アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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33話 契約更新(あくまとのけいやく)

 

――Trainer: Ayahara

 

日が落ちた旧校舎の廊下を、俺とモエは無言で歩いていた。

 

突き当たりの「理科準備室」から、怪しい光が漏れている。換気扇の低い唸り。何かが沸騰する音。ビーカーの中で湯が弾けているような、独特の音。

 

扉を開けた。

 

薬品の匂いが鼻を突く。壁一面の数式。積み上がった専門書。

 

白衣を翻して振り返ったのは、アグネスタキオン。デスクライトの明かりだけが、顔を下から照らしている。

 

「やあ、トレーナーくん。モルモット君も一緒か。珍しい組み合わせだね」

 

フラスコを作業台に置いた。

 

「で。何の用だい?」

 

「オークスの件だ」

 

タキオンの手が止まった。フラスコを置いて、ゆっくりとこちらを向いた。

 

「……諦めたまえ、と言ったはずだよ、トレーナーくん。桜花賞の後に」

 

冷たい声だった。

 

「間に合わない。残り一ヶ月弱で、2400メートルを走れる体に仕上げるのは、物理的に無理だ。それが私の結論だ」

 

「……それでも、考え直してほしい」

 

~~

 

タキオンは机の上のレポートの束を指差した。数ヶ月間にわたって採取し続けたモエの生体データだ。筋肉量、心肺機能、乳酸値の推移。全てが数字に置き換えられている。桜花賞の後、タキオンが「これが答えだ」と俺に突き付けたものと、同じ束だ。

 

「もう話したね。カレンモエ君の肉体は、短い距離を最速で駆け抜けるために設計された機械だ。出力だけに全振りした、燃費最悪のエンジン。先日の桜花賞が証明している」

 

タキオンの指がデータの上を滑った。

 

「もっとも、桜花賞で君が止まった理由は、単純なガス欠じゃない」

 

モエの肩が強張った。タキオンは構わず続けた。

 

「私を舐めないでほしいね。今は君よりも君のことを知っているんだよ、モルモット君」

 

タキオンは実験台から身を乗り出し、モエの至近距離まで顔を近づけた。

 

「君は『聞こえてしまった』から止まった。違うかい?」

 

沈黙。

 

「スタンドで見ていたよ。ラスト200メートル。君のフォームは極限まで洗練され、全盛期のカレンチャンと完全に同化した。観客が叫んだのは『行け』でも『差せ』でもない」

 

タキオンは目を細めた。

 

「『カレンチャン』、だ」

 

モエの顔から血の気が引いた。

 

「その瞬間、君のバイタルデータに不自然な断絶がある」

 

モニターにグラフが映った。波打つ曲線の中に、一本の平坦な線。

 

「恐怖や動揺なら、数値はスパイクする。パニックなら乱高下する。ところが、君のデータは凪だ。全てがフラットになっている」

 

タキオンは淡々と告げた。

 

「君は悟ったんだ。『今の私はカレンチャンとして完成された』と。あまりに深く納得してしまったが故に、心は乱れるどころか死んだように静まり返った。君はシステムを落とすように自我を強制終了させた。そうしなければ、『カレンモエ』という個が消滅すると本能で理解したからだ」

 

モエは唇を噛んでいた。膝の上の拳が白くなっている。

 

「たかだか1600メートルですら、君は『カレンチャン』という完成された概念に飲み込まれかけた。それを2400メートル?」

 

タキオンは肩をすくめた。

 

「論外だ。今度は精神だけじゃない。肉体そのものが物理的に焼き付いて終わる」

 

一拍置いて、付け加えた。

 

「……それに、君の体にはもう一つ厄介な問題がある。出力の調節が利かない。全力か停止か、二択しかない構造だ。ペース配分という概念そのものが、君の筋肉には存在しない」

 

タキオンの視線が一瞬だけ手元のデータに落ちた。何かを確認するように。すぐに顔を上げた。

 

「そんな体で2400メートルを走れば、前半で全てを使い果たして後半は屍だ。実験ですらない。ただの廃棄処分だよ」

 

冷徹な宣告。

 

俺は唇を噛んだ。反論の余地がない。

 

口を開こうとした時、隣のモエが一歩前に出た。

 

~~

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

「……無意味じゃない」

 

私の声は、静まり返った部屋に小さく落ちた。

 

「ほう。何がだい?」

 

「これは儀式なの」

 

「儀式。祈れば距離が伸びるとでも?」

 

「違う。私が、私になるための儀式」

 

タキオンさんの目を見た。冷たい理性の光。それに対して、私の中にあるのは、形にならない熱だ。

 

「タキオンさんの言う通り、私の体は放っておくと勝手にカレンチャンになろうとする。走れば走るほど、ママのコピーになっていく。桜花賞で分かった。マイルでもダメだった」

 

胸の奥が熱い。あの日の絶望が、まだ生々しく残っている。

 

「だから、ママが絶対に行かなかった場所へ行く。スプリンターの体じゃ届かない場所へ。そこでこの体をいじめ抜いて、私の中の『カレンチャン』を焼き殺す」

 

「……」

 

「勝算なんてどうでもいい。完走できるかも分からない。でも、これをやらないと、私は一生、誰かの影法師のままだから」

 

拳を胸に当てた。

 

「肉体が壊れてもいい。脚が動かなくなってもいい。私がカレンモエだっていう証明を、あのターフの上に刻まないと——前に進めない」

 

アスリートの言葉じゃなかった。もっと切実な、生き延びるための叫び。

 

タキオンさんは何も言わない。私の皮膚を通り越して、内臓の奥まで解剖しているような目。

 

まだ足りない。タキオンさんを動かすには、何かが——

 

~~

 

――Trainer: Ayahara

 

部屋が、一瞬、静まった。

 

モエの呼吸だけが聞こえる。胸に当てた拳の震えも、たぶんタキオンには見えている。

 

タキオンは黙ってモエの顔を見ていた。

 

やがて視線が一瞬、手元のデータに落ちた。その目が、さっきと同じ色で一瞬固まったのを、俺は見逃さなかった。

 

何かを確かめている。タキオンの中で、何かが動いている。科学者として、データを取れば分かるかもしれないと思っているものがある。

 

「……ククッ」

 

喉の奥から笑いが漏れた。

 

「狂っている。完全に狂っているよ、君は」

 

生物学的な生存本能を、個人の自我が凌駕している。自分の肉体を精神の生贄に捧げようとしている。

 

これは、タキオンにとって——たまらないご馳走だ。狂気の現象を、走る身体の中で観察できる。そんな機会を、この科学者が逃すはずがない。

 

「……いいだろう」

 

笑いを収めた。白衣の裾を翻して、デスクに戻った。

 

「協力しよう。君のその壮大な心中に。——どこまで行けるのか、見届けさせてもらう」

 

「……本当?」

 

モエが、少し目を見開いた。

 

「ただし、条件がある」

 

タキオンが指を立てた。

 

「一つ。君の体が壊れる瞬間まで、徹底的にデータを取らせてもらう」

 

「二つ。レース本番の走り方は、私の指示に従うこと」

 

「三つ。——何が起きても、私は責任を取らない。君の脚が砕けても、二度と走れなくなっても」

 

モエは試験管を受け取った。中身は黒に近い紫色の液体。一気に飲み干して、咽せた。

 

「……うえっ、まっず」

 

口元を拭って、不敵に笑った。

 

「構わない。脚が千切れても、ゴール板までは這ってでも行く。——見せてよ、タキオンさんの理を」

 

「交渉成立だ」

 

タキオンはホワイトボードの書き込みを全て消した。黒のマーカーで、大きく書いた。

 

『1200m × 2』

 

「……これは?」

 

俺が眉をひそめた。

 

「スプリンターのままで2400メートルを騙し切る、唯一の計算式だ」

 

タキオンの目が光った。

 

「さっき言ったね。君の体は全力か停止かの二択しかないと。普通ならそれは致命的な欠陥だ。そこを逆に考えればいい。ペース配分ができないなら、しなければいい」

 

指がホワイトボードを叩いた。

 

「前半1200メートルを全力で走る。途中で一度、強制的に体をリセットする。そして後半1200メートルを、もう一度全力で走る。スタミナという概念は捨てろ。ペース配分も要らない。君がやるべきことは、全速力のスプリントを二回繰り返すことだ」

 

「物理的に不可能です。一度目のスプリントで脚が終わります」

 

「だから、そこを私の科学で埋める。リセットの方法は、これから君の体に叩き込む。不可能かどうかは、データが決める」

 

タキオンはデータの束を掴んだ。指先がかすかに震えている。恐怖ではない。歓喜だ。

 

「それと——これは保険だが」

 

声を落とした。

 

「君の体を、壊れにくく作り替える。走行効率の改善、体幹の強化、関節と腱への負荷分散。2400メートルを走り切れるようにする訓練ではない。2400メートルを走っても壊れないようにする訓練だ。意味の違いが分かるね?」

 

「……勝つための訓練じゃないってこと?」

 

「勝てるかどうかは知らないよ。壊れたら次がない。次がなければ、データも取れない。……私にとっては、そちらの方が重要だ」

 

研究者の顔。その言葉の裏にあるものを、俺は聞き逃さなかった。

 

壊れないようにする。

 

それはつまり、タキオンなりの——。

 

「さあ、忙しくなるよ。オークスまで一ヶ月弱。覚悟しておきたまえ」

 

タキオンの指先が、新しいデータシートの上を走り始めた。かすかに震えている。それは恐怖でも緊張でもなく、純粋な歓喜だった。

 

~~

 

理科準備室を出ると、夜になっていた。

 

冷たい風が頬を冷やす。

 

モエはタキオンから渡された怪しい色のサプリメントを抱えて、黙って歩いている。

 

「……よかったな、協力してもらえて」

 

「うん。……タキオンさん、楽しそうだった」

 

「ああ。悪魔に魂を売った気分だ」

 

モエが笑った。

 

カメラの前で見せる計算された笑顔じゃなかった。媚びも、演技も、カレンチャンの影もない。処刑台に向かうと分かっていて、それでも晴れやかな顔をしている。

 

月の光を浴びた横顔が、残酷なほど透き通っていた。

 

「……行こう、トレーナー」

 

モエが俺の手を引いた。

 

冷たい手。だが、握り返す力は痛いほどに強い。

 

暗闇の中を歩き出した。月明かりだけが、二人の行く先を照らしていた。

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