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五月下旬。東京都府中市、東京レース場。
新緑の季節。空は突き抜けるように快晴。十万人近い観衆がスタンドを埋めていた。芝の状態は良。風は微風。完璧な舞台。
オークス。ティアラ路線の頂点。
本来であれば、若き乙女たちが一生に一度の晴れ舞台で輝く、光の祭典のはずだった。
——けれど、空気は違っていた。
声援は、まばらだった。手拍子も、控えめだった。観客たちは双眼鏡を構えながら、互いに目を合わせず、ただターフビジョンの一点を見つめている。
ターフビジョンに映っているのは、ゲートに収まろうとしている十八番枠まで。その中で、最も注目を集めているのは、最内枠の少女だった。
カレンモエ。
桜花賞でラスト二百メートルで止まった少女。観客が叫んだ「カレンチャン!」というコールに自我を喰われかけて、システムを強制終了させた少女。
その後の報道は、誰もが知る通りだった。「無謀な挑戦」「適性外のレース」「危険視」「止めるべき」「#カレンモエを救いたい」。SNSのタイムラインには、善意のタグラインが流れ続けた。指は止まらなかった。誰もが「可哀想な少女が死地へ赴く」というエンターテインメントを、消費し続けていた。
それでも、彼女はゲートに入った。
会見で「勝算はない」「私が私であるための答え合わせ」と告げ、世界中の同情と善意を払い除けて、ここに立った。
スタンドの十万人は、その異様な決意を、自分の目で確認するためにここに集まっていた。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
ゲートが、閉まる音。
後ろから、ガシャンと退路を断つ音が響いた。
左右が金属の壁。前方にスタートライン。最内枠から伸びる、最短距離の白いラチ。
——一番枠。
絢原さんの言うところの「棺桶」だ。出遅れれば集団に飲まれて二度と出られない、最も危険な枠。逆に、最短距離が約束された、最も理にかなった枠。
私には、それでよかった。
私は、棺桶に入る覚悟で、ここに来た。
絢原さんとの最後のやり取りを、頭の中で反芻していた。
地下バ道の薄闇。コンクリートの壁。冷たい空気。私の前に立った絢原さんが、私の耳元で囁いた言葉。
——灰になるまで、アクセルを踏み続けろ。
それは、いつもの指示の延長のように聞こえる、けれど、普通のトレーナーなら絶対に口にしない言葉だった。
普通のトレーナーは、選手に「壊れるな」と言う。「無理をするな」と言う。「次がある」と言う。
絢原さんは、そう言わなかった。
私が望んだから。私が、燃え尽きることを望んだから。それを止めるトレーナーは、私にとって裏切り者にしかならない。だから絢原さんは、私の隣に立つために、私の道を肯定する側に立つことを選んだ。
世界中を敵に回しても、私一人の味方でいることを。
——……ありがと、トレーナー。
私は、ゲートの中で目を閉じた。
胸の奥で、青白い火が、静かに燃えている。冷たい火。私を内側から焼き続けている火。
カレンチャンの娘としての私。期待に応えようとしていた私。「カワイイ」と言われて嬉しかった私。それら全てを、このゲートの中に置いていく。
ここから飛び出すのは、もう「カレンモエ」ではない。
ただの、走るためだけの何か。
——さよなら。
私は、心の中で呟いた。誰に対してともなく。
~
——The Red Ace: Daiwa Scarlet
三番枠。
アタシはゲートの中で、目を閉じていた。
最内のあいつのことを、考えていた。
会見で「勝算はない」と言って、パドックで「火薬の匂い」を漂わせて、地下バ道で誰とも目を合わせずに最後尾を歩いてきた、あの黒い背中のことを。
可哀想? 同情? バカ言うんじゃない。
あの目を見ろ。死を受け入れた聖女の目じゃない。世界を道連れにする、凶器の目だ。
アタシだけは、誤魔化されない。
「死ぬ気で来なさいよ。殺してやるから」
パドックで、アタシは囁いた。本気だった。あいつを「可哀想な子」なんて扱うのは、アタシの信条に反する。あいつは敵だ。アタシの二冠を阻むかもしれない、不確定要素。アタシが唯一「勝負したかった」と認めたライバル。
だから、蹴散らす。手加減しない。完膚なきまでに叩き潰して、二度と立ち上がれないように引導を渡す。
それが、アタシの誠意だ。
ゲートの中で、アタシは目を開けた。
——上等。来なさい、モエ。
ファンファーレが、遠くで鳴り始めた。
~
——
陸上自衛隊音楽隊による、G1・オークスのための特別な旋律。高らかに、華やかに、それでもどこか物悲しい。
普段なら祝祭の音であるはずのファンファーレが、今日はどこか葬送の鐘のように響いた。
スタンドの十万人は、声を上げない。手拍子も控えめ。誰もが息を呑んで、ゲートを見つめている。
ファンファーレが鳴り終わる。
数秒の真空のような沈黙。
『カレンチャン!』とコールするファンも、『頑張れ!』と叫ぶ声も、喉で詰まったように出てこない。代わりに、観客たちはスマートフォンを構えていた。粘着質な視線が、レンズ越しに、最内枠の黒い背中を捉えている。
スターターが台上でレバーを握る。
~
——Live: Announcer
『——スタートしました、オークス!』
実況の声が、ターフに響き渡る。
『ゲートが開きました! 大きな出遅れはありません、十八人ほぼ揃ってのスタート!』
『——、内から、一番、カレンモエ! 飛び出した! カレンモエ、最内から先頭に出ました!』
実況の声が、わずかに揺らいだ。
『カレンモエ、ハナを取りに行く! 一番枠から、最短距離を、自分のペースで!』
『前半二百メートル通過——、これは、明らかに速いペースです! オークスの序盤としては、考えられない速さです!』
~
——Anti-Hero: Curren Moe
風圧。
顔面の皮膚が後ろに引っ張られる。息が出来ない。酸素を取り込む暇すらない。スタートの瞬間に筋肉に蓄えられたものを、惜しげもなく爆発させていた。
——いい。
そう思った。
景色が線になる。左手の白いラチが、一本の光の帯となって流れていく。右手にいたはずのライバルたちが、スローモーションのように後ろへ消えていく。
私の視界には、ゴール板と、何もない空間しか映さない。
タキオンさんの作戦は、シンプルだった。
——前半1200メートルを全力で走る。途中で一度、自分の体を意識的にリセットする。そして後半1200メートルを、もう一度全力で走る。スタミナという概念は捨てろ。ペース配分も要らない。スプリントを二回繰り返すんだ。
スプリンターのままで2400メートルを騙し切る、唯一の戦術。
理屈の上では、無謀だった。一度目のスプリントで足が終わるはずだ。それを、走行効率の改善、体幹の強化、関節と腱への負荷分散——一ヶ月、私の体に叩き込まれた、徹底的な調整で支える。
走り切れる体に、作り変える。
タキオンさんがやってくれたのは、それだ。私が選んだ道を、走れる脚で走れるように、支えてくれた。
それでも、私は信じていた。タキオンさんを。絢原さんを。私自身を。
——灰になるまで。
絢原さんの声が、頭の中で響いた。
私は、地面を蹴った。
~
——The Observer: Vodka
「……マジかよ」
オレはスタンドの特等席で、思わず声を漏らした。
来週に控えた日本ダービーの調整は、今日の朝に済ませていた。気晴らしを兼ねて、観戦に来ていた。
ターフビジョンに映る最内のあいつの走りを見て、オレは身を乗り出した。
——速い。
速いなんてもんじゃない。次元が違う。
オレもマイル戦でスピードには絶対の自信を持っているし、豪快なレース運びを信条としている。それでも、今見ているものは別格だ。
東京レース場の長いホームストレッチ。その内ラチ沿いを、地を這う黒い影として、カレンモエが疾走していく。
——ここ、2400だぞ。
オレは思わず心の中で突っ込んだ。スプリントの速さで、長距離レースの序盤を駆け抜けている。最初から「ゴール板が四百メートル先にある」と勘違いしているような走り。
——オレだって、あんな勢いで飛び出したら最後持たねぇぞ。
隣を走る他のウマ娘たちが、どよめきと共に動きを止めるのが、ここからでも分かった。誰もついていかない。ついていけない。あんなスピードで突っ込んだら、最初のコーナーで脚を使い果たして共倒れになる。
——……かっけぇじゃねぇか。
オレの口元が、自然と歪んだ。
常識外れ。無謀。自殺行為。それでも、その突き抜けたバカげた速さに、オレの中の「カッコよさ」を求める魂が共鳴してしまった。
オレも来週、常識を破ってダービーへ挑む身。だから分かる。あの黒い背中が背負っている覚悟の重さが。
——けどな、モエ。
オレは手すりを強く握りしめた。
——その賭け、代償は高いぞ。
そのスピードの先にあるのは、栄光か、それとも破滅か。今はまだ、誰にも分からない。
~
——The Alchemist: Agnes Tachyon
スタンドの一般席。
喧騒から少し離れた場所で、白衣を羽織ったタキオンは、紅茶の入った水筒を片手に、双眼鏡を覗いていた。
「ククッ……」
喉の奥から、笑いが漏れる。
「素晴らしい。実に素晴らしいよ、カレンモエ君」
レンズの先で、最内の黒い影が、規格外の速度で東京の長い直線を駆けていく。周りの観客たちは、「暴走だ」「掛かったのか」と騒いでいる。彼らには、ただの自滅にしか見えていないのだろう。
タキオンには見えていた。
筋肉の収縮。酸素摂取のメカニズム。一ヶ月の調整で組み替えた、彼女の走行フォーム。
通常のウマ娘は、無意識のうちに「ゴールまで体力を温存しよう」とブレーキをかける。それは生存本能だ。
——彼女には、それがない。
代わりに、ある一つの戦術が刷り込まれている。前半全力。途中で意識的なリセット。後半全力。「1200メートル×2」。私が彼女に授けた、唯一の計算式。スプリンターのままで2400を騙し切るための、戦い方。
紅茶のカップを、ゆっくりと持ち上げた。
「さあ、見せてくれたまえ」
タキオンの口元に、皮肉とも本心とも取れる笑みが乗っていた。
「君の壊れる音を、一番近くで聞かせてもらおう」
それが、観衆の前で見せた、表向きの台詞だった。
~
——The Resident: Manhattan Cafe
タキオンの隣で、マンハッタンカフェは静かに、双眼鏡を構えていた。
レンズの先のターフを、彼女は前髪の奥から見ている。
「……影が、伸びている」
呟く。
「重くて、暗くて、悲しいほどに大きい影。彼女自身よりも、ずっと大きいもの」
タキオンが、横目で彼女を見た。
「……見えるかい?」
「ええ。彼女の後ろから、追いかけてきています。彼女が走るほど、影は近づいてくる」
理科準備室で、私は彼女に告げた。「飲み込まれますよ。貴女自身が、消えてなくなる」と。
それでも彼女は走ることを選んだ。「飲み込まれて消えるなら、それまでだったってこと」と告げて。
——構わないと、言いました。
カフェは、双眼鏡を下ろした。
——それでも、私には見えてしまう。あの子の後ろから追いかけてくる、巨大な影が。
レンズを通さなくても、ターフの最内に、一筋の光と一塊の闇が、走っているのが見えた。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
第一コーナーへ突入する。
減速はしない。遠心力を、ラチ沿いの摩擦で殺すような感覚で、最短距離を駆け抜ける。体が斜めに倒れ込む。地面が近い。このまま転がっても構わないという速度で、私はコーナーを食い破った。
カーブを抜ける。長い向こう正面の直線が、目の前で開ける。
東京の二千四百。府中の長い長い直線。
その先まで、私の脚が辿り着けるかは、分からない。
それでも、走る。
走り続ける。
絢原さんの声が、耳の奥で何度も響く。
——灰になるまで。
私は、地面を蹴り続けた。