『俺が見ているのは、君だ』

 

その言葉が、アンカーとなって私をこの場に繋ぎ止める。 私は、一人じゃない。 私の背中を押してくれる人がいる。 私の「ワガママ」を、信じてくれている人がいる。

 

前にはスカーレットの背中。 横にはマーチャンの気配。 後ろにはウオッカの足音。

 

その全てが、今の私を構成する要素に過ぎない。 敵ではない。 私が乗り越えるべき、ただの「通過点」だ。

 

(私は、カレンモエだ。……1200mで終わる女じゃない)

 

自己暗示が、肉体の限界を凌駕する。 呼吸が整う。 心拍数が安定する。 視界がクリアになる。

 

第4コーナーの出口が見えてくる。 直線の始まり。

 

スカーレットの重心が、わずかに沈んだ。 スパートの予兆。 筋肉が収縮し、爆発的な加速を生み出そうとしている。

 

待っていた。 この瞬間を。

 

照準固定。 安全装置解除。

 

感情回路、遮断(全て投げ棄てろ)

 

全リソースを、脚へ。

 

(……承認)

 

私は、覚悟を決めた。 檻の鍵に手をかける。 解き放つ準備は、できている。

 

 

 

 

――Trainer: Ayahara

 

スタンドから、俺は震える手で双眼鏡を握りしめていた。 レンズの向こう、4コーナーを回ってくる馬群。

 

その中心に、漆黒の勝負服が見える。

 

「……いける」

 

思わず、声が漏れた。

 

展開は、シミュレーション通り……いや、それ以上だ。 スタートからここまで、モエは完璧な立ち回りを演じている。 スカーレットの直後というリスキーな位置を取りながら、一切の無駄なく追走し、風圧を避け、スタミナを奇跡的なレベルで温存している。

 

(タキオンの理論は、完成した!)

 

ウオッカは外を回らされている。 マーチャンも、モエを崩そうとして脚を使わされた。 最短距離を通り、最も効率的に走ったモエに、分がある。 彼女は、スプリンターとしての「速さ」と、中距離を走り切る「賢さ」を融合させたのだ。

 

第4コーナーを回り、最後の直線へ。 風に揺れて散った花弁が、ちらほらと落ちる。 ピンク色の吹雪が、ターフを舞う。 美しい光景。だが、今はそれすらも、彼女たちにとってはただの背景だ。

 

その中で、レースが動いた。

 

先頭のダイワスカーレットが、弾けるように加速する。 スパートだ。 後続を突き放し、独走態勢に入ろうとする王者の脚。 そのストライドは力強く、衰えを知らない。

 

それに反応し、モエが動く。

 

外へ出すか? いや、違う。

 

スカーレットが一瞬、外のウオッカを警戒して開けた、わずかな隙間。 内ラチ沿い(インコース)。 誰もが避ける、狭く、荒れた進路。 だが、そこが最短距離だ。

 

そこへ、モエが鋭く切れ込んだ。 迷いなど微塵もない。 針の穴を通すような、神業的な進路取り。

 

双眼鏡越しに、彼女の顔が見えた。

 

苦悶の色はない。 迷いもない。 恐怖もない。 闘志すら、感じられない。

 

そこにあるのは、獲物の喉元に喰らいつこうとする獣の、獰猛で、残酷なまでに美しい瞳だけ。 完全に「入って」いる。 ゾーンの深淵に到達した者の顔だ。

 

(勝てる……!!)

 

俺の中で、予感が確信へと変わる。 会場中の空気が変わるのが分かった。 どよめきが、期待の叫びへと変わる。 誰もが、「カレンモエの勝利」を予感し、息を呑んだ。

 

実況が絶叫する。 『内からカレンモエだ! カレンモエが来た! 母の夢を乗せて、先頭に躍り出るか!?』

 

新しい女王の誕生。 伝説の継承。 感動のフィナーレ。

 

すべての条件は整った。 あとは、このまま駆け抜けるだけだ。 誰もがそう信じていた。 俺も、そう信じていた。 彼女なら、奇跡を起こせると。




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