アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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37話 オークス・前編

 

——The General Public(大衆)

 

五月下旬。東京都府中市、東京レース場。

 

新緑の季節。空は突き抜けるように快晴。十万人近い観衆がスタンドを埋めていた。芝の状態は良。風は微風。完璧な舞台。

 

オークス。ティアラ路線の頂点。

 

本来であれば、若き乙女たちが一生に一度の晴れ舞台で輝く、光の祭典のはずだった。

 

——けれど、空気は違っていた。

 

声援は、まばらだった。手拍子も、控えめだった。観客たちは双眼鏡を構えながら、互いに目を合わせず、ただターフビジョンの一点を見つめている。

 

ターフビジョンに映っているのは、ゲートに収まろうとしている十八番枠まで。その中で、最も注目を集めているのは、最内枠の少女だった。

 

カレンモエ。

 

桜花賞でラスト二百メートルで止まった少女。観客が叫んだ「カレンチャン!」というコールに自我を喰われかけて、システムを強制終了させた少女。

 

その後の報道は、誰もが知る通りだった。「無謀な挑戦」「適性外のレース」「危険視」「止めるべき」「#カレンモエを救いたい」。SNSのタイムラインには、善意のタグラインが流れ続けた。指は止まらなかった。誰もが「可哀想な少女が死地へ赴く」というエンターテインメントを、消費し続けていた。

 

それでも、彼女はゲートに入った。

 

会見で「勝算はない」「私が私であるための答え合わせ」と告げ、世界中の同情と善意を払い除けて、ここに立った。

 

スタンドの十万人は、その異様な決意を、自分の目で確認するためにここに集まっていた。

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

ゲートが、閉まる音。

 

後ろから、ガシャンと退路を断つ音が響いた。

 

左右が金属の壁。前方にスタートライン。最内枠から伸びる、最短距離の白いラチ。

 

——一番枠。

 

絢原さんの言うところの「棺桶」だ。出遅れれば集団に飲まれて二度と出られない、最も危険な枠。逆に、最短距離が約束された、最も理にかなった枠。

 

私には、それでよかった。

 

私は、棺桶に入る覚悟で、ここに来た。

 

絢原さんとの最後のやり取りを、頭の中で反芻していた。

 

地下バ道の薄闇。コンクリートの壁。冷たい空気。私の前に立った絢原さんが、私の耳元で囁いた言葉。

 

——灰になるまで、アクセルを踏み続けろ。

 

それは、いつもの指示の延長のように聞こえる、けれど、普通のトレーナーなら絶対に口にしない言葉だった。

 

普通のトレーナーは、選手に「壊れるな」と言う。「無理をするな」と言う。「次がある」と言う。

 

絢原さんは、そう言わなかった。

 

私が望んだから。私が、燃え尽きることを望んだから。それを止めるトレーナーは、私にとって裏切り者にしかならない。だから絢原さんは、私の隣に立つために、私の道を肯定する側に立つことを選んだ。

 

世界中を敵に回しても、私一人の味方でいることを。

 

——……ありがと、トレーナー。

 

私は、ゲートの中で目を閉じた。

 

胸の奥で、青白い火が、静かに燃えている。冷たい火。私を内側から焼き続けている火。

 

カレンチャンの娘としての私。期待に応えようとしていた私。「カワイイ」と言われて嬉しかった私。それら全てを、このゲートの中に置いていく。

 

ここから飛び出すのは、もう「カレンモエ」ではない。

 

ただの、走るためだけの何か。

 

——さよなら。

 

私は、心の中で呟いた。誰に対してともなく。

 

 

——The Red Ace: Daiwa Scarlet

 

三番枠。

 

アタシはゲートの中で、目を閉じていた。

 

最内のあいつのことを、考えていた。

 

会見で「勝算はない」と言って、パドックで「火薬の匂い」を漂わせて、地下バ道で誰とも目を合わせずに最後尾を歩いてきた、あの黒い背中のことを。

 

可哀想? 同情? バカ言うんじゃない。

 

あの目を見ろ。死を受け入れた聖女の目じゃない。世界を道連れにする、凶器の目だ。

 

アタシだけは、誤魔化されない。

 

「死ぬ気で来なさいよ。殺してやるから」

 

パドックで、アタシは囁いた。本気だった。あいつを「可哀想な子」なんて扱うのは、アタシの信条に反する。あいつは敵だ。アタシの二冠を阻むかもしれない、不確定要素。アタシが唯一「勝負したかった」と認めたライバル。

 

だから、蹴散らす。手加減しない。完膚なきまでに叩き潰して、二度と立ち上がれないように引導を渡す。

 

それが、アタシの誠意だ。

 

ゲートの中で、アタシは目を開けた。

 

——上等。来なさい、モエ。

 

ファンファーレが、遠くで鳴り始めた。

 

 

——The General Public(大衆)

 

陸上自衛隊音楽隊による、G1・オークスのための特別な旋律。高らかに、華やかに、それでもどこか物悲しい。

 

普段なら祝祭の音であるはずのファンファーレが、今日はどこか葬送の鐘のように響いた。

 

スタンドの十万人は、声を上げない。手拍子も控えめ。誰もが息を呑んで、ゲートを見つめている。

 

ファンファーレが鳴り終わる。

 

数秒の真空のような沈黙。

 

『カレンチャン!』とコールするファンも、『頑張れ!』と叫ぶ声も、喉で詰まったように出てこない。代わりに、観客たちはスマートフォンを構えていた。粘着質な視線が、レンズ越しに、最内枠の黒い背中を捉えている。

 

スターターが台上でレバーを握る。

 

 

——Live: Announcer

 

『——スタートしました、オークス!』

 

実況の声が、ターフに響き渡る。

 

『ゲートが開きました! 大きな出遅れはありません、十八人ほぼ揃ってのスタート!』

 

『——、内から、一番、カレンモエ! 飛び出した! カレンモエ、最内から先頭に出ました!』

 

実況の声が、わずかに揺らいだ。

 

『カレンモエ、ハナを取りに行く! 一番枠から、最短距離を、自分のペースで!』

 

『前半二百メートル通過——、これは、明らかに速いペースです! オークスの序盤としては、考えられない速さです!』

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

風圧。

 

顔面の皮膚が後ろに引っ張られる。息が出来ない。酸素を取り込む暇すらない。スタートの瞬間に筋肉に蓄えられたものを、惜しげもなく爆発させていた。

 

——いい。

 

そう思った。

 

景色が線になる。左手の白いラチが、一本の光の帯となって流れていく。右手にいたはずのライバルたちが、スローモーションのように後ろへ消えていく。

 

私の視界には、ゴール板と、何もない空間しか映さない。

 

タキオンさんの作戦は、シンプルだった。

 

——前半1200メートルを全力で走る。途中で一度、自分の体を意識的にリセットする。そして後半1200メートルを、もう一度全力で走る。スタミナという概念は捨てろ。ペース配分も要らない。スプリントを二回繰り返すんだ。

 

スプリンターのままで2400メートルを騙し切る、唯一の戦術。

 

理屈の上では、無謀だった。一度目のスプリントで足が終わるはずだ。それを、走行効率の改善、体幹の強化、関節と腱への負荷分散——一ヶ月、私の体に叩き込まれた、徹底的な調整で支える。

 

走り切れる体に、作り変える。

 

タキオンさんがやってくれたのは、それだ。私が選んだ道を、走れる脚で走れるように、支えてくれた。

 

それでも、私は信じていた。タキオンさんを。絢原さんを。私自身を。

 

——灰になるまで。

 

絢原さんの声が、頭の中で響いた。

 

私は、地面を蹴った。

 

 

——The Observer: Vodka

 

「……マジかよ」

 

オレはスタンドの特等席で、思わず声を漏らした。

 

来週に控えた日本ダービーの調整は、今日の朝に済ませていた。気晴らしを兼ねて、観戦に来ていた。

 

ターフビジョンに映る最内のあいつの走りを見て、オレは身を乗り出した。

 

——速い。

 

速いなんてもんじゃない。次元が違う。

 

オレもマイル戦でスピードには絶対の自信を持っているし、豪快なレース運びを信条としている。それでも、今見ているものは別格だ。

 

東京レース場の長いホームストレッチ。その内ラチ沿いを、地を這う黒い影として、カレンモエが疾走していく。

 

——ここ、2400だぞ。

 

オレは思わず心の中で突っ込んだ。スプリントの速さで、長距離レースの序盤を駆け抜けている。最初から「ゴール板が四百メートル先にある」と勘違いしているような走り。

 

——オレだって、あんな勢いで飛び出したら最後持たねぇぞ。

 

隣を走る他のウマ娘たちが、どよめきと共に動きを止めるのが、ここからでも分かった。誰もついていかない。ついていけない。あんなスピードで突っ込んだら、最初のコーナーで脚を使い果たして共倒れになる。

 

——……かっけぇじゃねぇか。

 

オレの口元が、自然と歪んだ。

 

常識外れ。無謀。自殺行為。それでも、その突き抜けたバカげた速さに、オレの中の「カッコよさ」を求める魂が共鳴してしまった。

 

オレも来週、常識を破ってダービーへ挑む身。だから分かる。あの黒い背中が背負っている覚悟の重さが。

 

——けどな、モエ。

 

オレは手すりを強く握りしめた。

 

——その賭け、代償は高いぞ。

 

そのスピードの先にあるのは、栄光か、それとも破滅か。今はまだ、誰にも分からない。

 

 

——The Alchemist: Agnes Tachyon

 

スタンドの一般席。

 

喧騒から少し離れた場所で、白衣を羽織ったタキオンは、紅茶の入った水筒を片手に、双眼鏡を覗いていた。

 

「ククッ……」

 

喉の奥から、笑いが漏れる。

 

「素晴らしい。実に素晴らしいよ、カレンモエ君」

 

レンズの先で、最内の黒い影が、規格外の速度で東京の長い直線を駆けていく。周りの観客たちは、「暴走だ」「掛かったのか」と騒いでいる。彼らには、ただの自滅にしか見えていないのだろう。

 

タキオンには見えていた。

 

筋肉の収縮。酸素摂取のメカニズム。一ヶ月の調整で組み替えた、彼女の走行フォーム。

 

通常のウマ娘は、無意識のうちに「ゴールまで体力を温存しよう」とブレーキをかける。それは生存本能だ。

 

——彼女には、それがない。

 

代わりに、ある一つの戦術が刷り込まれている。前半全力。途中で意識的なリセット。後半全力。「1200メートル×2」。私が彼女に授けた、唯一の計算式。スプリンターのままで2400を騙し切るための、戦い方。

 

紅茶のカップを、ゆっくりと持ち上げた。

 

「さあ、見せてくれたまえ」

 

タキオンの口元に、皮肉とも本心とも取れる笑みが乗っていた。

 

「君の壊れる音を、一番近くで聞かせてもらおう」

 

それが、観衆の前で見せた、表向きの台詞だった。

 

 

——The Resident: Manhattan Cafe

 

タキオンの隣で、マンハッタンカフェは静かに、双眼鏡を構えていた。

 

レンズの先のターフを、彼女は前髪の奥から見ている。

 

「……影が、伸びている」

 

呟く。

 

「重くて、暗くて、悲しいほどに大きい影。彼女自身よりも、ずっと大きいもの」

 

タキオンが、横目で彼女を見た。

 

「……見えるかい?」

 

「ええ。彼女の後ろから、追いかけてきています。彼女が走るほど、影は近づいてくる」

 

理科準備室で、私は彼女に告げた。「飲み込まれますよ。貴女自身が、消えてなくなる」と。

 

それでも彼女は走ることを選んだ。「飲み込まれて消えるなら、それまでだったってこと」と告げて。

 

——構わないと、言いました。

 

カフェは、双眼鏡を下ろした。

 

——それでも、私には見えてしまう。あの子の後ろから追いかけてくる、巨大な影が。

 

レンズを通さなくても、ターフの最内に、一筋の光と一塊の闇が、走っているのが見えた。

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

第一コーナーへ突入する。

 

減速はしない。遠心力を、ラチ沿いの摩擦で殺すような感覚で、最短距離を駆け抜ける。体が斜めに倒れ込む。地面が近い。このまま転がっても構わないという速度で、私はコーナーを食い破った。

 

カーブを抜ける。長い向こう正面の直線が、目の前で開ける。

 

東京の二千四百。府中の長い長い直線。

 

その先まで、私の脚が辿り着けるかは、分からない。

 

それでも、走る。

 

走り続ける。

 

絢原さんの声が、耳の奥で何度も響く。

 

——灰になるまで。

 

私は、地面を蹴り続けた。




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