四月下旬。ゴールデンウィークを目前に控えた、ある雨の夜。
オークスの出走登録を済ませた俺は、逃げるように学園を出て、繁華街へと足を向けていた。傘を叩く雨音が、ノイズのように思考を掻き乱す。
ポケットの中のスマートフォンが、短く震えた。メッセージではない。着信だ。画面に表示された名前を見て、俺は足を止めた。
『先輩』
俺の恩人であり、尊敬する大先輩。そして、カレンモエの実父である人からの呼び出しだった。
「……はい、絢原です」
『……今、いいか』
受話器の向こうから聞こえてきた声は、いつもの豪快で張りのあるものではなく、ひどく
『いつもの店にいる。少し、話がしたい』
「分かりました。すぐ行きます」
断る理由はなかった。避けては通れない道だ。俺は、濡れた路面を踏みしめて、駅裏の路地へと急いだ。
――Trainer: Ayahara
店は、雑居ビルの三階にある全席個室の居酒屋。普段は仕事帰りのサラリーマンや学生たちの喧騒で賑わっている場所だ。今日も、薄い壁の向こうから宴会の笑い声と、ジョッキがぶつかる音が漏れ聞こえてくる。
通された一番奥の個室だけは、まるで真空地帯のように静まり返っていた。
引き戸を静かに開ける。
「失礼します」
狭い和室。掘りごたつの向かい側に、その人はいた。喪服のような黒いスーツを着崩し、壁に寄りかかるようにして座っている。
テーブルの上に、半分ほど空いた焼酎のボトルと、手つかずの突き出し。氷が溶けきったグラスが、汗をかいて水たまりを作っていた。
「来たか」
先輩は、顔を上げずに言った。その顔を見て、俺は息を呑んだ。
老けた。最後に会ったのは正月の初詣のはずだったが、まるで数年分の歳月が一気にのしかかったようだ。目元には深い皺が刻まれ、無精髭が目立っている。
伝説のスプリンターを育て上げ、数々の名馬を世に送り出してきた「名伯楽」の覇気は、見る影もない。そこにいたのは、ただの疲れた父親だった。
「座れ」
「はい」
俺は対面に座った。狭い足元に足を下ろす。
先輩は無言で新しいグラスに氷を入れて、焼酎を注いだ。水で割ることもなく、ストレートに近い濃さ。それを、俺の前にドン、と置いた。
「飲め」
「いただきます」
乾杯の音頭はない。
俺はグラスを持ち上げて、一口だけ口に含んだ。強烈なアルコールの刺激が、喉を焼き、胃の腑へと落ちていく。その熱さが、冷え切った体に染み渡った。
長い沈黙。廊下の向こうの笑い声が、遠い世界の出来事のように響く。換気扇の回る音だけが、やけに耳についた。
やがて、先輩が口を開いた。重く、湿った声。
「出したそうだな、登録」
「……はい」
誤魔化しは効かない。業界のネットワークを使えば、出走登録の情報など、すぐに耳に入る。
「オークス。東京、芝2400メートル」
先輩は、その単語を噛み砕くように呟いた。
「しかも、フルゲート割れか。賞金順での除外もなく、確実に出走できる」
「はい」
「……そうか」
先輩は天井を仰いで、深く長く息を吐き出した。怒りというよりも、底知れない
「もう、止められないのか。モエは」
その言葉の響きに、俺は胸を締め付けられた。「止めてくれ」という命令ではなく、「止める術は尽きた」という敗北宣言だったから。
俺は、膝の上で拳を握りしめた。
プロのトレーナーとして、俺がやっていることは狂気の沙汰だ。適性のないウマ娘を、最も過酷なレースに出す。それは「挑戦」という言葉で飾った、緩慢な自殺幇助に他ならない。
先輩なら、俺を殴り飛ばしてもいいはずだ。「ふざけるな」と、登録を取り消させる権利があるはずだ。
——けれど、彼はそうしなかった。
ただ、濁った瞳で、グラスの中の氷を見つめていた。
「昔からだ」
ぽつり、と。先輩が語り出した。
「あいつが生まれた時から——もっと言えば、カレンの腹にいる時から、世間はあいつを見ていなかった」
独白のような語り口。
「『カレンチャンの子供』『閃光の継承者』『夢の続き』。あいつがヨチヨチ歩きを始めた頃から、カメラが追い回した。運動会で走ればニュースになった。あいつが転べば『カレンチャンもよく転んだ』と比較された」
先輩は、自嘲気味に笑った。
「俺もカレンも、心を痛めていた。できる限り守ろうとはしてきたつもりだ。メディアを遠ざけて、普通の女の子として育てようと、二人で必死だった。それでも、巨大すぎるうねりは、親の手すらも弾き飛ばす」
彼はグラスを煽った。
「それでも、これまではまだ『微笑ましい話題』のレベルだった。あいつも子供だったからな。『ママみたいになりたい』と無邪気に笑っていられた」
「……はい」
「成長するにつれ、あいつは気づいてしまった。自分がどれだけ努力しても、どれだけ個性を主張しても、世界は『カレンチャンの娘』としてしか自分を見ない。その事実に」
先輩の視線が、俺を射抜いた。
「最近の——桜花賞前後の報道。異常だった。俺も止めようとした。カレンも、メディアに自制を求めるコメントを出している。それでも、大衆の『善意』は止まらない。『期待して何が悪い』『応援しているのに』という正義感が、あいつの首を絞め続けてきた」
「止められませんでした」
俺は頭を下げた。一番近くで見ていたのに、彼女を守る防波堤になれなかった。
「お前を責めているんじゃない」
先輩は首を横に振った。
「むしろ、感謝している。あいつがここまで走れたのは、お前が必死に寄り添い、支えてくれたからだ。マイルでの勝利、チューリップ賞のあの走り。あれは奇跡だった。お前とタキオンが、あいつの才能を限界まで引き出して、ねじ込んだ結果だ」
少し間を置いてから、先輩は付け加えた。
「親バカだが——あれは、カレンチャンを超えていたとすら思う」
最高の賛辞。けれど、過去形で語られた言葉だった。
「しかし、あのアクシデントが起きてしまった」
桜花賞。名前の呪い。観客の無邪気な声援による、システムの崩壊。
「遅かれ早かれ、こうなることは分かっていた」
先輩の声が、低く沈んだ。
「あいつの
正確な分析だった。さすがは名トレーナー。娘の状態を、残酷なまでに正確に把握している。
「あいつは今、自分自身を焼き尽くそうとしている」
先輩は、グラスをテーブルに叩きつけた。カラン、と氷が跳ねる。
「オークスという死地で。自分を縛る『
「……」
「親なら」
先輩の声が震えた。
「止めるべきだ。手足を縛ってでも、家に閉じ込めてでも。あんな、公開処刑のようなレースに、行かせるべきじゃない。娘がボロボロになって、笑い者にされるのを、黙って見ている親がどこにいる」
彼は両手で顔を覆った。指の隙間から、嗚咽のような息が漏れる。
「しかし、今のあいつを、無理に止めたら。『お前のために』なんて正論を押し付けて、安全な場所に閉じ込めたら」
彼は顔を上げて、血走った目で俺を見た。
「あいつの心は、本当に死んでしまう」
「……っ」
「一生、走ることを憎むだろう。自分を愛してくれた親さえも憎んで、世界を呪いながら、抜け殻のように生きることになる。それだけは、させられん」
究極の選択。
「絢原」
先輩が、俺の手を掴んだ。その手は熱く、震えていた。
「俺たちじゃ、ダメなんだ」
「え?」
「親の愛じゃ、あいつの『狂気』を肯定してやれない。どうしても、『無事でいてほしい』『幸せになってほしい』という願いが混じってしまう。その温かさが、今のあいつには苦痛なんだ」
「先輩……」
「だから、頼む」
伝説のトレーナーが、俺の師とも呼べる人が、深々と頭を下げた。
「その役目を、君に押し付けなければならない」
「あいつを、オークスという処刑台まで、連れて行ってやってくれ」
絞り出すような声。それは、娘を殺してくれという依頼にも聞こえた。
「お前は、あいつの『共犯者』だと言ったな。なら、最後まで付き合ってやってくれ。無謀だと分かっていても、破滅すると知っていても。『行け』と言ってやれるのは、世界でお前だけなんだ」
彼は顔を上げて、俺の目を真っ直ぐに見た。瞳には涙が溜まっていた。
「そして、あいつが夢破れて全てを失って泣き叫ぶ時。あるいは、燃え尽きて動けなくなった時。隣にいてやってくれ。俺たち親じゃなく、お前が」
介錯人の依頼。娘の
卑怯だ。あまりにも重い。
——けれど、俺はそれを拒否できなかった。いや、拒否するつもりなど最初からなかった。
あの夜のトレーナー室で、誓ったから。
俺は、残っていた焼酎をグラスに注ぎ足して、一気に煽った。アルコールが脳を麻痺させて、同時に覚悟を鋭敏にさせる。
グラスを置いた。先輩の目を真っ直ぐに見返す。
「引き受けます」
声は、震えなかった。
「彼女の罪も、罰も、痛みも。そして、オークスでの結末も。全て、俺が背負います」
「すまん」
先輩は、崩れ落ちるように肩を落とした。もう「伝説のトレーナー」ではない。娘の幸せを願いながら、修羅の道へ送り出すことしかできない、無力な一人の父親だった。
「カレンも、分かっている。『あの子が一番輝ける場所で死なせてあげて』と、そう言っていた」
「……はい」
「頼んだぞ。俺の、大事な娘だ」
「命に代えても」
俺たちは、それ以上言葉を交わさなかった。交わす必要がなかった。
会計を済ませて、店を出る。雨は上がっていたが、夜気は冷たく、肌に張り付くようだった。
~
――Anti-Hero: Curren Moe
深夜。理科準備室での調整を終えて、寮に戻る途中。スマホが震えた。
トレーナーからのメッセージ。
『話はつけてきた。GOだ』
短い一文。
その裏にどれだけの想いと、どれだけの重圧があるのか、私には痛いほど分かる。
パパとママ。あの人たちが、黙っているはずがない。きっと、すごい剣幕で反対しただろう。もしかしたら、トレーナーは殴られたかもしれない。土下座したかもしれない。
それでも、彼は私の道を通した。私のワガママを、大人の理屈から守り抜いた。
「……バカだなぁ」
画面を見つめながら、私は呟いた。視界が滲む。
「私なんかのために、人生棒に振って」
このオークスが終われば、彼は「才能あるウマ娘を潰した無能なトレーナー」として、業界から後ろ指を指されるかもしれない。パパやママからも、一生恨まれるかもしれない。彼の輝かしい未来は、私のエゴによって閉ざされた。
(ごめんね、パパ、ママ)
彼を恨まないであげて。全部、私が望んだことだから。
ふと、冷たい夜風が頬を撫でた瞬間。記憶の蓋が、勝手に開いた。
『モエちゃーん、おいでー!』
まぶしい陽射し。青い空と、緑の芝生。私の前を、真っ白な尻尾が揺れている。
『待て待てー! うわぁ、モエは速いなぁ!』
パパの大きな手。高い高いをされて、空に放り投げられるような浮遊感。ママが笑っている。パパも笑っている。そして、私も笑っていた。
『すごいね、モエは。ママみたいになれるよ』
『ううん、ママより凄くなるぞー』
走ることが、ただ楽しかった。地面を蹴れば風になれるのが嬉しくて、ゴールで待っている二人に褒めてもらえるのが誇らしくて。私は、あの温かい日向の中で、間違いなく世界で一番幸せな、パパとママの娘だった。
「……っ」
私は強く唇を噛んで、その映像を脳内から振り払った。
美しい記憶。温かい場所。
——でも、今の私にとっては、そこは呼吸のできない「水中」だ。
あの日の「いい子」でいる限り、私は一生、ママの影から出られない。あの温もりに甘えている限り、私は「カレンモエ」という一人のウマ娘として大地に立てない。
「……さよなら」
私は、過去の幼い私に別れを告げた。あの日向には、もう戻らない。
(戻れないよ)
私は親の愛を振り払い、トレーナーの未来を食いつぶして、ここまで来たのだから。
普通なら、ここで止めるべきだった。「私のためにそこまでしないで」と、突き放すべきだった。それが、生徒としての、人としての正しさ。
——けれど。
(……あぁ)
胸の奥で、どす黒くて、甘美な何かが渦巻くのを感じた。
彼は選んだのだ。正しい「教育者」として私を守ることよりも、愚かな「共犯者」として私と堕ちることを。世界中が敵に回っても、私だけの味方でいることを。
その事実が、私の内側にある空虚な穴を、熱い泥のように埋めていく。
(……重い)
ずぷり、と。彼が差し出した人生の重さが、私の中に沈み込んでくる。
(重く、て)
息苦しいほどの質量。けれど、冷え切った私の芯を焼くように温かくて、どうしようもなく、心地よかった。
私のためだけに壊れてくれる。私のためだけに捨ててくれる。その重さだけが、空っぽの私をこの世界に繋ぎ止めてくれる
桜花賞で全てを否定されて、私の心は
だったら、それが愛しくて、誰にも渡したくないと狂ってしまうのは、きっと、仕方がないことだ。
そう、しょうがない。こんなにも熱い気持ちを受け取ってしまったら、独占欲が湧いたって、誰も私を責められない。
——だって、私を満たしてくれたのは、世界で貴方だけなんだから。
(……責任、とらなきゃね)
私は、自分自身に言い訳をした。最低で、醜い言い訳を。
彼を道連れにしてしまう罪悪感じゃない。彼の未来を奪ってしまった私がしなきゃいけない、当然の
貴方の人生の責任は、私がとってあげる。貴方が失ったものの全部を、私が埋めてあげる。だから、もう、誰にも渡さない。
(いいよね、絢原さん)
罪悪感は、いつしか粘着質な独占欲へと形を変えていた。
パパにも、ママにも、誰にもあげない。私のために破滅してくれるのは、世界でこの人だけだ。
「……ありがと」
スマホを胸に抱いた。心臓の音が、スマホ越しに彼に伝わりそうなほど強く脈打っている。
これまでのような、導く者と導かれる者という関係は、今ここで死んだ。ここにあるのは、私が彼を縛り付け、彼がそれを静かに受け入れる、共犯者という名の契約だけ。
「行くよ、トレーナー」
私は夜空を見上げた。分厚い雲の切れ間から、月が見えている。蒼白く、冷たい月。
「貴方がくれたこの切符。無駄にはしない」
私を地獄へ送り届けるために、貴方がボロボロになってくれたなら。私はその期待に応えて、誰よりも美しく燃え尽きてみせる。
あと数週間。やがて、破滅のファンファーレが鳴り響く。
——けれど、それが鳴ったからって、解放してあげるつもりなんてない。
たとえ全てが壊れて灰になっても、私は、貴方を絶対に離さない。
私はスマホの画面にキスをするように、唇を寄せて、小さく囁いた。
「
書いてて一番楽しかったこの会(暗黒微笑)