4月上旬、日曜日。
時刻は20時を回っていた。
阪神レース場の特設ステージは、煌びやかな照明とレーザーライトに彩られている。
G1・桜花賞のフィナーレを飾る、ウイニングライブ。
本来であれば、新たな女王の誕生を祝い、敗者たちも互いの健闘を称え合う、最高に華やかで熱い祝祭の時間だ。
だが。
今日のライブ会場には、得体の知れない重力がのしかかっていた。
観客たちはペンライトを振っている。
曲に合わせてコールを入れている。
けれど、その声には覇気がなく、どこか探り合うような、戸惑いの色が混じっていた。
誰もが、ステージのセンターに立つ「彼女」の顔色を窺っていた。
――The Red Ace: Daiwa Scarlet
『♪~』
アップテンポな楽曲が終わり、アウトロが流れる。
アタシは荒い息を整えながら、マイクを握りしめた。
スポットライトが、アタシを照らす。
ダイワスカーレット。
桜花賞バ。
今日の主役。
(……やってられない)
アタシは、眼下に広がるペンライトの海を見渡した。
綺麗だ。
無数の光が揺れている。
けれど、その光の向こう側にある顔は、どれもこれも引きつっている。
まるで、葬式にでも参列しているような顔だ。
「おめでとう、スカーレット……! すごかったぞ……!」
パラパラと飛んでくる声援。
その声には、称賛よりも罪悪感が滲んでいる。
レース直後の、アタシの「咆哮」。
あれを聞いた彼らは、自分たちが無邪気に楽しんでいた「物語」が、実は残酷な凶器だったことに気づいてしまったのだ。
隣を見る。
2着のウオッカ。
あいつも、いつものような「負けて悔しい」という顔ではない。
客席を睨むように見据え、不機嫌そうにしている。
「やってらんねえよ」という心の声が聞こえてきそうだ。
反対側には、3着のアストンマーチャン。
彼女は完璧な「営業用スマイル」を貼り付けているが、その瞳の奥は氷点下だ。
レンズの向こうの観客を、軽蔑しているのが分かる。
そして。
アタシの視線は、ステージの端へ向かう。
本来なら、そこにいるはずだったもう一人の主役。
1番人気を背負い、アタシと死闘を繰り広げ、そして壊された少女。
カレンモエ。
彼女はいない。
16着という大敗。
ウイニングライブへの参加権すらない。
その「不在」が、ぽっかりと空いた黒い穴のように、ステージの上に影を落としていた。
曲が終わり、MCの時間になる。
会場が静まり返る。
アタシが何を言うのか、固唾を飲んで見守っている。
「……」
アタシはマイクを口元に寄せた。
愛想笑いなんてしてやらない。
気の利いたジョークも言ってやらない。
「……満足? アンタたちが望んだレースは、これだったわけ?」
低く、冷たい声で告げる。
会場がどよめく。
「アタシたちは命懸けで走ってた。あいつだって、極限まで仕上げてきてた。他の14人のウマ娘だって、その脚に全てを懸けてゲートに入ってたのよ」
アタシは観客席を睨みつけた。
「最高の勝負になるはずだった。誰もが死力を尽くして、最後にアタシが勝つ。そういうレースになるはずだったのよ。……アンタたちが、土足で踏み荒らすまではね」
それだけ言い捨てて、アタシはマイクを下ろした。
歓声は上がらない。
代わりに、痛いほどの沈黙と、後悔のざわめきが広がっていく。
(一生、後悔してなさい)
アタシは心の中で吐き捨てた。
この重苦しい空気こそが、アンタたちへの罰だ。
勝者を祝うこともできず、素晴らしいレースに酔うこともできず、ただ自分たちの愚かさを噛み締めて帰ればいい。
アタシは踵を返し、誰よりも早くステージを降りた。
背後で、ウオッカとマーチャンが続く気配がする。
誰も、観客席を振り返らなかった。
~
――Backstage: The Rivals
舞台袖から控室へと続く、無機質なコンクリートの通路。
観客の視線が消えた瞬間、アタシは頭上のティアラを乱暴に外した。
勝負服の一部である、銀色の装飾。
これはただの飾りじゃない。
アタシが夢見る「トリプルティアラ」への決意の証。
誰よりも強く、誰よりも気高くあるという、自分自身への誓いだ。
手の中にある、その冷たい感触を見つめる。
今日、アタシは桜花賞を勝った。
記録上は、間違いなくこのティアラに相応しい「一冠目」を手に入れたことになる。
(……これが、アタシの一冠目?)
あのお通夜みたいな空気。
罪悪感の混じった拍手。
そんな中で手に入れたタイトルに、何の価値がある?
「……ふざけんじゃないわよ」
アタシは『1番』になるために走っている。
誰からも認められる、完璧で最強のウマ娘になるために。
なのに、その輝かしいはずの第一歩となる
悔しさでも、悲しさでもない。
ただひたすらに、自分の描いていた「完璧な覇道」を汚されたことへの怒りが、腹の底から湧き上がってくる。
「……クソッ!!」
アタシは叫び、壁際のパイプ椅子を蹴り上げた。
ガシャアン! と派手な音が響き、通路の空気が凍りつく。
「おい、荒れてんな」
後ろからついてきたウオッカが、呆れたように、けれど同情を含んだ声で言った。
彼女もまた、汗を拭うタオルを苛ただしげに首にかけている。
「……納得いかないわよ、こんなの」
アタシは壁に背を預け、ズルズルと座り込んだ。
手の中のティアラを、強く握りしめる。
「あいつの足は残ってた。あのままなら、ゴール前まで叩き合いになったはずよ。アタシが勝つに決まってるけど……でも、あんな勝ち方じゃ意味がないのよ!」
1番になること。
それは、最高のライバルを、最高のかたちでねじ伏せてこそ意味がある。
あんな風に、横槍を入れられて自滅した相手を置き去りにしても、アタシのプライドは満たされない。
「同感ですね」
淡々とした声が割り込む。
アストンマーチャンだ。
彼女は手鏡を取り出し、崩れてもいない前髪を整えながら言った。
「カレンモエという『演者』を舞台から引きずり下ろしたのは、観客自身でした。……おかげで、物語の結末はぐちゃぐちゃです」
ウオッカが壁に寄りかかり、天井を仰ぐ。
「……俺も、ムカついてるぜ」
彼女の声は低かった。
「勘違いすんなよ。俺も、他の出走者も、今日のために死ぬ気で仕上げてきたんだ。だからこのレースに価値がないなんて思わねえし、お前の勝利にケチつける気もねえ」
ウオッカは拳を握りしめる。
「ただな……『モエとの決着』って意味じゃ、最悪だ。サビの途中で曲を止められた気分だぜ。あいつがあれだけ欲しがってた『勝利』を、実力負けじゃなく、あんなアクシデントで手放すことになるなんてな……。俺たちにとっても、あいつにとっても、礼を欠いてるだろうが」
勝者も、敗者も、誰もが「出し切った」と言えない結末。
そこに残ったのは、後味の悪さと、やり場のない憤りだけ。
「……あいつ、終わると思う?」
アタシが問うと、二人は沈黙した。
16着。大差のタイムオーバー。
そして、あの異常な止まり方。
普通のウマ娘なら、メンタルが再起不能になってもおかしくない。
「……普通なら、終わりだろ」
ウオッカが視線を逸らす。
「体が無事でも、心が折れてる。あんな風に自分を見失った奴が、またG1の舞台に戻ってこれるとは思えねえ」
「そうでしょうか」
マーチャンが、鏡越しにアタシたちを見た。
「私は……彼女の目が、死んでいるようには見えませんでしたよ」
「は?」
「あの一瞬。私の横を通り過ぎて沈んでいく時。彼女の目は、虚ろでしたが……同時に、何かどす黒い執着のようなものが渦巻いていました。あれは、諦めた者の目ではありません」
マーチャンはパタンと鏡を閉じた。
「お気をつけて。傷ついた獣は、時に予想外の場所から喉笛を食らいついてくるものです」
「……フン」
アタシは立ち上がり、ティアラを握りしめた。
手のひらに食い込む痛みが、アタシの覚悟を再確認させる。
「上等じゃない。可哀想な悲劇のヒロインで終わるようなタマなら、最初からアタシのライバルじゃないわ」
もし這い上がってくるなら、来ればいい。
その時は、誰にも邪魔させない。
アタシとあいつだけの世界で、今度こそこのティアラに相応しい『完璧な勝利』を刻んでやる。
「行くわよ。……お疲れ様会くらい、パーッとやらないと割に合わないわ」
アタシは歩き出した。
二人のライバルが、無言でその背中についてくる。
通路の向こうの闇は深かったが、アタシたちの足音だけが、力強く響いていた。
~
――The Audience (Social Media)
翌日。
月曜日の朝。
世間の空気は、一夜にして反転していた。
昨日の桜花賞の映像、特にレース終盤と、その後のダイワスカーレットの激怒シーンが、SNSや動画サイトで拡散され続けている。
そして、ある一つの「動画」が、爆発的な再生数を記録していた。
それは、ゴール前200メートルのスタンド最前列で撮影された
ブレる映像。
絶叫する撮影者。
そして、そのマイクがはっきりと拾っていた、あの一言。
『いけぇぇッ!! カレンチャン!!! 差せえぇぇぇッ!!!』
その声が響いた直後、画面の奥で、黒い勝負服の少女がガクンと失速する様子までが、鮮明に映っていた。
『特定班、仕事早すぎ』
『これ言ったの誰だよ』
『戦犯じゃん』
『悪気がないのが一番キツイわ』
ネット掲示板やSNSのタイムラインは、その「叫んだ男」へのバッシングで溢れ返っていた。
「空気が読めない」「選手の邪魔をするな」「出禁にしろ」
正義の棒を持った人々が、一人の愚か者を袋叩きにしている。
だが、それと同時に。
もっと大きな、そしてある意味で「残酷な」うねりが生まれていた。
『モエちゃん、かわいそう』
『プレッシャー凄かったんだろうな……』
『俺たちも、無意識にカレンチャンを求めてたかもしれない』
『ごめんね、モエちゃん』
同情。
これまで、「カレンチャンの再来だ」「夢を見せてくれ」と無責任に煽り立てていた人々が、一斉に掌を返した。
彼らは自分たちも「加害者」の一員であったことを棚に上げ、あるいは安易な謝罪で
ニュース番組のコメンテーターが、神妙な顔で語る。
「彼女はまだデビューしたばかりの少女です。偉大な母を持つ重圧は、計り知れなかったでしょう。我々は彼女を温かく見守るべきでした」
スポーツ紙の見出し。
『悲劇の桜花賞。ファンの一言が狂わせた歯車』
『壊された天才少女。カレンモエ、再起の道は』
世界は、彼女を「強き挑戦者」の座から引きずり下ろし、「可哀想な悲劇のヒロイン」という新しい檻の中に閉じ込めようとしていた。
その優しさが、彼女にとって最も猛毒であることにも気づかずに。
~
――Recorder: Aston Machan
学園の寮。
夕暮れ時だというのに、私たちの部屋はカーテンが閉め切られ、闇に沈んでいました。
私は、自分のベッドで本を読んでいました。
……いえ、読んでいるフリをしていました。
私の意識は、向かいのベッドに向けられています。
そこには、丸まった布団の塊があります。
カレンモエさん。
昨日の夜、レース場から戻ってきて以来、彼女は一度も布団から出ていません。
食事も摂らず、水も飲まず。
ただ、死体のように静まり返っています。
部屋の空気は、
換気をしていないせいだけではありません。
彼女から発せられる「負のオーラ」が、部屋中の酸素を食いつぶしているかのようです。
(……まるで、腐敗が始まっているようですね)
私は、手元のカメラのレンズキャップを閉じたままにしました。
今の彼女を撮ることは、記録者の美学に反します。
そこにいるのは「カレンモエ」ではありません。
魂が抜け落ちた、ただの「抜け殻」です。
そして、抜け殻が腐り落ちていく過程など、美しくもなんともありません。
ブブッ。ブブッ。
静寂を破るのは、断続的に鳴り響くバイブレーションの音だけ。
枕元に放置された彼女のスマートフォン。
画面が点灯するたびに、暗い部屋が一瞬だけ青白く照らされます。
通知のポップアップが見えます。
SNSのメンション、ダイレクトメッセージ、ニュースアプリの速報。
『モエちゃん元気出して』
『君は悪くないよ』
『ゆっくり休んで』
『ずっと待ってるから』
画面を埋め尽くす、無数の「優しい言葉」。
顔も知らない他人からの、無償の愛と同情。
(……残酷ですね)
私は思います。
彼女が必死に「私を見て」と叫んでいた時は、誰も彼女を見ようとしなかった。
幻影ばかりを追いかけていた。
なのに、彼女が壊れて、走れなくなって初めて、世界は彼女を「一個人」として扱い、優しさを押し付けてくる。
死に体になって初めて優しくされるなんて、
彼女が求めていたのは、そんな湿っぽい献花ではなく、ヒリつくような喝采だったはずです。
(……ああ、息苦しい)
私は本を閉じました。
ここにこれ以上いると、私までその腐敗に巻き込まれてしまいそうです。
彼女に必要なのは、同室者の気遣いなどではなく、もっと劇的な……あるいは暴力的な「何か」でしょう。
その時。
布団の隙間から、白く細い腕が伸びてきました。
幽霊のような手つき。
彼女の手は、点滅するスマートフォンを掴み……。
画面を見ることなく、裏返して机の上に叩きつけました。
ガンッ!
硬い音。
それは、明確な「拒絶」の意思表示でした。
彼女は、世界からの優しさを、汚物のように嫌悪している。
その事実に、私は少しだけ安堵しました。
(……まだ、完全には死んでいませんね)
怒りがあるうちは、まだ終わっていません。
ですが、その怒りの矛先がどこへ向かうのか。
私には、それが少し恐ろしくもありました。
私は静かに立ち上がり、部屋を出る準備をしました。
ここから先は、私のような観測者がいていい場所ではありませんから。
~
――Dorm Leader: Fujikiseki
夕闇が迫る、学園の女子寮前。
冷たい雨が、アスファルトを黒く濡らしていた。
私は寮のエントランスで、傘をたたむ一人の男を見ていた。
絢原トレーナー。
カレンモエちゃんの担当だ。
「……やあ。待っていたよ」
私が声をかけると、彼はビクリと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
「……フジキセキ、さん」
その顔を見て、私は言葉を詰まらせそうになった。
酷い顔だ。
頬はこけ、目の下には濃い
まるで、地獄の底から這い上がってきた亡者のようだ。
この数日、彼がどれほどの後悔と自己嫌悪に苛まれていたのか、その表情だけで痛いほど伝わってくる。
「……無理を言ってすみません。男子禁制なのに」
彼は深々と頭を下げた。
その声は枯れ果てていた。
「構わないよ。……ポニーちゃんの様子が心配なのは、私も同じだからね」
私は努めて明るい声を出した。
ここで私が暗い顔をすれば、彼はその重圧で潰れてしまうかもしれない。
「さあ、入りたまえ。本来は厳禁だが……今夜だけは、私の『魔法』で君を透明人間にしたことにしておこう」
私は寮のオートロックを解除し、重いガラス戸を開けた。
彼は、泥沼に足を踏み入れるような重い足取りで、
「……彼女は、まだ何も?」
廊下を歩きながら、彼は問うた。
「ああ。水すら飲んでいないようだ。マーチャンくんが気を利かせて部屋を出てくれたが……中の空気は、重いままだよ」
私は彼の背中を見つめた。
華奢で、頼りない背中。
けれど、その背中には今、一人の少女の命運がのしかかっている。
(残酷なものだね、トレーナーという仕事は)
私は心の中で呟く。
夢を見させるのも彼らなら、その夢が砕け散った破片で血まみれになるのも彼らだ。
そして、傷ついた少女を再び立ち上がらせることができるのも、また彼らしかいない。
目的の部屋の前に着く。
分厚い扉が、世界を隔絶するように立ちはだかっていた。
「ここだ」
私は立ち止まり、彼に向き直った。
「トレーナー君。……君は、あの子に何を伝えるつもりだい?」
試すような問いかけ。
意地悪だとは分かっている。
けれど、聞かずにはいられなかった。
「『頑張れ』かい? それとも『もういい』かい?」
「……分かりません」
彼は正直に答えた。
嘘のない、血の滲むような声だった。
「かけるべき言葉が見つからないんです。どんな言葉を選んでも、今の彼女には猛毒になる気がしてならない。……それでも、行かなければならない」
彼は拳を握りしめ、顔を上げた。
その瞳には、絶望と、微かな覚悟の光が宿っていた。
「俺が彼女をあの場所に連れて行ったんです。だから……顔を見て、生きていてほしいと。それだけは伝えます」
「……そうか」
私は、ふっと表情を緩めた。
十分だ。
言葉なんていらない。
彼がボロボロになってまで会いに来た、その事実だけが、今の彼女に届く唯一の薬になるかもしれない。
「なら、行きなさい」
カチャリ、と私は持っていたマスターキーで鍵を開けた。
「時間は10分程度。ま、多少過ぎても……私がたまたま歌でも歌って、時間を忘れてあげるさ」
「……ありがとうございます」
「礼には及ばないよ。……ポニーちゃんの笑顔が戻るなら、安いものだ」
フッ、と衣擦れの音をさせて、私は背を向けた。
ここから先は、私のような寮長の出る幕ではない。
共犯者である彼らだけの時間だ。
背後で、ノックの音がした。
返事はない。
重い扉が開く音がして、そして閉じた。
廊下に、再び静寂が戻る。
私は壁に背を預け、目を閉じた。
どうか、この嵐が過ぎ去った後に、小さな希望の芽が残っていますようにと祈りながら。
~
―― Anti-Hero: Curren Moe
聞き慣れた足音が近づいてくる。
トレーナーだ。
彼はゆっくりと、泥の中を歩くように部屋に入ってきた。
椅子を引き寄せる音。
お盆が机に置かれる音。
漂ってくるお粥の匂いが、空っぽの胃を刺激するどころか、吐き気を催させた。
「……モエ」
彼はベッドの脇に座った。
布団の膨らみに向かって、語りかける。
「マーチャンは、気を遣って談話室へ行ってくれた。……顔だけでも、見せてくれないか」
「……」
「……モエ」
懇願するような響き。
私は観念して、のろりと布団から顔を出した。
「……っ」
トレーナーが息を呑むのが分かった。
今の私は、きっと酷い顔をしている。
目は泣き腫らして溶けかけ、肌はカサカサで、唇はひび割れている。
「カワイイ」の欠片もない、幽霊のような姿。
「……ネット、見た?」
私の第一声は、掠れたノイズのようだった。
「……ああ」
彼は否定しなかった。
その苦渋に満ちた表情だけで、今の世の中がどうなっているか、痛いほど伝わってくる。
私は乾いた笑い声を漏らした。
「はは……。みんな、優しいね」
枕元のスマホを手に取る。
画面を点灯させると、また新しい通知が積み重なっていた。
『モエちゃん元気出して』
『君は悪くないよ』
『ゆっくり休んで』
『もう走らなくていいんだよ』
「見てよ、これ」
私は画面をトレーナーに向けた。
「『カレンチャンって呼んでごめんね』だって。『君は君だよ』だって。『辛かったね』だって」
指先が震える。
画面の向こうにある無数の善意が、まるで無数の白い
それが私の体に這い上がり、ベタベタと張り付き、私の輪郭を溶かしていく。
「……ふざけんな」
私はスマホをベッドに投げつけた。
「勝手に期待して、勝手に押し付けて、勝手に壊しておいて……。今度は『可哀想』?」
「モエ、落ち着け……」
「落ち着いてなんかいられない……! ペット扱いしないでよ! 私は、アンタたちに慰められるために走ってたんじゃない!」
叫び声が、狭い部屋に響く。
入り口の外にいるフジキセキさんの気配がピクリと動いたが、入っては来なかった。
彼女は約束通り、聞こえないフリをしてくれている。
「敗北」なら、まだ耐えられた。
力負けなら、歯を食いしばって立ち上がれた。
スカーレットに負けたことや、ウオッカに負けたことは、悔しいけれど納得できる。
でも、これは違う。
これは「侮辱」だ。
「壊れちゃった可哀想なお人形」として、腫れ物に触るように扱われる屈辱。
「もう走らなくていい」という言葉は、私にとって「死ね」と言われるより残酷な死刑宣告だ。
「……許さない」
どす黒い感情が、胃の底から湧き上がってくる。
私を壊した男も。
それを見て見ぬふりをしていた観客も。
今さら善人面して慰めてくる奴らも。
そして何より、あんな声一つで壊れてしまった、弱くて脆い私自身も。
全部、許せない。
「見返してやりたい……」
「モエ?」
「同情なんて、二度とできないように。……私のことを見て『可哀想』なんて言った口を、縫い合わせてやりたい」
私の瞳に、暗い炎が灯るのを感じた。
それは、アスリートとしての健全な闘志ではない。
世界への復讐心と、自己破壊衝動が混ざり合った、ドロドロとした呪詛だ。
「トレーナー」
私は顔を上げ、彼を見た。
彼は、私の異様な気配を感じ取ったのか、強張った顔で私を見つめ返している。
「マイルで負けたから、可哀想なの? ……じゃあ、もっと酷いことになれば、みんな黙るかな」
「……何を言っているんだ」
私は視線を動かし、壁に掛かったカレンダーを見た。
5月。
その日付の欄に、赤く丸がつけられている。
本来なら、スカーレットやウオッカが目指すはずの場所。
そして、ママが絶対に選ばなかった場所。
「……ねえ、トレーナー」
私の唇が、歪な弧を描く。
「
「ッ……!?」
トレーナーが椅子を蹴って立ち上がった。
ガタン、と大きな音がする。
『……大丈夫かい?』
フジキセキさんが心配そうに声をかけてくるが、トレーナーは「大丈夫です」と短く返し、私に詰め寄った。
「正気か!? 2400mだぞ! マイルですら……あんなことになったのに! スプリンターのお前にとって、あれは未知への挑戦じゃない。ただの自殺行為だ!」
「だからだよ」
私は言った。
声は震えていたけれど、心は冷え切っていた。
「スプリントはママの庭。マイルでも、結局ママの影がちらついた。……なら、ママが絶対に行かなかった場所に行くしかない」
あそこなら、誰も「カレンチャンの夢の続き」なんて言わない。
あそこなら、誰も「勝てる」なんて思わない。
あそこなら、私はただの「無謀な挑戦者」として、誰の幻影も借りずに死ねる。
「同情されるくらいなら……呆れられるほどの狂気を見せてやる」
「私が私として死ねる場所は、あそこしかないの」
「ダメだ!」
トレーナーが私の肩を掴んだ。
強く、痛いほどに。
「俺はお前を殺したくない! 才能を潰したくない! 今は休んで……時間をかけて、またスプリントからやり直せばいい。お前にはその力がある!」
「……やだ」
私は首を振った。
「スプリントに戻ったら、また『カレンチャン』が待ってる。また『いい子』のフリをして、ママの真似事をして生きるの? ……そんなの、死んでるのと同じだよ」
私は、彼の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳に、ボロボロの私が映っている。
「お願い、トレーナー。私を生かすために……私を殺して」
「……ッ」
彼は言葉を失い、苦悶の表情で俯いた。
その背中は、あまりにも小さく見えた。
コンコン。
扉が、軽く叩かれる。
『……悪いね、そろそろ時間だ』
フジキセキさんの声には、まだ待ってあげたいという迷いと、それでも寮長として線を引かなければならない義務感が滲んでいた。
トレーナーは、ふらつく足取りで立ち上がった。
何も言わなかった。
「イエス」とも「ノー」とも。
ただ、部屋を出て行くその背中には、鉛のような重い決断の予感が張り付いていた。
部屋に、再び静寂が戻る。
外では、春の嵐が窓を叩き続けていた。
私の心の中の嵐と、共鳴するように。