アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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考えることがいっぱいだ。


3話 遺伝子の断絶壁

夕暮れのトレセン学園、ダートコース。

茜色に染まった空の下を、一人のウマ娘が砂煙を巻き上げながら疾走していた。

 

カレンモエだ。

 

本来なら、本番と同じ芝コースでスピードを確認したいところだ。

だが、今の彼女に必要なのは、スピードを殺してでも絞り出す絶対的なスタミナだ。足を取られる重いダートコースで、どれだけ粘れるか。それが今日の課題だった。

 

——ただ、妙なことに、ダートに入った直後の数百メートルだけは、芝の時よりフォームが安定して見えた。砂に足を取られているはずなのに。気のせいだと思って、俺はそれ以上考えなかった。

 

足取りは鉛のように重い。限界をとうに超えていることを、崩れかけたフォームが物語っている。

 

「ラスト200! 腕を振れ! 足を上げるな、前に出せ!」

 

俺はストップウォッチを握りしめながら、フェンス越しに声を張り上げた。

 

モエが顔を歪めて加速を試みる。だが、体はもう応じなかった。まるでタイマーが切れたみたいに、エネルギーの供給がプツリと途絶える。

 

上体が起き上がり、フォームが崩れる。走るという動作から、倒れないように足を前に出すだけの歩みに変わっていく。

 

ゴール板を過ぎた瞬間、砂の上に崩れ落ちた。受け身も取れず、荒い呼吸だけがその場に残る。

 

俺はラチを越えて駆け寄った。全身が汗で濡れ、泥にまみれたジャージ。心臓の鼓動が服の上からでも分かるほど激しく打っている。触れた肌は焼けるように熱い。

 

「タイムは……?」

 

掠れた声。泥だらけの顔で、目だけがギラギラと俺を見上げている。諦めの色は微塵もない。あるのは、自分自身への怒りだけだ。

 

俺はストップウォッチに視線を落とした。

 

「2分10秒」

 

2000メートルのタイムトライアル。GⅠ戦線で戦うには、あまりにも足りない。何より問題なのは、前半と後半のラップタイムの乖離だ。

 

1200メートルまでは異次元のスピードで駆け抜ける。残りの800メートルは、ガス欠状態で失速していくだけ。抑えようとしても、体の設計図が勝手に加速の指令を出してしまう。

 

まるでギアが一速と五速しかない車だ。中間がない。

 

それがカレンモエの最大の壁だった。

 

「もう一本」

 

「ダメだ」

 

即座に却下した。

 

「疲労状態で走って変なフォームが癖になったら取り返しがつかない。休め」

 

タオルを彼女の頭にかけた。悔しそうな顔を、他の誰にも見せないために。

 

 

 

~~

 

 

 

タオルの下から、震える声が聞こえた。泣き声じゃない。唸るような怒り。

 

「どうすれば、もっと長く走れるの。私、ママとは違うのに……心だって違うのに」

 

胸元のジャージを、自分で掴んだ。

 

「顔も、声も、走り方も……それで、スタミナまで。なんで全部一緒なのよ……っ」

 

彼女は努力を重ねている。でも、努力では埋められない壁がある。生まれ持った体の型。心肺の容量。血の質。才能という名の現実が、頭上から冷たく見下ろしていた。

 

「……大丈夫?」

 

小さく震える声が、横から降ってきた。

 

俺とモエが顔を上げると、コース脇の木陰に、一人の小柄なウマ娘が佇んでいた。長い黒髪。右目に前髪がかかった、儚げな少女。

 

「ライスさん……?」

 

モエがタオルをずらして呟く。

ライスシャワー。「淀の刺客」と呼ばれた長距離の鬼だ。

 

おずおずと近づいてきて、心配そうにモエを見つめた。

 

「ごめんね。見えちゃって……。とっても苦しそうだったから」

 

「……見苦しいところを見せました」

 

モエは顔を背け、泥だらけの自分の脚を睨みつけた。

 

「体が、言うことを聞かないんです」

 

吐き捨てるように言った。

 

「頭では『まだ走れる』って思ってるのに、この身体が勝手にブレーキをかけるんです。『お前の走る距離はここじゃない』って」

 

握りしめた拳が震えている。

 

ライスシャワーは静かに首を横に振った。

 

「ううん。……違うよ」

 

胸に手を当てた。

 

「ライスもね、最初は言われたの。『小さすぎて勝てない』って。『マックイーンさんやブルボンさんには敵わない』って」

 

その言葉に、歴史を塗り替えてきた者だけが持つ重みがあった。世間の期待やあるべき姿を、自らの走りで覆し続けてきたウマ娘。たとえそれが、ヒール悪役と呼ばれることになっても。

 

「モエちゃんはもう、決めてるんだよね。みんなが望む『カレンチャン』じゃなくて、誰も望んでいない『カレンモエ』になるって」

 

「……はい。誰に何と言われようと」

 

即答だった。迷いのない目。

 

「世界中が『そっちじゃない』って言っても、自分のエゴを貫き通す。……それはね、とっても痛くて、寂しいことなんだよ」

 

ライスシャワーが、モエの泥だらけの手をそっと両手で包んだ。

 

「体が言うことを聞かないのは、モエちゃんの心が、体の限界を超えて運命と戦ってるからだよ。裏切ってるんじゃない。新しい形になろうとして、悲鳴を上げてるの」

 

「……っ」

 

「その痛みを知っている子だけが、青いバラを咲かせられるんだよ」

 

「青い……バラ?」

 

「うん。『不可能』って言われる花。……ライスは咲かせたかった。モエちゃんも、そうでしょ?」

 

儚げな瞳の奥に、一瞬だけ青い炎のようなものが揺らめいた気がした。

 

「ライスは、応援してる。……頑張ってね、ヒーローさん」

 

「ヒーロー……?」

 

「うん。だって、痛くても走ろうとする子は、ヒーローだよ」

 

モエが、目を伏せた。

何か言おうとして、言葉が見つからなかったのだろう。代わりに、深く頭を下げた。

 

「……ありがとうございます。ライスさん」

 

「あら、ライスさん。こんなところにいたの?」

 

凛とした声が割って入った。コース脇のベンチから、一人のウマ娘が歩み寄ってくる。豪奢な栗毛。練習着姿でも隠しきれない気品。

 

キングヘイローだ。

 

「あ、キングさん……。ごめんね、お待たせしちゃって」

 

「まったく。貴女は放っておくとすぐ迷子になるんだから」

 

キングヘイローは呆れたように言うが、声色は優しかった。モエたちの方に目を向けると、持っていたスポーツボトルをモエに差し出した。

 

「これをお使いなさい。私の特製リカバリードリンクよ。今は飲まないで、寮に戻ってから。運動直後の水分補給とは別に、体を休める時にこそ効果を発揮するの」

 

「え……ありがとうございます。でも、どうして。初めて会うのに」

 

「ええ。でも、貴女の苦しみは分かるわ。……私もね、お母さまの影と戦ってここに立っているの」

 

キングヘイローはそれだけ言って、ライスシャワーの腕を取った。

 

「さ、行きましょう、ライスさん。この子は大丈夫よ。……いい目をしているもの」

 

二人の先輩が、夕闇の中へ並んで去っていった。

 

モエがボトルの冷たさを掌で確かめている。その表情は、さっきよりも引き締まっていた。

 

 

 

~~

 

 

 

翌日。

 

俺はモエを連れて、理科準備室を訪ねた。

 

彼女のスタミナ問題は、精神論では解決しない。データが要る。体の仕組みを正確に把握して、どこをどう補えばいいか知る必要がある。

 

俺の手に負えないなら、知恵を借りるしかない。

 

理科準備室の扉を開けた瞬間、薬品の匂いが鼻を突いた。壁一面に数式が貼られ、専門書が山積みになっている。奥の暗がりから黒い影がササッと走り去っていくのが見えた。

 

「……今、マンハッタンカフェさんが逃げていきませんでした?」

 

「おや、見られたかい? 彼女、私のカフェイン増幅コーヒーの被験体になり損ねてね」

 

白衣を翻して振り返ったのは、アグネスタキオン。「超光速の素粒子」の名を持つ彼女は、自らの肉体を実験台にしてウマ娘の限界を研究するマッドサイエンティストだ。

 

「やあ、いらっしゃい。今日は何の用だい?」

 

「相談があって——」

 

「言わなくても分かるよ。カレンモエ君のスタミナについてだろう?」

 

言い終わる前に言い当てられた。モエが目を丸くする。

 

「な、なんで……」

 

「カレンチャンのあの(むすめ)がスプリント適性でマイルに出ると聞けば、興味を持たない研究者はいないよ。模擬レースの計測データは学園のサーバーに上がるからね。勝手に拝借させてもらった」

 

タキオンは机の上のタブレットを操作して、こちらに向けた。モエの身体データや模擬レースのラップタイムが並んでいる。

 

「結論から言おうか」

 

赤い瞳を細めた。

 

「絶望的だね」

 

「……はっきり言うな」

 

俺が呻くと、タキオンは構わず続けた。

 

「このスタートから200メートルまでの加速度を見たまえ。数値が異常だ。同じ年代のスプリンターの平均を、大きく上回っている。ところが、1400を超えたあたりから急激に速度が落ちる。スピードの出方と、それが持続しない様子。この二つが揃うデータは、瞬発型の筋肉に極端に寄った体にしか出ない。同じ筋肉で、マイルの後半を押し切るのは、構造的に難しい」

 

指がデータの上を滑る。

 

「持久力をつけるトレーニングは、スプリンターの爆発力を削る方向に働く。スピードを守ろうとすれば、スタミナが持たない。あちらを立てればこちらが立たず。完全なジレンマだ」

 

容赦がなかった。研究者として、事実だけを告げている。

 

タキオンは一度タブレットに視線を落とした。何かを確かめるように。だがすぐに顔を上げた。

 

「……面白いデータだよ。まだ分からないことがある」

 

モエの表情が硬くなる。だが、その目に絶望はなかった。昨日のライスシャワーの言葉が、キングヘイローの眼差しが、彼女の中で覚悟に変わっている。「絶望的」という診断は、今や「乗り越えるべき具体的な壁」の形をとっていた。

 

「それでも、やらなきゃいけないんです」

 

モエが絞り出すように言った。

 

「生物学的に無理なら、壊して作り変えればいい。私はトリプルティアラを獲りたい。ママと同じ道なんて、死んでも嫌だ」

 

タキオンは少し目を見開いた。それから、口元が歪んだ。

 

「非合理だねぇ。……だが、嫌いじゃない」

 

一瞬だけ、タキオンの視線がタブレットに戻った。何かの数値を確認するように。だがすぐに顔を上げて、白衣のポケットに手を入れた。

 

「生物学的な限界を超える方法は、なくはない。私の開発した——」

 

「タキオン」

 

俺が遮った。

 

「薬品系は全部却下だ。この子の体で実験はさせない」

 

タキオンが不満げに手を引っ込めた。

 

「融通の利かないトレーナー君だねぇ」

 

「融通を利かせたら俺のトレーナー生命が終わる」

 

タキオンは肩をすくめた。それから、少しだけ真面目な顔になった。

 

「……まあ、正攻法でやるなら、手がないわけじゃない」

 

タブレットをもう一度操作して、別のデータを呼び出した。

 

「生まれ持った体の型は、変えられない。だが、エネルギー供給の効率を上げることはできる。有酸素運動の閾値を引き上げて、乳酸の蓄積を遅らせる。同時に、体幹を強化して走行効率を上げれば、同じスピードでも燃費が改善される」

 

指がグラフの曲線をなぞった。

 

「それと、君の体は出力の調整が極端に苦手だ。全力か停止か、その二択しかない。まずはそこを……いや、これは後でいい」

 

タキオンは途中で言葉を切って、話を戻した。

 

「生物学の壁を壊すのではなく、壁の中でやれることを最大化する。地味だがね。時間もかかる。だが、理論上はマイルまでなら射程圏内に入れられる可能性がある」

 

「マイルまで。……2400は」

 

「現時点では未知数だ。データが足りない。もっと走ってもらわないと、何も言えない」

 

タキオンがタブレットを閉じた。

 

「一つだけ条件がある」

 

「何だ」

 

「定期的にデータを取らせてもらう。心拍数、血中乳酸値、筋電図。全部だ。私の研究にも使わせてもらうよ。貴重なサンプルだからね」

 

最後の一言で、また研究者の目に戻った。

 

モエが俺を見た。判断を委ねる目。

 

「データを取るだけだ。薬は飲まない。それでいいなら」

 

「結構。それで手を打とう」

 

タキオンが手を差し出した。俺は握り返した。

 

理科準備室を出る時、タキオンが背中に声をかけてきた。

 

「トレーナー君」

 

「ん」

 

「面白い子だね、あの子は。……壊れなければ、だが」

 

振り返らなかった。その言葉の重さだけが、背中に残った。

 

 

 

~~

 

 

 

廊下を並んで歩く。窓の外はすっかり暗くなっていた。

 

モエが黙っている。タキオンの診断を、頭の中で消化しているのだろう。

 

「トレーナー」

 

「ん」

 

「マイルまでなら射程圏内、って言ってた。2400は、まだ分かんないって」

 

「ああ」

 

「分かんないってことは、不可能とは言ってないよね」

 

「そういう解釈もできる」

 

「じゃあ、まだやれる」

 

俺は少し考えてから、言った。

 

「タキオンの言う通り、体の型は変えられない。でも、レースは体の作りだけで決まるもんじゃない」

 

「うん」

 

「展開がある。位置取りがある。ペース配分と、仕掛けるタイミングがある。体の足りない部分は、作戦で補う。そのために俺がいる」

 

大袈裟なことは言わなかった。事実を並べただけだ。

 

モエは少し黙っていた。

 

「……トレーナーさ」

 

「ん」

 

「根拠は?」

 

「これから作る」

 

モエが、ふっと鼻で笑った。

 

「正直でいいね。嘘つくよりマシ」

 

「嘘は言わない。代わりに、保証もしない」

 

「上等。私も保証なんか求めてない」

 

歩幅が少し早くなった。さっきまで俯いていた顔が、前を向いている。

 

「明日からのメニュー、きつくなるぞ」

 

「望むところ」

 

「タキオンの薬には手を出すなよ。絶対に」

 

「分かってるって」

 

校舎の廊下を抜けて、寮への道に出る。春先の夜風がまだ冷たい。

 

カバンの中には、タキオンから受け取ったデータのコピー。加速度の曲線。速度の減衰。心拍数の推移。乳酸カーブ。冷たい数字の羅列。

 

でも、数字は地図にもなる。どこが足りなくて、何を補えばいいか。それが分かるだけで、闇雲に走るよりずっとマシだ。

 

隣を歩くモエの横顔は、もう泣きそうじゃなかった。

怒っていた。自分の体に。自分の血に。自分を縛る全てのものに。

 

その怒りが続く限り、この子は走り続ける。

 

俺の仕事は、その怒りが体を壊す前に、正しい方向へ導くことだ。

 

「寮に戻ったら、キングヘイロー先輩のドリンク飲んでおくんだぞ。せっかくもらったんだから」

 

「うん。……あの人、なんで私にくれたんだろ」

 

「同じ壁を知ってるからじゃないか?」

 

「……そっか」

 

それ以上は、どちらも何も言わなかった。

 

メイクデビューが近い。1番人気確実。「カレンチャンの娘」に注がれる、過剰な期待。そして、距離の壁。

 

今はまだ、前だけを向いて走るしかない。




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