アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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34話 その罪は、誰にも渡さない

 

四月下旬。ゴールデンウィークを目前に控えた、ある雨の夜。

 

オークスの出走登録を済ませた俺は、逃げるように学園を出て、繁華街へと足を向けていた。傘を叩く雨音が、ノイズのように思考を掻き乱す。

 

ポケットの中のスマートフォンが、短く震えた。メッセージではない。着信だ。画面に表示された名前を見て、俺は足を止めた。

 

『先輩』

 

俺の恩人であり、尊敬する大先輩。そして、カレンモエの実父である人からの呼び出しだった。

 

「……はい、絢原です」

 

『……今、いいか』

 

受話器の向こうから聞こえてきた声は、いつもの豪快で張りのあるものではなく、ひどく()れていた。疲弊しきった響き。

 

『いつもの店にいる。少し、話がしたい』

 

「分かりました。すぐ行きます」

 

断る理由はなかった。避けては通れない道だ。俺は、濡れた路面を踏みしめて、駅裏の路地へと急いだ。

 

――Trainer: Ayahara

 

店は、雑居ビルの三階にある全席個室の居酒屋。普段は仕事帰りのサラリーマンや学生たちの喧騒で賑わっている場所だ。今日も、薄い壁の向こうから宴会の笑い声と、ジョッキがぶつかる音が漏れ聞こえてくる。

 

通された一番奥の個室だけは、まるで真空地帯のように静まり返っていた。

 

引き戸を静かに開ける。

 

「失礼します」

 

狭い和室。掘りごたつの向かい側に、その人はいた。喪服のような黒いスーツを着崩し、壁に寄りかかるようにして座っている。

 

テーブルの上に、半分ほど空いた焼酎のボトルと、手つかずの突き出し。氷が溶けきったグラスが、汗をかいて水たまりを作っていた。

 

「来たか」

 

先輩は、顔を上げずに言った。その顔を見て、俺は息を呑んだ。

 

老けた。最後に会ったのは正月の初詣のはずだったが、まるで数年分の歳月が一気にのしかかったようだ。目元には深い皺が刻まれ、無精髭が目立っている。

 

伝説のスプリンターを育て上げ、数々の名を世に送り出してきた「名伯楽」の覇気は、見る影もない。そこにいたのは、ただの疲れた父親だった。

 

「座れ」

 

「はい」

 

俺は対面に座った。狭い足元に足を下ろす。

 

先輩は無言で新しいグラスに氷を入れて、焼酎を注いだ。水で割ることもなく、ストレートに近い濃さ。それを、俺の前にドン、と置いた。

 

「飲め」

 

「いただきます」

 

乾杯の音頭はない。

 

俺はグラスを持ち上げて、一口だけ口に含んだ。強烈なアルコールの刺激が、喉を焼き、胃の腑へと落ちていく。その熱さが、冷え切った体に染み渡った。

 

長い沈黙。廊下の向こうの笑い声が、遠い世界の出来事のように響く。換気扇の回る音だけが、やけに耳についた。

 

やがて、先輩が口を開いた。重く、湿った声。

 

「出したそうだな、登録」

 

「……はい」

 

誤魔化しは効かない。業界のネットワークを使えば、出走登録の情報など、すぐに耳に入る。

 

「オークス。東京、芝2400メートル」

 

先輩は、その単語を噛み砕くように呟いた。

 

「しかも、フルゲート割れか。賞金順での除外もなく、確実に出走できる」

 

「はい」

 

「……そうか」

 

先輩は天井を仰いで、深く長く息を吐き出した。怒りというよりも、底知れない諦念(ていねん)の吐息だった。

 

「もう、止められないのか。モエは」

 

その言葉の響きに、俺は胸を締め付けられた。「止めてくれ」という命令ではなく、「止める術は尽きた」という敗北宣言だったから。

 

俺は、膝の上で拳を握りしめた。

 

プロのトレーナーとして、俺がやっていることは狂気の沙汰だ。適性のないウマ娘を、最も過酷なレースに出す。それは「挑戦」という言葉で飾った、緩慢な自殺幇助に他ならない。

 

先輩なら、俺を殴り飛ばしてもいいはずだ。「ふざけるな」と、登録を取り消させる権利があるはずだ。

 

——けれど、彼はそうしなかった。

 

ただ、濁った瞳で、グラスの中の氷を見つめていた。

 

「昔からだ」

 

ぽつり、と。先輩が語り出した。

 

「あいつが生まれた時から——もっと言えば、カレンの腹にいる時から、世間はあいつを見ていなかった」

 

独白のような語り口。

 

「『カレンチャンの子供』『閃光の継承者』『夢の続き』。あいつがヨチヨチ歩きを始めた頃から、カメラが追い回した。運動会で走ればニュースになった。あいつが転べば『カレンチャンもよく転んだ』と比較された」

 

先輩は、自嘲気味に笑った。

 

「俺もカレンも、心を痛めていた。できる限り守ろうとはしてきたつもりだ。メディアを遠ざけて、普通の女の子として育てようと、二人で必死だった。それでも、巨大すぎるうねりは、親の手すらも弾き飛ばす」

 

彼はグラスを煽った。

 

「それでも、これまではまだ『微笑ましい話題』のレベルだった。あいつも子供だったからな。『ママみたいになりたい』と無邪気に笑っていられた」

 

「……はい」

 

「成長するにつれ、あいつは気づいてしまった。自分がどれだけ努力しても、どれだけ個性を主張しても、世界は『カレンチャンの娘』としてしか自分を見ない。その事実に」

 

先輩の視線が、俺を射抜いた。

 

「最近の——桜花賞前後の報道。異常だった。俺も止めようとした。カレンも、メディアに自制を求めるコメントを出している。それでも、大衆の『善意』は止まらない。『期待して何が悪い』『応援しているのに』という正義感が、あいつの首を絞め続けてきた」

 

「止められませんでした」

 

俺は頭を下げた。一番近くで見ていたのに、彼女を守る防波堤になれなかった。

 

「お前を責めているんじゃない」

 

先輩は首を横に振った。

 

「むしろ、感謝している。あいつがここまで走れたのは、お前が必死に寄り添い、支えてくれたからだ。マイルでの勝利、チューリップ賞のあの走り。あれは奇跡だった。お前とタキオンが、あいつの才能を限界まで引き出して、ねじ込んだ結果だ」

 

少し間を置いてから、先輩は付け加えた。

 

「親バカだが——あれは、カレンチャンを超えていたとすら思う」

 

最高の賛辞。けれど、過去形で語られた言葉だった。

 

「しかし、あのアクシデントが起きてしまった」

 

桜花賞。名前の呪い。観客の無邪気な声援による、システムの崩壊。

 

「遅かれ早かれ、こうなることは分かっていた」

 

先輩の声が、低く沈んだ。

 

「あいつの自我(カレンモエ)と、世間のイメージ(カレンチャンの娘)の乖離。それから——あいつ自身の肉体が持つ『スプリンターとしての絶対的な才能』と、あいつの心が求める『証明』の矛盾。いつか必ず、限界が来ると。それが、最悪のタイミングで、最悪の形で露呈しただけだ」

 

正確な分析だった。さすがは名トレーナー。娘の状態を、残酷なまでに正確に把握している。

 

「あいつは今、自分自身を焼き尽くそうとしている」

 

先輩は、グラスをテーブルに叩きつけた。カラン、と氷が跳ねる。

 

「オークスという死地で。自分を縛る『イメージ(カレンチャン)』ごと、燃え尽きようとしている。勝つためじゃない。自分が自分であるために、自分の才能を否定して、肉体を破壊しようとしている」

 

「……」

 

「親なら」

 

先輩の声が震えた。

 

「止めるべきだ。手足を縛ってでも、家に閉じ込めてでも。あんな、公開処刑のようなレースに、行かせるべきじゃない。娘がボロボロになって、笑い者にされるのを、黙って見ている親がどこにいる」

 

彼は両手で顔を覆った。指の隙間から、嗚咽のような息が漏れる。

 

「しかし、今のあいつを、無理に止めたら。『お前のために』なんて正論を押し付けて、安全な場所に閉じ込めたら」

 

彼は顔を上げて、血走った目で俺を見た。

 

「あいつの心は、本当に死んでしまう」

 

「……っ」

 

「一生、走ることを憎むだろう。自分を愛してくれた親さえも憎んで、世界を呪いながら、抜け殻のように生きることになる。それだけは、させられん」

 

究極の選択。肉体(ハード)を守って(ソフト)を殺すか、心を活かすために肉体を死地へ送り出すか。親としての愛が選んだのは、あまりにも辛い、後者の道だった。

 

「絢原」

 

先輩が、俺の手を掴んだ。その手は熱く、震えていた。

 

「俺たちじゃ、ダメなんだ」

 

「え?」

 

「親の愛じゃ、あいつの『狂気』を肯定してやれない。どうしても、『無事でいてほしい』『幸せになってほしい』という願いが混じってしまう。その温かさが、今のあいつには苦痛なんだ」

 

「先輩……」

 

「だから、頼む」

 

伝説のトレーナーが、俺の師とも呼べる人が、深々と頭を下げた。

 

「その役目を、君に押し付けなければならない」

 

「あいつを、オークスという処刑台まで、連れて行ってやってくれ」

 

絞り出すような声。それは、娘を殺してくれという依頼にも聞こえた。

 

「お前は、あいつの『共犯者』だと言ったな。なら、最後まで付き合ってやってくれ。無謀だと分かっていても、破滅すると知っていても。『行け』と言ってやれるのは、世界でお前だけなんだ」

 

彼は顔を上げて、俺の目を真っ直ぐに見た。瞳には涙が溜まっていた。

 

「そして、あいつが夢破れて全てを失って泣き叫ぶ時。あるいは、燃え尽きて動けなくなった時。隣にいてやってくれ。俺たち親じゃなく、お前が」

 

介錯人の依頼。娘の最期(さいご)を看取る役目。その業(ごう)を、全て俺に背負わせようとしている。

 

卑怯だ。あまりにも重い。

 

——けれど、俺はそれを拒否できなかった。いや、拒否するつもりなど最初からなかった。

 

あの夜のトレーナー室で、誓ったから。

 

俺は、残っていた焼酎をグラスに注ぎ足して、一気に煽った。アルコールが脳を麻痺させて、同時に覚悟を鋭敏にさせる。

 

グラスを置いた。先輩の目を真っ直ぐに見返す。

 

「引き受けます」

 

声は、震えなかった。

 

「彼女の罪も、罰も、痛みも。そして、オークスでの結末も。全て、俺が背負います」

 

「すまん」

 

先輩は、崩れ落ちるように肩を落とした。もう「伝説のトレーナー」ではない。娘の幸せを願いながら、修羅の道へ送り出すことしかできない、無力な一人の父親だった。

 

「カレンも、分かっている。『あの子が一番輝ける場所で死なせてあげて』と、そう言っていた」

 

「……はい」

 

「頼んだぞ。俺の、大事な娘だ」

 

「命に代えても」

 

俺たちは、それ以上言葉を交わさなかった。交わす必要がなかった。

 

会計を済ませて、店を出る。雨は上がっていたが、夜気は冷たく、肌に張り付くようだった。

 

 

――Anti-Hero: Curren Moe

 

深夜。理科準備室での調整を終えて、寮に戻る途中。スマホが震えた。

 

トレーナーからのメッセージ。

 

『話はつけてきた。GOだ』

 

短い一文。

 

その裏にどれだけの想いと、どれだけの重圧があるのか、私には痛いほど分かる。

 

パパとママ。あの人たちが、黙っているはずがない。きっと、すごい剣幕で反対しただろう。もしかしたら、トレーナーは殴られたかもしれない。土下座したかもしれない。

 

それでも、彼は私の道を通した。私のワガママを、大人の理屈から守り抜いた。

 

「……バカだなぁ」

 

画面を見つめながら、私は呟いた。視界が滲む。

 

「私なんかのために、人生棒に振って」

 

このオークスが終われば、彼は「才能あるウマ娘を潰した無能なトレーナー」として、業界から後ろ指を指されるかもしれない。パパやママからも、一生恨まれるかもしれない。彼の輝かしい未来は、私のエゴによって閉ざされた。

 

(ごめんね、パパ、ママ)

 

彼を恨まないであげて。全部、私が望んだことだから。

 

ふと、冷たい夜風が頬を撫でた瞬間。記憶の蓋が、勝手に開いた。

 

『モエちゃーん、おいでー!』

 

まぶしい陽射し。青い空と、緑の芝生。私の前を、真っ白な尻尾が揺れている。

 

『待て待てー! うわぁ、モエは速いなぁ!』

 

パパの大きな手。高い高いをされて、空に放り投げられるような浮遊感。ママが笑っている。パパも笑っている。そして、私も笑っていた。

 

『すごいね、モエは。ママみたいになれるよ』

『ううん、ママより凄くなるぞー』

 

走ることが、ただ楽しかった。地面を蹴れば風になれるのが嬉しくて、ゴールで待っている二人に褒めてもらえるのが誇らしくて。私は、あの温かい日向の中で、間違いなく世界で一番幸せな、パパとママの娘だった。

 

「……っ」

 

私は強く唇を噛んで、その映像を脳内から振り払った。

 

美しい記憶。温かい場所。

 

——でも、今の私にとっては、そこは呼吸のできない「水中」だ。

 

あの日の「いい子」でいる限り、私は一生、ママの影から出られない。あの温もりに甘えている限り、私は「カレンモエ」という一人のウマ娘として大地に立てない。

 

「……さよなら」

 

私は、過去の幼い私に別れを告げた。あの日向には、もう戻らない。

 

(戻れないよ)

 

私は親の愛を振り払い、トレーナーの未来を食いつぶして、ここまで来たのだから。

 

普通なら、ここで止めるべきだった。「私のためにそこまでしないで」と、突き放すべきだった。それが、生徒としての、人としての正しさ。

 

——けれど。

 

(……あぁ)

 

胸の奥で、どす黒くて、甘美な何かが渦巻くのを感じた。

 

彼は選んだのだ。正しい「教育者」として私を守ることよりも、愚かな「共犯者」として私と堕ちることを。世界中が敵に回っても、私だけの味方でいることを。

 

その事実が、私の内側にある空虚な穴を、熱い泥のように埋めていく。

 

(……重い)

 

ずぷり、と。彼が差し出した人生の重さが、私の中に沈み込んでくる。

 

(重く、て)

 

息苦しいほどの質量。けれど、冷え切った私の芯を焼くように温かくて、どうしようもなく、心地よかった。

 

私のためだけに壊れてくれる。私のためだけに捨ててくれる。その重さだけが、空っぽの私をこの世界に繋ぎ止めてくれる(いかり)のように思えた。

 

桜花賞で全てを否定されて、私の心は伽藍堂(がらんどう)になっていた。そんな空っぽの廃墟に、人生そのものなんていう、火傷しそうなほど熱い想いを注ぎ込まれたんだ。

 

だったら、それが愛しくて、誰にも渡したくないと狂ってしまうのは、きっと、仕方がないことだ。

 

そう、しょうがない。こんなにも熱い気持ちを受け取ってしまったら、独占欲が湧いたって、誰も私を責められない。

 

——だって、私を満たしてくれたのは、世界で貴方だけなんだから。

 

(……責任、とらなきゃね)

 

私は、自分自身に言い訳をした。最低で、醜い言い訳を。

 

彼を道連れにしてしまう罪悪感じゃない。彼の未来を奪ってしまった私がしなきゃいけない、当然の義務(・・)だ。

 

貴方の人生の責任は、私がとってあげる。貴方が失ったものの全部を、私が埋めてあげる。だから、もう、誰にも渡さない。

 

(いいよね、絢原さん)

 

罪悪感は、いつしか粘着質な独占欲へと形を変えていた。

 

パパにも、ママにも、誰にもあげない。私のために破滅してくれるのは、世界でこの人だけだ。

 

「……ありがと」

 

スマホを胸に抱いた。心臓の音が、スマホ越しに彼に伝わりそうなほど強く脈打っている。

 

これまでのような、導く者と導かれる者という関係は、今ここで死んだ。ここにあるのは、私が彼を縛り付け、彼がそれを静かに受け入れる、共犯者という名の契約だけ。

 

「行くよ、トレーナー」

 

私は夜空を見上げた。分厚い雲の切れ間から、月が見えている。蒼白く、冷たい月。

 

「貴方がくれたこの切符。無駄にはしない」

 

私を地獄へ送り届けるために、貴方がボロボロになってくれたなら。私はその期待に応えて、誰よりも美しく燃え尽きてみせる。

 

あと数週間。やがて、破滅のファンファーレが鳴り響く。

 

——けれど、それが鳴ったからって、解放してあげるつもりなんてない。

 

たとえ全てが壊れて灰になっても、私は、貴方を絶対に離さない。

 

私はスマホの画面にキスをするように、唇を寄せて、小さく囁いた。

 

最後(さいご)まで、いっしょにいようね」




書いてて一番楽しかったこの会(暗黒微笑)
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