アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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ちょっとあらすじ諸々変えました(白目)
確かにちょっと苦手な層にお見せした可能性もあるので反省してます。
ここからの事を考えると余計……ね……。


32話 世界を敵に回しても

 

ガチャリ、と重い鉄の扉が閉まる音がした。

 

背後で閉ざされたその音は、まるで牢獄の錠が下ろされたかのように、冷たく、決定的な響きを持っていた。

 

俺は扉に背中を預けたまま、深く、長く息を吐き出した。

肺の奥底に(よど)んでいた、鉛のように重たい空気が、少しだけ抜けていく。

けれど、代わりに吸い込んだ空気は、湿っぽく、カビ臭い絶望の味がした。

 

廊下には、まだ窓を叩く冷たい雨音が響いている。

その音は、俺の鼓動のリズムを乱すノイズのようでもあり、罪人を責め立てる拍手のようでもあった。

 

「……終わったかい?」

 

廊下の奥、薄暗い照明の下で腕を組んで待っていた人影が、静かに歩み寄ってきた。

寮長のフジキセキは、俺の顔を覗き込むようにして立ち止まる。

 

その鋭くも美しい瞳が、俺の表情筋の僅かな震えさえも見逃すまいと観察していた。

 

「……随分と、見ていられない顔をしているね」

 

フジキセキは、芝居がかった仕草で肩をすくめた。

 

「まるで、悪魔と契約書を交わして、その対価に魂を差し出してきたような顔だ」

 

「……あながち、間違いじゃありませんよ」

 

俺は力なく笑った。

頬が引きつるのが分かる。

 

悪魔との契約。

あるいは、心中への同意書への署名。

どちらにせよ、俺は今、教育者としての魂をあの部屋に置き去りにしてきたのだ。

 

「彼女は……どうするつもりだい?」

 

フジキセキの声色が、僅かに低くなる。

寮長としてではなく、かつてターフを沸かせた一人の偉大なウマ娘としての問いかけ。

 

俺は一度だけ目を閉じ、瞼の裏に焼き付いているモエの姿を反芻した。

ボロボロの姿で、けれど瞳だけは暗い炎で燃え盛っていた少女。

『私を殺して』と懇願した、あの声を。

 

「走ります」

 

俺は告げた。

 

「ほう」

 

フジキセキは片眉を上げた。

 

「それは朗報だ。……少し休んで、次はNHKマイルカップかな? それとも、夏のスプリント戦線へ向けてじっくり調整か? どちらにせよ、彼女のスピードがあれば、再起は難しくないはずだ」

 

彼女の言葉は、常識的で、温かい。

誰もがそう考える。

一度(つまづ)いたなら、得意な距離に戻って自信を取り戻すべきだと。

それが「再生」の正しい手順だ。

 

だからこそ、俺の次の言葉は、その常識を土足で踏み躙ることになる。

 

「いいえ」

 

俺は首を横に振った。

 

「オークスです」

 

「…………は?」

 

常に余裕と微笑みを絶やさない、あのフジキセキの顔が凍りついた。

理解が追いついていない。

いや、単語の意味は理解できても、文脈として成立していないのだ。

 

「聞き間違いかな? ……優駿牝馬。東京、芝2400メートル。あの、オークスのことかい?」

 

「ええ。間違いありません」

 

「……正気かい?」

 

フジキセキの声から、演劇的な抑揚が消えた。

そこにあるのは、純粋な驚愕と、底知れない懸念。

 

「カレンちゃんの娘……カレンモエちゃんは、誰がどう見ても生粋のスプリンターだ。筋肉の質、心肺機能、気性。その全てが『一瞬の閃光』となるために設計されている。一昨日の桜花賞……たかだか1600メートルですら、あんな残酷な結果になったのに。それを、2400メートル?」

 

彼女は一歩、俺に詰め寄った。

 

「無謀というレベルじゃない。それは『虐待』だ。才能ある若者を、大人のエゴで壊すつもりかい? トレーナー君」

 

鋭い糾弾。

当然だ。彼女の言うことは正しい。

100人中100人の関係者が、同じことを言うだろう。

 

だが、俺は視線を逸らさなかった。

 

「ええ。正気じゃありません」

 

俺は認めた。

 

「ですが……彼女が息をするためには、そこしかないんです」

 

「息をするため?」

 

「スプリントの世界にいる限り、彼女は『カレンチャンの幻影』から逃げられない。呼吸をするたびに、母親と比較され、母親のコピーであることを強いられる。……今の彼女にとって、適性距離(そこ)は安住の地じゃない。酸素のない水槽なんです」

 

俺は拳を握りしめた。

 

「彼女が『自分』として死ねる場所。誰の影も踏まず、誰の真似もしないで、ただのカレンモエとして燃え尽きることができる場所。それが、誰も到達を期待していない、2400メートルの彼方なんです」

 

「……」

 

フジキセキは黙り込んだ。

長い沈黙。

雨音だけが、二人の間を埋める。

 

やがて、彼女は深いため息をつき、壁に背を預けた。

 

「……『走る』ということは、生きることの肯定だと思っていたけれど。まさか、死ぬために走ることを選ぶ子が居るなんてね」

 

彼女は天井を仰いだ。

 

「止めないよ。君たちの目を見れば、半端な覚悟じゃないことくらい分かる。私が寮長権限で止めたところで、あの子は部屋の中で腐っていくだけだろうからね」

 

「……ありがとうございます」

 

俺は頭を下げ、歩き出した。

足取りは重いが、もう迷いはない。

 

すれ違いざま、フジキセキが小さく呟くのが聞こえた。

 

「……(いばら)の道どころじゃない。地獄の一丁目へようこそ、ってやつだね」

 

その通りだ。

そして俺は、彼女の手を引いて、その地獄の最前列へ飛び込むと決めたのだ。

 

 

翌日、火曜日。

 

雨は上がっていたが、空は分厚い雲に覆われ、鉛色に沈んでいた。

学園の空気もまた、日曜日の衝撃を引きずったまま、重苦しく停滞している。

 

俺は、中央校舎の一角にある「レース管理課」の窓口に向かっていた。

廊下を行き交う生徒やトレーナーたちが、俺の姿を見てはヒソヒソと何事かを囁き合っている。

 

『あ、あの人……』

『カレンモエの……』

『見た? ネットの反応……』

 

突き刺さる視線。

好奇心、憐れみ、そして侮蔑。

それらを無視して、俺は窓口のカウンターに一枚の書類を置いた。

 

「出走登録をお願いします」

 

対応に出たのは、ベテランの男性職員だった。

彼は事務的に書類を手に取り、眼鏡の位置を直しながら内容を確認し――。

その手が、ピタリと止まった。

 

「……えーと、絢原トレーナー。書き間違いではありませんか?」

 

職員は、怪訝な顔で顔を上げ、書類を俺の方へ突き返してきた。

 

「カレンモエ選手。次走登録、優駿牝馬(オークス)。……これ、NHKマイルカップの間違いですよね? あるいは、サマースプリントシリーズのどれかとか……」

 

彼の反応は、昨夜のフジキセキと同じだった。

いや、もっと即物的で、事務的な拒絶だ。

「スプリンターがオークスに出るはずがない」という常識が、彼の脳内で自動的にエラーを吐いているのだ。

 

「いいえ、間違いありません」

 

俺は淡々と、しかしはっきりと答えた。

 

「オークスです。東京、芝2400メートル。受理をお願いします」

 

「いや、しかし……適性が……」

 

職員は困惑し、周囲のスタッフに助けを求めるような視線を送った。

ざわつきが広がる。

奥のデスクにいた管理課長らしき人物までが、驚いた顔でこちらを見ている。

 

「先日のレース、私も見ていましたよ。彼女は明らかに距離の壁に苦しんでいました。それなのに、さらに距離を伸ばすなんて……。アスリートの管理義務という観点からも、少し疑問符がつきますが」

 

遠回しな批判。

「お前は生徒を壊す気か」と言外に言っている。

 

「彼女の適性は、担当トレーナーである私が一番理解しています」

 

俺はカウンターに手をつき、身を乗り出した。

 

「その上で、彼女と話し合い、決定したローテーションです。規則上、賞金を満たしているウマ娘が出走登録をすることに、何の問題もありませんよね?」

 

「それは……そうですが」

 

「なら、受理してください。今すぐに」

 

俺の剣幕に押され、職員は「分かりました……」と渋々といった様子で書類を引き寄せた。

 

ダン、と。

登録印が押される音が、静まり返ったオフィスに響いた。

 

乾いた、無機質な音。

だがそれは、俺たちが世界に対して放った、宣戦布告の銃声だった。

 

 

数時間後。

レース管理課の公式サイトから、週末の特別登録ウマ娘一覧が更新された。

そして、夕方のニュースサイトやSNSで、その情報が一斉に拡散された。

 

『カレンモエ、オークスへ出走登録』

 

その一行の文字列が、世界を炎上させた。

 

 

 

 

 

 

――Social Media Timeline

 

『は? カレンモエがオークス?』

『誤報だろw 運営仕事しろ』

『いやマジで登録されてるぞ、公式サイト見てみろ』

『トレーナー何考えてんの?』

 

ネットの海は、当初は困惑に包まれていた。

「まさかそんな馬鹿な」「何かの間違いだろう」という反応が大半だった。

だが、時間が経ち、それが「事実」であると確定した瞬間、困惑はどす黒い「怒り」へと変貌した。

 

『虐待だろこれ』

『スプリンターを2400mで走らせるとか正気か?』

『一昨日の桜花賞のアレ見て何も学んでないのか』

『親の七光りで無理やりねじ込んだのかよ』

『カレンチャンが泣いてるぞ』

『絢原トレーナー、無能確定』

『モエちゃんを殺す気か』

『学園は何やってんだ、止めろよ』

 

罵詈雑言の嵐。

昨日まで「可哀想なモエちゃん」「ゆっくり休んで」と同情を寄せていた善意の人々が、今度は一転して「無能なトレーナーから可哀想な少女を守る正義の騎士」となって、一斉に石を投げ始めた。

 

ニュースサイトも、こぞってこの話題を取り上げた。

PVには絶好の燃料だ。

 

『迷走するカレンモエ陣営。適性無視のオークス挑戦に批判殺到』

『専門家も苦言。「アスリートへの敬意を欠いたローテーション」』

『”スプリントの女王”の娘に課せられた過酷すぎる試練』

 

テレビのワイドショーでは、元G1ジョッキーの評論家が、もっともらしい顔で語っている。

 

「いやあ、これはナンセンスですね。彼女の筋肉の付き方、走法、気性。どれを見ても生粋のスプリンターです。人間で言えば、100メートル走の選手にフルマラソンを強いるようなものです。完走すら危ういですし、何より故障のリスクが高い。トレーナーは一体何を見ているのか……良識を疑いますよ」

 

正論だ。

反論の余地など1ミリもない、完璧な正論。

世界中の誰もが、俺を責める権利がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

――The Red Ace & The Suicide Volunteer

 

夕暮れ時。

学園の正門付近は、マスコミを避けるために早足で帰宅する生徒たちでざわついていた。

 

人目を避けるように、人気のない並木道のベンチに座っていたカレンモエの前に、一つの影が落ちた。

 

「……こんなところで、何してんのよ」

 

不機嫌そうな、けれど聞き慣れた声。

モエが顔を上げると、そこには腕を組み、仁王立ちするダイワスカーレットがいた。

彼女の青い瞳は、呆れと、隠しきれない苛立ちで揺れている。

 

「……何?」

 

モエの声は、枯れ葉のように乾いていた。

 

「何、じゃないでしょ。ニュース見たわよ」

 

スカーレットは、スマホの画面をモエに見せた。

『カレンモエ、オークスへ出走』の文字が躍っている。

 

「アンタ、本気? スプリンターが2400なんて、正気の沙汰じゃないわよ」

 

「……そうだよ」

 

「は?」

 

「正気じゃない。……自分でも分かってる」

 

モエは淡々と答えた。

その表情には、迷いも、怯えも一切ない。

ただ、事実を事実として受け入れているだけの、能面のような静けさがあった。

 

「……アンタね、アタシたち、遊びで走ってるんじゃないのよ。G1の舞台は、万全のウマ娘たちが死力を尽くす神聖な場所。思い出作りや自分探しで枠を埋められたら迷惑なの」

 

スカーレットの正論が突き刺さる。

だが、モエの心にはもう、その棘さえ届かない。

 

「……何を言っても、もう無駄だよ。スカーレットちゃん」

 

モエは、透明な瞳でスカーレットを見つめ返した。

 

「笑いたければ笑えばいいし、怒りたければ怒ればいい。……でも、私は走る」

 

「……ッ」

 

「誰に何を言われても、世界中から後ろ指を指されても……。私はあのゲートに入るって、もう決めたから」

 

その言葉には、鋼のような響きがあった。

希望に燃えるアスリートの強さではない。

断頭台へ向かう死刑囚が、最期の歩みを止めないような、冷たく重い覚悟。

 

「ッ……いい加減にしなさいよ!」

 

スカーレットの堪忍袋の緒が切れた。

彼女は衝動的に、モエの胸倉を掴み上げた。

ドン、と背中がベンチにぶつかる音がする。

 

「ナメてんじゃないわよ! こっちは命懸けで……ッ!?」

 

スカーレットの言葉が、詰まった。

 

至近距離。

抵抗もせず、されるがままに自分を見つめ返す、モエの瞳。

 

スカーレットは、その瞳の奥を覗き込んでしまった。

 

そこには、光がなかった。

アスリートが持つべき闘志も、敗者が持つべき悔しささえもない。

あるのは、底なしの沼のような、(くら)(おり)だけ。

生きているのか死んでいるのかさえ分からない、虚無の深淵が、スカーレットを見つめ返していた。

 

(……なによ、これ)

 

スカーレットの背筋を、冷たいものが駆け抜ける。

怒りよりも先に、生理的な拒絶感が湧き上がった。

 

こんな……抜け殻みたいな相手を怒鳴りつけたところで、何の意味がある?

 

「……ッ」

 

スカーレットの手から、急速に力が抜けていく。

彼女はモエを突き放すようにして手を離すと、一歩後ずさった。

 

「……アンタ、本当に変わったわね」

 

その声には、もう怒りはなかった。

あるのは、深い失望と、理解できないものへの恐怖だけだった。

 

「アタシはね、アンタと決着をつけたかったの。万全の状態の、最強のアンタを叩き潰して、アタシが1番だって証明したかった」

 

スカーレットの瞳が、揺れる。

 

「でも、今のアンタには興味ないわ。そんな、とっくに死んでるような奴にはね」

 

「……死んでないよ」

 

モエは、乱れた胸元を直そうともせず、静かに言った。

 

「私はこれから、生きるために……死ぬために、走るの」

 

「……はぁ?」

 

モエはゆっくりと立ち上がった。

その瞳の奥の澱が、ゆらりと揺れる。

それは、かつて見せた闘志とは違う、もっと禍々しい執念の炎だった。

 

「勘違いしないで。……私は、記念参加なんてするつもりはない」

 

モエは一歩、スカーレットに近づいた。

 

「私の全てを懸けて、アンタの邪魔をしに行く。スプリンターの意地汚いペースでかき回して、私の足が砕け散るその瞬間まで、アンタの前を走ってやる」

 

「……ッ」

 

「万が一にも、アンタが油断して、隙を見せたら……。その時は、私が勝って終わる。たとえゴール板の先で死ぬことになってもね」

 

「……上等じゃない」

 

スカーレットは唇を歪めた。

モエの言葉の裏にへばりついた、重く、湿った『歪み』になど、彼女は気づかない。

聞こえたのは、「お前なんか眼中にない」という傲慢な宣戦布告だけだ。

 

「いいわよ。……なら、アタシも本気で行く」

 

スカーレットは、ライバルに向ける殺意に満ちた目で、モエを睨みつけた。

 

「アンタがどこで潰れようが、どんなに苦しもうが、アタシは絶対に手加減しない。完膚なきまでに叩き潰して、二度とそんな口がきけないようにしてやるわ」

 

「うん。……待ってる」

 

「……フン」

 

スカーレットは足早に去っていった。

一度も振り返らなかった。

その背中は「もう関わらない」と拒絶していたが、握りしめた拳が微かに震えているのを、モエだけが見ていた。

 

遠ざかる背中。

夕陽に照らされたその赤色は、どこまでも強く、眩しくて。

暗い場所にいる私には、涙が出るほど綺麗だった。

 

モエは、誰もいなくなった並木道で、ぽつりと呟いた。

 

「……お願いね、スカーレットちゃん」

 

その声は、夕闇に吸い込まれて消えた。

届かなくていい。

ここから先は、私だけの独り言だ。

 

(……ごめんね)

 

モエは心の中で、遠ざかる背中に話しかけた。

 

(オークスを、こんなことに巻き込んでしまって。ごめんね)

(アンタがあんなに怒るのも、当然だよ。……本当に、迷惑だよね)

 

(でも……こうして二人きりで話せるのは、ひょっとしたら、これが最後かもしれないから)

 

(やっぱり凄いなぁ。アンタは、本当に強い)

(私なんかと違って、どこまでも真っ直ぐで、正真正銘の主役だ)

 

モエは、滲む視界の中で燃える赤色を見つめた。

 

(――だから、)

 

胸の奥で燻っていた熱い想いが、ふと、唇から零れ落ちる。

 

 

 

「最期に切り捨てられるなら、スカーレットがいい」

 

 

 

私の喉元に牙を突き立てるのは、世界で一番強く、気高い獣であってほしいから。

 

トレーナー室。

俺は一人、デスクでスマホの画面をスクロールし続けていた。

 

通知が止まらない。

俺個人のSNSアカウントにも、誹謗中傷のDMが届き始めている。

学園への抗議電話も殺到しているらしい。

さっきから、廊下を通る他のトレーナーたちの視線も冷たい。

「あいつ、とうとうトチ狂ったか」「担当ウマ娘を潰す気か」という幻聴が聞こえてくるようだ。

 

「……あいつ、これを見てるかな」

 

俺はふと、寮にいるモエのことを思った。

 

見ていてほしい、と思う。

昨日までの、彼女を窒息させていた「生ぬるい同情」は、もうどこにもない。

あるのは、彼女の挑戦を「無謀だ」「バカだ」と嘲笑い、俺たちを「悪」だと断定する、冷ややかな敵意だけだ。

 

(……これでいい)

 

俺はスマホを伏せた。

 

同情されるくらいなら、嫌われた方がいい。

「可哀想な被害者」として腫れ物に触るように扱われるより、「頭のおかしい挑戦者」として後ろ指を指される方が、あいつにとってはよっぽど救いになる。

 

世間のヘイトは、全て俺が引き受ける。

「カレンモエは被害者で、悪いのは狂ったトレーナーだ」という構図が出来上がれば、彼女は思う存分、世界を憎んで走れるはずだ。

その怒りが、彼女を突き動かす唯一の燃料になるなら、俺は喜んで世界中の敵になろう。

 

だが。

 

「……問題は、そこじゃない」

 

俺はデスクの上に散乱した資料に目を落とした。

そこには、モエの身体データ、ラップタイム、心拍数の推移グラフなどが並んでいる。

 

世間の批判を盾で受け止めるだけでは、レースには勝てない。

いや、勝つどころか、完走すら危ういのが現実だ。

 

「……足りない」

 

俺はペンを取り、計算用紙に数字を書き殴った。

 

専門家たちの言う通りだ。

彼女の肉体は、完全にスプリント仕様に最適化されている。

速筋繊維の割合が高すぎ、有酸素運動能力が圧倒的に不足している。

マイル戦ですら、精神的なリミッターが外れる前に、肉体的な限界(ガス欠)が見えていた。

 

それを、2400メートル。

距離にして1.5倍。

スタミナ消費量は、ペース配分を考慮しても倍以上になるだろう。

 

常識的なトレーニングでは、スタミナをつけるだけで数ヶ月、下手をすれば年単位の時間がかかる。

しかも、スタミナをつければつけるほど、彼女の武器である「スピード」は鈍る。

スプリンターとしての輝きを殺さずに、2400メートルを走り切る肉体を作る?

そんな魔法のようなトレーニングメソッドは、この世に存在しない。

 

オークスまでは、あと一ヶ月もない。

 

「……詰んでいるな」

 

俺はペンを投げ出した。

 

普通のやり方では、絶対に間に合わない。

モエの望み通り「死に場所」を作るにしても、第3コーナーで力尽きてトボトボ歩くようでは、ただの恥晒しだ。

彼女が望んでいるのは、ゴール板まで先頭集団で駆け抜けた上での、華々しい「爆散」だ。

そこまで連れて行けなければ、俺はトレーナー失格だ。

 

そのためには。

常識を捨てる必要がある。

倫理も、メソッドも、トレーナーとしての良識も。

全てをドブに捨てて、再び「悪魔」の知恵を借りるしかない。

 

俺は引き出しの奥から、小瓶を取り出した。

あの日、理科準備室で手渡された、怪しげな薬の空き瓶。

 

『アグネスタキオン』

 

マッドサイエンティスト。

禁忌の薬物師。

そして、ウマ娘の肉体の限界を知り尽くした、狂気の天才。

 

俺たちは契約したはずだ。

「1600メートルを走らせる」という実験のために、彼女のプランを受け入れた。

だが、結果は無惨な敗北。

データとしては「失敗作」の烙印を押されてもおかしくない。

 

(……合わせる顔がない、か)

 

常識的に考えれば、そうだ。

実験を失敗させ、被験者(モエ)をボロボロにした俺が、どの面下げて再び彼女の元へ行けるというのか。

 

だが、今の俺に「常識」などという(かせ)は無意味だ。

 

「……毒を食らわば、皿までか」

 

俺は空き瓶を強く握りしめ、立ち上がった。

 

謝罪に行くのではない。

もっと酷く、もっと狂った「次の実験」を提案しに行くのだ。

1600メートルで壊れかけた素材を、今度は2400メートルという地獄の釜に放り込む。

そんな提案を聞けば、あのマッドサイエンティストは呆れるだろうか。

それとも――歓喜して、目を輝かせるだろうか。

 

もう、引き返せない。

モエがあそこまで覚悟を決めたのだ。

彼女を守るためなら、世界中を敵に回し、悪魔に魂を売り渡すことだって厭わない。

俺が「綺麗なトレーナー」のままでいられるわけがないのだ。

 

俺は部屋を出た。

向かう先は、人気のない旧校舎の最奥。

あの薄暗い、理科準備室。

 

この瞬間から、俺たちはただの「共犯者」を超えて、地獄への特急列車に同乗する「心中相手」になる。

 

廊下の窓から見える空は、まだどんよりと曇っていたが、俺の心は不思議と晴れやかだった。

行く先が地獄だと分かっているからこそ、もう迷う必要はないのだから。

 




世のウマは幼なじみブーム!
しらねぇ!このまま泥沼系ウマ娘で突き進んでいこうぜ!
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