「モエ、速い! 落とせ!」
声に反応して彼女の上体が起き、前へ出ていた膝が引けた。靴底が芝を擦って次の一歩が詰まり、ついさっきまで一直線に伸びていた走りが、急に勢いを失う。
そのまま止まるかと思ったところで、モエが腕を引いた。踏み込んだ脚が伸び、白い髪が大きく後ろへ流れる。一度落ちた速度を取り戻すどころか、また前へ飛び出していく姿に、俺は時計を持つ手を下ろしかけた。
家族への挨拶を済ませた、翌日の放課後だった。長く走る前に、まずは速さを抑えた走りを覚える。俺が時計を取り、本人の感覚と照らし合わせれば、飛ばしすぎているところを掴めるはずだった。
走り終えたモエが、頬に貼りついた髪を払いながら戻ってくる。学園指定のジャージの胸を呼吸に合わせて上下させ、俺の手元を見ると、時計を聞くより先に口を開いた。
「……落とせなかった」
「声は聞こえたんだな」
「聞こえた。だから落とそうとしたんだけど、止まりそうになった」
「見えていた。その後、また出たな」
「だって、脚が出なくなるから。出そうとしたら、ああなるの」
渡したタオルをモエが顔へ押し当てる間、俺はコースを振り返った。加速した場所から減速した場所まで目で辿ってみても、狙った速さで走り続けた区間が見つからない。速度を落とす途中ではそこを通るのに、留まることができず、走りそのものが止まりかけてしまう。
「……最初から、もっとゆっくり出ればいい?」
タオルを下ろして尋ねるモエに、少し休んでから試そうと答えた。彼女がベンチへ座り、水を飲み始めるのを見て、俺も記録へ目を落とす。
父親も、抑えて走るよう教えたと言っていた。モエも指示を聞き、実際に速度を落とそうとしていた。そのたびに走りが途切れてしまう理由を、俺は記録を見ながら考えていた。
休憩を挟んだ次の走りでは、モエは最初から腕を小さく振り、慎重に脚を運んでいた。前後にほかの走者はいない。彼女の走り出しに合わせ、俺も時計を押した。
それでも、一歩強く踏んだところで変わった。
身体が伸び、歩幅が広がる。俺が声をかけるより先に、本人も気づいて上体を起こしたが、今度は足音の間隔が乱れ、そのまま走るのをやめた。少し先で両手を腰に当てているところへ、俺はノートを持って近づいた。
「今、何を変えた?」
「少しだけ、脚を出そうと思った。……少しだけだよ。全力で行こうとしたわけじゃない」
「分かっている」
「分かってないでしょ。力を抜けばいいって思ってるんじゃないの。そんなの、もうやってるから」
地面を見ていた顔が上がり、俺を睨んだ。その目に、言い返す言葉を失う。
最初の紙には、ペース配分を覚える、と書いた。何度か走って感覚が掴めれば、今より長く持つだろうと考えていたのだ。その『覚える』ところで動けなくなるとは、思っていなかった。
俺は記録を開き、彼女にも見えるように向けた。
「そのつもりで来た。だが、今の走りを見て、思っていたのと違うと感じている」
「……じゃあ、どうするの」
「腕から変えてみたい。脚を止めようとする前に、振りを小さくしたらどうなるか。それでも同じになるか、確かめたい」
モエはすぐには頷かず、タオルで額を拭いてからコースを見た。
「同じになっても、怒んないでよ」
「怒らない」
「……そう」
それだけ返し、彼女はベンチへ歩いていった。
~~
腕の振りを変えても、走り出す姿勢を変えても、同じことが起きた。何日かの練習で一度だけ、設定した時計に近い数字が出たが、俺が顔を上げると、戻ってきたモエの方が首を横に振っていた。
「途中、止まりかけた。あそこの手前で。そこから、また出ちゃった」
彼女が指した場所を確かめ、撮っていた映像を見返す。確かに途中で身体が起き、その後に強く踏み込んで加速していた。速すぎた分と落としすぎた分が、区間全体の時計では打ち消し合っていただけで、狙った速さを保てたわけではなかった。
ノートにつけかけた丸を消した。
脚を出せば出すぎるし、抑えれば走りが途切れる。まるで一速と五速しかない車だと思った。低い方ではレースにならず、高い方へ入れれば最後まで持たない。間を使おうとするたび、止まりかけては踏み直すことになる。
ただ、それは見た目を言葉にしただけで、なぜそうなるのかも、どうすれば変わるのかも分からなかった。ノートには、上手くいかなかった走りの記録ばかりが増えていった。
その日は、足元を変えてみることにした。砂の抵抗が、飛び出しすぎる脚を抑える助けにならないかと考え、ダートコースの外に三脚を立ててスマホを固定する。距離は2000m。時計を縮めるより、最後まで脚を残すことを課題にした。
「速くなったと思っても、一気に落とそうとするな。走りが崩れる前に声をかける」
「……間に合う?」
「見落とさないようにする」
モエは靴紐を締め直し、スタート位置へ向かった。
走り始めてすぐに、違いが見えた。砂を踏み込んでも身体が左右へ振られず、芝では抑えようとしてぎこちなくなった姿勢が、ここではすっと前へ伸びている。その走りに一瞬だけ目を奪われ、時計を押した。
速い。
姿勢は収まっていても、脚を温存する走りにはなっていなかった。
「モエ、今だ!」
こちらの声に顔がわずかに動き、腕の振りが小さくなる。だが、脚を出す勢いまで弱めようとしたところで上体が起き、砂を蹴る音が途切れかけた。次の一歩でまた身体が前へ飛ぶのを見て、俺は歯を噛み合わせた。
足元を変えても、間は続かなかった。
向こう正面へ入る頃には、モエの肩が上がり始めていた。脚を戻そうとするたびに腕まで大きく動き、残り800mの標識を過ぎたところで、歩幅が詰まる。
今度の減速は、抑えようとした時とは違っていた。身体は前へ行こうとしているのに脚がついてこず、砂から足を引き抜く動きが遅れる。その遅れを次の一歩でも取り返せないまま、モエは顎を下げ始めた。
「モエ、顔を上げろ!」
コース沿いを移動しながら声を張ると、俯きかけた顔が上がった。開いた口から息を吸うたびに顎が動き、額から流れた汗が、頬に付いた砂を濡らしている。残しておくはずだった脚を、もう使い切っていた。
それでも、止まらなかった。
最後の直線へ向いた時には、最初の数百mにあった勢いはどこにも残っていなかった。踏み出した足が砂を擦り、上体が揺れる。次の一歩が出るまで、見ている俺まで息を詰めていた。
「ラスト200!」
モエが歯を食いしばり、腕を引いた。遅れて脚が出るのを待ち切れないように、もう一度腕を振る。膝が折れかけるたびに踏み直し、それでも前へ脚を出した。
歯を剥いて前を睨む顔に、模擬レースの直線が重なった。
「あと少しだ!」
モエは腕を振り続け、ゴール板を越えた。俺は時計を止めると、出入口へ駆け出した。
モエは数歩進んだところで膝を折り、砂へ両手をついた。顔を覆った白い髪の下で肩が大きく上下し、呼吸の間に、喉の奥から掠れた音が漏れている。
「どこか痛めたか」
隣へ膝をついて聞くと、首が横に動いた。それ以上は聞かず、顔を上げられるまで待って水を差し出す。彼女は両手で受け取ったが、口をつける前に俺を見た。
「……タイム」
「2分10秒」
時計を向けると、モエは表示を見つめたまま、ボトルを下ろした。
「最後、どれだけ落ちた?」
途中の記録を読み上げた。最後の区間まで聞き終えても何も言わず、コースへ目を戻したので、俺は時計をしまおうとした。
「もう1本」
「今日は終わりだ」
「まだ、腕の方で落とせるかもしれない。さっき、途中で脚まで――」
「モエ」
名前を呼ぶと、言葉が止まった。彼女は片膝を立て、立ち上がろうとしたが、腰が上がり切らず、もう一度砂へ手をついた。
「……大丈夫」
こちらを見ずに言うモエへ、俺は首を振った。
「その脚では、もう走らせない。今、気づいたことは聞くし、次に試す時のために書いておく。だが、走るのは休んでからだ」
差し出した手を、彼女は黙って見ていた。しばらくして砂の付いた指が掴み、引き上げると、今度は立てた。すぐに手を離してコースの外へ歩き始めるモエの、半歩後ろをついていく。
~~
コース脇のベンチへ座らせてタオルを渡すと、モエは顔を拭かずに頭から被った。口元まで隠れるように両端を引き下ろした彼女の隣へ腰を下ろし、ノートを開く。
走りが途切れかけた場所や、腕を小さくした時と脚の力を抜こうとした時の違いを、途切れ途切れの言葉から拾って書いた。初めは肩で息をしていたが、話し終える頃には呼吸の音も落ち着いていて、俺がペンを止めると、辺りの声が耳に戻ってきた。
「……なんで、こんなとこまで似るの」
タオルの下から聞こえた声に、顔を向けた。
「顔も、声も、もう十分似てるじゃん。長く走れないところまで、同じじゃなくていいのに。私、ママとは違うこと考えてるのに……走りたいレースだって、違うのに」
膝の上でジャージを掴み、声を詰まらせた。俺が何も言えずにいると、少し間を置いて、低く続けた。
「なんで、脚までそっちに行くのよ……」
もっと長く走りたい、抑え方を覚えたいと、そのための練習を彼女は休まずやっていた。それでも2000mの最後には、立ち上がることすら難しくなる。努力が足りないとは思えなかったが、何を変えればいいのかと聞かれても、今の俺には答えがなかった。
「……私の担当、やめとけばよかった?」
タオルの隙間からこちらを見ていた。俺が否定すると目を逸らし、口元を隠したまま言葉を継ぐ。
「まだ仮なんだし。パパに言った手前、やめにくいとかだったら、別に――」
「そういう話ではない」
思ったより強い声になり、モエが黙った。俺は開いたノートへペンを置き、彼女へ向き直った。
「考えていたのは、今日の走りだ。お父さんに何を言ったかじゃない」
彼女はこちらを見なかった。遠くで別のトレーナーが時計を読み上げ、弾んだ返事が返ってくる。モエはタオルの端を引き、小さな声で言った。
「……じゃあ、考えてよ。私もやるから」
「ああ」
それきり、しばらく何も言わなかった。
「……あの」
声をかけられて顔を上げると、少し離れたところに、小柄なウマ娘が立っていた。長い黒髪が右目にかかり、練習着の袖口を片手で握りながら、ためらうようにこちらを見ている。
ライスシャワーだった。
「ごめんなさい。さっき、走ってるところが見えて……。大丈夫、かなって」
モエはタオルをずらし、相手を見上げた。ライスの名を呼んでから口元に笑みを作るまで、ほんの少し間があった。
「すみません。ちょっと、バテちゃって」
さっきよりも明るい声だったが、ライスはすぐには笑い返さず、砂の付いた膝へ目を落とした。
「最後、すごく苦しそうだったから」
「スタミナがないんです。2000も持たなくて。ライスさんみたいに走れたら、こんなことにならないんですけど」
肩をすくめて言った後、モエは唇を閉じた。少し俯き、「すみません。変な言い方して」と付け足すと、ライスは首を振りながらベンチのそばへ来た。
「ううん。……もっと長い距離を走りたいの?」
「トリプルティアラを目指してます」
「そっか。オークスも走るんだね」
「そのつもりです。身体が言うこと聞いてくれたら」
最後の方は投げやりだった。ライスはモエの顔をしばらく見ていたが、やがて、さっきはゴールまでやめなかったね、と静かに言った。
「やめたら、そこまでになっちゃうから。走れないから短くしますって、それじゃ何も変わらないじゃないですか。結局、みんなの言うとおりになるだけで」
返事は即座だった。タオルを首へ落とした時には、作りかけていた笑みも消えていた。
「ママが勝ったレースで、ママにそっくりの娘が勝つ。それで、みんな喜ぶんですよ。……私は、そんなの嫌なのに」
ライスは急いで何かを言おうとはせず、モエの言葉が途切れるまで聞いていた。
「自分が勝ちたいレースと、みんなが勝ってほしいと思ってるレースは、違うこともあるよね」
モエの指が止まった。
「ライスも、ブルボンさんに勝ちたかった。マックイーンさんにも。すごく強くて、簡単には追いつけなくて……でも、2着じゃ嫌だったの」
控えめな声だったが、相手の名前を口にする時には目が逸れなかった。モエは顔を上げ、ライスの話を聞いていた。
「勝っても、喜んでもらえないことはあったよ。勝たなければよかったのかなって、思ったこともある。でも、勝ちたかった気持ちまで、なかったことにはできなかった」
一度だけ視線を落としたライスの向こうを、練習中のウマ娘が走り抜けた。誰も口を挟まないまま足音が遠ざかり、ライスはその背中を見送ってから、モエへ目を戻した。
「だから、ライスは応援するよ。モエちゃんが、自分で走りたいって決めたレース」
「……まだ、走れるかも分からないですよ」
「うん。今すぐ大丈夫だよって、言えないけど。無理だって言われたことを、やろうとする子がいたら……ライスは、できてほしいって思うから」
モエは何も答えなかった。ライスは少し考えてから、小さく笑った。
「青いバラが咲くところ、見たいでしょう? そんなふうに走れたら、誰かのヒーローになれるかもしれないよ」
「ヒーロー……? 私、そんなつもりじゃ……」
困ったように眉を寄せ、膝へ目を落とすモエに、ライスは「うん。それでも、応援したいな」と答えた。それ以上何かを求めるでもなく、静かにそばに立っていた。
「ライスさん。そこにいたのね」
通路から届いた張りのある声に振り向くと、キングヘイローが栗毛を揺らして歩いてきた。練習着の上に羽織った上着も、背筋の伸びた歩き方も目を引く。手にはタオルと小さなバッグを持っていた。
「あっ、キングさん。ごめんなさい、待たせちゃって」
「それはいいけれど、これ。置き忘れていたわよ。汗を拭かずに立ち話をしていたら、冷えるでしょう」
ライスが慌てて礼を言い、差し出されたタオルを受け取る。その様子を見届けてから、キングはこちらへ顔を向けた。
モエが背筋を伸ばし、自分のせいで引き止めてしまったと謝ると、キングは「謝ることではないわ」と首を振った。
「もう、立てるの?」
「はい。今は」
キングは頷き、バッグからボトルを取り出した。
「では、これを。練習の後に飲むものよ。予備だから、まだ口はつけていないわ。寮へ戻ってから飲みなさい」
モエは受け取ったものの、両手で持ったまま、まだ何か言いたそうにキングを見上げていた。
「……いいんですか。初めて話すのに、ここまでしてもらって」
「練習を頑張っていた後輩に、差し入れをしたらおかしいかしら」
「いえ。そういうわけじゃ」
「なら、受け取っておきなさい」
キングはバッグを閉じ、それからモエの顔を見た。
「それと、途中から聞こえてしまったのだけれど。私も、お母さまのことは随分言われたわ。あちらは立派、こちらはまだまだ。何をしても、まずお母さまの名前が出てくるの。うんざりするわよね」
口元が少し曲がった。その顔を見ていたモエは、やがてボトルへ目を落とし、小さく頷いた。
「……はい」
「明日も走るなら、今日はちゃんと休みなさい。脚の手入れも忘れずにね」
「はい。ありがとうございます」
自分の脚を見下ろしてから答えるモエに、キングは満足そうに頷いた。ライスへ「そろそろ戻りましょう」と声をかけると、彼女も頷き、別れ際にこちらへ手を振った。
モエは礼を言って頭を下げ、通路を並んで歩いていく2人を見送った。キングが何か話し、ライスが慌てたように頷いている。その姿が小さくなってから、ようやくタオルで頬の砂を拭った。
「ヒーロー、だって。……私、ママと一緒にされたくないだけなのに」
独り言のような声だった。もらったボトルを膝の上で転がしている横で、俺は黙ってノートを閉じた。
~~
撮影に使ったスマホと三脚を片づける間に、モエも靴紐を結び直し、ジャージの砂を落としていた。立ち上がる時には少しためらったが、最初の数歩を過ぎると、ゆっくりした足取りで進み始めた。
俺は歩調を合わせてコースを離れ、寮へ続く道を歩いた。彼女の鞄からは、キングにもらったボトルの蓋が覗いていた。
「トレーナー。砂のところ、最初は走りやすかった。脚を出した時に、芝の時より変に揺れなかった気がする」
足元を見ながら言うモエに、俺にもそう見えたと答えた。
「でも、最後は同じだったね」
返事に迷った。上体が安定したことは確かだったが、速さを抑えられたわけではない。力を抜こうとして止まりかけ、踏み直し、最後には出したい脚まで出なくなっていた。
「走りやすかった時の感覚は、覚えておいてほしい。映像を見ながら、聞かせてくれ」
「……あれを長くできればいい、ってこと?」
「まだ、そこまでは言えない。姿勢は安定していたが、時計は速かった。最後まで脚を残すという課題は、できていない」
「分かってるよ。走ったんだから、それくらい」
硬い声が返ってきて、俺は言葉を止めた。自分の頭の中を整理するつもりで、彼女へできなかったことを並べていた。
「……すまない。俺も、走り出したところを見て、今日は上手くいくと思った。何を見落としたのか、もう一度確かめたい」
モエは黙っていたので、こちらもそれ以上は続けなかった。並んで歩く足音だけを聞いていると、寮の灯りが見え始めたところで、彼女が口を開いた。
「映像、私にも見せて。外からどうなってるのか、自分でも見たいから」
「ああ。明日、一緒に見よう」
鞄の肩紐を掛け直してから、モエは俺を見た。
「……分かったふりは、しないでよ」
「しない」
その返事を聞いて、彼女は寮の入口へ向かった。ゆっくりと階段を上がり、扉の向こうへ消えるまで見送ってから、手元のノートを開く。
2000m、2分10秒。その下には走り始めの上体について書いた文字があり、同じ頁に、抑えようとして崩れた箇所も記してあった。どちらかだけを見れば、また見誤る。
スマホで映像を開くと、砂の上をモエが走り出した。身体が前へ伸び、白い髪がなびく。見ていた時と同じように、そこだけなら、いい走りに見えた。
画面を止め、ノートへ目を戻す。できたと丸をつけるにはまだ早かった。俺は記録を鞄へしまい、トレーナー室へ戻った。
誤字報告、評価や、感想、ここすきなど、よろしくお願いいたします。