アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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29話 侵食する"白" (桜花賞・決着)

29話 侵食する白

 

第4コーナーを回り、眼前に阪神の長い直線が広がる。

 

四百七十三・六メートル。

 

若き才能たちが、青春と魂を数秒で燃やし尽くすための祭壇。

 

レース場内の桜は満開。風は穏やかだった。薄紅色の花弁が、緑のターフに儚い彩りを添えている。

 

その静けさが、これから始まる極限の削り合いを際立たせていた。

 

先頭を行くのは、青と白の勝負服を纏った女王、ダイワスカーレット。その背中に、漆黒の勝負服を纏ったカレンモエが、影のように食らいついている。

 

一騎打ちの直線。数万人の観衆が、固唾を飲んで見守っていた。

 

――The Red Ace: Daiwa Scarlet

 

視界の端。

 

背中にへばりついていた気配が、動く。

 

(来る)

 

カレンモエが仕掛けてくる。

 

(外? いえ、内ね)

 

アタシは直感で悟った。アタシと内ラチの間に、人一人が通れるかどうかの隙間。針の穴を通すような精度で突いてくる気だ。

 

一瞬、進路を内に締めようとして——。

 

(まあいいわ)

 

あえて締めなかった。わざわざ道を開けてやる義理はない。小細工でブロックする必要もない。

 

(来るなら来なさい)

 

その狭い死地(キルゾーン)に飛び込んでくる度胸があるなら、相手をしてあげる。真正面からねじ伏せて、二度と逆らえないようにしてやる。

 

二の脚を使う。地面を叩く。芝をむしり取るように強く。

 

栗毛のツインテールが躍る。

 

「アタシを超えてみなさい。最高のライバルとして」

 

これは「逃げ」じゃない。先頭で他をねじ伏せる、完全試合。

 

誰も前には行かせない。ここはアタシの独壇場。

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

残り300メートル。

 

私の視界は、極端に狭まっていた。トンネルの中を覗いているように、周囲の景色が黒く塗りつぶされていく。

 

見えるのは二つだけ。

 

目の前で躍る、スカーレットの赤いリボン。遥か彼方に白く光る、ゴール板のライン。

 

それ以外は、いらない。桜も、空も、観客も。今の私には不要な背景だ。

 

音がない。

 

数万人の歓声も、地響きの蹄の音も、風の音も、すべてが消えた。真空の世界。

 

聞こえるのは、自分の内側の音だけ。

 

ドクン、ドクン、ドクン。

 

身体の内側で暴れる、心臓の鼓動。

 

スーッ、ハッ、ハッ。

 

一定のリズムを刻む、機械的な呼吸。

 

『吸って、吐く。深く、鋭く』

 

タキオンさんの声。冷たいプールの底で、何度も繰り返した呼吸の訓練。肺胞の一つ一つに意識を巡らせ、酸素を、無駄なく爆発的に燃焼させる技術。

 

それを完璧に遂行するために、私は今、自分であることを辞めている。

 

「自我」はいらない。「感情」はいらない。「恐怖」も、「焦り」も、「歓喜」さえも、今の私には処理落ちを引き起こすノイズでしかない。

 

リソースの全てを、「走る」という機能だけに割り当てる。「カレンモエ」という人格すら希薄にして、ただ速く走るための機械になる。

 

そうしないと、この1600メートルは越えられない。

 

防御力ゼロ。神経が剥き出しになった、張り詰めた糸。

 

それでいい。勝つためには、何かを捨てなければならない。

 

ママが愛嬌で世界を制したのなら、私は狂気で世界を制す。

 

スカーレットが、わずかに外へ膨らむ。

 

そこだ。

 

そこが、私の勝利への道(ヴィクトリーロード)

 

迷いなく、隙間に体をねじ込む。

 

——だって、彼女なら、真正面から勝負を受けてくれるはず。

 

内ラチぎりぎり。左肩がフェンスを擦る至近距離。

 

並ぶ。

 

王者の青と、反逆者の黒が、重なる。

 

横目で、スカーレットの顔が見えた。すぐに飛んでくる、好戦的な目。

 

そして、獰猛に吊り上がった口元。

 

その笑顔さえ、今の私にはスローモーションでゆっくり知覚される。コマ送りの映画のように、彼女の感情の揺れが、手に取るように分かる。

 

(……行ける)

 

確信が、脳髄を走った。

 

あと200メートル。脚はまだ残っている。肺もまだ動いている。このまま、押し切れる。

 

(私が、カレンモエが、世代の頂点に立つんだ)

 

その瞬間。凍りついていた感情が、一瞬だけ解けた。脳内にドーパミンが溢れ出し、至福の時が訪れる。

 

勝てる。

 

勝てる。

 

あの屈辱も、苦しみも、吐き気も、涙も。全てが報われる。

 

この一瞬のために、私は生まれてきたんだ。

 

勝利の女神が、私に微笑みかけようとしていた。その手は、もう届くところにある。

 

 

――The Audience

 

スタンドは、興奮の坩堝と化していた。地鳴りのような歓声が空気を震わせる。コンクリートの床から、数万人の足踏みの振動が伝わってくる。

 

オールドファンたちが、目の前の光景に息を呑んでいた。

 

走っているのが誰なのか、もう分からなくなっていた。

 

黒い勝負服の少女。鮮やかに群を割り、抜け出してくる姿。圧倒的なピッチ走法。首の使い方、地面を蹴るリズム、前傾姿勢の角度。

 

——かつてこのターフを沸かせた女王、そのものだ。

 

脳裏に蘇るのは、十数年前の「閃光」。伝説のスプリンター、カレンチャン。

 

彼女がマイルを走っていたら、きっとこんな風に勝ったのだろう。そんな「もしも」の夢が、今、現実になって目の前にある。

 

彼らは現実を見ていなかった。少女の背中に重なる、夢の続きを見ていた。

 

最前列にいる、善良そうな中年男性。

 

彼は、レースを愛し、ウマ娘を愛する、ごく普通のファンだった。悪意など微塵もない。ただ、あの日見た伝説が、目の前で蘇ることに感極まっていた。

 

手には、発泡酒の空き缶。アルコールが理性を溶かし、興奮が感情のブレーキを壊していた。

 

彼は、目の前の少女を呼びたかった。応援したかった。背中を押したかった。

 

その気持ちだけは、神に誓って本当だった。

 

ただ——極限の興奮の中で、脳裏に浮かんだ名前は、プログラムに書かれた「カレンモエ」ではなかった。

 

魂に刻まれた、永遠のアイドルの名前。

 

彼はフェンスに身を乗り出し、ありったけの想いを込めて、その名を叫んだ。

 

「いけぇぇッ!! カレンチャン!!! 差せえぇぇぇッ!!!」

 

その声は、歓声の波を突き抜け、驚くほど明瞭に、ターフへ届いた。

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

真空だった世界に。

 

その一言だけが、鋭利な杭のように打ち込まれた。

 

カレンチャン……?

 

時間が、停止した。

 

走っている脚が止まったわけじゃない。心臓が止まったわけでもない。

 

世界そのものが、フリーズしたように固まった。

 

カレン、チャン?

 

その音は、私が最も愛し、最も憎み、最も否定しようとしてきた名前。私が、私であるために、乗り越えようとしてきた壁。

 

今まさに、乗り越えたはずの壁。

 

なぜ?

 

なぜ今、その名前が聞こえる?

 

ゾーンに入っていた無防備な脳が、その言葉を直撃で受ける。防御壁のない心臓に、ナイフを突き立てられた衝撃。

 

思考処理に、致命的なバグが生じる。認識のレイヤーが、ガガガッ、と音を立ててずれる。

 

(……え?)

 

勝利を確信していた思考が、強制停止する。

 

(私は、誰だ?)

 

私が、今、成し遂げようとしている勝利。スカーレットを抜き去り、マイルの頂点に立つ、この偉業。

 

それすらも——世界は、「カレンチャンの偉業」として認識しているのか?

 

私がどれだけ足掻いても。色を変えても。速く走っても。「私は私だ」と叫んでも。

 

世界は、私を見ない。私を通して、ママを見ている。

 

(……違う)

 

否定しようとする。声が、イメージが、止まらない。

 

視界がバグる。ノイズが走る。

 

自分の脚元を見る。風を切って動く脚。そこにあるはずの、黒い勝負服。真っ黒な、機能性だけを追求した「アンチ・ヒーロー」の装束。

 

それが、チカチカと明滅する。

 

黒が、色が抜けていく。

 

白く。

 

白く。

 

鮮やかに。

 

(……あ)

 

私の脚元で、ひらひらと揺れるものがある。

 

スカートだ。

 

黒と白のストライプの、ふんわりとしたスカート。裾には、可愛らしいフリル。走るたびに、リボンのように揺れて、風に舞っている。

 

視線を横に動かす。黒い袖ではなく、露出した白い肩。左耳で揺れる、鮮烈な赤。

 

左耳の、赤いリボン。ママのトレードマーク。「カワイイ」の象徴。

 

ありえない。

 

私はスカートなんて履いていない。リボンなんてつけていない。あんなフリフリの服なんて、死んでも着ないって決めた。

 

幻覚だ。

 

分かっている。分かっているのに、否定できない。

 

——だって、それは、あまりにも似合っていたから。

 

今のこの走り心地が、あまりにも()()すぎたから。

 

(……ああ、そうか)

 

私は、無駄を削ぎ落とした。

 

感情を捨て、思考を捨て、ただ速く走るための機能へと純化した。それが、タキオンさんと見つけた「カレンモエの正解」だと信じて。

 

——でも。

 

削ぎ落として、磨き上げて、完成したその「純粋な速さ」。

 

そのフォームが。リズムが。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

違う。

 

似ているんじゃない。

 

「速さ」の究極系を目指して突き詰めた結果、私はカレンチャン(完成形)にたどり着いてしまったんだ。

 

私が積み上げてきた努力。血反吐を吐くようなトレーニング。

 

その全てが、私を「カレンモエ」にするためじゃなく、「カレンチャン(ママ)」を再現するための儀式だった。

 

走れば走るほど。速くなればなるほど。

 

私は「私」から遠ざかり、「ママ」と重なっていく。

 

(……嫌だ)

 

甘美な陶酔を突き破って、強烈な吐き気がこみ上げた。

 

このまま勝てば、私は永遠に「カレンチャン」になる。世界は正しかった。私は、ママの夢の続きでしかなかった。

 

そんな勝利なら、いらない。

 

ママのコピーとして完成するくらいなら、未完成のまま壊れたほうがマシだ。

 

拒絶。

 

絶対的な拒絶。

 

私の原動力だったアンチ(反抗心)が、今度は「完成しようとする自分自身」へと牙を剥いた。

 

『止まれ』

 

『その動きをするな』

 

カレンチャンにな(白く染ま)るな』

 

その自己否定の意志が、肉体のメインシステムに緊急停止(アボート)を命じた。

 

無意識下で制御していた、酸素と二酸化炭素の交換サイクル。滑らかに回転していたエンジン。

 

すべて、私のエゴが無理やり断ち切った。

 

「ヒッ」

 

喉が鳴る。

 

息を吸い込んだまま、吐くのを忘れた。

 

限界ギリギリ、レッドゾーンの奥で回していたエンジン。それを回していたのは、紛れもなく私の心だった。

 

その心が死んだ今、肉体だけが動く道理はない。

 

物理的な限界じゃない。メンタルの崩壊が、肉体の制御権を放棄させた。

 

血液中の酸素濃度が、一気に低下する。脳が、生命維持のために「運動機能の停止」を命令する。

 

行き場を失った乳酸が、暴流となって全身の筋肉をロックする。滑らかだったピストン運動が、錆びついた歯車のように軋む。関節が、悲鳴を上げる。

 

バチン。

 

体の中で、何かが焼き切れる音がした。

 

私を私たらしめていた、最後の糸が切れる音だった。

 

世界が、スローモーションから通常の速度に戻る。重力が、数倍になってのしかかる。

 

ガクン。

 

膝が折れる。

 

前に進もうとする慣性と、止まろうとする肉体が喧嘩して、バランスが崩れる。

 

「あ……」

 

声にならない声。

 

視界の端。青と白の影が、遠ざかっていく。ダイワスカーレット。彼女が、驚愕の表情でこちらを振り返っているのが見えた。

 

その顔は、歪んでいた。

 

心配じゃない。同情でもない。

 

激しい、怒り。

 

(……なんで?)

 

頭の中に、疑問符が浮かぶ。

 

負けた私が惨めなのは分かる。でも、勝った貴女が、どうしてそんなに怒っているの?

 

理解できない。何もかもが、遠い。

 

その後ろから、ウオッカが、マーちゃんが、名前も知らないウマ娘たちが、轟音と共に私を飲み込んでいく。

 

私は、激流の中の流木のように、抵抗することなく最後方へ置き去りにされた。

 

抜かれていく。悔しくない。追いかけようとも思わない。

 

——だって、私はカレンモエじゃないから。カレンチャンでもないから。

 

何者でもない私が、あんな速い人たちと走れるわけがない。

 

全速力のスプリントから、力のない駆け足へ。ふらつくジョギングへと、速度が落ちていく。

 

脚がもつれる。止まらない。

 

意志で動いているんじゃない。「ゴール板を通過すれば、この音が止む」という本能だけが、ゾンビのように脚を前に運ばせている。

 

観客席からの声が変わった。

 

悲鳴じゃない。どよめきと、深い困惑。

 

「おい、どうした!?」

「故障か? 脚は動いてるぞ」

「なんで止めるんだ! 走れよ!」

「諦めたのか!?」

 

罵声。叱咤。困惑。

 

意味のないノイズとして降り注ぐ。

 

係員が駆け寄ろうとして、動きを止めるのが見えた。明らかに脚を引きずっていれば止めるだろう。

 

でも、私は五体満足で、ただ「ゆっくり走っている」だけ。ルール上、それを止める権利は誰にもない。

 

だから、この地獄は終わらない。

 

ゴール板まで、あと100メートル以上。他のウマ娘たちが11秒で駆け抜ける距離を、私は何十秒もかけて、トボトボと進む。

 

晒し者だ。

 

GⅠレースの最後の直線で、一人だけジョギングしている、愚か者。

 

ライバルたちの背中は、もう遥か彼方。ゴール板を駆け抜ける彼女たちが、別次元の生き物に見える。

 

私は、ターフの上を走っているんじゃない。深い、深い、白い海の底を、あてもなく漂っている。

 

私の中の黒猫も、もう鳴いていない。

 

死んでしまったのかもしれない。

 

そこに転がっているのは、中身のない檻だけだ。

 

「……私は、誰?」

 

空を見上げる。

 

春の陽気が、酷く眩しい。

 

視界が、ゆらりと歪んだ。

 

何かが、頬を伝って落ちる。

 

いつの間にか、私の目には涙が滲んでいた。

 

悲しいわけじゃない。悔しいわけでもない。

 

ただ、壊れた器から、中身が勝手に零れ落ちているだけ。

 

涙のレンズ越しに、空を舞う花弁が映る。

 

本当は、チラホラと風に舞っているだけかもしれない。

 

けれど、今の私には、それが世界を埋め尽くす猛吹雪のように見えた。

 

一面の、白とピンクの洪水。

 

さっき見た幻覚と同じ、逃げ場のない、祝福のような色。

 

すべてを覆い隠す、圧倒的な量感。

 

(……ああ、綺麗)

 

とても綺麗で、残酷だ。

 

それは、私を埋葬するための花のように、見えた。

 

 

――The Alchemist: Agnes Tachyon

 

関係者席でモニターを見つめていた私は、静かに目を見開いた。

 

「……ああ、やはり。そういうことだったのかい」

 

手元のタブレット。モエ君の心拍数と脳波が、異常な乱れを示し、そして「凪」のように静まり返っていく。

 

身体機能に異常はない。ただ、精神のスイッチだけがOFFになった状態。

 

「彼女の集中力(ゾーン)。これは『武器』じゃない。外界の猛毒(期待)から、幼い自我を守るためのシェルター(避難所)だったんだねぇ」

 

彼女は強い子じゃない。

 

ただ、周囲の期待に合わせて、「大人」であることを強いられていただけ。その硝子の壁を砕かれたら、中にあるのは、皮を剥いだだけの、無防備な心臓だ。

 

「……皮肉な話だね」

 

画面の中で、レースから取り残されたように漂うモエ君を見つめながら、私はポツリと漏らした。

 

「彼女の原動力は『カレンチャンへの否定』だ。だが、極限状態で彼女が選び取った最適解は、あまりにも『カレンチャン』に酷似しすぎていた」

 

勝利への道が、自己否定の道と重なってしまった。進めば進むほど、自分が消えていくパラドックス。

 

「脳が『自己保存』のために『勝利の放棄』を選んだとしても、不思議じゃないさ。彼女は、負けたんじゃない。自分が自分であり続けるために、緊急停止したんだよ」

 

「……支離滅裂だろう? 非合理の極みだ。だが、誰でも心当たりくらいあるんじゃないかね。——もちろん、私も含めてね」

 

科学者としての無力感と、共犯者としての哀れみが、私の胸を刺した。




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