アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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35話 遺言

 

五月中旬。

 

新緑が眩しい季節。東京・府中の杜で行われる優駿牝まで、あと一週間と迫った日。

 

都内のホテルにある大会議場は、異様な熱気と、それ以上に重苦しい緊張感に包まれていた。

 

有力出走ウマ娘たちによる、共同記者会見。

 

本来であれば世代の女王を決める華やかな前哨戦であるはずの場が、今年はまるで公開裁判か、生前葬のような様相を呈している。

 

詰めかけた報道陣の数は、例年の倍以上。彼らの目当ては、誰が勝つかという予想ではない。

 

ある一人の少女が、無謀な死地へと赴く理由を——その狂気を、暴き立てることにある。

 

——Trainer: Ayahara

 

控室。

 

俺は、鏡の前でネクタイを締め直そうと悪戦苦闘していた。指先が震えて、手汗で滑り、何度やっても結び目が歪んでしまう。焦れば焦るほど、うまくいかない。

 

スッ、と。視界の端から、白い手が伸びてきた。

 

「貸して」

 

カレンモエだった。

 

パイプ椅子から立ち上がって、俺の前に立っている。漆黒の勝負服ではなく、学園の制服姿。化粧気のないその顔は、陶器のように白く、生気がない。

 

「ああ、悪い」

 

俺が手を離すと、モエは慣れた手つきでネクタイを解いて、襟元を整え始めた。

 

近い。

 

吐息がかかる距離。視線を落とすと、伏せられた長い睫毛が、震えていた。

 

シュッ、キュッ。

 

衣擦れの音だけが響く。指先は氷のように冷たかったが、動きには迷いがなく、丁寧だった。壊れ物を扱うような慎重さで、俺の首元に輪を作っていく。

 

「ふぅ」

 

結び目を整え終えて、モエは小さく長く息を吐いた。

 

その瞬間、能面のように張り詰めていた表情が、ほんの少し緩んだ気がした。

 

日常の動作。誰かの世話を焼くという、些細な行為。死地へ向かう心を、現世に繋ぎ止める鎖になったのかもしれない。

 

「……よし。曲がってないよ」

 

モエは俺の胸元をポンと叩いて、微かに口角を上げた。

 

かつてのアイドルとしての笑顔ではなく、ただの不器用な少女の、等身大の安堵だった。

 

「ありがとう。助かった」

 

「ううん。トレーナーがだらしない格好してたら、私が恥ずかしいから」

 

軽口。声は震えていない。

 

モエは俺のネクタイから手を離して、一歩下がって自分の姿を鏡に映した。覚悟を決めたように、顔を上げる。

 

「行くよ。時間だ」

 

「うん」

 

モエが歩き出した。

 

その細い脚が、2400メートルという過酷な距離に耐えられるとは、到底思えない。けれど、魂だけは、鋼鉄のように硬化している。

 

俺たちは部屋を出た。フラッシュの海へ飛び込むために。

 

 

会場の扉が開く。

 

無数のカメラレンズが、一斉にその一点に向けられた。

 

バシャシャシャシャッ!!

 

激しいシャッター音が、空気を切り裂く。焚かれるフラッシュの光量が、視界を白く塗りつぶした。

 

現れたのは、今年のオークスの主役たちだ。

 

中央に座るのは、桜花賞を制した桜の女王、ダイワスカーレット。その左右に、フローラステークスを勝ち上がった新興勢力や、忘れな草賞の勝者たちが並ぶ。

 

そして——長テーブルの一番端。

 

本来なら有力勢が座る位置ではない末席に、カレンモエが座った。

 

会場の空気が、一瞬で変わった。ざわめきが波紋のように広がる。

 

「来たぞ……」

「本当に走る気なのか」

「顔色が悪いな。相当参ってるんじゃないか」

「止めろよな、周りも」

 

記者たちのヒソヒソ話。

 

そこに含まれているのは、純粋な興味ではない。危険な見世物を見るような下世話な好奇心と、安全圏から投げかける無責任な正義感。

 

桜花賞での崩壊。その後の引きこもり報道。常識外れのオークス登録。

 

スプリンターが、2400メートルのGⅠに出走する。

 

それはレースの常識に対する冒涜であり、アスリートとしての自殺行為だ。誰もがそう思っている。だからこそ、誰もが結末を見たがっている。

 

司会者が開会を宣言する。質疑応答が始まった。

 

最初の数分間は、形式的なものだった。ダイワスカーレットへの祝福、他の有力勢へのコンディション確認。けれど、記者たちの視線は、常に端に座る少女へと注がれている。獲物に飛びかかるタイミングを窺っている。

 

そして、ある記者が手を挙げた。場の空気が、ピンと張り詰める。

 

矛先が、ついにモエへ向いた瞬間だった。

 

——The Red Ace: Daiwa Scarlet

 

「——では、ダイワスカーレット選手にお伺いします」

 

記者がアタシにマイクを向けた。

 

その目はアタシを見ていない。アタシ越しに、隣のモエを見ている。アタシをモエへの踏み台として利用しようとする意図が、透けて見えて不愉快だった。

 

「桜花賞に続き、このオークスを制すれば二冠達成となります。ライバルのウオッカ選手は日本ダービーへ、アストンマーチャン選手はNHKマイルカップへと路線を変更しました。実質的に『一強』とも言われるこのレースですが——モチベーションの維持など、難しい点はあるでしょうか?」

 

失礼な質問。他の出走者を無視して、アタシの勝利を既成事実のように語る。

 

普段なら、その無礼さを鼻で笑い飛ばしてやるところだった。今日のアタシは、それ以上に腹の立つことがあった。

 

アタシはマイクを引き寄せて、不機嫌そうに答えた。

 

「モチベーション? ……ええ、難しいわね」

 

会場を見渡した。どいつもこいつも、薄っぺらい顔をしている。隣に座る幽霊を、横目で睨みつけた。

 

「正直、シラけてるわ」

 

会場がどよめく。

 

「シラけてる、とは?」

 

「見れば分かるでしょ」

 

アタシは顎でモエをしゃくった。

 

「そこにいる誰かさんが、勝負を捨てて『思い出作り』に参加するみたいだからよ」

 

爆弾発言。記者たちが色めき立って、フラッシュが一斉に焚かれる。アタシは止まらない。言ってやらなきゃ気が済まない。

 

「オークスは、ティアラ路線の頂点を決めるレースよ。2400メートルという過酷な距離を走り切るために、アタシたちは血の滲むような努力を重ねてきた。スタミナをつけ、折り合いを学び、心肺機能を鍛え上げてきた」

 

机を拳でドン、と叩く。

 

「なのに、何? マイルですら息が持たなくて、無様に失速したスプリンターが、記念受験みたいにノコノコ出てくる? ……ナメられたものね、オークスも。アタシも」

 

挑発。アタシなりの精一杯の救済措置。

 

ふざけるな。そんな死んだ目で、そんなボロボロの体で、アタシの横に立つな。アタシが倒したかったのは、桜花賞の直前まで牙を剥いていた、あのギラギラしたカレンモエだ。こんな、中身の入っていない抜け殻じゃない。

 

——怒りなさいよ。

 

心の中で叫んだ。

 

『ふざけるな』って言い返しなさい。『勝つのは私だ』って吠えなさい。

 

アタシの言葉が、彼女の心に火をつけることを願って、アタシは彼女を睨みつけた。

 

——けれど。

 

モエは、反応しなかった。怒りもせず、悲しみもせず。ただ、無機質なガラス玉のような瞳で、虚空を見つめたまま。

 

「……」

 

その反応のなさに、アタシの背筋が寒くなった。

 

彼女はもう、アタシたちの理屈が通じる場所にはいない。勝負論も、プライドも、今の彼女には届かない。

 

まるで、言葉の通じない異界の生物が、人の形をして座っているような不気味さ。

 

アタシはマイクを置いた。これ以上何を言っても、無駄だ。

 

彼女は、走る死体なのだから。

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

スカーレットの声が、遠くで響いている。

 

怒っている。当然だ。彼女は正しい。アスリートとして、私の行動は許されない。

 

——でも、何も感じない。

 

心が、分厚い氷の下に沈んでしまったみたいに。

 

「……えー、では」

 

記者が、恐る恐る私にマイクを向けた。

 

スカーレットの挑発を受けて、私がどう反応するか。ハイエナたちが、待ち構えている。

 

「カレンモエ選手。ダイワスカーレット選手からは厳しい言葉がありましたが——改めてお伺いします。今回のオークス挑戦、距離適性という観点から見れば、非常に厳しい戦いになると予想されます。一部では『無謀だ』『危険だ』という声も上がっていますが——」

 

記者は、核心を突いてきた。

 

「ズバリ、勝算はありますか? それと、もう一つ。一部週刊誌では、これはトレーナーの指示による強行出走ではないか、という声もありますが——」

 

会場中の視線が、私に突き刺さる。

 

カメラのレンズが、私の表情筋のピクリとした動きさえも見逃すまいと迫る。

 

勝算。虐待疑惑。無謀な挑戦。

 

私はマイクを手に取った。

 

冷たい。その冷たさが、心地よかった。

 

「……勝算は、ありません」

 

短く、答えた。

 

会場が静まり返る。予想外の答えだったのだろうか。「あります」と強がるか、「精一杯頑張ります」と濁すと思っていたのだろうか。

 

「え、ない、のですか?」

 

記者が狼狽える。

 

「はい。ありません」

 

私は淡々と続けた。

 

「2400メートルは、私の適性外です。スタミナも足りません。常識的に考えれば、完走すら危ういでしょう。スカーレットさんの言う通り、勝負になりません」

 

「で、では」

 

記者が身を乗り出す。

 

「なぜ、出走するのですか? 勝つ見込みがないのに、なぜリスクを冒してまで? やはり、トレーナーの方針で——」

 

「違います」

 

私は、記者の言葉を遮った。語気が、少しだけ強くなった。

 

「トレーナーは関係ありません。私が、決めたんです」

 

私は、横に立つトレーナーを一瞥した。

 

首元には、さっき私が結んだネクタイがある。歪みのない結び目を見ると、不思議と勇気が湧いてきた。

 

彼は何も言わず、ただ黙って私を見守っていた。悪役を引き受けて、泥を被ろうとしてくれている。

 

——でも、それは違う。これは私のわがままだ。私が選んだ地獄だ。

 

「トレーナーは反対しました。無謀だと、危険だと、何度も止めてくれました。でも、私がお願いしたんです。『走らせてください』って」

 

嘘ではない。あの日、地下バ道で、私が彼を引きずり込んだのだから。

 

「これは、私が私であるための選択です。誰かに言われたから走るんじゃない。私が、走らなきゃいけないから走るんです」

 

「……走らなきゃいけない、とは?」

 

「答え合わせです」

 

私は、胸に手を当てた。そこには、重たい錨が沈んでいる。

 

「私が『カレンモエ』であるか。それとも、ただの『カレンチャンの娘』として終わるのか。東京の2400メートルで、その答え合わせをしてきます」

 

桜花賞で、私はカレンチャンという巨大な概念に飲み込まれて、自分が消える恐怖に負けて脚を止めた。だから、確かめるしかない。

 

ママが絶対に選ばなかった死地。そこで限界を超えて、肉体が悲鳴を上げて、意識が飛びそうになった時。最後に残るのが私なのか、それともママなのか。

 

「勝つためではありません。私が私であるために、走ります」

 

会場が、ざわめきを通り越して、異様な静寂に包まれた。

 

理解されていない。狂人の戯言だと思われているかもしれない。

 

——それでもいい。

 

私はマイクを置いた。スカーレットが、信じられないものを見るような目で私を見ていた。彼女の瞳に映る私は、きっと、とても醜くて、滑稽だろう。

 

——でも、構わない。

 

私はもう、みんなが望むようなヒーローにはなれないのだから。

 

——Trainer: Ayahara

 

会見が終わった。

 

フラッシュの嵐が、退場するモエの背中に降り注ぐ。

 

彼女は、逃げるように、けれど一度もふらつくことなく、出口へと歩いていく。

 

その背中は、以前よりもずっと小さく、そして黒く見えた。光を一切反射しない、孤独の塊。

 

「……おい、いいのかよアレ」

「止めろよトレーナー」

「死ぬ気だぞ、あの子」

 

記者席から、ヒソヒソ声が聞こえた。

 

非難。嘲笑。本物の恐怖。彼らは気づいたのだ。これがスポーツの会見ではなく、ある種の遺書の読み上げであったことに。

 

俺は、一瞬だけ会場を見渡した。

 

「責任は俺が取る」と、ここで高らかに宣言するべきか。

 

——やめておこう。

 

俺は、言葉を飲み込んだ。

 

言葉など、もう軽すぎる。それに、俺がここで矢面に立てば、彼女の個としての戦いに泥を塗ることになる。

 

彼女は今、一人で世界と対峙しようとしている。

 

俺にできるのは、その背中を支えて、結果のすべてを受け止めることだけだ。

 

俺は無言で一礼して、モエの後を追った。

 

背中に突き刺さる視線とフラッシュが、俺たちをこちらの世界から切り離していくようだった。

 

廊下に出ると、モエが壁に寄りかかって待っていた。

 

「……お疲れ」

 

俺が声をかけると、モエは顔を上げて、小さく息を吐いた。

 

「うん。言えたよ」

 

その表情は、会見場での能面のような硬さとは違って、少しだけ憑き物が落ちたように穏やかだった。自ら退路を断ったことで、迷いが消えたのだろう。

 

「これで、もう誰も止められないね」

 

「ああ。後戻りはできない」

 

「怖くない?」

 

モエが、俺の袖口をぎゅっと掴んだ。指先が微かに震えている。

 

口では強がっていても、本能は死地へ向かう恐怖を訴えているのだろう。

 

「怖くないと言えば嘘になる。覚悟はできているが」

 

俺はモエの手の上に、自分の手を重ねた。

 

「お前がどこまで行こうと、俺は必ずそこにいる。たとえゴール板の先で力尽きても、俺が必ず受け止める。だから、恐れずに行ってこい」

 

「……うん」

 

モエは、俺の手の温もりを確かめるように、強く握り返してきた。

 

その瞬間。

 

彼女の瞳の奥に、一瞬だけ、甘く、そして粘着質な昏い光が宿った気がした。

 

恐怖や不安ではない。もっとドロドロとした、底知れない執着の色。

 

『もし私が壊れて動けなくなったら、その時は——』

 

そんな、背筋が凍るような甘い囁きが聞こえたような気がした。

 

——けれど、次の瞬間には、彼女はかぶりを振っていた。

 

その昏い欲望を、心の奥底へ押し込んだように。

 

今はまだ、その甘えに浸る時ではない、ということだろう。成し遂げなければならない。自分という存在を薪にくべて、自分の中の『カレンチャン』を跡形もなく燃やし尽くすこと。

 

それこそが、今の彼女が走る唯一の理由なのだから。

 

「……行こう、モエ」

 

「うん」

 

俺たちは歩き出した。

 

東京レース場へ。あの長い直線の向こうにある、何もない荒野へ。

 

窓の外では、まだ五月の太陽が輝いている。けれど、俺たちの歩く道には、もう二度と、あんな明るい光は差さないだろう。

 

——それでも。

 

俺の隣には、彼女がいる。

 

それだけで、十分だった。

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