アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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36話 沈黙のパドック

 

 

五月下旬。東京都府中市、東京レース場。

 

新緑の季節。空は突き抜けるように快晴。十万人近い観衆がスタンドを埋めていた。

 

オークス。

 

日本ダービーと並ぶ、クラシックの頂上決戦。2400メートル。スピード、スタミナ、精神力、運。全てを持った「樫の女王」だけが、この旅路の果てに栄冠を掴む。

 

——けれど、今年の空気は違っていた。

 

祝祭の華やかさが、ない。

 

代わりに、重く湿った沈黙が、レース場全体を覆っていた。

 

ゲートが開く前の独特の静けさ。それは、勝負への緊張感とは違う。腫れ物に触るような、見てはいけないものを見るような、居心地の悪い沈黙。

 

観客の視線は、コースではなくパドックへ向かっていた。

 

そこにあるのは、熱狂でも興奮でもない。

 

同情と、好奇心。

 

これから始まる悲劇への、共犯意識。

 

——Trainer: Ayahara

 

検量室近くの控室。コンクリートの壁。腕時計の秒針の音が、やけに大きく響く。

 

カチ、カチ、カチ。

 

爆弾のカウントダウンに似ていた。

 

「時間だ」

 

俺は呟いて、顔を上げた。

 

パイプ椅子に座ったモエが、こちらを見ていた。

 

漆黒の勝負服。装飾を削ぎ落とした、機能だけの戦闘服。以前は反抗の色だった黒が、今は燃料の色に見える。

 

無言で立ち上がった。

 

細い。一回り体が小さくなった。衰弱ではない。極限まで削ぎ落として、走る機能だけを残した姿。

 

肌は陶器のように白い。瞳の奥に、青白い炎が揺れていた。

 

「行けるか」

 

「うん。大丈夫」

 

抑揚のない声。けれど、確かな熱があった。

 

「行ってこい。地下バ道の先で待ってる」

 

俺は背中を押さなかった。ここから先、パドックへの道はウマ娘しか入れない。あの数万の視線の中へ、彼女は一人で入る。

 

俺にできるのは、檻の出口で最後の鍵を渡すことだけ。

 

「うん」

 

モエは扉へ向かった。迷いはない。プリマドンナのように、軽やかで静かだった。

 

扉が閉まる。

 

俺は壁を叩いた。痛みはない。武者震いに似た震えだけ。

 

——これから、世界を裏切る。

 

「可哀想な悲劇」を期待する観衆の前で、最も美しく、残酷な喜劇(自爆)を演じる。

 

 

——The General Public(大衆)

 

パドック。

 

円形の広場を取り囲む人垣。二階、三階の手すりまで埋め尽くされている。

 

普段のGⅠなら、祭りの前の高揚に満ちているはずだった。

 

——今日は違っていた。

 

ザワザワ……ザワザワ。

 

波のようなさざめき。誰も大声を出さない。誰も笑わない。葬列を見送るような、神妙な顔。

 

『続いての入場は、十六番。カレンモエ』

 

場内アナウンスが響く。空気が凍った。

 

黒い勝負服。芦毛の髪。俯いた表情。

 

パシャシャシャシャシャッ!

 

一斉に焚かれるフラッシュ。

 

——けれど、続く歓声がない。

 

「カレンチャン」と呼ぶ声も、「頑張れ」という声援も、喉で詰まったように出てこない。

 

代わりに、観客たちはスマートフォンを構えた。レンズ越しに彼女を切り取って、デジタルの海に放流する。

 

『カレンモエちゃん、ゲッソリしてる』

『止めろよ、誰か』

『#カレンモエを救いたい』

 

善意のタグライン。

 

巨悪から悲劇のヒロインを守る「正義の味方」として、彼らはタイムラインに参加していた。

 

——けれど。

 

指先は止まらない。「可哀想な少女が死地へ赴く」という極上のエンターテインメントを、消費し続けていた。

 

「見てられないよなぁ」

 

最前列の男が、隣の連れに囁く。

 

「でも、伝説のレースになるかもな」

 

心配するふりをして、誰も目を逸らさない。粘着質な視線が、痩せた背中にまとわりつく。

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

パドックの芝を踏む。

 

足の裏に伝わる感触。眩しい。太陽の光も、フラッシュも、目が焼き切れそうだった。

 

(ふふ)

 

胃の奥からせり上がってくる高揚を、噛み殺した。

 

笑ってはいけない。今はまだ、「可哀想な少女」の仮面が必要だから。

 

近くにいた子たちの囁き声が、耳に届いた。

 

「あの子……カレンモエ。近寄らない方がいいよ」

 

「え、なんで」

 

「匂いがするの。火薬みたいな、危ない匂いが」

 

彼女たちは青ざめた顔で、私を盗み見て、距離を取った。

 

私の周りだけ、空白地帯ができる。

 

死人の匂いじゃない。爆発寸前の、危険物の匂いを、彼女たちは嗅ぎ取った。

 

絶対的な孤独。

 

砂漠の真ん中に放り出されたような乾き。

 

——でも。

 

この孤独こそ、今の私に相応しい場所だ。

 

柵の向こうの観客たち。みんな悲しい顔をして、同情の視線を投げかけてくる。

 

『頑張れなんて言わないよ』

『君は悪くない』

『もう休みなよ』

 

(……バ鹿みたい)

 

アンタたちが守ろうとしている「カレンモエ」なんて、もうどこにもいないのに。

 

ここにあるのは、アンタたちの期待も、同情も、そして私自身さえも燃料にして、全部吹き飛ばそうとしている爆弾だけだ。

 

私は、自分の意志でここに立っている。これは私だけの、独りよがりな心中だ。

 

——その時。

 

背中に、強烈な殺気が突き刺さった。

 

同情でも、憐憫でもない。焼き尽くすような、純粋な敵意。

 

熱くて、痛くて、懐かしい感覚。

 

私は反射的に顔を上げた。

 

 

——The Red Ace: Daiwa Scarlet

 

アタシは、入念にストレッチをしながら、少し離れた場所に立つ黒い背中を睨みつけていた。

 

カレンモエ。

 

桜花賞でアタシの勝利を汚して、今、亡霊のようにここにいる。

 

その背中は、以前より小さく見えた。風が吹けば折れそうなほど。

 

周りの連中は、彼女を見てお涙頂戴の悲劇に浸っている。「可哀想だ」「無理させるな」「誰が許可したんだ」。甘ったれた空気が、パドックを支配していた。

 

(……バカバカしい)

 

アタシは鼻で笑った。

 

何も分かっていない。あいつの背中の芯にあるものを、見ていない。

 

折れていない。腐っていない。爆発寸前の爆弾みたいに、張り詰めている。

 

あの目は、死を受け入れた聖女の目じゃない。世界を道連れにする、凶器の目だ。

 

(上等よ)

 

アタシだけは、誤魔化されない。アンタを「可哀想な子」なんて扱わない。

 

アンタは敵だ。アタシの二冠を阻むかもしれない、不確定要素。アタシの視界に入る、邪魔な石ころ。そして、アタシが唯一「勝負したかった」と認めたライバル。

 

だから、蹴散らす。手加減しない。2400メートルの彼方へ、完膚なきまでに叩き潰して、二度と立ち上がれないように引導を渡す。

 

それが、アタシなりの誠意だ。

 

同情なんていう泥を塗るくらいなら、殺意という名の花束を贈ってやる。

 

アタシはストレッチを終えて、地下バ道への列に向かう途中、わざと彼女の横を通った。聞こえるか聞こえないかの声で、囁いた。

 

「……モエ」

 

肩がピクリと動く。虚ろな目が、こちらを向いた。

 

その瞳の奥に、微かな光が宿るのを見た。

 

「死ぬ気で来なさいよ。殺してやるから」

 

アタシは極上の笑顔で告げた。

 

アイドルとしての営業用スマイルじゃない。女王として、獰猛な牙を見せる笑み。

 

モエが一瞬、呆気に取られた顔をした。

 

——それから。

 

能面のような顔に、微かな亀裂が走った。口の端が、ほんの数ミリだけ吊り上がる。笑みと呼ぶには、あまりに不器用で、けれど確かに感情の通った表情。

 

「……うん。ありがと」

 

それだけ言って、彼女は前を向いた。

 

その背中から、少しだけ「死の臭い」が消えて、代わりに「獣の臭い」が立ち上ったのを、アタシは感じ取った。

 

(フン。それでいい)

 

アタシは髪を払って、胸を張った。

 

観客たちよ、よく見ておきなさい。

 

これから始まるのは、お涙頂戴の悲劇じゃない。

 

王と反逆者の、血みどろの殺し合いだ。

 

 

——Trainer: Ayahara

 

パドックでの時間が終わる。

 

ウマ娘たちが順に地下バ道へ向かい始めた。観客席からは、まばらな拍手と、ため息のような声が漏れる。

 

俺は関係者エリアの隅から、その光景を見ていた。

 

モエは誰とも言葉を交わさず、最後尾を歩いている。痛々しいほどに孤高だった。

 

俺は踵を返した。急がなければならない。彼女が待つ場所へ。

 

関係者用の通路を走った。靴音がコンクリートに響く。心臓が早鐘を打っていた。

 

——これから俺がすることは、トレーナーとしてあるまじき行為だ。

 

「勝て」とも「頑張れ」とも言わない。彼女に、自爆スイッチを押すための許可を与える。

 

地下バ道。

 

地上の喧騒が嘘のように遮断された、薄暗いコンクリートのトンネル。ヒンヤリとした空気が、火照った肌を刺す。

 

埃と、湿った土の匂い。鎮痛スプレーのメンソールの香り。蛍光灯がチカチカと明滅していた。

 

その薄闇の中に、彼女がいた。

 

壁に背を預けて、膝を抱えるようにして俯いている。漆黒の勝負服が、闇に溶け込んでいた。

 

カツン、カツン……。

 

俺の足音が、無機質な壁に反響する。近づくにつれて、浅く速い呼吸音が聞こえてきた。

 

俺は彼女の前に立った。

 

数秒の沈黙。触れれば切れそうな緊張感。

 

冷たい汗の匂い。生きている証。これから一気に燃え尽きようとする、熾火(おきび)の熱。

 

ここにはカメラも、観客も、正義も悪もない。

 

これから地獄へ堕ちる「共犯者」たちの、閉ざされた密室。

 

「遅いよ、トレーナー」

 

モエが顔を上げる。

 

「悪かった。人目を避けるのに手間取った」

 

俺は彼女の前に立った。

 

ここが最後の接触地点。この先はターフ。もう、誰も助けられない。

 

「どうだった、外は」

 

俺が聞くと、モエはフン、と鼻を鳴らした。

 

その表情には、パドック前の虚無感はなく、代わりに鋭利な刃物のような冷たさがあった。

 

「最悪。みんな、優しい顔してた」

 

「『可哀想なモエちゃん』『無理しないでね』。反吐が出る」

 

彼女は自分の腕を強く抱きしめた。

 

指先が震えているのは、恐怖ではない。抑えきれない衝動と、歓喜による震え。

 

「スカーレットだけだよ。私を殺そうとしてたのは」

 

「そうか。あいつらしいな」

 

「うん。救われたよ、少しだけ」

 

モエは立ち上がって、俺に背を向けた。

 

その小さな背中が、世界の重圧を一身に背負って震えている。俺はそれを支えることはできない。共に背負うことしかできない。

 

「ねえ、トレーナー」

 

「なんだ」

 

「やることは、一つだよね」

 

「ああ」

 

俺は彼女の背中に手を置いた。

 

驚くほど薄かった。骨が浮き出ている。けれど、内側には、熱量が渦巻いていた。

 

タキオンとの密約。地獄のようなトレーニング。すべては、この一瞬のため。

 

俺は口を寄せて、彼女の耳元で囁いた。

 

「モエ。作戦はなしだ」

 

「……うん」

 

「ペース配分も考えるな。折り合いも気にするな。後のことも、明日のことも、未来のことも、一切考えるな」

 

アスリートに対する冒涜であり、指導者としての職務放棄。

 

——けれど、今の彼女に必要なのは、理性的なアドバイスではない。

 

彼女を縛る「常識」という鎖を、断ち切るための斧だ。

 

「スタートの瞬間から、ゴール板を駆け抜ける刹那まで。お前の持てる燃料を、一滴残らず燃やし尽くせ」

 

「……」

 

「スプリントの速さで、2400メートルを駆け抜けろ。誰にも追いつけない場所へ。カレンチャンの幻影さえも、置き去りにする彼方へ」

 

俺は一呼吸置いて、最後の引き金を引いた。

 

「灰になるまで、アクセルを踏み続けろ」

 

呪いの言葉。死への誘い。

 

——いや。これは「起爆コード」だ。

 

長い沈黙。

 

地下バ道の奥から、ファンファーレの準備をする音が、微かに聞こえた。地上から漏れる歓声が、遠雷のように響いていた。

 

やがて、モエが振り返った。

 

暗がりの中で、瞳だけが異様に輝いていた。

 

正気と狂気の狭間で揺らめく、青白い炎の色。

 

もはや、迷いも、恐怖も、生き物らしい感情さえも残っていない。ただ「走る」という機能だけが、そこにあった。

 

唇が、ゆっくりと歪む。泣き出しそうなほど切なくて、ゾッとするほど美しい、壊れた笑顔。

 

「……うん。行ってくるね」

 

「ああ。見てるぞ。最後まで」

 

モエは前を向いた。歩き出す。

 

その先に、長方形に切り取られた「出口」。目が痛くなるほどの強烈な純白の光が、溢れていた。

 

暗く湿った地下道から、残酷なほどに明るい世界へ。

 

一歩踏み出すたびに、光が黒い勝負服を侵食していく。彼女の纏う闇が、光を切り裂いていく。

 

ドワァァァァァッ……!

 

出口を抜けた瞬間。空から降ってくるような大歓声。肌をジリジリと焼く五月の太陽。

 

それは「祝福」の光ではなかった。

 

彼女という爆弾が、世界を焼き尽くすために飛び込む火口だった。

 

眩しすぎる光の中で、輪郭が滲む。

 

——それでも、彼女は止まらなかった。

 

世界を敵に回して、自らの命を燃やして世界に傷跡を残す、確信犯の行進。

 

遠くで、ファンファーレが鳴り響く。

 

カレンモエという少女の、最初で最後の「大逃げ」の合図だった。

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