アンチ・ヒーロー:カレンモエ   作:ねじぇまる

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38話 オークス・中

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

向こう正面。

 

東京レース場の長い長い直線。私は、その内ラチを駆けていた。

 

後ろを振り返る必要はない。蹄鉄の音も、息遣いも聞こえない。耳元を通り過ぎる風の音だけが、私の世界を支配していた。

 

——気配がない。

 

すぐ後ろに誰かがいる時の、空気の圧力。ライバルたちのフォームから漏れる体熱。それが、私の背中には届いていない。

 

ずっと遠く。

 

通常、レースにおいて「大逃げ」と呼ばれる戦術は、後続を惑わせるための奇策、あるいは実力差を埋めるための博打であることが多い。今の私が作り出しているリードは、そのどちらでもない。

 

——断絶。

 

後ろを走る十七人のウマ娘たちとは、流れている時間の速度が違う。生きている世界が違う。私は、たった一人で「音速の向こう側」にある異界を旅していた。

 

 

——Live: Announcer

 

『……えー、先頭は依然としてカレンモエ。リードは——計測不能! 画面に収まりきりません! ポツンと一頭、完全に独り旅です!』

 

実況の声から、熱気が消えていた。

 

代わりに漂うのは、戸惑いと、畏怖。目の前で起きている現象が、既存の言葉では説明できないことへの恐怖。

 

『1000メートル通過、五十七秒台! 速い、速い! オークスのラップとしては、過去のどんな大逃げよりも速い! このまま——このまま行ってしまうのか!?』

 

スタンドを埋め尽くす十万人の観衆もまた、声を失っていた。レース序盤に聞こえていた「掛かったのか」という呟きは、もうどこにもない。誰もが双眼鏡を強く握りしめ、息をするのも忘れて、その黒い点を見つめている。

 

漆黒の勝負服が、新緑のターフを切り裂いていく。

 

その姿は、自ら燃え尽きるために落下する流星のようだった。誰もが予感していた。この輝きは、長くは続かない。このスピードは、生命を前借りして生み出された加速だ。

 

だからこそ、一秒たりとも目を離してはいけないのだと、本能が告げている。

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

静かだ。

 

風の音しか聞こえない。自分の心臓の音と、地面を蹴る音。それだけが、世界のリズム。

 

後ろの気配。感じない。

 

私の後ろには、誰もいない。十七人のライバルも、十万人の観客も、世界中、置き去り。

 

——あはっ。

 

笑いがこみ上げる。

 

楽しい。走るのがこんなに楽しいなんて、初めて知った。

 

ペース配分。駆け引き。そんな面倒くさいこと、全部ゴミ箱に捨てた。ただ全力で手足を動かすだけ。単純で、暴力的で、最高に贅沢な遊び。

 

肺が痛い。足が熱い。喉から血の味がする。体が「もうやめて」と悲鳴を上げている。私の細胞の一つ一つが、死滅していく音が聞こえる。

 

それでも、頭の中は澄み渡っている。ノイズがない。「カレンチャンの娘」というレッテルも、「可哀想な子」という同情も、このスピードの前では、追いついてこれない。

 

私は今、ただの「速いナニカ」だ。

 

——もっと。もっと遠くへ。

 

向こう正面の半ば。あの大欅が見えてくる。あそこを越えれば、第三コーナー。タキオンさんの作戦で言えば、「リセット」の瞬間が訪れる場所。

 

怖くない。むしろ、待ち遠しい。

 

私は知っている。この高揚感は、長くは続かない。私の体は、スプリンターだ。1200メートルを過ぎれば、ガソリンが切れる。そこから先は、肉体が崩壊していく時間だ。

 

——いいよ。

 

壊れてもいい。二度と走れなくなってもいい。

 

だって、今の私は。

 

カレンチャン(ママ)が、絶対に行かなかった場所を、踏んでいる。

 

あの「閃光」と呼ばれたママでさえ、こんな無茶なペースで2400を走ったことはない。私は、ママが踏み込まなかった領域に、土足で立っている。並んだ。追い越した。今は、その先にいる。

 

ザッ、ザッ、ザッ、ザッ!

 

足音がリズムを刻む。それは、私自身へのレクイエム。

 

——見ててよ、トレーナー。

 

ちゃんと、灰になるから。

 

私は、意識が飛びそうになるのを、唇を噛んで堪えた。まだ。まだ倒れるわけにはいかない。

 

大欅が近づく。緑の葉が風に揺れている。それが、手招きしているように見えた。

 

『おいで。こっち側へ』

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

「モエ」

 

ふと、横から声がした。

 

甘く、優しく、鈴を転がすような声。聞き間違えるはずがない。私が世界で一番愛して、だからこそ今、一番聞きたくなかった声。

 

横を見る。

 

誰もいないはずの空間。風しか吹いていないはずのその場所に、「彼女」が走っていた。

 

黒色に白が眩しい勝負服。風になびく、美しい芦毛の髪。世界中を虜にした、一点の曇りもない完璧な笑顔。

 

『モエちゃん、どうして?』

 

幻影のカレンチャンが、並走しながら語りかけてくる。

 

私の心臓が破裂しそうなのに、肺が焼けるように痛いのに。彼女は息一つ切らさず、汗一滴かかず、涼しい顔で小首をかしげている。

 

『そんな苦しそうな顔、モエちゃんには似合わないよ』

 

彼女が手を伸ばしてくる。

 

その手は白く、柔らかく、泥一つついていない。幼い頃、私が転んだ時にいつも差し伸べてくれた、魔法の手。

 

『こっちにおいで。ママが抱っこしてあげる』

『走らなくていいんだよ。頑張らなくていいんだよ』

『だってモエちゃんは、そこにいるだけで世界一カワイイんだから』

 

甘い。

 

砂糖を煮詰めたシロップのように、濃厚で、粘り気のある愛情。それは私の耳を塞ぎ、思考を溶かそうとする。

 

これが、桜花賞で私を止めた声。観客が叫んだ「カレンチャン!」というコールに重なって、私の中に流れ込んできた声。

 

その声に飲み込まれて、私はあの時、自我を強制終了させた。「カレンモエ」が消えてしまうのを、本能で恐れたから。

 

——でも、今日は、違う。

 

『ほら、鏡を見てごらん?』

 

幻影が囁く。

 

『今のモエちゃん、鬼みたいな顔をしてる。……カワイくないよ?』

『汗まみれで、髪もボサボサで、顔をしかめて……。そんなの、モエちゃんじゃない』

『戻っておいで。ママのところへ。キレイな服を着て、カワイイ笑顔を見せて?』

 

その一言が、鋭利なナイフのように心臓を刺した。「カワイイ」の否定。それは、カレンチャンの世界における存在価値の喪失。

 

それは、悪意のない言葉。娘を心配する、母親としての純粋な愛情。「壊れてほしくない」「傷ついてほしくない」。百パーセント純度の善意の塊。

 

だからこそ。

 

私にとっては、胸を引き裂かれるような猛毒だ。

 

「……ごめん」

 

私は前を向いたまま、乾いた唇を動かした。声が震えていた。喉が張り付いて、うまく言葉が出ない。

 

『え?』

 

「こっちに来ないで。……私を見ないで」

 

私はさらにアクセルを踏み込んだ。幻影を振り切るために。その「優しさ」という、世界で一番居心地の良い檻から抜け出すために。

 

ママは優しい。

 

いつだって私のことを一番に考えてくれて、誰よりも愛してくれた。私が傷つかないように、転ばないように、先回りして守ってくれた。その愛が本物だってことは、痛いほど知っている。ママの腕の中は、世界で一番温かい場所だ。

 

だからこそ、苦しい。

 

申し訳なくて、死にたくなる。

 

私がこれからしようとしていることは、そんなママの愛を踏みにじる行為だ。大事に育ててくれたこの体を、自分のエゴで壊そうとしているのだから。「カワイイお人形」であることを拒否して、泥だらけの野良犬になろうとしているのだから。

 

——でも、行かなきゃ。

 

ママの腕の中に戻れば、私はきっと幸せになれる。「カレンチャンの娘」として愛されて、傷つかずに生きていける。一生、ガラスケースの中から、キレイな世界だけを見て過ごせる。

 

でも、そこは私のゴールじゃない。

 

その光の中にいたら、私は一生、自分の足で立ったことにならない。「私」というウマ娘が、この世界に存在したことにならない。

 

——さよならッ!

 

私は腕を振る。涙が滲んで、視界が歪む。酸素の足りない脳味噌が、警告を送り続けている。幻聴が、泣きそうな声で私を呼び止める。

 

『モエ、そっちは行き止まりだよ!』

『お願い、止まって! ママのところへ戻っておいで!』

『壊れちゃう! ママの大事なモエちゃんが壊れちゃうよ!』

 

「……っ、うぅ……!」

 

胸が張り裂けそうだった。大好きなママを悲しませている。その事実が、足の痛みよりも鋭く、心臓をえぐる。私はなんて親不孝な娘なんだろう。

 

ごめんね、ママ。いい子じゃなくて、ごめんね。ママがくれた「カワイイ」も「才能」も、全部ドブに捨てて走るような娘で、ごめんね。

 

——それでも、私はっ!

 

私は拒絶した。その温かい救いの手を、涙を流しながら振り払った。

 

私は、この冷たくて、ちょっとだけ柔らかいターフの上で、一人で燃え尽きたいんだ。たとえそれが間違いでも、私が選んだ「私だけの痛み」だから。誰にも守られず、誰にも愛されず、ただ一人で風になって消える。その孤独だけが、今の私を肯定してくれる気がするから。

 

幻影のカレンチャンが、泣き出しそうな顔をする。完璧な笑顔が崩れ、悲しみに歪む。その顔が、視界の端でスローモーションのように溶けていく。

 

——ごめんね、ママ。

 

私は心の中で謝り続けながら、彼女を置き去りにして、さらに加速した。罪悪感を燃料に変えて、地獄への道をひた走る。

 

ザッ、ザッ、ザッ!

 

足音が変わる。軽快なリズムから、重く、地面を削り取るような音へ。向こう正面が終わり、カーブが近づく。大欅(おおけやき)の巨大な影が、私を飲み込もうと口を開けている。

 

第三コーナー。

 

ここからが、本当の地獄だ。

 

 

——The Alchemist: Agnes Tachyon

 

スタンドの一般席。

 

タキオンは、双眼鏡を構えていた。レンズの先で、最内の黒い影が、向こう正面を駆け抜けて、第三コーナーに差し掛かろうとしている。

 

「……1200メートル通過」

 

タキオンは小さく呟いた。口元に、皮肉とも本心とも取れる笑みが浮かぶ。

 

「素晴らしいよ、カレンモエ君。前半の1200メートルを、見事に駆け抜けた」

 

隣で観戦しているマンハッタンカフェが、長い前髪の奥で目を細めた。

 

「……影が、もう一段、近づきました」

 

カフェが呟く。

 

「あの子の後ろを追いかけていたものが、今、追いついてきている。彼女のすぐ背中で、もう一度、襲いかかろうとしている」

 

タキオンが、双眼鏡から目を離した。

 

「……桜花賞の幻影が、彼女のところに辿り着いたか」

 

カフェが、静かに頷いた。

 

「ええ。ラスト200メートルで彼女を止めた、あの声が」

 

タキオンは肉眼で、はるか前方の小さな黒い点を見つめた。

 

スプリンターの脚は、間もなく、限界を迎える。タキオンが組み立てた戦術——「1200メートル×2」。一度目のスプリントが、ここで終わる。

 

ここから先は、肉体が悲鳴を上げる時間。タキオンの調整がどれだけ通用するか、走行フォームをどれだけ守れるか。それを試すのは、彼女自身だ。

 

「さあ、見せてくれたまえ」

 

紅茶のカップを、ゆっくりと持ち上げた。

 

「君の壊れる音を、一番近くで聞かせてもらおう」

 

それが、観衆の前で見せた、表向きの台詞だった。

 

 

——Anti-Hero: Curren Moe

 

第三コーナーへ突入する。

 

その瞬間。

 

ガクン。

 

足が、止まりかけた。

 

——え。

 

予想していた。タキオンさんが言っていた通り。1200メートルを過ぎれば、ガソリンが切れる。

 

それでも、想像の十倍、足が重かった。

 

腿の裏で、筋繊維が千切れる音。骨伝導で、鼓膜に響いた。

 

「っ……!」

 

激痛。今まで脳内麻薬で誤魔化されていた痛みが、堰を切ったように押し寄せてくる。

 

肺の中は、空気を吸っているはずなのに、熱い鉛を流し込まれているように焼けている。喉の奥から、鉄錆の味。極限まで酷使した気管が、悲鳴を上げている。

 

視界が急速に狭まる。鮮やかだったターフの緑色が、色あせたモノクロームへと変色していく。脳が、生命維持に不要な機能を次々とシャットダウンしているのだ。

 

——リセットだ。

 

タキオンさんに叩き込まれた、唯一の戦術。前半全力。意識的なリセット。後半全力。

 

リセットしろ。今、ここで。脚を一度、休めるように。呼吸を整えるように。フォームを意識的に、組み直すように。

 

——でも。

 

私の体は、リセットを受け付けなかった。

 

タキオンさんが繰り返し叩き込んだはずの動作が、頭の中で再生されない。代わりに、痛みが、視界を白く塗り潰していく。

 

ふらつく。

 

「……あ……」

 

足が、勝手にもつれる。フォームが崩れる。スプリンターの美しい走りなんて、見る影もない。ただ、惰性だけで前に進んでいる。

 

タキオンさんの戦術が、機能しない。一度目のスプリントで、私の体は壊れすぎた。リセットする余地が、もう残っていない。

 

——終わった。

 

スピードが落ちていくのが、自分でも分かる。後ろから、地鳴りが聞こえてくる。今まで置き去りにしていた「現実」が、押し寄せてくる音。

 

それでも。

 

私は、足を止めなかった。

 

止まったら、終わる。止まったら、ママの腕の中に戻ってしまう。それだけは、絶対にダメ。

 

歩くような速度でも、這うような姿勢でも。前に進む。

 

カレンチャンを焼き殺すまで、私は止まれない。

 

 

——The Red Ace: Daiwa Scarlet

 

第三コーナーの手前。

 

アタシは、はるか前方の黒い背中を凝視していた。

 

——来た。

 

アタシには見えていた。快調に飛ばしていたカレンモエのフォームに、微かなノイズが混じり始めたのを。

 

上体が、数センチ浮いた。ストライドが、ミリ単位で狭くなった。首のリズムが、足の回転とズレ始めた。

 

——()()()()()()

 

当然だ。あんなペースで1200メートルを駆け抜けたんだ。スプリンターの脚で、2400メートルのオークスを、最初から全力で。物理的な限界が、誤魔化せるはずがない。

 

周りのウマ娘たちが、ざわめき始める。「落ちてきた!」「捕まえられる!」。彼女たちの間に、安堵の空気が広がる。「やっぱりバケモノじゃなかった」「ただの暴走だった」という、理解の範疇に収まったことへの安心感。

 

——焦るんじゃないわよ。

 

アタシははやる気持ちを抑えたまま、心の中で周囲を叱咤した。

 

今、ここで動けば、カレンモエの作り出した「死のペース」に巻き込まれる。アタシの脚も終わる。それは、彼女の自爆に付き合うのと同じこと。

 

まだだ。

 

あいつはまだ、死んでいない。

 

——……すごいわね、アンタ。

 

アタシは、敵ながら感嘆していた。

 

普通なら、とっくに止まっているはずだ。脚がもつれて、転倒していてもおかしくない。なのに、あいつはまだ走っている。減速しながらも、懸命に前に進んでいる。

 

何が彼女を動かしているの? 執念? 狂気? もっと純粋な「走りへの渇望」?

 

——……上等。

 

アタシは、第三コーナーのカーブを見据えた。

 

その先にあるのは、最後の直線。アタシたちが最も輝く、栄光への花道。彼女にとっては、断頭台への階段。

 

あそこで、彼女の魔法は解ける。

 

その瞬間こそが、アタシが彼女を介錯する時。「死ぬ気で来なさいよ。殺してやるから」と、パドックで告げた約束を、果たす時だ。

 

女王として。最強のライバルとして。慈悲などかけない。全力で抜き去り、絶望を教えてやる。

 

——待ってなさい。すぐに行くわ。

 

アタシは呼吸を整えた。解き放つ準備は、できている。アタシの中のエンジンが、獲物を喰らおうと唸りを上げた。




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