——Anti-Hero: Curren Moe
向こう正面。
東京レース場の長い長い直線。私は、その内ラチを駆けていた。
後ろを振り返る必要はない。蹄鉄の音も、息遣いも聞こえない。耳元を通り過ぎる風の音だけが、私の世界を支配していた。
——気配がない。
すぐ後ろに誰かがいる時の、空気の圧力。ライバルたちのフォームから漏れる体熱。それが、私の背中には届いていない。
ずっと遠く。
通常、レースにおいて「大逃げ」と呼ばれる戦術は、後続を惑わせるための奇策、あるいは実力差を埋めるための博打であることが多い。今の私が作り出しているリードは、そのどちらでもない。
——断絶。
後ろを走る十七人のウマ娘たちとは、流れている時間の速度が違う。生きている世界が違う。私は、たった一人で「音速の向こう側」にある異界を旅していた。
~
——Live: Announcer
『……えー、先頭は依然としてカレンモエ。リードは——計測不能! 画面に収まりきりません! ポツンと一頭、完全に独り旅です!』
実況の声から、熱気が消えていた。
代わりに漂うのは、戸惑いと、畏怖。目の前で起きている現象が、既存の言葉では説明できないことへの恐怖。
『1000メートル通過、五十七秒台! 速い、速い! オークスのラップとしては、過去のどんな大逃げよりも速い! このまま——このまま行ってしまうのか!?』
スタンドを埋め尽くす十万人の観衆もまた、声を失っていた。レース序盤に聞こえていた「掛かったのか」という呟きは、もうどこにもない。誰もが双眼鏡を強く握りしめ、息をするのも忘れて、その黒い点を見つめている。
漆黒の勝負服が、新緑のターフを切り裂いていく。
その姿は、自ら燃え尽きるために落下する流星のようだった。誰もが予感していた。この輝きは、長くは続かない。このスピードは、生命を前借りして生み出された加速だ。
だからこそ、一秒たりとも目を離してはいけないのだと、本能が告げている。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
静かだ。
風の音しか聞こえない。自分の心臓の音と、地面を蹴る音。それだけが、世界のリズム。
後ろの気配。感じない。
私の後ろには、誰もいない。十七人のライバルも、十万人の観客も、世界中、置き去り。
——あはっ。
笑いがこみ上げる。
楽しい。走るのがこんなに楽しいなんて、初めて知った。
ペース配分。駆け引き。そんな面倒くさいこと、全部ゴミ箱に捨てた。ただ全力で手足を動かすだけ。単純で、暴力的で、最高に贅沢な遊び。
肺が痛い。足が熱い。喉から血の味がする。体が「もうやめて」と悲鳴を上げている。私の細胞の一つ一つが、死滅していく音が聞こえる。
それでも、頭の中は澄み渡っている。ノイズがない。「カレンチャンの娘」というレッテルも、「可哀想な子」という同情も、このスピードの前では、追いついてこれない。
私は今、ただの「速いナニカ」だ。
——もっと。もっと遠くへ。
向こう正面の半ば。あの大欅が見えてくる。あそこを越えれば、第三コーナー。タキオンさんの作戦で言えば、「リセット」の瞬間が訪れる場所。
怖くない。むしろ、待ち遠しい。
私は知っている。この高揚感は、長くは続かない。私の体は、スプリンターだ。1200メートルを過ぎれば、ガソリンが切れる。そこから先は、肉体が崩壊していく時間だ。
——いいよ。
壊れてもいい。二度と走れなくなってもいい。
だって、今の私は。
あの「閃光」と呼ばれたママでさえ、こんな無茶なペースで2400を走ったことはない。私は、ママが踏み込まなかった領域に、土足で立っている。並んだ。追い越した。今は、その先にいる。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ!
足音がリズムを刻む。それは、私自身へのレクイエム。
——見ててよ、トレーナー。
ちゃんと、灰になるから。
私は、意識が飛びそうになるのを、唇を噛んで堪えた。まだ。まだ倒れるわけにはいかない。
大欅が近づく。緑の葉が風に揺れている。それが、手招きしているように見えた。
『おいで。こっち側へ』
~
——Anti-Hero: Curren Moe
「モエ」
ふと、横から声がした。
甘く、優しく、鈴を転がすような声。聞き間違えるはずがない。私が世界で一番愛して、だからこそ今、一番聞きたくなかった声。
横を見る。
誰もいないはずの空間。風しか吹いていないはずのその場所に、「彼女」が走っていた。
黒色に白が眩しい勝負服。風になびく、美しい芦毛の髪。世界中を虜にした、一点の曇りもない完璧な笑顔。
『モエちゃん、どうして?』
幻影のカレンチャンが、並走しながら語りかけてくる。
私の心臓が破裂しそうなのに、肺が焼けるように痛いのに。彼女は息一つ切らさず、汗一滴かかず、涼しい顔で小首をかしげている。
『そんな苦しそうな顔、モエちゃんには似合わないよ』
彼女が手を伸ばしてくる。
その手は白く、柔らかく、泥一つついていない。幼い頃、私が転んだ時にいつも差し伸べてくれた、魔法の手。
『こっちにおいで。ママが抱っこしてあげる』
『走らなくていいんだよ。頑張らなくていいんだよ』
『だってモエちゃんは、そこにいるだけで世界一カワイイんだから』
甘い。
砂糖を煮詰めたシロップのように、濃厚で、粘り気のある愛情。それは私の耳を塞ぎ、思考を溶かそうとする。
これが、桜花賞で私を止めた声。観客が叫んだ「カレンチャン!」というコールに重なって、私の中に流れ込んできた声。
その声に飲み込まれて、私はあの時、自我を強制終了させた。「カレンモエ」が消えてしまうのを、本能で恐れたから。
——でも、今日は、違う。
『ほら、鏡を見てごらん?』
幻影が囁く。
『今のモエちゃん、鬼みたいな顔をしてる。……カワイくないよ?』
『汗まみれで、髪もボサボサで、顔をしかめて……。そんなの、モエちゃんじゃない』
『戻っておいで。ママのところへ。キレイな服を着て、カワイイ笑顔を見せて?』
その一言が、鋭利なナイフのように心臓を刺した。「カワイイ」の否定。それは、カレンチャンの世界における存在価値の喪失。
それは、悪意のない言葉。娘を心配する、母親としての純粋な愛情。「壊れてほしくない」「傷ついてほしくない」。百パーセント純度の善意の塊。
だからこそ。
私にとっては、胸を引き裂かれるような猛毒だ。
「……ごめん」
私は前を向いたまま、乾いた唇を動かした。声が震えていた。喉が張り付いて、うまく言葉が出ない。
『え?』
「こっちに来ないで。……私を見ないで」
私はさらにアクセルを踏み込んだ。幻影を振り切るために。その「優しさ」という、世界で一番居心地の良い檻から抜け出すために。
ママは優しい。
いつだって私のことを一番に考えてくれて、誰よりも愛してくれた。私が傷つかないように、転ばないように、先回りして守ってくれた。その愛が本物だってことは、痛いほど知っている。ママの腕の中は、世界で一番温かい場所だ。
だからこそ、苦しい。
申し訳なくて、死にたくなる。
私がこれからしようとしていることは、そんなママの愛を踏みにじる行為だ。大事に育ててくれたこの体を、自分のエゴで壊そうとしているのだから。「カワイイお人形」であることを拒否して、泥だらけの野良犬になろうとしているのだから。
——でも、行かなきゃ。
ママの腕の中に戻れば、私はきっと幸せになれる。「カレンチャンの娘」として愛されて、傷つかずに生きていける。一生、ガラスケースの中から、キレイな世界だけを見て過ごせる。
でも、そこは私のゴールじゃない。
その光の中にいたら、私は一生、自分の足で立ったことにならない。「私」というウマ娘が、この世界に存在したことにならない。
——さよならッ!
私は腕を振る。涙が滲んで、視界が歪む。酸素の足りない脳味噌が、警告を送り続けている。幻聴が、泣きそうな声で私を呼び止める。
『モエ、そっちは行き止まりだよ!』
『お願い、止まって! ママのところへ戻っておいで!』
『壊れちゃう! ママの大事なモエちゃんが壊れちゃうよ!』
「……っ、うぅ……!」
胸が張り裂けそうだった。大好きなママを悲しませている。その事実が、足の痛みよりも鋭く、心臓をえぐる。私はなんて親不孝な娘なんだろう。
ごめんね、ママ。いい子じゃなくて、ごめんね。ママがくれた「カワイイ」も「才能」も、全部ドブに捨てて走るような娘で、ごめんね。
——それでも、私はっ!
私は拒絶した。その温かい救いの手を、涙を流しながら振り払った。
私は、この冷たくて、ちょっとだけ柔らかいターフの上で、一人で燃え尽きたいんだ。たとえそれが間違いでも、私が選んだ「私だけの痛み」だから。誰にも守られず、誰にも愛されず、ただ一人で風になって消える。その孤独だけが、今の私を肯定してくれる気がするから。
幻影のカレンチャンが、泣き出しそうな顔をする。完璧な笑顔が崩れ、悲しみに歪む。その顔が、視界の端でスローモーションのように溶けていく。
——ごめんね、ママ。
私は心の中で謝り続けながら、彼女を置き去りにして、さらに加速した。罪悪感を燃料に変えて、地獄への道をひた走る。
ザッ、ザッ、ザッ!
足音が変わる。軽快なリズムから、重く、地面を削り取るような音へ。向こう正面が終わり、カーブが近づく。
第三コーナー。
ここからが、本当の地獄だ。
~
——The Alchemist: Agnes Tachyon
スタンドの一般席。
タキオンは、双眼鏡を構えていた。レンズの先で、最内の黒い影が、向こう正面を駆け抜けて、第三コーナーに差し掛かろうとしている。
「……1200メートル通過」
タキオンは小さく呟いた。口元に、皮肉とも本心とも取れる笑みが浮かぶ。
「素晴らしいよ、カレンモエ君。前半の1200メートルを、見事に駆け抜けた」
隣で観戦しているマンハッタンカフェが、長い前髪の奥で目を細めた。
「……影が、もう一段、近づきました」
カフェが呟く。
「あの子の後ろを追いかけていたものが、今、追いついてきている。彼女のすぐ背中で、もう一度、襲いかかろうとしている」
タキオンが、双眼鏡から目を離した。
「……桜花賞の幻影が、彼女のところに辿り着いたか」
カフェが、静かに頷いた。
「ええ。ラスト200メートルで彼女を止めた、あの声が」
タキオンは肉眼で、はるか前方の小さな黒い点を見つめた。
スプリンターの脚は、間もなく、限界を迎える。タキオンが組み立てた戦術——「1200メートル×2」。一度目のスプリントが、ここで終わる。
ここから先は、肉体が悲鳴を上げる時間。タキオンの調整がどれだけ通用するか、走行フォームをどれだけ守れるか。それを試すのは、彼女自身だ。
「さあ、見せてくれたまえ」
紅茶のカップを、ゆっくりと持ち上げた。
「君の壊れる音を、一番近くで聞かせてもらおう」
それが、観衆の前で見せた、表向きの台詞だった。
~
——Anti-Hero: Curren Moe
第三コーナーへ突入する。
その瞬間。
ガクン。
足が、止まりかけた。
——え。
予想していた。タキオンさんが言っていた通り。1200メートルを過ぎれば、ガソリンが切れる。
それでも、想像の十倍、足が重かった。
腿の裏で、筋繊維が千切れる音。骨伝導で、鼓膜に響いた。
「っ……!」
激痛。今まで脳内麻薬で誤魔化されていた痛みが、堰を切ったように押し寄せてくる。
肺の中は、空気を吸っているはずなのに、熱い鉛を流し込まれているように焼けている。喉の奥から、鉄錆の味。極限まで酷使した気管が、悲鳴を上げている。
視界が急速に狭まる。鮮やかだったターフの緑色が、色あせたモノクロームへと変色していく。脳が、生命維持に不要な機能を次々とシャットダウンしているのだ。
——リセットだ。
タキオンさんに叩き込まれた、唯一の戦術。前半全力。意識的なリセット。後半全力。
リセットしろ。今、ここで。脚を一度、休めるように。呼吸を整えるように。フォームを意識的に、組み直すように。
——でも。
私の体は、リセットを受け付けなかった。
タキオンさんが繰り返し叩き込んだはずの動作が、頭の中で再生されない。代わりに、痛みが、視界を白く塗り潰していく。
ふらつく。
「……あ……」
足が、勝手にもつれる。フォームが崩れる。スプリンターの美しい走りなんて、見る影もない。ただ、惰性だけで前に進んでいる。
タキオンさんの戦術が、機能しない。一度目のスプリントで、私の体は壊れすぎた。リセットする余地が、もう残っていない。
——終わった。
スピードが落ちていくのが、自分でも分かる。後ろから、地鳴りが聞こえてくる。今まで置き去りにしていた「現実」が、押し寄せてくる音。
それでも。
私は、足を止めなかった。
止まったら、終わる。止まったら、ママの腕の中に戻ってしまう。それだけは、絶対にダメ。
歩くような速度でも、這うような姿勢でも。前に進む。
カレンチャンを焼き殺すまで、私は止まれない。
~
——The Red Ace: Daiwa Scarlet
第三コーナーの手前。
アタシは、はるか前方の黒い背中を凝視していた。
——来た。
アタシには見えていた。快調に飛ばしていたカレンモエのフォームに、微かなノイズが混じり始めたのを。
上体が、数センチ浮いた。ストライドが、ミリ単位で狭くなった。首のリズムが、足の回転とズレ始めた。
——
当然だ。あんなペースで1200メートルを駆け抜けたんだ。スプリンターの脚で、2400メートルのオークスを、最初から全力で。物理的な限界が、誤魔化せるはずがない。
周りのウマ娘たちが、ざわめき始める。「落ちてきた!」「捕まえられる!」。彼女たちの間に、安堵の空気が広がる。「やっぱりバケモノじゃなかった」「ただの暴走だった」という、理解の範疇に収まったことへの安心感。
——焦るんじゃないわよ。
アタシははやる気持ちを抑えたまま、心の中で周囲を叱咤した。
今、ここで動けば、カレンモエの作り出した「死のペース」に巻き込まれる。アタシの脚も終わる。それは、彼女の自爆に付き合うのと同じこと。
まだだ。
あいつはまだ、死んでいない。
——……すごいわね、アンタ。
アタシは、敵ながら感嘆していた。
普通なら、とっくに止まっているはずだ。脚がもつれて、転倒していてもおかしくない。なのに、あいつはまだ走っている。減速しながらも、懸命に前に進んでいる。
何が彼女を動かしているの? 執念? 狂気? もっと純粋な「走りへの渇望」?
——……上等。
アタシは、第三コーナーのカーブを見据えた。
その先にあるのは、最後の直線。アタシたちが最も輝く、栄光への花道。彼女にとっては、断頭台への階段。
あそこで、彼女の魔法は解ける。
その瞬間こそが、アタシが彼女を介錯する時。「死ぬ気で来なさいよ。殺してやるから」と、パドックで告げた約束を、果たす時だ。
女王として。最強のライバルとして。慈悲などかけない。全力で抜き去り、絶望を教えてやる。
——待ってなさい。すぐに行くわ。
アタシは呼吸を整えた。解き放つ準備は、できている。アタシの中のエンジンが、獲物を喰らおうと唸りを上げた。